目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

社会を案じ藝術に殉じた芥川 龍之介

常に我我人間は相対分別としての檻の中に住し其処でまさにあーでもなひこーでもなひとあれこれとやって来て居やう。

しかしながら脱俗した人間は其処である意味其の迷ひを吹っ切るのだ。

 

世間の価値観には背を向け其処でひとつの精神の領域を形成するのだ。

其処は西行然り良寛然りまた一休然り。

 

されど解脱するところまでは元より人間には無理なのだ。

さうして解脱は出来ぬ故煩悩即菩提でもってやっていかう。

 

其れが大乗各宗派が考へたところでの現実としての佛法の処し方であった。

 

元より釈迦は究極まで人間を見詰め直し其処にひとつの結論を得て居た。

 

畢竟人間は自己矛盾するものだから生きて居てはイケナヒものだ。

 

即ち生きること其れ自体が迷ひであり根本矛盾であり錯誤であり病気である。

 

 

他にはショーペンハウアーがかって仏法又は印度思想を理解し其のやうなことを述べて居た。

 

また其のショーペンハウアーの影響を受けし独逸の詩人であり哲學者でもあるマインレンダーは極端な厭世主義者であった。

 

「彼はそこで再び著作活動に取りつかれ、わずか2か月の内に未製本の『救済の哲学』を校正し、回想録や中編小説『Rupertine del Fino』を書きあげ、そして650ページにおよぶ『救済の哲学』第2巻を完成させた。

1876年2月からマインレンダーの精神的衰弱が顕著になる。ついには誇大妄想狂になり、自身を社会民主制の救世主だと信じ込む[5]。同年4月1日の夜、マインレンダーはオッフェンバッハの自宅で、前日に出版社から届いた『救済の哲学』を山積みにして壇にし、首を吊って自殺した。34歳であった。」 フィリップ・マインレンダーより

 

ショーペンハウアーとは異なり美男子だったマインレンダーながらかうして34歳の若さで死んで仕舞った。

其の『救済の哲学』をわたくしは読んで居なひがおそらくは自殺賛美、自殺礼賛の内容が其処かしこに出て来やう筈だらうからそんなものを余り読みたひとも思はぬ。

 

わたくしは生と闘ふこと其れ自体に生の意義乃至は意味を見ひ出すやうになりつつあり、従ってそんなにカンタンに生の幕を閉じてなるものかと云ふ怒り乃至は格闘の心の内を常に生きる者でもある。

其の格闘こそが激しくも醜ひものであるが故に、其の対極には美しひもの=天国乃至は浄土が光り輝ひても居らう。

 

わたくしはさうして生と闘ふ一自称詩人である。

 

 

尚、本来ならば仏法は自殺することを禁止するものでは無ひ。

かって釈迦は弟子の自殺を嘆きはしたが其れにむしろ同情的な立場を示して居たものだ。

 

対して自殺することを禁止するキリスト教では、神から頂ひた此の命を自分勝手に傷つけたり殺してはならぬとの神の全能性に対する絶対の服従の思想が存して居る。

 

なのだが其れが自己矛盾化して居りつまりは悪魔に唆され結局悪の生を築くのが人間の常なので其れを止めて神を信じ天国へいきませうとさう述べて居るのだ。

 

また神道ではどうも死は穢れとして忌避されて居ることだらうフシがある。

 

だが、其れこそが矛盾的な一元化の流れでありつまりは生至上主義、生の礼賛の思想でありだが其れではどうも片手落ちのやうにも思ふのだ。

 

 

即ちわたくしはあくまで生を二元による分離過程として捉へて居る。

 

其の分離の両極を見詰める、見定めることでこそ其処で現実的なバランスが得られるものなのではなひか。

 

其れは釈尊の述べられた中道の原理ー両極の否定ーともまた異なるものなのだ。

 

所謂中庸の思想に近ひのやもしれぬが但し其処ではむしろ過激に両極を見詰めていかねばならぬ。

 

其の過激に両極を見詰めることこそがわたくしにとっての闘ひなのだ。

 

 

まさに生との格闘であり、其れがまさしく生の意義なのだ。

 

わたくしは今生の価値を其のやうに構築し其の価値観に基づく世界観を心中にしかと形成しつつある。

 

 

よってわたくしにとり世間での価値観などもはや問題では無ひ。

 

其れはわたくしが限りなく聖の方向を向ひて歩んで居るからなのだ。

 

いや、より正確には悪の方向をも同時に向き歩んで居るからなのだ。

 

 

其のやうな両極よりのフィードバックでからこそ此の世の実相を把握することが出来やう。

 

然し其の荊の道は遠くかつ険しひ。

 

 

おまへは十字架に架かって居るのだ。

否さうしておまへはマーラの海へと沈んだのだ。

 

 

いや、さうでは無ひ。

我は今魔と闘って居るのだ。

 

社会と云ふ魔、人間と云ふ魔と闘って居る。

 

かうして闘ふ者、其の人を見よ。

 

地獄の底で蠢ひて居る其の人々の哀しみをしかと見よ。

 

 

尚、芥川 龍之介の作品中には其のマインレンデルのことが屡語られて居た。

 

「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずにはかないであらう。けれどもし非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。」

 或旧友へ送る手記 芥川  龍之介より

 

キリスト教に興味があったことだらう芥川にとり自決は即神との決別を意味して居やう筈。

即ち理智体としての芥川にとり神は信仰の対象とはなり得ぬものであった。

 

むしろ神を見ひ出す為に彼は悪魔を見続けて来た。

 

人間と云ふ悪なる狂気の世界を古典を題材に取ることで見続けて来たのだった。

 

其れは理智が行ひし唯一の闘ひだった。

 

 

其れも芥川と云ふひとつの理智としての文學が行ひし唯一の闘ひだったからこそ。

 

 

「君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。 或旧友へ送る手記 芥川  龍之介より」

 

芥川 龍之介には👩の問題を皮切りに👪の扶養の問題、睡眠薬や麻薬ー斎藤 茂吉から処方された薬の中に其れが入って居たとされるーへの依存、また自らの発狂への恐怖等の至極現実的な問題が当時山積して居た。

 

其れとは別に、所謂社会への疑問、人間社会への不信感が彼の中で加速度的に高まって行って居たのかもしれなひ。

 

文學者としてなまじ人間の正体を見詰め続けて来ただけに余計に其の人間の社会の正体が分からなくなる。

 

 

尚現代ではむしろ其の頃よりも混迷の度はより深くより制御し難くなって来て居ることだらう。

 

第一わたくしには現代人の忍耐深さがまるで偉人のやうにさへ見へて来る。

 

 

わたくしはもういい、捨てた、捨てたぞ、もうオサラバだ。

 

社会を全否定して🐅にでもなるから其れをあへてもう追はずに居てお呉れ。

 

 

 

ー昨年の彼の病苦は、かなり彼の心身をさいなんだ。神経衰弱から来る、不眠症、破壊された胃腸、持病の痔などは、相互にからみ合って、彼の生活力を奪ったらしい。こうした病苦になやまされて、彼の自殺は、徐々に決心されたのだろう。
 その上、二、三年来、彼は世俗的な苦労が絶えなかった。我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、一番世俗的な苦労がつきまとっていったのは、何という皮肉だろう。

 

私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかった。だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいられなかったのだ。
 この事件と前後して、この事件などとも関連して、わずらわしい事件が三つも四つもあった。私などであれば「勝手にしやがれ」と、突き放すところなどを、芥川は最後まで、気にしていたらしい。それが、みんな世俗的な事件で、芥川の神経には堪らないことばかりであった。
 その上、家族関係の方にも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人の令弟の発病など、いろいろ不幸がつづいていた。
 それが、数年来きざしていた彼の厭世的人生観をいよいよ実際的なものにし、彼の病苦と相俟って自殺の時期を早めたものらしい。

 

彼が、僕を頼もしいと思っていたのは僕の現世的な生活力だろうと思う。そういう点の一番欠けている彼は、僕を友達とすることをいささか、力強く思ったに違いない。そんな意味で、僕などがもっと彼と往来して、彼の生活力を、刺激したならばと思うが、万事は後の祭りである。
 作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言えると思う。彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本における代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。ー芥川の事ども 菊池 寛より

 

 

芥川 龍之介に生活力が欠けて居たのは何より彼が理智の世界を生きて居たからでのこと。

 

理智を生きる人の言葉は概ね潔癖だ。

 

潔癖なものは不眠症にもなるのだし癇癪も起こすのだし神経がやられ精神病の如くに見られ易くもならう。

 

だが其れは闘って居るのだ。

 

世人とはまた異なる次元でさう闘って居るのだ。

 

其の和漢洋の学問を備えた作家など菊池 寛が言った如くに彼以降は現れて居らぬ。

 

 

ー彼は、文学上の読書においては、当代その比がないと思う。あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、恒藤君が僕に訊いた。

「君、マインレンデルというのを知っているか。」
「知らない。君は。」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」
 山本有三、井汲清治、豊島與志雄の諸氏がいたが、誰も知らなかった。あの手記を読んで、マインレンデルを知っていたもの果たして幾人いただろう。二、三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹した学者だろうとの事だった。ー芥川の事ども 菊池 寛より

 

芥川にとりマインレンダーは悪魔だったのか、其れとも天使だったのか、其れは結局分からなひ。

 

だがもしもだ、もしも仏陀が芥川の自裁を評して何か言葉を掛けるのだとしたらおそらくはかう言はれた筈だらう。

 

其れは其れは残念なことであった。だが丁重に葬ってやって欲しひ。彼は充分に闘ひ文に殉死したのだ。其れは佛の道では無かったが佛に準ずる道をあへてさう歩んだのだ。

 

 

ー芥川が、ときどき洩した口吻などによると、Social unrest に対する不安も、いくらか「ボンヤリした不安」の中には入っているようにさえ自分は思う。

 彼は、自分の周囲に一つの垣を張り廻していて、嫌な人間は決してその垣から中へは、入れなかった。しかし、彼が信頼し何らかの美点を認める人間には、かなり親切であった。そして、よく面倒を見てやった。また、一度接近した人間は、いろいろ迷惑をかけられながらも、容易には突き放さなかった。
 皮肉で聡明ではあったが、実生活にはモラリストであり、親切であった。彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らないことにこだわらないで、はればれと生きて行っただろうと思う。ー芥川の事ども 菊池 寛より

 

Social unrest=社会[政治的]不安のことだ。

芥川の所謂「ボンヤリした不安」とは其の人間の社会に対する不安乃至は人間に対する不安其のもののことだらう。

 

事実今社会は限りなく不安だ。

 

2020年世界10大リスク、イアン・ブレマー氏インタビュー

 

わたくしが考へるところでの現在の世界の五大リスク

1.近代主義の破綻

2.米国による行き過ぎた世界の合理化

3.中国による行き過ぎた覇権主義

4.🐵又は🐻又は🐗又は🐍の脅威

5.人類総おバカ化

 

1.に就ひて

近代主義は合理化による矛盾、即ち合理的に構築される矛盾により2050年以降破綻を迎へることだらう。

 

2.3.に就ひて

米国流の極左思想が世界を破滅させやうとしていることはもはや明らかだ。

日本国は安保条約を破棄し是非露国との同盟関係を築くべきだ。

さすれば3.の防波堤にもまたならう。

 

尚日本国が将来に於ひて独自に武器を開発すること位はいつでも可能だ。

但し中国にはとても逆らえぬ。

事実として中国は日本の文化や思想の母であり父でもまたあらう。

 

4.に就ひて

 

其のうちに🐵が🐻や🐗や🐍を家来となし人間を襲ふことだらう可能性が高まって来た。

だから我我は人間をバリバリと喰らふ巨大な🐻や鋭ひ牙と突進力を持つ🐗や一噛みで人間を毒殺する毒🐍に今後一人また一人とやられていくことだらう。

 

其の折には無論のこと喜んで喰はれていかねばならぬ。

 

5.に就ひて

社会に於ける合理化が極限にまで進むと人類は総おバカ化する虞が多分にあり其のバカとは自ら考へ得る力の喪失のことであり不倫や淫行、さらに尊属殺人や違法薬物の摂取並びに飲酒を好んで行ひおまけにギャンブル浸けに至り自己破産へと追ひ込まれていくことだ。

イザさうなればもはや宇宙へと逃げていく他は無し。

 

 

さてモラリストであり潔癖であるからこそかうして彼芥川のやうに罪の意識にも苛まれやう。

 

ところが、今の政治家や芸能人はどうだ?

不倫やら薬物中毒やらを或は売れる為のネタの如くにさへ思って居やう。

そんな下らぬものに何故群がるのだ、現代人は。

 

現代人よ、君等は藝術に殉じた芥川 龍之介の爪の垢でも煎じて飲んでみてはどうか?