目覚めよ!

文明批判と心の探求と

仰る通りに「下山の楽しみは無限にあり」ますが下山の苦しみもまた無限にあることでせう

 

かうして危機の時には、隠されて居た人間の馬鹿がのきなみに暴発致します。

其の隠されて居た人間の馬鹿とは何か?

 

🚇でもっていまだにマスク無しでゲホゲホと咳き込んで居るー特に若ひ奴でー馬鹿。

さうしてドラッグストアにてせっせとトイレットペーパーを買ひ占めて御座る馬鹿。

 

夜にお城の横などで抱き合ひ此の期に及んで猶いちゃつひて御座る其の性欲の権化としての馬鹿。

 

また会社馬鹿などは此の期に及んでまだ毎日会社へ行き訳の分からぬ仕事をさせられたりもして居やう。

 

まさに此の世は馬鹿の巣窟ぞ。

 

さても此の世とはまさに困ったものよ。

 

 

こんな時には静かに全てを休み座禅するか又は熟慮を重ねる。

 

そんな文人気質の人など我の周りには今一人も居らぬわ。

 

皆ギャオー、グオーとどんな獣だかもう分からぬやうにもなりおってまことに見苦しひ。

 

所詮我我はみんな獣だ。

 

 

 

 

さうして危機感に薄ひ若者が殺人ウイルスを蔓延させて来て居るのです。

 

でも理性ある人ならば当たり前のことですが徹底して自己管理し他人に迷惑をかけてはなりませぬ。

 

四十歳以下の若者のなって居なひ点は其の自己管理に於ける不徹底とまさに學が無ひ点だ。

 

 

還暦以上にて免疫力の衰えしインテリの場合は特に感染症に気を付けておく必要が今御座ります。

 

即ち思考力と免疫力とはまるで違ひます。

 

思考力の無ひマスク無しの若者感染者が或は我我の息の根を止めるのやもしれませぬ。

 

 

 

ー人間として権威にも寄りかからず、自立することー下山の楽しみは無限 五木寛之が説く「長寿時代の生き方」より

 

尚此れは戦争と云ふ社会的な最大の矛盾を身を持って体験された五木先生にして初めて言へる言葉でせう。

 

ところが今我我も文明と云ふ社会が齎す矛盾にかうして向き合わされて居ます。

 

さう其れは畢竟社会がしでかした不始末により齎されしものです。

 

つまりは戦後75年が経ってもまるで其の社会が齎す我我庶民への苦しみは本質的に何も変はってなど居なひ。

 

 

では矢張り革命なんですか?

五木先生の其の非権威主義、自己反省主義は左翼思想の典型例ではありませぬか。

 

だが革命が本質的に人間を救ふ訳では残念ながら無ひ。

 

其の革命も事實として失敗しかうして皆資本主義化して来ても居らう。

 

つまりは人間社会は物質的な欲望にはまるで勝てやしなひ。

 

 

なので最終的には其の欲望が人間社会を滅ぼす。

我我が今見て居るのは其の社会史としての最終局面なのだらう。

 

では社会はもうダメなのですか?

 

つまりハルマゲドンですか、世界最終戦争ですか?

 

其処までは行かぬがおそらくは社会化していけばいく程にダメだ。

 

 

さうではなく社会としての要素を減じ個としての要素を次第に拡張していく他は無し。

 

かねてより述べて居るのだが自律的な思考、自省的ー自制ーな要素こそが眞の意味での理性としての特性なのだ。

 

現代人はむしろ自由や人権と云った拡張主義に飼育されていくことで其の理性の力さへをも失ひつつあらう。

 

なのでまずは社会を遮断せよ。

 

 

そも社会が悪ひので俺らはこんなに苦しひ思ひをして居るのだぞ、一体どうして呉れるのだ?

 

 

こんなウイルスが蔓延する中で其れでも猶満員電車に揺られ会社へ行き働けとさう仰るのか。

 

とある意味で何故か現實の上では責任の無ひ🐺作家や🐺詩人はさうも述べますが事實として庶民には守るべき👪や生活があらう。

 

だから🐺作家や🐺詩人の🐺発言を鵜呑みにして居たりしてはなりませぬ。

 

 

つまるところ作家や詩人とは現實をむしろ捨て去った人々のことでもまたある。

さうして日々幻想としての観念的理想と向き合ひ何かを語ることが只楽しひと云ふ其ればかりでのことなのです。

 

とまあわたくしの場合にはまるで作家や詩人に対しても厳しひ訳です。

 

 

兎に角わたくしはタダタダ分からぬのです。

 

何故人間はいつまで経っても幸せ♡とは程遠ひ今を生きて行かねばならぬのだらう?

 

では逆に其の幸せのあり方其のものを限定すべきなのではなからうか?

 

 

 

ー楽しむべき「孤独」とは、「孤立」ではなく、人の輪に加わりつつ、自身の個性や独立心を失わないことです。-

ー「和して同ぜず」ー

ー自分の身体感覚を育て、楽しみながら養生してはどうでしょうー下山の楽しみは無限 五木寛之が説く「長寿時代の生き方」より

 

 

其の限定はまさに個としてのあるべき幸福追求の様であるのかもしれません。

 

ところが個としての幸福追求もまた二元化致します。

 

自分の幸福に夢中になる余りに周りのこと、全体のことを顧みずにつまりは他人に迷惑をかけつつ行ふ個としての幸福追求程見苦しひものは無ひ。

 

其の利己主義の他方の極にはかうした個としての精神的な自律の領域が拡がって居るやうです。

 

尤も其れは簡単なことのやうで居て案外難しひことなのかもしれません。

 

 

其れこそ作家や詩人とは基本的に世捨ての一形態でもまたあるものですのでむしろこちらの方にこそ元々近くある訳ですが所謂他律的に自己を規定されて居る大衆にとっては或いは其れは至難の技なのやもしれませぬ。

 

 

なのですがわたくしは今どちらへ擦り寄ると云ふことも致しません。

 

元々わたくしは藝術を至極好みますが其れを権威化することなどにはまるで興味が御座らぬ。

 

また屡庶民の馬鹿さ加減、其の馬鹿振りをこっぴどく批判することさへ御座りますがむしろ其の俗なる世界こそが藝術家を救ふとそんな変なことを前々から述べて来ても居らう。

 

 

ですのでコレが所謂「中道」の境地なのでせうか。

 

即ち所謂右でも無く左でも無く諸権威でも無くルンペンでも無くまた藝術家でも無く庶民なのでも無ひ。

 

 

 

また精神的な自律の領域と宗教による救ひの次元とは元々矛盾するかのやうなものでせう。

 

精神的な自律の領域を極めれば究める程に自己救済へは近づきませうが神佛に救って頂くと云ふ感覚は失せていくものです。

 

ですが本来ならば佛教は組織としてまた宗教として個を救ふものでは無ひことを先日述べたばかりでのことです。

 

 

佛教は精神的な自律の領域を究めると同時に肉体的にも其の自律の領域を究めることでむしろさうした欲望としての追求の虚しさを其処に悟り切るものなのでせう。

 

ですが其れは人間にはまず不可能なことですので他力と云ふひとつの救済の思想が生まれ其れが大衆の持つ精神的、肉体的な方向性と相性が良かったのでかうして我が國に根付ひたのです。

 

但し本来其れはキリスト教の考へ方なのであり佛教其れも原始佛教とは逆方向での考へ方なのです。

 

 

なんだけれども皆が出来ぬものはもうどうしやうもありません。

 

 

其の出来ぬ場合にも先に述べたやうに他人に迷惑をかけつつ自己利益を何処までも追求するやり方と五木先生が仰るやうに良ひ意味での生の価値の追求としての自律的な価値の追求の仕方があることになる。

 

そんな風に此の世の全てには二元的な価値が備はりしかも其れを常に我我は選択して行かねばならぬ。

 

其の価値の選択を🐵や🐻や🐅や🐺や🐍はしなくても良ひ分彼等はまだしも救われて居ると云ふことだ。

 

なんだけれども我我人間は罪深くしてしかも穢れ切って居るが故に其処に価値の選択が常に強ひられて居るのです。

 

一体全体何て言ふ不幸なんだ。

 

 

でも人によっては其れを何て言ふ幸運なんだ。

 

などとも思ひ及ぶ訳だ。

特に近代以降の社会はまさに其の選択の様を「至上の価値=人間様だけの価値」として捉へても参りました。

 

 

事實作家や詩人でも物凄く右の人や左の人が居るのですし、まさに人間萬歳!と叫ぶ人も居れば人間自体がもう全部イヤになり自決する人まで随分と幅があるものです。

 

無論のことわたくしは所謂修羅の詩人ですので基本としてはあくまで人間自体がもう全部イヤになるまさに其の方なのですが其処を何とか踏ん張り持ち堪へ屡動植物など自然をお友達にすることで世間から感染したところでの毒気を抜き去りつつ猶且つ神様佛様と常に対話を重ねることで何とか生きて居ると云ふのが實情なのです。

 

 

さて其の選択こそが今日本の社会に求められて居やう。

 

日本國はそも矛盾國なので元より其の選択は他の國以上に難しひことだらう。

 

なのだけれども、人間の命は至極限定されしもので其れはそんなつまらぬウイルス一つでもって容易に失われて仕舞ふものなのだ。

 

其のことだけは誰にせよ今回初めてしかと伝はったことかと思ふ。

 

 

いや、暗がりに隠れし若ひカップルなどにはでもまだ伝はらぬのやも。

 

何で伝はらぬのだらう。

 

だから、かうして、五木先生の考へなど實はネットなど調べなくともテレパシーのやうなもので結ばれた我我には元元其れはしかと分かって居る。

だが繋がって居なひものには無論のこと其れが伝へられては居らぬ。

 

其の選択はまずは社会ー時代の選択であり國家の選択ーの選択である以上に個としての選択なのでもまたある。

 

其のことを五木先生ははや十年以上も前から述べられて来た訳であり其れってタダの🐺爺様の話なのでは無くもしや預言のやうなものだったのではなひだらうか。

 

 

なのだけれども、五木先生をして預言者や教祖様の如くに祀り上げたりしては其れはならぬ。

 

何故なら文學とはさう云ふものには非ず。

 

文學とは脱権威である。

 

また文學とは脱構築のことぞ。

 

さらに文學とは宗教には非ず。

 

即ち文學とは時代の眞實を映しこむ鏡であるべきものだ。

 

 

さうしてまさしく文學こそが人間と云ふ厄介な一匹の悪魔との対話のことぞ。

 

 

 

ー下山の楽しみは無限にあります。ー下山の楽しみは無限 五木寛之が説く「長寿時代の生き方」より

 

は、楽しひ?

一体何処が楽しひのでせう?

 

第一人生は苦しみの連続でせう。

戦前生まれの作家の場合は何故此処まで楽観的で居られるのでせう。

 

 

嗚呼、分かった。

 

其れこそ五木先生ももういつ死んじゃふか分からなひからだ。

 

もうお金もあるし、大作家様だし、何を言ってもいつも皆が注目して呉れるのだしで。

 

いや、だから、其れは、「良ひ意味での生の価値の追求としての自律的な価値の追求の仕方」であるとつひ先ほど自分で考へてさう述べて居たばかりのことではなかったか。

 

何故急に五木先生までをもさうして批判し始めたのだ?

 

 

批判では無くあくまで共感の部分を述べておる。

 

だけれども社会の混迷の度は深ひ、余りにも深くさうして闇は濃ひ。

 

もうどうしたら良ひかじぶんでも分からぬ、こんな社会を捨て出来るだけ早う山へ逃げやう。

 

 

さうして「逃げる」こともひとつの個としての選択なのかもしれぬ。

 

だが逃げることなど許されぬ社会であることもまた確かなことだ。

 

我我はかうして社会に括り付けられても居やう。

 

 

「逃げる」ことがそも許されぬと云ふか、引退を許さぬとでも云ふか、もしやそんな合理性ー長生きとしての合理性ーが我我六十代を今縛り続けて居るのやもしれぬ。

 

つまるところ縛られて居なひのは七十代以上の方々のみだ。

 

ところが其の七十代はまさに所謂高度経済成長でもってして、また八十代は戦禍と戦後の混乱の中でもってしてかって個としての運命を翻弄されて来ても居たのだった。

 

 

其れどころか還暦以前での世代には重く未来への不安がのしかかっても居やう。

 

さうか、すると「今だけ」を生きれば良ひと云ふことも或は合理的な個としての選択となるのやもしれぬ。

 

但し其の「良ひ意味での生の価値の追求としての自律的な価値の追求の仕方」とは一種の断念でありこれまでの社会が求めた個に対する価値観とはまるで異なる。

 

 

其の断念を或はすでに還暦以前での世代は実行して居るのやもしれぬ。

 

物を買はずにさうして何でも借りたりして居ることからしてみてもさうだ。

👪制度も子は減るは、未婚や離婚が増へただので半分位は崩壊して居るのだしで。

 

 

尤も其れは社会がまともに給料を出さぬ=人生其れ自体が合理化された、ことから自然とさうなって仕舞ったこと。

 

と云ふことは矢張りと言ふべきかコレは社会が自らの首を絞めつつあると云ふことだ。

 

社会が期待するところでの価値と実際に持ち得る還暦以前での世代の価値との間に修復不能な断裂が生じて仕舞って居るのだ。

 

即ち資本主義にせよ伝統的な家族制度、また共同体の結束にせよ國家に対する愛國心にせよはたまた宗教にせよ全部がなし崩し的に崩壊の一途を辿っても居やう。

 

 

結局はヤッパリ社会が悪かったな。

 

いやー困ったもんだな、まさに此の社会は。

 

ちなみに其の社会科を半世紀にも亘り御勉強して参りましたが其の間に特に良ひことなどはむしろ何も無かったやうだった。

 

むしろ激動の価値の転換が或は其処に齎されて居た可能性すらもがある。

 

其が即ち欲望の抽象化への一律化なのだ。

 

まさに其れは人間自身への合理化なのでもあらう。

 

 

尚此の合理化の問題は人間又は文明が避けて通れぬ「死に至る病」のやうなものだ。

 

合理化の全ては理性に基づき人間にとってのより良い未来を築く為にさう行はれやう。

 

ところがだ、まさに其の変化=進歩こそが人間が生きる其のあるべきバランスを崩し何か大事なものを壊し始める。

 

此の部分に於ける問題を勿論宗教的に論ずることは可能だ。

だが今宗教自体が其の合理化によりまさに壊されて行かんとして居るのだ。

 

そんな大問題が複雑に絡み合ふ生き地獄の様が今まさに此処に現出して居るのだ。

 

勿論其れを宗教は客観的な地獄だとは捉へぬ。

自我に固執したり眞理を求めぬこと=信仰が無きことからそんな地獄が生ずるとむしろ決まって述べやう。

 

 

確かにまた其れも眞理。

なんだけれどももはや事實として社会は悪ひのだ。

 

かうして全てが崩れて行って居る訳ですな、其れも時間の経過と共に次第次第に。

 

 

ですから、其の「社会が悪ひ」中でまさにどう生きていくかと云ふことこそが五木  寛之先生が仰るところでの「下山の思想」の内容其のものなのだ。

 

そんな絶望的な状況からむしろ「楽しひ下山」だとさう述べて居られる五木先生の頭の中身こそが並大抵のものでは無ひのだとも言へやう。

 

事実上はあくまで苦しひ下山となることかと思われやうが先生にさう言って頂くと何処か我我庶民の救われぬ心もまた救われる気さへ致します。