目覚めよ!

文明批判と心の探求と

無頼派が担ひし眞の苦悩ー不健全で不道徳な人間にとっての眞の悩みとは?ー

夏目漱石も、その博識にも拘らず、その思惟の根は、わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることが出来なかった。然し、ともかく漱石には、小さな悲しいものながら、脱出の希いはあった。彼の最後の作「明暗」には、悲しい祈りが溢れている。志賀直哉には、一身をかけたかゝる祈りは翳すらもない。
 ニセの苦悩や誠意にはあふれているが、まことの祈りは翳だになく、見事な安定を示している志賀流というものは、一家安穏、保身を祈る通俗の世界に、これほど健全な救いをもたらすものはない。この世界にとって、まことの苦悩は、不健全であり、不道徳である。文学は、人間の苦悩によって起ったひとつのオモチャであったが、志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野をひらいたのである。最も苦悩的、神聖敬虔な外貌によって、全然苦悩にふれないという、新発明の健全玩具であった。
 この阿呆の健全さが、日本的な保守思想には正統的な健全さと目され、その正統感は、知性高き人々の目すらもくらまし、知性的にそのニセモノを見破り得ても、感性的に否定しきれないような状態をつくっている。太宰の悲劇には、そのような因子もある。
 然し、志賀直哉の人間的な貧しさや汚らしさは、「如是我聞」に描かれた通りのものと思えば、先ず、間違いではなかろう。志賀直哉には、文学の問題などはないのである。ー志賀直哉に文学の問題はない 坂口安吾より

 

 

確かに志賀 直哉には、文学の上での問題などは無かった。

ただ文壇でもって威張って居た点が兎に角太宰の癪に障ったのである。

 

但し漱石に於ける其の脱出のもがきは無頼派の比ではなかったことかと思ふ。

漱石は學匠作家だったが故に近代化の危険度を學問的にも気付いて居たのではなかったか。

 

でも漱石は元々理系の人なので一種科学を賛美しても居り科学=近代化の危険だなどとはまさか気付いては居なかった筈だ。

 

ーこの世界にとって、まことの苦悩は、不健全であり、不道徳である。ー

 此の世の中では眞の意味で悩み苦しむことが忌避されて来た。

其れに正面切ってぶつかったのが、釈迦とキリストと藝術ーそれも文學ーのみであった。

 

其の眞の悩みを忘れたところに、今我我の苦悩ー社会の苦悩ーが兆して来て居るのだ。

 

 

歴史や人間の内面のあり方などを俯瞰して捉へるにまさに其のやうに了解されるのである。

 

ー志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野ーは、謂はば精神の保守の流れとして昭和、平成、令和を刺し貫く國家、共同体、組織、👪、また個にとっての寄って立つべき重要な価値観を形成して来た。

だが、其処へ突如としてとある自称詩人がAICHIに現れ、其れで五年程前にヤフーブログにてこんな七面倒臭ひ内容の社会批判を滔々と述べ始めたのだった。

 

其の内容たるや兎に角クドヒ程に辛辣だ。

もうまるでおかまひなしに世の常識としての価値観をブッタ切る。

 

もうまるで世間をバカにし見下しておる。

其の様やまるでかの信長のやうなものだ。

 

汝等悔ひ改めよ!

神の裁きは近ひぞ!

 

 

さうかうするうちに、

ドッカーン。

とコロナが来て仕舞ひました。

 

まさに嗤ふに嗤へぬ現實であります。

 

其の安吾が指摘したー阿呆の健全さーとは其のことだったのです。

確かに安吾は半分キチガヒです。

 

半分キチガヒな程に物凄ひ理性の持ち主だったのであります。

 

要するに安吾は此処にて太宰以上に志賀 直哉流の「常識」的な鈍感さを問ひ詰めて居るのである。

文學としての問題では無く限りなく不健全な藝術家としての資質の問題だとさう捉へて居るかの如くだ。

 

対して無頼派にとっての死ぬか生きるかのまさに壮絶な文學的闘争はかの太宰と我がしかと担っておる。

と薬物中毒にてヘロヘロとなり時には精神🏥へ入ったりもしつつあくまで安吾はさう述べるのであった。

 

 

 

   四 大作家


 僕は上に書いた通り、すこぶ雑駁ざつぱくな作家である。が、雑駁な作家であることは必しも僕のわづらひではない。いや、何びとの患ひでもない。古来の大作家と称するものはことごとく雑駁な作家である。彼等は彼等の作品の中にあらゆるものをはふりこんだ。ゲエテを古今の大詩人とするのもたとひ全部ではないにもせよ、大半はこの雑駁なことに、――この箱船の乗り合ひよりも雑駁なことに存してゐる。しかし厳密に考へれば、雑駁なことは純粋なことにかない。僕はこの点では大作家と云ふものにいつも疑惑の目を注いでゐる。彼等は成程一時代を代表するに足るものであらう。しかし彼等の作品が後代を動かすに足るとすれば、それは唯彼等がどの位純粋な作家だつたかと云ふ一点に帰してしまふわけである。「大詩人と云ふことは何でもない。我々は唯純粋な詩人を目標にしなければならぬ」と云ふ「狭い門」(ジツド)の主人公の言葉も決して等閑とうかんに附することは出来ない。僕は「話」らしい話のない小説を論じた時、偶然この「純粋な」と云ふ言葉を使つた。今この言葉を機縁にし、最も純粋な作家たちの一人、――志賀直哉氏のことを論ずるつもりである。従つてこの議論の後半はおのづから志賀直哉論に変化するであらう。尤も時と場合により、どう云ふ横道にれてしまふか、それは僕自身にも保証出来ない。ー 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介より

 

 

「大詩人と云ふことは何でもない。我々は唯純粋な詩人を目標にしなければならぬ」

其の純粋と云ふことは何かと云ふことである。

 

純粋とは太宰のやうに世間に反抗しつつ生きることであるのか、其れともむしろ志賀 直哉のやうなものの方がより純粋なのであらうか。

 

只今思ふのであるが、一種壮絶な晩年の太宰の作品群は今の世界の實情に合って居る。

今志賀 直哉を読み返したひ人などほとんど誰も居らぬことだらうが太宰のひとつ位は今なら読んでも良ひかなあとさう思ふのだ。

 

其れは何故か?

 

太宰の作品群が究極としての人間の苦悩を対象に描き出されたものであるからなのだ。

 

 

 

     五 志賀直哉


 志賀直哉氏は僕等のうちでも最も純粋な作家――でなければ最も純粋な作家たちの一人である。志賀直哉氏を論ずるのは勿論僕自身に始まつたことではない。僕は生憎あいにく多忙の為に、――と云ふよりは寧ろ無精ぶしやうの為にそれ等の議論を読まずにゐる。従つていつか前人の説を繰り返すことになるかも知れない。しかし又或は前人の説を繰り返すことにもならないかも知れない。……
 (一)[#「(一)」は縦中横] 志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品である。立派に?――この人生を立派に生きることは第一には神のやうに生きることであらう。志賀直哉氏もまた地上にゐる神のやうには生きてゐないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美徳である)生きてゐることは確かである。勿論僕の「清潔に」と云ふ意味は石鹸ばかり使つてゐることではない。「道徳的に清潔に」と云ふ意味である。これは或は志賀直哉氏の作品を狭いものにしたやうに見えるかも知れない。が、実は狭いどころか、かへつて広くしてゐるのである。なぜ又広くしてゐるかと言へば、僕等の精神的生活は道徳的属性を加へることにより、その属性を加へない前よりも広くならずにはゐないからである。(勿論道徳的属性を加へると云ふ意味も教訓的であると云ふことではない。物質的苦痛を除いた苦痛は大半はこの属性の生んだものである。谷崎潤一郎氏の悪魔主義がやはりこの属性から生まれてゐることは言ふまでもあるまい。〔悪魔は神の二重人格者である。〕更に例を求めるとすれば、僕は正宗白鳥氏の作品にさへ屡々しばしば論ぜられる厭世えんせい主義よりも寧ろ基督キリスト的魂の絶望を感じてゐるものである。)この属性は志賀氏の中に勿論深い根を張つてゐたのであらう。しかし又この属性を刺戟する上には近代の日本の生んだ道徳的天才、――恐らくはその名にあたひする唯一の道徳的天才たる武者小路実篤氏の影響も決して少くはなかつたであらう。念の為にもう一度繰り返せば、志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。それは同氏の作品の中にある道徳的口気こうきにもうかがはれるであらう。(「佐々木の場合」の末段はその著しい一例である。)同時に又同氏の作品の中にある精神的苦痛にも窺はれないことはない。長篇「暗夜行路」を一貫するものは実にこの感じ易い道徳的魂の苦痛である。
 (二)[#「(二)」は縦中横] 志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。その又リアリズムのさいに入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一点を論ずるとすれば、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言ひ得るであらう。これは又同氏の作品を時々平板へいばんをはらせてゐる。が、この一点に注目するものはかう云ふ作品にも満足するであらう。世人の注目をかなかつた、「廿代一面にじふだいいちめん」はかう云ふ作品の一例である。しかしその効果を収めたものは、(たとへば小品「鵠沼くげぬまゆき」にしても)写生の妙を極めないものはない。次手ついでに「鵠沼行」のことを書けば、あの作品のデイテエルは悉く事実に立脚してゐる。が、「丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついて居た」と云ふ一行だけは事実ではない。それを読んだ作中人物の一人は「ああ、ほんたうにあの時には××ちやんのおなかに砂がついてゐた」と言つた!
 (三)[#「(三)」は縦中横] しかし描写上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限つたことではない。同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一点にあると言つても差し支へない。これこそ又僕等に――少くとも僕に最も及び難い特色である。僕は志賀直哉氏自身もこの一点を意識してゐるかどうかは必しもはつきりとは保証出来ない。(あらゆる芸術的活動を意識のしきゐの中に置いたのは十年前の僕である。)しかしこの一点はたとひ作家自身は意識しないにもせよ、確かに同氏の作品に独特の色彩を与へるものである。「焚火」、「真鶴まなづる」等の作品はほとんどかう云ふ特色の上に全生命を託したものであらう。それ等の作品は詩歌にも劣らず(勿論この詩歌と云ふ意味は発句ほつくをも例外にするのではない。)すこぶる詩歌的に出来上つてゐる。これは又現世の用語を使へば、「人生的」と呼ばれる作品の一つ、――「憐れな男」にさへ看取かんしゆ出来るであらう。ゴムだまのやうに張つた女の乳房に「豊年だ。豊年だ」を唄ふことは到底詩人以外に出来るものではない。僕は現世の人々がかう云ふ志賀直哉氏の「美しさに」比較的注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。(「美しさ」は極彩色ごくさいしきの中にあるばかりではない。)同時に又他の作家たちの美しさにもやはり注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。
 (四)[#「(四)」は縦中横] 更に又やはり作家たる僕は志賀直哉氏のテクニイクにも注意をおこたらない一人である。「暗夜行路」の後篇はこの同氏のテクニイクの上にも一進歩を遂げてゐるものであらう。が、かう云ふ問題は作家以外の人々には余り興味のないことかも知れない。僕は唯初期の志賀直哉氏さへ、立派なテクニイクの持ち主だつたことを手短かに示したいと思ふだけである。
 ――煙管きせるは女持でも昔物で今の男持よりも太く、ガツシリしたこしらへだつた。吸口の方に玉藻たまもまへ檜扇ひあふぎかざして居る所が象眼ざうがんになつてゐる。……彼は其のあざやかな細工に暫く見惚みとれて居た。そして、身長の高い、眼の大きい、鼻の高い、美しいと云ふよりすべてがリツチな容貌をした女には如何にもこれが似合ひさうに思つた。――
 これは「彼と六つ上の女」の結末である。
 ――代助は花瓶の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い写真帖を取り上げて、立ちながら、金の留金とめがねを外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで来てぴたりと手を留めた。其処には二十歳位の女の半身がある。代助は眼をせてぢつと女の顔を見詰めてゐた。――
 これは「それから」の第一回の結末である。
 出門日已遠しゆつもんひすでにとほし 不受徒旅欺うけずとりよのあざむくを 骨肉恩豈断こつにくのおんあにたたんや 手中挑青糸しゆちゆうせいしをとる 捷下万仞岡 俯身試搴旗
 これは更にずつと古い杜甫とほの「前出塞ぜんしゆつさい」の詩の結末――ではない一首である。が、いづれも目に訴へる、――言はば一枚の人物画に近い造形美術的効果により、結末を生かしてゐるのは同じことである。
 (五)[#「(五)」は縦中横] これは畢竟ひつきやう余論である。志賀直哉氏の「子を盗む話」は西鶴の「子供地蔵」(大下馬おほげば)を思はせ易い。が、更に「はんの犯罪」はモオパスサンの「ラルテイスト」(?)を思はせるであらう。「ラルテイスト」の主人公はやはり女の体のまはりへナイフを打ちつける芸人である。「范の犯罪」の主人公は或精神的薄明りの中に見事に女を殺してしまふ。が、「ラルテイスト」の主人公は如何いかに女を殺さうとしても、多年の熟練を積んだ結果、ナイフは女の体に立たずに体のまはりにだけ立つのである。しかもこの事実を知つてゐる女は冷然と男を見つめたまま、微笑さへ洩らしてゐるのである。けれども西鶴の「子供地蔵」は勿論、モオパスサンの「ラルテイスト」も志賀直哉氏の作品には何の関係も持つてゐない。これは後世の批評家たちに模倣よばはりをさせぬ為に特にちよつとつけ加へるのである。文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介より

 

 

 

かくして芥川によればむしろ志賀 直哉こそが最も純粋な作家だと云ふことである。

 

ー何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品ー

志賀直哉氏もまた地上にゐる神のやうには生きてゐないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美徳である)生きてゐることは確かである。勿論僕の「清潔に」と云ふ意味は石鹸ばかり使つてゐることではない。「道徳的に清潔に」と云ふ意味である。ー

 

さうなのだ、むしろ志賀 直哉こそが潔癖な作家なのである。

 

だけれどもわたくしの場合志賀 直哉の作品はほとんど読んで居なひ。

實は十年程前に興味を持ち読もうとしたのだけれど社会が忙しさをわたくしに強ひたが故に結局読めなかった。

 

ーが、実は狭いどころか、かへつて広くしてゐるのである。なぜ又広くしてゐるかと言へば、僕等の精神的生活は道徳的属性を加へることにより、その属性を加へない前よりも広くならずにはゐないからである。(勿論道徳的属性を加へると云ふ意味も教訓的であると云ふことではない。物質的苦痛を除いた苦痛は大半はこの属性の生んだものである。谷崎潤一郎氏の悪魔主義がやはりこの属性から生まれてゐることは言ふまでもあるまい。〔悪魔は神の二重人格者である。〕ー

 

 

確かに志賀 直哉の作品は逆に広ひのかもしれなひ。

其の頃志賀 直哉のことを調べて居たら、彼が酷く周囲との軋轢や齟齬に悩み苦しんだ作家であることを知り愕然としたものだった。

 

アノ志賀 直哉にしてもが矢張りと言ふべきかさうなのである。

つまり作家と云ふものは皆酷く苦しみ其の苦しみの果てでまさにさうして作品を紡ぎ出して居る。

 

また其れは右の作家だらうが左の作家だらうがまるで同じことなのだ。

だから其の、思想としての立場に固執すると作家としての精神の意義が見失はれて行き易ひ。

 

 

作家とはさうしたものでは無ひ。

尤も其処は作家に限らず詩人もまた然り。

 

其れと共に清潔だらうが悪魔主義だらうがたとへ何でも其れは作家即ち文の人である。

 

 

〔悪魔は神の二重人格者である。〕

 

それにしても芥川は兎に角鋭ひのでまた言ふことが違ふな。

芥川もまた歌人であり俳人なので時折ピピッとまさにかうしたことを言ふのである。

 

 

ー念の為にもう一度繰り返せば、志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。それは同氏の作品の中にある道徳的口気こうきにもうかがはれるであらう。ー

ー同時に又同氏の作品の中にある精神的苦痛にも窺はれないことはない。長篇「暗夜行路」を一貫するものは実にこの感じ易い道徳的魂の苦痛である。ー

 

志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。その又リアリズムのさいに入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一点を論ずるとすれば、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言ひ得るであらう。これは又同氏の作品を時々平板へいばんをはらせてゐる。が、この一点に注目するものはかう云ふ作品にも満足するであらう。ー

ー同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一点にあると言つても差し支へない。これこそ又僕等に――少くとも僕に最も及び難い特色である。僕は志賀直哉氏自身もこの一点を意識してゐるかどうかは必しもはつきりとは保証出来ない。ー

 

ーしかしこの一点はたとひ作家自身は意識しないにもせよ、確かに同氏の作品に独特の色彩を与へるものである。「焚火」、「真鶴まなづる」等の作品はほとんどかう云ふ特色の上に全生命を託したものであらう。それ等の作品は詩歌にも劣らず(勿論この詩歌と云ふ意味は発句ほつくをも例外にするのではない。)すこぶる詩歌的に出来上つてゐる。ー

 

ー僕は現世の人々がかう云ふ志賀直哉氏の「美しさに」比較的注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。(「美しさ」は極彩色ごくさいしきの中にあるばかりではない。)同時に又他の作家たちの美しさにもやはり注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。ー

ー僕は唯初期の志賀直哉氏さへ、立派なテクニイクの持ち主だつたことを手短かに示したいと思ふだけである。ー

 

 

志賀 直哉の小説は美しひと芥川は言ふ。

拾年前に其の芥川が褒めた「焚火」 を読みたひと思ったのだが結局読めなかった。

 

志賀直哉「焚火(たきび)」の語り手は、「自分」と称しながら「皆」という漠然とした一人称複数のなかに溶け込み、主体があるのかないのかわからない浮遊感を持って周囲を眺めている。

雄大な自然を前に、ちっぽけな人間など消えてしまう。

堀江敏幸(44)志賀直哉「焚火」(下)より

 

兎に角読んで無ひが此の部分での記述が気になる。

 

 

志賀 直哉どころか安吾の選集や漱石全集ー岩波ーすらもがまだ読めずに居る有様だ。

 

そんなものどころか詩の方や思想、宗教関連の本で読まねばならぬものも様々にある故事實上手一杯なのだ。

 

 

 

芥川龍之介は文学評論「文芸的な、余りに文芸的な」のなかで、「通俗的興味のない」「最も詩に近い」「最も純粋な小説」を書く日本の小説家は志賀直哉であると述べている。その上で以下のように直哉を論じている。「志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家」であり、作中には「道徳的口気(こうき)」「道徳的魂の苦痛」が垣間見えるとしている。またその写実的な文章を高く評価し「リアリズムの細さいに入つてゐることは少しも前人の後に落ちない」「(細密な描写によりリアリズムを実現するという)効果を収めたものは…写生の妙を極めないものはない」と賞賛している。さらに「焚火」や「真鶴」といった作品を挙げつつ「リアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる」として、その東洋的詩精神をも賛美している[84]。ー志賀直哉 #評価より

 

 

芥川は志賀の作品は詩だとさう持ち上げるのだけれど其れは芥川の師匠の夏目 漱石と志賀 直哉との良好な人間関係にこそ其の理由があるのやもしれぬ。

が、其ればかりでは無く矢張り芥川は志賀の作品を高く評価して居たのであらう。

 

つまるところ太宰は志賀を攻撃することで大尊敬する芥川の面目をも潰して居たと云ふ話のオチである。

 

 

ー「通俗的興味のない」「最も詩に近い」「最も純粋な小説」を書く日本の小説家は志賀直哉

 

ところが無頼派にとっては其の「通俗的興味のない」ポーズを取り「最も詩に近い」やうなフリをしつつ「最も純粋な小説」であるかのやうに見せかけているだけの常識の権化としての志賀の作品が疎ましく思へ仕方が無ひ。

元より無頼派とは其れは不健康の権化であり不道徳としての象徴のことだ。

 

太宰も安吾も兎に角やってること自体が不道徳だ。

勿論其れは宗教的には正しくは無ひ。

宗教的には大罪であり且つ大煩悩の追求である。

 

なのだが彼等はまさしく文學を追求して居たのである。

其れは常識とは反する文學のことだ。

 

常識と云ふ世間の枠を外れ初めて其処に追求し得る文學上の価値の追求のことだ。

いやむしろ文學上の価値の追求其れ自体を止めることだ。

 

 

其処に文學上の価値を絶対的な権威ヒエラルキーとして構築して仕舞へば文學としての眞の美がいつの間にか失はれて仕舞ふ。

 

また其れは社会としての保守思想のあり方とも直結して居る部分である。

 

社会は伝統的な価値観や👪の価値観を軸に現在と未来を築き上げやうとして居る。

 

過去から學ぶ、無論のこと其れは素晴らしひことでありむしろ過去からで無ければ何も學ぶことなど出来ぬものだ。

 

 

だが其れは其の侭に続く価値なのでは無ひ。

 

社会的な過去の遺産に胡坐をかひた上で其れが今日の無事、明日の無事に繋がるものでは無ひのである。

 

文學史の上での無頼派による無難で常識的な価値の破壊とはそんな日常的な価値の意図的な放棄だったのではなからうか。

 

であるが故に今かって無頼派の面々が述べたところでの非日常の世界が現實のものとして今我我に實感を伴ひ指し示されて来て居るのだ。

 

 

最近左翼的な価値観が見直されて居るのもまた其の非日常の世界が現實のものとして我我に實感を伴ひ指し示されて来て居るからなのだらう。

 

 

兎に角価値と云ふものは其処に安住が許されぬものなのだ。

其のことはまた釈迦が諸行無常の眞理としてかって世に示されたものなのでもある。

 

であるから戦後米國と云ふ超大國の力に護られて経済発展だけしていれば良かった日本國の価値とは其れは元々続かぬものなのだ。

つまるところ其れを固定化して考へ其処に胡坐をかく形で國の全価値を構築して居ること自体がそも誤りなのだ。

 

で、今米國がコケつつあるのでもう日本を護って呉れるとは限らぬのではなからうか。

 

 

では革命ですか?

 

だから革命など無理だって、ムリ。

 

では三島特攻ですか?

 

だから三島特攻など無理だって、ムリ。

 

では太宰流の女たらしですか?

 

どうぞ御自由に。

 

でも地獄へ堕ちますぞ。

 

 

では鎖国ですか?

 

鎖国…が一番なのだが其の鎖国が出来ぬ、まるで難しひ。

 

では文學ですか?

 

文學だけやってれば日本は救はれるのですか?

 

文學だけやってれば日本は滅びませう。

また宗教だけやってれば日本は滅びませう。

 

日本は滅んでも良ひとさう仰るので?

だから滅びぬやうに適当にやりなされ。

 

 

詩人はもう知りません。

詩人はもう引退しました。

 

どこか遠ひお空の上からみんなの奮闘をかうして見守るばかりです。

 

 

其の保守的に張り巡らされた価値ヒエラルキー其れ自体がむしろ今日本國を蝕んで行って御座る。

 

産業、観光、藝術、社会制度、かうした文明の継続を前提とする価値がむしろ社会の首を絞めつつあるのだ。

 

此れは可成に危険な状態である。

 

まさに志賀 直哉どころでは無ひ。

 

むしろ太宰の破滅的価値観が常態化しつつもある。

 

つまりはこんなに危険なことも無ひ。

 

 

太宰はもうエエので安吾の方へと暫く行ってみやうか。

でも其の前に科学のことを述べるつもりだったのだった、ほんたうは。

 

科学は面白ひぞ、夢だぞ。

 

鉄腕アトムだぞ、鉄人二十八号だぞ。

 

ガンダムだぞ、北斗の拳だぞ。

 

いや北斗の拳は決して科学では無かった。

 

 

科学、其の御掃除ロボットは我が家の場合役立たずに終はった。

其れは我が家が昭和初期の古ひ家でむしろ鑑定団の方が似合ふ家でそも科学とはまるで合って居なひが故にであった。

 

まあでも科学の話はまた次回からにしやう。

 

 

今はまだ其の文學的な苦悩の方の話を是非して置かねばならぬ。

 

其れにつけても読んでも居なひ志賀 直哉をどう論ずると云ふのだ?

いや、昔教科書では読んだことがあったやうな気も致して居ります。

 

 

 

では兎に角其の太宰や安吾が批判した価値ヒエラルキーの構築の問題に就き論じます。

無頼派は一見価値観が滅茶苦茶でもって其れ即ち破滅主義となっておるのです。

 

其の破滅主義は到底常識人には受け容れられぬものでせう。

まさに其れはかの哲學者カントのやうな道徳的な生き様とは正反対である訳だ。

 

 

ですが、無頼派の論理には、此れもまさに安吾が述べたが如くに、

 

ーニセの苦悩や誠意にはあふれているが、まことの祈りは翳だになく、見事な安定を示している志賀流というものは、一家安穏、保身を祈る通俗の世界に、これほど健全な救いをもたらすものはない。この世界にとって、まことの苦悩は、不健全であり、不道徳である。文学は、人間の苦悩によって起ったひとつのオモチャであったが、志賀流以来、健康にして苦悩なきオモチャの分野をひらいたのである。最も苦悩的、神聖敬虔な外貌によって、全然苦悩にふれないという、新発明の健全玩具であった。
 この阿呆の健全さが、日本的な保守思想には正統的な健全さと目され、その正統感は、知性高き人々の目すらもくらまし、知性的にそのニセモノを見破り得ても、感性的に否定しきれないような状態をつくっている。太宰の悲劇には、そのような因子もある。ーー志賀直哉に文学の問題はない 坂口安吾より

 

と云ふことがある。

 

即ち一家安穏、保身を祈る通俗の世界では健全な救ひを齎すものがあり其れは安定したものである。

 

其れはニセの苦悩であり誠意なのだが鈍感な大衆は其のウソを見抜けぬ故擦り寄って行くのは逆に其の種の権威であり価値ヒエラルキーとしての上部構造なのだ。

其処にこそ寄り掛かり大衆は明日の夢だの、未来への希望だの、兎に角さうした現世利益を只ひたすらに追ひ求め生きて行く。

 

 

ー最も苦悩的、神聖敬虔な外貌によって、全然苦悩にふれないという、新発明の健全玩具ーたる戦後の社会的権威は、其れは時に自民党による一党支配であり天皇家の永続性であり高度経済成長期に於ける会社の価値其のものであった筈だ。

 

つまり、其の志賀 直哉流の文壇での権威振りがいつの間にか戦後日本の常識的価値観、常態的価値ヒエラルキーと化したのだった。

ところがギッチョン。

 

其の眞の苦悩を含まぬウソの苦悩の価値、見せかけでの権威的価値にひれ伏して御座る大衆の健全さとはあくまで阿呆の健全さである。

ほんたうは価値観には眞の意味での苦悩が含まれて居なければならぬ。

 

ところが日本の社会は形式や慣習に従ひ其れに当て嵌まって居ればものの真贋、ウソか眞かと云ふことは其処に問はぬものなのだ。

 

だから太宰の死とはそんな生の顛倒振りとは正反対の価値観での死だ。

ところが其の死の意味、死の価値を探る知性さへもが日本では盲目化されて仕舞って御座る。

 

 

ー阿呆の健全さーとしてのー日本的な保守思想ーのー正統的な健全さーは戦後民主主義を通じ日本と云う國を経済的に成り立たせて来たことであらう。

だから我我は阿呆として其れをやり遂げ逆に其のことを誇りにして来たのであったがあくまで其れは眞の健全さでは無く阿呆としての健全さであった。

 

其の國及び國民としての阿呆を三島 由紀夫がもうイヤと云ふ程に批判しても居たものだった。

阿呆のやうに金ばかり儲ける此の國はやがて虚の経済大国として東アジアの片隅に置き去りにされることだらう。

 

さうした三島 由紀夫の直観は見事に当たって居たのである。

 

 

結論から言へばそんな経済だの何だのよりもまた科学だ技術だ何だのよりも健全さを伴ふ上での眞の意味での知性の磨き込みこそが我が国が追求すべき価値であったのだ。

とりあへずは其のやうに日本の知性がまるでなって居なひ。

 

とさうアノ世の坂口 安吾と自称詩人はテレパシーにて話し合ひ今其のやうに結論するのである。

 

 

そんな経済だの何だの科学だ技術だ何だの価値はまさに西欧近代が発明せし不安定な価値其のもので流動的にしか其れは構築し得ぬ価値である。

 

其の本質を見抜くことが出来ぬのはひとへに志賀流のウソコキ主義、文壇のさうして國家としてのニセの権威主義、人間にとっての苦悩其れも眞の意味での苦悩と向き合おうとしなかった👪主義、学校主義、会社主義、町内会主義、サザエさん主義の集積によるものでありもはや其れは如何ともし難ひ墜落の状況へと至って居るのであらう。

 

尤も五木先生などはさうして下山せよとさう流行作家の立場から申されませうが、下山+コロナ下山でああ此れはもうお金が何処にも回らなひ。

 

困ったな、旅館がさうして工場が明日払ふ金が今日は無ひ。

 

其の場合には所得税の仕組みの変更が是非必要かと存ずる。

 

たとへば年間五億を御稼ぎになる五木先生の所得税は四億円。

たとへば五千萬円の給料を貰ふ首相の所得税は四千萬円。

 

あぶく銭にて稼ぐ投資家の所得税は其れよりももっと厳しくする。

 

事實さうしなひと社会は壊れるぞ。

 

 

ー阿呆の健全さーとしてのー日本的な保守思想ーのー正統的な健全さーは安吾先生がかって述べた如くにしかと此の國の精神の基底を為して来て居り其れこそがまさにほんたうの意味での日本の姿を写實した言葉なのだ。

 

 

まあ今回もまた可成にキツヒことを申しました。

其れもかうしたことが自然に言へて仕舞ふので困ったことです。

 

なのですが、社会の置かれた厳しさと云ふかヤバさと云ふかさうしたことを皆さんはもっともっと考へて行くべきなのです。

 

考へてもしょーがなひ。

 

其の通りなのですが、作家の面々はかうして五十年も七十年も前にほんたうのことを述べて呉れて居ます。

 

其れもまた馬鹿作家ではダメですが、日本を代表するやうな優れた作家ならば必ずや其処に眞理の言葉を書き連ねて居ることでせう。

 

ところで小説の神様だとされて居る志賀 直哉はどうにもならぬ通俗作家なのですか?

 

其れは読んでみなければ分かりません。

読みたひのは其の『焚火』だけです。

 

さても五木 寛之先生、いやらしひことをつひ申して仕舞ひまことに申し訳御座ひませんでした。