目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

仏法から辿る環境問題

其の抽象願望を過度に追求していく世界観を仏法は極度に嫌ひます。

 

特に禅家に於ひては其の観念的過程こそが煩悩の温床であり苦の母胎であるとして其の観念自体を否定するのです。

 

つまるところ其処では認識作用の根本にまで遡り観念としての因を滅却していくのです。

 


なのではありますが、其れはあくまで真理を前提とした上でのお話であり我我現象に対する実質的な処方箋なのではありません。

ですが無論のこともしも其れが可能であるならば我我凡夫の抱へる苦などはすぐにでも解消されませう。

 


其処では謂わば本質的に根こそぎ病を治して仕舞ふ訳ですので其れでもって治らぬ病などは無ひ訳です。

 

 

 

故に仏法とは究極的な自己救済としての形を述べたものです。

其れも原始仏教、即ち釈尊御自身が述べられたとされて居る教説に関してはまさにさうなのだ。

 


其れではまずは仏法に沿った形で現代社会が抱へる大問題である地球温暖化の問題並びに環境問題につき論じてみませう。

尚わたくしの母方の祖父は在野の仏教研究者でした。

 


当時の祖父の書斎には仏教に関する書籍が溢れんばかりに置かれて居たものだった。

其の影響を受けわたくしは長きに亘り仏法を學んで参りました。

 

 

 

まずは仏法につき知らねばならぬことがあります。

其れは仏法は相対分別による観念的規定をあくまで苦だと捉へることです。

 

 

 勿論考へると言ふ概念規定其のものを滅却していくことこそが其の修行の内容である仏教ではありますが、だからと言って概念ー言語ー其のものを失へばもはや其処には人間は住して居なひ訳です。

 


動物達や神様は元より人間ではありませぬゆえ概念ー言語ー其のものを持つ必要がそも無ひ。

 


要するに相対分別されては居なひと云ふことです。

 


相対分別とは、概念的に分離されることでありまた別の言葉で置き換へれば限定されるー有限化するーと云ふことだ。

 


分離または限定されると両極端と其の間での精神領域が形成されます。

 

 

 

故に認識された上での森羅万象には両極としての対立的要素がまずは構成される。

其れが所謂陰陽対立なのですが陰陽思想其のものは必ずしも二元対立を引き起こすものでは無くむしろ相互に影響し合ひ最終的には二元として調和を保つべきものともされて居ります。

 


但し問題は人間の認識作用にのみ其の二元対立ー二項対立ーが引き起こされて仕舞ふと云ふことだ。

 


おそらくは人間の前の段階でのサルの場合でも其処まで顕著な二元対立が生じて居る訳ではありません。

 


ですが、確かに人間には可成に近ひ生き物ですので相対分別の芽のやうなものは或は彼等も持ち合わせて居るのやもしれぬ。

 


其の人間の認識作用としての根本での誤謬が苦の世界である現世を生じさせると仏法は捉へる。

 

 

 

ゆえにこそ其の苦の世界其のものである現世からの離脱を謂わば二元分裂からの離反として意識的に行ひ此の世からむしろ消え去るー涅槃に至るーことを究極としての目標として設定する。

 


其の涅槃に至ればもはや二度と人間に生まれる必要が無くなり同時に山川草木や動物に生まれ変わる必要も無くなる。

 


但し生まれ変わると云ふ輪廻または転生の概念には特に気を付けておく必要が御座ります。

 

 

 

生まれ変わると云ふよりは人間の認識がむしろ世界を開闢させて居ると捉へるのが本来の仏法としての世界観だとわたくしは理解する。

 


即ち縁起の理法もまた相対分別其れ自体が生み出して居るものであるに過ぎぬ。

 


其の相対分別智其のものの解体と其れからの脱却を沙門ー僧侶ーはまず挑んでいく訳です。

 

特に禅宗はより純粋な大乗仏教宗派として其の観念的脱却にこそ重きを置ひて居る訳だ。

 

 

 

其のやうに仏法は本来可成に観念的にややこしく其れ相応の知性が無くば理解することなどかなわぬものなのです。

 


ところが大乗仏教宗派は本来の仏法の持つ其の観念性、つまりは理窟っぽさを目の敵となし最終的にはキリスト教化したりヒンズー教化したりして釈尊の説ひた理性的な仏法をある意味では捻じ曲げていきました。

 

ー但し大乗の教説の方がむしろ観念的である場合もまたある。たとへば唯識や中論などはまさにさうだ。ー

 

 

但し其れもまた仏法のうちであり否定したりすべきものではありません。

また法華経に至っては経典の捏造のやうなことさへして居りますが其れもまたウソ仏法だと一概に否定すべきものではありません。

 


ただし大乗仏法は庶民の為の仏法としての其れこそ虚飾やら粉飾やら訳の分からぬいかがわしひものまでをも内包するものであるとさう捉へて置く方が良ひことでせう。

 

其のいかがわしさは然しそも此の世の成り立ちとしての母ちゃんの胎の中よりボコッと出て来る我我人間のいかがわしさと妙に符合して居るとでも申しますか正直其れとまるで変わらぬものです。

 

 

さうして我我は何せ如何にもいかがわしく生まれておるので金輪際威張ることなどは許されず常に道端などで土下座して神様佛様地球様に常に祈りを捧げておく他御座らぬ。

 

 

要するに其の観念的脱却即ち相対分別の止滅が達成されれば我我人間の持つ癖である抽象的概念化の愚を避けることは可能です。

 

 なのですが、其れはあくまで観念的にさう規定して居るだけの話ですので本来ならばさうした話ではおそらく無く脱観念化した上にさらに言語領域其のものを離れていかねばならぬ筈。

 


ですが其れをするともはや人間では無くなりませう。

 

 


まあ人間では無くなるものを目指すのが本来の仏法のあり方ですので当然と言へばまさに当然のことなのですが。

 

 

 

ちなみにわたくしは今人間ー特に現代人ーは仏法にて解脱することは不可能だと思って居り故にあへて観念的に相対分別の客体化を図ることこそが我我に出来得る唯一の理性的作業だと考へて来て居ります。

 


尚其の理性ですが、わたくしの奉ずる理性とは所謂分析的な理性ではなく全体知ー全体論ーとしての所謂人文主義的な理性であることを是非ご理解頂きたひ。

 


さて以上でのやうに仏法の指し示すところでの解脱=成仏=涅槃とはあくまで人間固有の性質である相対分別の解体であり最終的には其の抹消にこそ其の目的がある訳です。

 

 

 

故に實は其処に環境問題等生じては居なひ訳です。

 


さらに言へば實は地球温暖化さへもが生じては居りませぬ。

 

 

 

また其れはどうした訳か?

 

 

其の環境問題乃至は地球温暖化はあくまで人間の心が生じさせて居る幻影のやうなものだとさう仏法では基本的に捉へて居るからです。

 


即ち其の相対分別ー抽象的概念化ー自体がさうした幻影ー空虚なる非実体的幻影ーを生じさせて居ると仏法は捉へる。

 


其れは唯識派などに限らず其れ以前の小乗ー上座部仏教ーの教説または大乗仏教でも空の思想に於けるまさに根本的なスタンスです。

 

 

 

ですが是非気を付けて下され。

其の空虚なる幻影とは、何も環境問題乃至は地球温暖化に限ったことでは無く此の世の全ては其の空であり虚でありタダの幻影なのです。

 

 

 

だが此処に我は確かに居るが。

 


でも其の我とは誰ですか?

たまたま諸要素が組み合わさり其処に現象して居ることだらうアナタの本体とは一体何ですか?

 


さうは言われても確かに此処には居るが。

其れに子も居るしそればかりか母ちゃんもまた家に居るのだ。

 


なる程、所詮独り者のわたくしよりはなんぼかマシなのやもしれぬ。

だが實は其の現象には本体など何処にも無ひ。

 

 

 

だから全ては諸行無常でもって縁起の理法により仮留めされたものであるに過ぎぬ。

さうして其の夢幻を実体として見詰める君の其の分別智こそが相対分離を引き起こしておる。

 

 


では其の相対分別を止めたら一体どうなるのだ?

 


少なくとも環境問題並びに地球温暖化への危機は全て消へ失せる。

 


が、其れと同時に君の子も妻も皆消へ去るのだ!

其ればかりか会社も消へるわ国家も消へるわ宇宙も消へ去るわで。

 

 

 


と、其のやうに仏法では理解されておる。

 


其のやうに仏法ではあくまで人間の内面での問題を本来ならば取り扱ふ。

 


しかしながらたとへば法華的な世界観に於ひては所謂「依正不二」と云ふ概念が用ひられるやうになる。

 


即ち環境と人間の内面が相克しつつも相即して居る。

 


其の主観と客観、主体と客体が無関係では無く相互に深く絡み合って居る。

 

 

 

よって人間の内面のあり方が変わればまさに環境も変わる。

 


逆に言へば環境のあり方が変われば人間の内面のあり方が変わる。

 

 

 

尚此の概念は仏教の大乗化に伴ひ仏法に社会的領域が組み込まれしことで醸成されたものとわたくしは捉へる。

 

大乗仏法とは左様に世俗化する必要に迫られて社会性を仏法に取り入れることで成ったものなのだ。

 

 

 

以上により仏法とはまずは基本的に自己の内面を見詰める作業のことを指しとりあえずは客体としての環境の問題が云々と云った話では無ひことをまずは知っておくべき。

 


但し大乗思想が生み出しし「依正不二」と云ふ概念は現代の抱える大問題としての実情とまさに合致して居る。

 


其れは現代社会が須らく問題を巨大化して居ると云ふ其の事実にこそ符合するものでもあらう。

 

 

 

或は其れは自然科学により自然現象がほぼ客体化されしことに由来して居るのやもしれぬ。

其の部分を「依正不二」と云ふ概念にて捉へれば元来相剋しつつも相即する関係にありし自然と人間の関係がほぼ完全に切り離され自然其のものがタダの物と化してしもうた。

 


古来より東洋思想に限らず文明を受け容れて居なひ世界観に於ひては自然はほぼ神に等しくまさしく神聖なるものであった。


其の神聖なるものをあへて客体化して切り刻む其の野蛮なる行為につき文明人の一体誰が其の責を負ふと云ふのだらうか。

 

 

 

確かに根本としての人間の抱へる問題は其の相対分離と云ふ人間が抱へる業の部分にこそ存して居やう。

されど其処まで遡らずともまさに人間の行為は暴虐的でありまるで赦されぬものだ。

 


尤も其れも個としての人間の行為に問題があるのではなくまさに社会としての人間の行為にこそ其の大問題が存して居やう。

 


尚、大衆と云ふ概念は残念ながら其の社会化過程にしかと組み込まれて居やう。

であるからこそ道徳的に可成に其れはヤバひ訳だ。

 


もういっそのこと大衆であることを止めて皆家に閉じこもってみてはどうか?

 


閉じ籠りだとかが確かに大問題となって居るがわたくしに言わせれば閉じ籠りなどまさに屁のやうなもので一番マズひのは兎に角人間が社会的に群れた上で悪事を働くことだらう。