早くも「テレワークロス」の人たち…バスも電車も“密”で通勤がツラい
こんな満員電車での通勤は即刻止めよ!
人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない、荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
徳川 家康の遺訓より
さうして常に急ぐ社会が悪ひのだ。
兎に角文明は、急ぐべからず。
先行き不透明な時代を生きていくには、人間というものを理解しておくことが大切です。たとえ急に社会が変わっても、人間の本質は変わらないのですから。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
皆が群がる場所ではなく、誰も行かないような場所へ行ってみる。人が行きたがらない所へ目を向けてみる。そこにこそ、皆が手に入れることのできない貴重なものが落ちているように思います。
たとへば其処には石が落ちて居ます。
其れも💎級の石がです。
人間を構成している成分は約1年で90%入れ替わる。人間は川のように流れ移り変わる。本当の自分など存在しない。
残念ながら人間には實体がありません。
人間とは仮のものであり、もうまるで幻のやうなものです。
本来ならば其の幻が自己を欲することなどあり得ず。
都市社会は意識の世界、「同じ、同じ」をくり返す世界です。そこで「違う」個性が認められるはずがない。
違ふ人は同じであることを欲し同じ人は違ふ人になりたがるものだ。
其れは分離の性質上どうしてもさうなって仕舞ふ。
でも文明は違ふものを認めなひ。
即ち其処が文明のビョーキの部分です。
どうせ死ぬんだから、ともはや投げやりになっても良ひのだと最近わたくしは文學から學び直しました。
どうであれどうも文明は死ななひつもりですよ。
文明が死ぬつもりが無ひことだけがわたくしにとっての苦悩です。
文明は多分しぶとく生き残って行くことでせうが、ひとつだけ分かって居ることは世界が次第におかしくなって行くことです。
其れは文明が狂って居るからさうなるんです。
自慢では無ひですがわたくしは退屈を感じたことが今迄に無ひのです。
むしろ常に時間が足らぬ、文明をやっつける為には千年程もの時間が必要です。
ずっと自分を反省すべきだとさう宗教から學びさう思って居たのですが結局悪ひ奴は文明なので自分を幾ら反省しても其の悪は治りません。
変わっていくこと、それが学ぶということ。知るということです。自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい。
さもありなん。
古典は読むべきだし、読む力をつけるべきである。それには自分で読むしかない。他人を当てにしても無駄である。まして学校ではほとんど何も教えてはくれまい。
学校では學ぶことなど出来ず出来るのは人間観察だけでせう。
其れは人間と云ふ変な者をしげしげと観察する絶好の機会ではあり得る。
知識が増えても、行動に影響がなければ、それは現実にはならない。
知識はやがて溢れ出て行動にも影響を及ぼして来ます。
ですが其れを必ずしも世間は快く迎へ入れては呉れぬ。
楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。それは一元論のほうが楽で、思考停止状況がいちばん気持ちいいから。
すると文明とは其の一元化への道筋なのかもしれません。
でも思考停止はわたくしにとり如何にも苦痛です。
一元論は自然界には無ひものであり、謂はば観念論的なものであり或は宗教的な精神の世界のものでもまたある。
ですが一元化には正直余り興味がありません。
一元化とは抽象的思考過程のことで、わたくしが今執心して居るのは二元的分離の侭に論理其のものと感性其のものから離脱することです。
即ち論理でも無く感性でも無ひ佛の道をば歩んで参りたひ。
現実とはなにか。それは皆さんの「行動に影響を与えるもの」なんです。だからそれは「人によって違う」。
現實とは事實とは違ふものでおそらくは其処に∞のヴァリエーションがあるものなのでせう。
但し其れも事實としての限定性から制約されるが故にほんたうは無限では無ひ。
「客観的事実」などを盲目的に信じてはいけない。それが常識を知っているということなのです。
主体ー主観ー⇔客体ー客観ー
其の客体ー客観ーは其れ単独では認識し得ぬものです。
そも認識が不成立なので、客観的事實などと云ふ事實など何処にも無く其れは近代以降に自然科学がさう抽象的に規定したものであるに過ぎぬ。
其れと同じ論理にて主体ー主観は其れ単独では認識し得ぬものです。
認識し得ぬものであると云ふ事は規定し得ぬものであると云ふことであり、其れをあへて規定して行くのであれば主客と云ふ分離ー分裂ーは相剋し相即する関係の中でのみ相対的に認識し且つ規定し得るものであると云ふこととなる。
要するに此の世に於ける全事象は本質的に論理規定出来ぬものばかりなのです。
論理でもって事象を規定すれば其れは誤謬に陥る可能性が高く、其の誤謬を続けて居ると次第に破壊が必然化されても参りませう。
其処をあへて近代は論理規定へと走ったのでしたが、其れは近代が悪だったと云ふ訳では無く歴史の必然の流れとしてさうなるより他はなかった訳だ。
要するに何が悪ひかと言へばむしろ繁栄し過ぎて仕舞った人間が悪かったと云ふこととなり、つまりは其れは社会が悪かったと云ふこととなるのです。
やることよりもやらぬことの方が遥かに良ひ。
やりまくって来た現代文明は「止まる」ことだけを兎に角出来るやうにしやう。
正しひ常識を形作る為には不断の學びと逆方向の要素への理解こそが必要です。
自然とはもともと、どうなるかわからないものです。子どもは車ではない。部品が全部、わかっているわけじゃありません。そういうものが「どうなる」か、完全にはわからないのです。
確かに自然は生其れ自体を考へつつ生きて居る訳では無ひ。
さう感じつつ生きて居るだけのものなので其処にはむしろ余分な思考が無ひ。
対して文明はむしろ其の余分な思考により余分なものを創り其の価値に寄り沿ふことで生きて来て居るのである。
勿論自然には其れが出来ぬのだが逆に彼等は余分な価値に惑はされずにさうして何処までも生きて行ける。
其の余分な価値とは罪であり煩悩であるものが生じさせた抽象的価値だ。
人間は其の余分な価値に惑はされる分本質的には眞の価値を見失って行く。
文明とは余分さ=余剰価値を生きる倒錯の過程であり本質的に其れは破壊としての歴史過程のことだ。
そもそもいちばん出来の悪いのがいるってのは、共同体では大切なことなんですよ。ビリがいなくなれば、ビリから二番目がビリになる。ビリの人は、全体に恩恵を与えているんですよ。
出来の悪ひ子なども此のやうに考へやうによっては大ひに人間の社会に役立って居やう。
ところで自然界には出来の悪ひ生命など皆無である。
何故か?
現象としての分離ー分裂ーの双極に相剋、相即する関係が成り立って居るからなのだ。
だから其のやうな関係性にある限りは本質的な優劣など何処にも設定し得なくならう。
個々の現象の本質的な優劣などは何処にも無くあるとすれば其れは人間の持つ抽象的価値ヒエラルキーの部分にのみ認められやう。
抽象的価値ヒエラルキーの設定は特に人間の社会的営為に於ひて顕著に認め得るものだ。
其の根本部分が教育の部分に帰せられて居り、即ち教育が抽象的価値ヒエラルキーを設定するからこそ人間の社会もまた全部が序列社会となりつひ其処で出来の悪ひ子などを馬鹿にするのである。
尚、わたくしは何せ其の序列からは外れた文人なので出来の悪ひ子はむしろ偉ひとさう考へて来て居る。丁度宮澤 賢治がかって述べたやうに役立たぬものこそがむしろ役立って居るのだからこそ。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
戦後日本は、短くいえば都市化しました。戦後の日本社会に起こったことは、本質的にはそれだけだといいてもいいくらいです。そこでは皆さんは自然を「ないこと」にしています。
其の「都市化」による弊害こそが文明が本質的に抱へる命題でありまさに其処に人間自体の意義や意味を問ふものともなって居やう。
尚、文明とは所詮は個ではあり得ぬものなのだ。
文明とは社会であり、社会とは個を離れた乗り物のことだ。
ところが近代文明とは其の「都市化」により初めて成立したものなのだった。
だがずっと前近代の封建制であったにせよ、其れでも何とか世界は存続して居たのではなかったか?
實は其れがもはや無理だったのだ。
封建制だの絶対王政だのを革命して初めて近代國家は成り立ち其処に「都市化」も成り立ったのだ。
つまり近代とは歴史上のギリギリの選択、ギリギリの綱渡りだったのだった、
謂はば死ぬか生きるかで時代が選択したところでの新たなる捨て身の社会システムだった訳だ。
だから其処に価値が無ひ訳では無くむしろ大ありだったのである。
即ち近代が開闢せずば世界は滅んで居たのである。
もうほとんど滅んで行き今頃は世界人口が一億人位だったのやもしれぬ。
で、其処に勝利した人類は今むしろ逆の目が出て増へ過ぎ、やり過ぎ、何でもあり、でもってして自滅への道を歩んで行かざるを得ぬ。
だとすると其の救世主としての近代と云ふ社会プロセス其れ自体に問題が實はあったのだった。
なので、其の「都市化」こそがまさしく自己矛盾の様なのである。
「都市化」しなひ限り日本の近代化は無く日本が近代化せぬ限り先進国として成り立つことなど元より無かった訳だ。
ところが其の「都市化」の流れでの極端な奴即ちグローバリズムが世界をさうして人間其のものを極度に圧迫するに及んで仕舞ふ。
で、其処でもって文明を続けて死にますか其れとも文明から離脱し生き抜きますか?と云ふ人類史上最大の難問が今あらゆる國家に突き付けられて来て居るのである。
さうして文明は自然を否定する。
否定するのでオーストラリヤでは大規模な山火事でもっておそらく一億頭程もの🐨が焼け死んだ。
また米國でも大規模な山火事が頻発しておる。
さらに強欲資本主義がアマゾンの熱帯雨林を現地人により根こそぎ伐採させておる。
しかも共産主義までもが強欲化し儲けに儲け其の金でもって海外へ出かけ遊び呆けて居た居たが故に変なウヒルスまでもが世界中にバラ撒かれて仕舞ふ。
そも其の根本のトコがイカンのだ。
根本のトコがイカンので、全部が矛盾化し苦境に陥る。
其れでも猶人類が眞理に目覚めることなどは無ひ。
こんなおバカなホモ・サピエンスにはどんな希望的観測も期待出来ぬ。
だから我我文人は只其の事實としての破壊の歴史を只冷ややかに見詰めるばかりなり。
古典はただ読むだけなのに、必死に考えないと、なかなか先に進めない。つまり、古典は読み進めるだけでも頭を使うので、「考えることが苦にならない脳」を作ることができます。
眞の意味で頭を使ふこととは自分の頭で考へて自己の意見を確立することだ。
ところが日本の社会は特殊で其れは社会的にむしろ「自分の頭で考へぬ」力=他と同調する力=和の力を磨き込んで来たことだったらう。
「自分の頭で考へぬ」ことの弊害は。
1.自己としての意見が確立出来なひ
2.眞理への絆が断たれる
3.周りに尻尾を振り続ける
ことであり、普通日本人がさう考へて居ることよりもずっとタチが悪くまさにヤバひ問題なのだ。
尚学校教育のみで其の「自分の頭でもって考へる」力を身に付けることはまず不可能だ。
但し学校教育での履修を疎かにして居るやうでは「自分の頭でもって考へる」力など身に付かう筈も無ひ。
「自分の頭でもって考へる」力こそが智恵にも通ずる知力であり優秀であることよりも
どちらかと言へば幅広ひ分野での知識の積み重ねやアウトサイドでの思考を積み重ねて居ることの方が其の「自分の頭でもって考へる」為の知力の形成には役立つのではなひか。
とは言へ所謂學問、學説の方もまた大事なのである。
學問、學説は最終的にはどーでも宜しひものなのだが其処に至る迄の経緯としてはむしろ必須のものなのだ。
さうしてつまるところは、學問、學説を良く理解し尚且つ自己としての意見を表明し得る力を磨くことこそが眞の意味での知的錬磨の為の内容だ。
他人は互いにわかり合えないものです。わかり合えないからこそ、言葉があるのです。
他を本質的に理解することなど其れは無理と云ふものです。
他が理解出来ぬので言語があるとのことです。
言語は相対分別を可能となしコミュニケーションと云ふ疑似的な他との和解の領域を生み出す。
ですが、あくまで其れは相対分別の範囲内のことで本質的には其れは相互不理解と云ふ瑕疵性、不具性の上からコミュニケーションを無理に成立させることだ。
対して信仰は其の仮としての相互理解の領域を普遍化することが可能だ。
謂はば他を本質的に理解すること無く其れでも全体として他と繋がり他を理解するのである。
人間、頭ばかり使っているとおかしくなる。現代人は頭よりも、もっと身体を使うべきだ。
頭を使ひ過ぎておかしくなって仕舞った人をこれまでに二度見て来ましたが其れは頭が良ひのに狂ったと云ふことです。
逆に頭が悪過ぎて狂ってる人も確かに居ます。
こんな恐ろしひ人間が世間にはワンサカ居るのです。
放っておけば、女は動物。
だから👩はいつも元気だ。
放っておけば、男は死人。
だから👨はいつも不元気だー不機嫌だー。
男女の差は相対分離なのでどちらにとっても他人事ではあり得ず、其処では違ふものを常に理解しやうとする愛♡の力が是非必要だ。
放っておけば、女は馬鹿。
放っておけば、男も馬鹿。
何故なら男性はさうして屁理屈に拘るから馬鹿。
女性は其の屁理屈をも解さぬので元々馬鹿。
日本人は外ばっかり見ている。しかも、根拠もない世の中の常識に踊らされている。だから不安になる。
日本人は世間体ばかりを気にして生きて居る。
世間体ばかりを気にして生きる輩は馬鹿である可能性が高ひ。
世の中の常識に根拠が無ひのは、其れが抽象的に規定されたに過ぎぬ価値観なのだから。
抽象的価値観は地面から離陸して居り其処ではまるで地に足が着ひて居なひ。
さうして何処を飛んで居るかと言へば所詮は天と地の間、人間と云ふ其の訳の分からぬ中途半端な社会的価値を宙ブラリンとなりつつ飛んで居るのだ。
天には神様がおはし地には動植物達が息づくと云ふのに何を思ってか我我人間は其の中途半端な社会的次元をいつも満員電車に揺られつつ疾走して行くのだ。
またおバカなことに其の価値こそが偉ひ価値=至上の価値だと思ひ込んで居りまさに其処からしてもホモ・サピエンスの頭の悪さこそは横綱級であり或は宇宙一の馬鹿と言ってもあながち誤りではあるまひ。
しかも其の虚の社会的価値に日々尻尾を振りつつ生きておるのが何と日本人であった。
不安の無ひ人ー眞の自己を確立した人ーはむしろ文明の崩壊を愉しみながら観て居るのだが多くの日本人にとってはグローバルな競争に日本が敗れ会社が潰れることだけが心配なのだ。
そんな大きな口を叩ひておまへには心配が無ひとでも言ふのか?
正直心配だらけですがより本質的には文明への心配のみが今此処にある。
人は何かを知り何かを忘れ、生まれ変わり続けている。そういう経験を何度もした人にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。
死ぬこと自体には特別な意味など無ひが生きる⇔死ぬと云ふ生命の本質的意義は負債であり負荷なのだらうとまさにさう思ふ。
生命は負債であり負荷なのだから、其れは元気に生きるやうなものでは無くたとへば「生まれてすみません」(太宰 治)として生きねばならぬものである。
どうも生まれてすみません。
どん底を掘り進めると確かに何らかの光明のやうなものがより深ひところから差して来たりも致します。
文學は何処までもどん底を掘り進め挙句の果てには自ら沈没したりもまた致しますが其処に一縷の望みを未来への幽かな光明を掴んで居らぬとは誰も言ひ得ぬことでせう。
さうして文明が脳により創り出されるのだとすれば、最終的には文明の奉ずる価値観は須らく脳化されるに及び人間の肉体性は其れに応じ改変されて行かざるを得なくならう。
ところが実際にはとても其処までは持たぬ訳です、何がって此の文明が。
文明とは現實の抽象的改変であり人間の歴史の合理化過程のことなので其処にて自然なる肉体性が限りなく圧迫されるに至り次第次第に壊れても行きませう。
ところが其れ以前に自然災害だのパンデミックだので其の抽象性の履行は次第に限定されて行かざるを得なくなる。
養老先生が仰るやうに体とは自然なので脳化されし都市文明よりも肉体化されし田舎生活の方が身体にとっては明らかに良ひ訳です。
ところが、問題は實は其処にあるのでは無く、其の脳化されし都市文明を悪ひものだと思はぬ輩が實はほとんどなのだと云ふ事實にこそあるのです。
つまり、其れは所謂全体主義としての問題なのです。
戦争中に「戦争を止めよ!」と眞實を述べた正しひ知識人は皆投獄され野垂れ死んだりもしましたことでせう。
同じやうに文明中に「文明を止めよ!」と眞實を述べた正しひ知識人は皆投獄され野垂れ死んだりも致しますことでせう。
さうして決まってみんなで揃って文明は自爆する。
赤信号、みんなで渡れば怖く無ひ。
むしろ其の人間の愚かさだけが残り文明は近く崩壊致しませう。
ですから、わたくしの場合はまさに其の地獄の様を今此処から眺めて居るのです。
本は知識を得るために読むものだと考える人が多いと思います。そうではなく、考えるために読む。
だから其の考へることの為に其の思考への参考の為だけにかうしてわたくしはいつも本を読んで居るのです。
養老先生は虫取りだけでとってもハッピー。
わたくしの場合は石採りだけでとってもハッピー。
其の虫なんですが、殺生と云ふか面倒臭ひと云ふかまるで興味が御座りません。
子供の頃に残虐に虫を殺したり飼って居てすぐに死んだりも致しましたので基本的に罪深ひことに思へ第一標本箱なんぞの一体何処が良ひのだらう?
そんなもの死んだ虫を陳列してるだけのことでまるで可哀想なことではありませんか。
また、生け花、活花にせよそんなものは藝術だの何だのと申しますが植物の死骸の陳列状態であるに過ぎず全くもってして気持ちの悪ひものです。
尤も博物館などで珍しひ海外の虫の標本を見ることは好きなのだが基本的に生き物を飼ったり陳列すること自体に疑問を感じて仕舞ふ。
要するに生ものには興味が無ひ。
いや、興味はあるが生物は其れが自然状態にあることこそが最高の価値なのだ。
尚石は生きて居なひので凄ひですよ。
其の冷たさ、静けさこそが常に凄ひと云ふことなのですが。
でも参勤交代は出来なひですよ。
第一其の参勤交代の膨大な費用など何処からも出せやしません。
其れもお金持ちの流行作家様以外は。
其処からもむしろほんたうに鎖国し幕藩体制に戻した方が良ひですよ。
首都は京都にでもまた戻したらどうでせう?
其れも天皇様だけをまた京都に戻すんです。
尚田舎は皆金が無ひので生きて行けぬさうです。
記憶は感情に結びついている。強い感情に結びついた記憶は10年たっても残るんです。その傾向は女性のほうが強い。男のほうが抽象的で適当に生きている。男と女では、持っている情報量が何ケタも違う。
女は理性が無く馬鹿な分逆に感情的ー感性的ーには利口です。
感覚的に優れて居るので現實的な危機管理能力には優れて居ます。
されど其の部分こそがまさに馬鹿なのです。
大きひ視点では考へられぬが故また抽象的思考が不得意であるが故に常に理性が限定的ー動物的ーとならざるを得ぬ。
其の動物が悪ひのでは無く、動物は自然的で且つ直接的です。
ただ死が分からなひのでー生のみー藝術にも宗教にも基本的には不向きです。
但し女には生への信心があるので実際には新興宗教に嵌ったりも致します。
さても此の👩の生自体への信仰には實は問題があります。
其れは生への信仰が科学技術文明と結託した現代に於ひて持続不可能性の問題として提起されて来ることでせう。
👨には大きく問題はありません。
男は皆半分は死んで居り半分あの世の者ばかりなのですから故に。
つまり死其れ自体よりも生ー性ー其れ自体の信心の方にこそより大きく問題が存して居ます。
ズバリ社会脳を使ひたく無ひわたくしは典型的な🚹脳人間でした。即ち沈思黙考が兎に角得意だ。
でも社会脳が無ひのじゃ無ひ。バカバカしひので其れを使ひたくは無ひだけだ。
ー逆に世の女共は沈思黙考をしたくは無ひのであらうー
其の沈思黙考の型が暴走すると多分釈迦やキリストのやうなことになるんです。(良ひ方)
又は都市文明のやうなことともなるんです。(悪ひ方)
社会を相手にせぬと決まって甲斐性無しの父ちゃん化致しますが甲斐性無しの父ちゃん程安全且つ安心なものもまた御座りませぬ。
わたくしの父の一番上の兄が其の甲斐性無しの父ちゃんでしたが、昔人夫仕事の合間にいつもフラフラと家へ来て庭の草むしりをして呉れたものでした。ー今生きて居れば105歳位か?ー
他のどんな立派な親戚よりも其の伯父のことが今思ひ出されてなりません。
いつも飄々として居て邪心無く穏やかな微笑みを湛へた人でした。
今思へば後に読んだ宮澤 賢治の文學に屡登場する「野の師父」のやうな人であった。
ところが昔はそんな人にも家庭があったのでまさに其の家の家計は火の車です。
稼ぎが悪ひので伯母はいつも内職仕事に追はれて居た。
でもヘッヘッヘー、とかホヒホーヒとか言ひつつ草を毟っては庭で笑って居た無能なオジサンこそが或は家の一族で一番頭の良ひジジヒだったのではなひかと今はさうも思ふのです。
或はわたくしなどよりもずっと上だったのかもしれません。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
足らねへのは出来過ぎることより遥かに良ひ。
以上養老孟司の名言より