目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

芥川と天使、悪魔との問答―闇中問答に於ける芥川の心の闘ひー

 

尚芥川はかってこんな風に天使と会話して居たことさへもがあった。

 

      一

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。
或声 しかしお前はその誤解にお前自身も協力してゐる。
僕 僕は一度も協力したことはない。
或声 しかしお前は風流を愛した、――或は愛したやうに装つたらう。
僕 僕は風流を愛してゐる。
或声 お前はどちらかを愛してゐる? 風流か? それとも一人の女か?
僕 僕はどちらも愛してゐる。
或声 (冷笑)それを矛盾むじゆんとは思はないと見えるな。
僕 誰が矛盾と思ふものか? 一人の女を愛するものは古瀬戸こせとの茶碗を愛さないかも知れない。しかしそれは古瀬戸の茶碗を愛する感覚を持たないからだ。
或声 風流人はどちらかを選ばなければならぬ。
僕 僕は生憎あいにく風流人よりもずつと多慾に生まれついてゐる。しかし将来は一人の女よりも古瀬戸の茶碗を選ぶかも知れない。
或声 ではお前は不徹底だ。
僕 しそれを不徹底と云ふならば、インフルエンザにかかつた後も冷水摩擦をやつてゐるものは誰よりも徹底してゐるだらう。
或声 もう強がるのはやめにしてしまへ。お前は内心は弱つてゐる。しかし当然お前の受ける社会的非難をはね返す為にそんなことを言つてゐるだけだらう。
僕 僕は勿論そのつもりだ。第一考へて見るがい。はね返さなかつたが最後、押しつぶされてしまふ。
或声 お前は何と云ふ図々づうづうしい奴だ。
僕 僕は少しも図々しくはない。僕の心臓は瑣細ささいな事にあつても氷のさはつたやうにひやひやとしてゐる。
或声 お前は多力者のつもりでゐるな? 
僕 勿論僕は多力者の一人だ。しかし最大の多力者ではない。若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう。
或声 ゲエテの恋愛は純潔だつた。
僕 それは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだ。文芸史家の※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だ。ゲエテは丁度三十五の年に突然伊太利イタリイへ逃走してゐる。さうだ。逃走と云ふ外はない。あの秘密を知つてゐるものはゲエテ自身を例外にすれば、シユタイン夫人一人だけだらう。
或声 お前の言ふことは自己弁護だ。自己弁護位手易たやすいものはない。
僕 自己弁護は容易ではない。し手易いものとすれば、弁護士と云ふ職業は成り立たないはずだ。
或声 口巧者くちがうしやな横着ものめ! 誰ももうお前を相手にしないぞ。
僕 僕はまだ僕に感激を与へる樹木や水を持つてゐる。それから和漢東西の本を三百冊以上持つてゐる。
或声 しかしお前は永久にお前の読者を失つてしまふぞ。
僕 僕は将来に読者を持つてゐる。
或声 将来の読者はパンをくれるか?
僕 現世の読者さへろくにくれない。僕の最高の原稿料は一枚十円に限つてゐた。
或声 しかしお前は資産を持つてゐたらう?
僕 僕の資産は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。
或声 しかしお前は家を持つてゐる。それから近代文芸読本の……
僕 あの家の棟木むなぎは僕には重たい。近代文芸読本の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰つたのは四五百円だから。
或声 しかしお前はあの読本の編者だ。それだけでもお前は恥ぢなければならぬ。
僕 何を僕に恥ぢろと云ふのだ?
或声 お前は教育家の仲間入りをした。
僕 それは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だ。教育家こそ僕等の仲間入りをしてゐる。僕はその仕事を取り戻したのだ。
或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?
僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨ぶんぼくに親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。
或声 お前には思想と云ふものはない。偶々たまたまあるのは矛盾だらけの思想だ。
僕 それは僕の進歩する証拠だ。阿呆はいつまでも太陽はたらひよりも小さいと思つてゐる。
或声 お前の傲慢がうまんはお前を殺すぞ。
僕 僕は時々かう思つてゐる。――或は僕は畳の上では往生しない人間かも知れない。
或声 お前は死を恐れないと見えるな? な?
僕 僕は死ぬことを怖れてゐる。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度くびをくくつたものだ。しかし二十秒ばかり苦しんだ後は或快感さへ感じて来る。僕は死よりも不快なことに会へば、いつでも死ぬのにためらはないつもりだ。
或声 ではなぜお前は死なないのだ? お前は誰の目から見ても、法律上の罪人ではないか?
僕 僕はそれも承知してゐる。ヴエルレエンのやうに、ワグナアのやうに、或は又大いなるストリントベリイのやうに。
或声 しかしお前はあがなはない。
僕 いや、僕は贖つてゐる。苦しみにまさる贖ひはない。
或声 お前は仕かたのない悪人だ。
僕 僕はむし善男子ぜんなんしだ。し悪人だつたとすれば、僕のやうに苦しみはしない。のみならず必ず恋愛を利用し、女から金を絞るだらう。
或声 ではお前は阿呆かも知れない。
僕 さうだ。僕は阿呆かも知れない。あの「痴人の懺悔」などと云ふ本は僕に近い阿呆の書いたものだ。
或声 その上お前は世間見ずだ。
僕 世間知りを最上とすれば、実業家は何よりも高等だらう。
或声 お前は恋愛を軽蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟ひつきやう恋愛至上主義者だつた。
僕 いや、僕は今日でも断じて恋愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。芸術家だ。
或声 しかしお前は恋愛の為に父母妻子をなげうつたではないか?
僕 ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をつけ。僕は唯僕自身の為に父母妻子を抛つたのだ。
或声 ではお前はエゴイストだ。
僕 僕は生憎あいにくエゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。
或声 お前は不幸にも近代のエゴ崇拝にかぶれてゐる。
僕 それでこそ僕は近代人だ。
或声 近代人は古人にかない。
僕 古人も亦一度は近代人だつたのだ。
或声 お前は妻子を憐まないのか?
僕 誰か憐まずにゐられたものがあるか? ゴオギヤアンの手紙を読んで見ろ。
或声 お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。
僕 どこまでも是認してゐるとすれば、何もお前と問答などはしない。
或声 ではやはり是認しずにゐるか?
僕 僕は唯あきらめてゐる。
或声 しかしお前の責任はどうする?
僕 四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ。
或声 お前は何と云ふ下等な奴だ!
僕 誰でも僕位は下等だらう。
或声 ではお前は悪魔主義者だ。
僕 僕は生憎悪魔主義者ではない。ことに安全地帯の悪魔主義者には常に軽蔑を感じてゐる。
或声 (暫く無言)兎に角お前は苦しんでゐる。それだけは認めてやつてもい。
僕 いや、うつかり買ひかぶるな。僕は或は苦しんでゐることに誇りを持つてゐるかも知れない。のみならず「得れば失ふをおそる」は多力者のすることではないだらう。
或声 お前は或は正直者かも知れない。しかし又或は道化者だうけものかも知れない。
僕 僕も亦どちらかと思つてゐる。
或声 お前はいつもお前自身を現実主義者と信じてゐた。
僕 僕はそれほど理想主義者だつたのだ。
或声 お前は或は滅びるかも知れない。
僕 しかし僕を造つたものは第二の僕を造るだらう。
或声 では勝手に苦しむがい。俺はもうお前に別れるばかりだ。
僕 待て。どうかその前に聞かせて呉れ。絶えず僕に問ひかけるお前は、――目に見えないお前は何ものだ?
或声 俺か? 俺は世界の夜明けにヤコブと力を争つた天使だ。
 
 
 
 
ー或声 お前はどちらかを愛してゐる? 風流か? それとも一人の女か?
僕 僕はどちらも愛してゐる。
 
 
或声 風流人はどちらかを選ばなければならぬ。ー
 
 
 
風流とは其れ即ち一種の世捨てですので、確かにどちらかを選ばなければならぬのです。
 
其処で女を選べば逆に美を捨て去らねばならなひ。
 
 
女とは生ものであり魔物でもある何者かで謂はば其れは矛盾を抱へる生の象徴的存在です。
 
俗人には其のことは見へませぬが特殊能力者=藝術家か宗教家にはまさに其のことが実感として見へて来るのである。
 
 
ですので藝術家の視点又は闘ひとはまさにそんな部分にこそあり其れは實は戦争が起きるだの自然が壊れさうだの何だのと云ふ社会的な視点以前での根源的な問題を常に突き付けられて居やう。
 
尚わたくしは漱石や芥川や太宰や安吾や三島以外の日本の藝術家は所詮凡百の輩だとも先回述べて居りますが勿論ほんたうはそんな風に思ってなど居なひ。
 
何故ならゲージツ家は皆苦しひものだからなのです。
 
 
 
ゲージツ家は皆苦しく普通はどーでも良ひやうなことだとさう思われて居る問題又は懸案につきまさに命を賭して闘って居るのであります。
 
其のどーでも良ひことと大事なこととの価値の逆転のやうなことが彼等には生じて居るので彼等に取り大事なことを書くと世間にはまるでどーでも良ひことのやうに思へ、どーでも良ひことを面白おかしく書くと決まって君等は喜び逆に群がって来るものなのだ。
 
 
いずれにせよ芥川の女好きの度、即ち其の好色の度はまさに並外れたものであったことらしひ。
 
 
 
 
何故彼は其処まで👩好きだったのか。
 
 
兎に角エロなことが好きだったのだらうか。
 
或は彼の悲しひ生ひ立ちが👩に縋る体質をいつの間にかつくり上げていったのであらうか。
 
 
👩依存、性依存、つまりは色情狂に近ひ部分があり。
 
 
芥川の理智の反対側には實はそんな世界が拡がって居りました。
 
 
 
芥川の最初の恋文
 
 
ーぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。お前はだまってゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。ぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがると云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶな事とお前がしあはせにくらう事をいのつてゐるー
 
 
実際芥川が愛した女は分かって居るだけで順を追ひ五人も居たのです。
 
 
 
が、結婚出来たのは文學を解さぬ👩である塚本 文でした。
 
ですがある意味では其れがアノ神経質過ぎる芥川の生活を支へて居たことでせう。
 
 
なのですが、矢張り其れではまるで面白くは無ひ。
 
其処で歌人に手を出しますがコレがエラひことになって仕舞ひます。
 
 
ですから何でそんなにカンタンに他の女に手を出すのですか。
 
 
わたくしなどは半分位は女の心を持って居ることだらう優しひ詩人ですのでそんな👨の身勝手な情欲などまるで認められません。
 
 
愛♡とはさういふものでは無くたとへば其れは実存と実存とのたった一つの宇宙での出会ひのことだらう。
 
 
其のやうに一夫一婦制を貫く古ひ考へ方の人間ですのでわたくしがもし男性に求めるものがあるとすれば其れは誠実さであり👩に潔癖な部分です。
 
 
またもし女性に求めるものがあるとすれば其れは浪漫を解する心と👨に潔癖な部分です。
 
ところが浪漫を解する心の持ち主としての👩、つまり藝術を解する心の女に限り生活力には欠けて居るものだ。
 
 
 
 
 
ー「あなたと話していると魂が飛翔していく。希望に満ちた十九世紀のアラン島に舞い降りたようです」
廣子の横顔を芥川が眩しそうに見つめた。それが亡き夫との違いなのだと思った。亡き夫は、アイルランドの詩人に希望を見出すことはできなかった。目の前の生活が満たされていれば幸せになれる人間だったからだ。ー
 
 
そればかりか芥川には所謂最後の恋人とされるインテリの👩が居りました。
 
かようにアイルランドの詩人だの何だのと訳の分からぬことを述べおそらくは彼女を誘惑して居たことでせう。
 
 
 
かように芥川にせよ太宰にせよ♂としての天分を多分に持って居りズバリ言へば其れ即ち女好きだったのでした。
 
 
尚太宰の場合にも当て嵌まるのですが、芥川の悩みとは至極現実的な悩みでありことに女性関係に起因するところでのものです。
 
勿論其処には創作上の壁だの人生に対する失望だの観念上の苦闘ー罪だの罰だのに対する苦闘ーだのが無かったとは言へぬ訳ですが。
 
 
ー或声 お前は恋愛を軽蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟ひつきやう恋愛至上主義者だつた。
僕 いや、僕は今日でも断じて恋愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。芸術家だ。
或声 しかしお前は恋愛の為に父母妻子をなげうつたではないか?
僕 ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をつけ。僕は唯僕自身の為に父母妻子を抛つたのだ。
或声 ではお前はエゴイストだ。
僕 僕は生憎あいにくエゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。ー
 
 
 
ー廣子は芥川の死を新聞で知って以来、世間との交わりを捨ててひっそりと生きていきます。その胸には、わずかな時間をともに過ごした恋情の相手、芥川との思い出がありました。やがて芥川が晩年に残していた詩、『越し人』から廣子は隠された思いを知ることに……この詳細は、『越し人 芥川龍之介 最後の恋人』にて述べられています。ー芥川龍之介没後90年。その生涯に迫る。より
 
 
 
此の『越し人 芥川龍之介 最後の恋人』と云ふ本を是非一度読んでみたひものだ。
 
 
少し気になったので調べてみた。片山  広子
 
すると彼女は1899年(明治32年)に結婚して居たのである。
 
だとすると其れは所謂不倫関係だったのか?
 
 
つまり、芥川がかって色々と書ひて居たこと、其れも晩年に於ひて生きる上での苦しさを多面的に書き描ひて居たのだけれど其れはフィクショナルなものではなく何とノンフィクション作品だったのだ!
 
要するに罪の意識に苛まれるやうなことを事実として次から次へと仕出かして居た訳である。
 
 
当初からわたくしは「闇中問答」を藝術家の心中に宿る二元的対立を描く作品だとさう見做して居たのだけれど、どうも其れは違って実際に👩に手を出したことで罪の意識に苛まれ苦しひ胸の内をむしろ其のままに描きしドキュメンタリー作品だったと云ふこことともならう。
 
 
 
 
だが實は其の芥川の奔放なる肉体性を誰も嗤ふことなど出来ぬ。
 
 
むしろ其の奔放なる肉体性の他方にこそ彼の築き上げし天にも届かんとする理智の世界がしかとあるのだ。
 
 
 
かように天使と会話したのはまさに当時の彼の現実であり其は虚構でも創作でもなくまさしく心中でのほんたうの会話だったと云ふ話のオチである。
 
 
 
 
       二

或声 お前は感心に勇気を持つてゐる。
僕 いや、僕は勇気を持つてゐない。若し勇気を持つてゐるとすれば、僕は獅子の口に飛び込まずに獅子の食ふのを待つてゐるだらう。
或声 しかしお前のしたことは人間らしさを具へてゐる。
僕 最も人間らしいことは同時に又動物らしいことだ。
或声 お前のしたことは悪いことではない。お前は唯現代の社会制度の為に苦しんでゐるのだ。
僕 社会制度は変つたとしても、僕の行為は何人かの人を不幸にするのにまつてゐる。
或声 しかしお前は自殺しなかつた。兎に角お前は力を持つてゐる。
僕 僕は度たび自殺しようとした。殊に自然らしい死にかたをする為に一日にはへを十匹づつ食つた。蠅を細かにむしつた上、のみこんでしまふのは何でもない。しかし噛みつぶすのはきたない気がした。
或声 その代りお前は偉大になるだらう。
僕 僕は偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を読んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あのの強いワグネルでさへ。
或声 お前は兎に角苦しんでゐる。お前は良心のない人間ではない。
僕 僕は良心などを持つてゐない。持つてゐるのは神経ばかりだ。
或声 お前の家庭生活は不幸だつた。
僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠実だつた。
或声 お前の悲劇は他の人々よりもたくましい理智を持つてゐることだ。
僕 ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。
或声 しかしお前は正直だ。お前は何ごともあらはれないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。
僕 それも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だ。僕は打ち明けずにはゐられない気もちになるまでは打ち明けなかつた。
或声 お前は詩人だ。芸術家だ。お前には何ごとも許されてゐる。
僕 僕は詩人だ。芸術家だ。けれども又社会の一分子だ。僕の十字架を負ふのは不思議ではない。それでもまだ軽過ぎるだらう。
或声 お前はお前のエゴを忘れてゐる。お前の個性を尊重し、俗悪な民衆を軽蔑しろ。
僕 僕はお前に言はれずとも僕の個性を尊重してゐる。しかし民衆を軽蔑しない。僕はいつかかう言つた。――「玉は砕けても、瓦は砕けない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松門左衛門はいつか一度は滅びるであらう。しかれ彼等を生んだたいは、――大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変へても、必ずそのうちから生まれるであらう。
或声 お前の書いたものは独創的だ。
僕 いや、決して独創的ではない。第一誰が独創的だつたのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。就中なかんづく僕は度たび盗んだ。
或声 しかしお前は教へてもゐる。
僕 僕の教へたのは出来ないことだけだ。僕に出来ることだつたとすれば、教へない前にしてしまつたであらう。
或声 お前は超人だと確信しろ。
僕 いや、僕は超人ではない。僕等は皆超人ではない。超人は唯ツアラトストラだけだ。しかもそのツアラトストラのどう云ふ死を迎へたかはニイチエ自身も知らないのだ。
或声 お前さへ社会を怖れるのか?
僕 誰が社会を怖れなかつたか?
或声 牢獄に三年もゐたワイルドを見ろ。ワイルドは「みだりに自殺するのは社会に負けるのだ」と言つてゐる。
僕 ワイルドは牢獄にゐた時に何度も自殺を計つてゐる。しかも自殺しなかつたのは唯その方法のなかつたばかりだ。
或声 お前は善悪を蹂躙じうりんしてしまへ。
僕 僕は今後もいやが上にも善人にならうと思つてゐる。
或声 お前は余り単純過ぎる。
僕 いや、僕は複雑過ぎるのだ。
或声 しかしお前は安心しろ。お前の読者は絶えないだらう。
僕 それは著作権のなくなつた後だ。
或声 お前は愛の為に苦しんでゐるのだ。
僕 愛の為に? 文学青年じみたお世辞はい加減にしろ。僕は唯情事につまづいただけだ。
或声 誰も情事には躓き易い。
僕 それは誰も金銭の慾におぼれ易いと云ふことだけだ。
或声 お前は人生の十字架にかかつてゐる。
僕 それは僕の自慢にはならない。情婦殺しや拐帯かいたい犯人も人生の十字架にかかつてゐるのだ。
或声 人生はそんなに暗いものではない。
僕 人生は「選ばれたる少数」を除けば、誰にも暗いのはわかつてゐる。しかも又「選ばれたる少数」とは阿呆と悪人との異名なのだ。
或声 では勝手に苦しんでゐろ。お前は俺を知つてゐるか? 折角お前を慰めに来た俺を?
僕 お前は犬だ。昔あのフアウストの部屋へ犬になつてはひつて行つた悪魔だ。
 
 
 
 
次に芥川は悪魔に慰められる。
 
悪魔の語調は意外と優しく逆に罪の意識に苛まれる芥川を勇気付けるのだった。
 
 
ー或声 お前は人生の十字架にかかつてゐる。
 
或声 人生はそんなに暗いものではない。ー
 
 
などと何と悪魔が述べる。
 
 
 
ー或声 お前は超人だと確信しろ。
僕 いや、僕は超人ではない。僕等は皆超人ではない。超人は唯ツアラトストラだけだ。しかもそのツアラトストラのどう云ふ死を迎へたかはニイチエ自身も知らないのだ。
或声 お前さへ社会を怖れるのか?
僕 誰が社会を怖れなかつたか?
或声 牢獄に三年もゐたワイルドを見ろ。ワイルドは「みだりに自殺するのは社会に負けるのだ」と言つてゐる。
僕 ワイルドは牢獄にゐた時に何度も自殺を計つてゐる。しかも自殺しなかつたのは唯その方法のなかつたばかりだ。ー
 
 
 
さうだ一体誰が社会を怖れなかつたか?
 
其れにワイルドは「みだりに自殺するのは社会に負けるのだ」と言つてゐる。
 
 
すると芥川は社会に負けたのか?
 
 
これはもう、社会に負けた可能性すら見へて来た。
 
 
いや、然し彼は社会的地位には恵まれて居やう。
 
何せ当時より文豪なので。
 
 
とすればむしろ👩に負けた。
 
女の魔性にやられ自決する他無くなったのだ。
 
 
 
嗚呼、ツアラトストラ!
 
 
此の人類初の真の宗教家により社会的な罪は須らく規定されていくのだ。
 
 
おおまさに其の人を見よ。
 
 
事実ツアラトストラこそが一神教へと通じる善悪の礎を築き上げし超人だ。
 
 
 
 
  三

或声 お前は何をしてゐるのだ?
僕 僕は唯書いてゐるのだ。
或声 なぜお前は書いてゐるのだ。
僕 唯書かずにはゐられないからだ。
或声 では書け。死ぬまで書け。
僕 勿論、――第一その外に仕かたはない。
或声 お前は存外落ち着いてゐる。
僕 いや、少しも落ち着いてはゐない。若し僕を知つてゐる人々ならば、僕の苦しみを知つてゐるだらう。
或声 お前の微笑はどこへ行つた?
僕 天上の神々へ帰つてしまつた。人生に微笑を送る為に第一にはひの取れた性格、第二に金、第三に僕よりも逞しい神経を持つてゐなければならぬ。
或声 しかしお前は気軽になつたらう。
僕 うん、僕は気軽になつた。その代りに裸の肩の上に一生の重荷を背負はなければならぬ。
或声 お前はお前なりに生きる外はない。或は又お前なりに……
僕 さうだ。僕なりに死ぬ外はない。
或声 お前は在来のお前とは違つた、新らしいお前になるだらう。
僕 僕はいつでも僕自身だ。唯皮は変るだらう。蛇の皮を脱ぎ変へるやうに。
或声 お前は何も彼も承知してゐる。
僕 いや、僕は承知してゐない。僕の意識してゐるのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識してゐない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々ばうばうと広がつてゐる。僕はそれを恐れてゐるのだ。光の中には怪物はまない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠つてゐる。
或声 お前も亦俺の子供だつた。
僕 誰だ、僕に接吻したお前は? いや、僕はお前を知つてゐる。
或声 では俺を誰だと思ふ?
僕 僕の平和を奪つたものだ。僕のエピキユリアニズムを破つたものだ。僕の、――いや、僕ばかりではない。昔支那の聖人の教へた中庸の精神を失はせるものだ。お前の犠牲になつたものは至る所に横はつてゐる。文学史の上にも、新聞記事の上にも。
或声 それをお前は何と呼んでゐる?
僕 僕は――僕は何と呼ぶかは知らない。しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕等を超えた力だ。僕等を支配する Daim※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)n だ。
或声 お前はお前自身を祝福しろ。俺は誰にでも話しには来ない。
僕 いや、僕は誰よりもお前の来るのを警戒するつもりだ。お前の来る所に平和はない。しかもお前はレントゲンのやうにあらゆるものを滲透して来るのだ。
或声 では今後も油断するな。
僕 勿論今後は油断しない。唯ペンを持つてゐる時には……
或声 ペンを持つてゐる時には来いと云ふのだな。
僕 誰が来いと云ふものか! 僕は群小作家の一人だ。又群小作家の一人になりたいと思つてゐるものだ。平和はその外に得られるものではない。しかしペンを持つてゐる時にはお前のとりこになるかも知れない。
或声 ではいつも気をつけてゐろよ。第一俺はお前の言葉を一々実行に移すかも知れない。ではさやうなら。いつか又お前に会ひに来るから。
僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐるあしだ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬれるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
 
 
 
 
お前は何をしてゐるのだ?
 
僕は唯書いてゐるのだ。
 
 なぜお前は書いてゐるのだ。
 
 
唯書かずにはゐられないからだ。
 
 では書け。死ぬまで書け。
 
 
 お前の微笑はどこへ行つた?
 
天上の神々へ帰つてしまつた。人生に微笑を送る為に第一にはひの取れた性格、第二に金、第三に僕よりも逞しい神経を持つてゐなければならぬ。
 
 
 お前は何も彼も承知してゐる。
 
 
いや、僕は承知してゐない。僕の意識してゐるのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識してゐない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々ばうばうと広がつてゐる。僕はそれを恐れてゐるのだ。光の中には怪物はまない。しかし無辺の闇の中には何かがまだ眠つてゐる。
 
 
 
 
 
此処からも人生に微笑みを送る其の為には吊り合った性格と食ひ繋ぐだけの金と鈍感であることこそが何より大事だ。
 
また光の中には怪物は棲まず無辺の闇の中には何が眠って居ても不思議では無ひ。
 
 
かうして悪魔との対話を重ね即ち激しひ心理上の善悪の対決、葛藤を重ねた末に力尽きた芥川は自ら死を選ぶこととなる。
 
 
 
ー僕は群小作家の一人だ。又群小作家の一人になりたいと思つてゐるものだ。平和はその外に得られるものではない。ー
 
 
所謂芥川賞などと云ふ御大層な賞にて自らの文學的な業績を権威化されることよりも彼芥川はタダの群小作家の一人として平和に生きていたかったのやもしれぬ。
 
 
其の鋭ひ理智にて無辺の闇の中を弄ることよりも怪物など見へぬ凡庸なる光の野を何処までも歩んで行きたかったのやもしれぬ。
 
 
 
ー多忙な為一週間程投稿を休ませて頂きます。ー