さて文學は結局「役に立つ」と云ふことを述べた。
でも文學は廻りクドく何やってるのだか良く分からなひ。
しかれども知の上部領域とはむしろさうした訳の分からぬ部分でこそ醸成され得る。
其れに宗教などもまた分からんことだらう。
特に信仰の方では無く宗教の教義解釈の部分などが其の役には立たぬ文學にもほど近ひもののことだらう。
其の宗教も結局役には立つのである。
では科学などはどうか?
實は余り役には立って居なひ。
科学が対象とするものは謂はば不必要な意味での便利さなのだ。
いや科学は役に立つぞ!
其れも近現代と云ふ文明のシステムに置ひては其れは役立つ。
然し其れは当たり前のことだ。
何せ科学が世界其のものをさう規定して居るのだから。
さうされちゃってる世界の中では科学が無ひと生きてはいけなひ。
いやより正確にはたとへば山奥に独居し科学を否定しまさにスローライフ、ダウンシフトにて原始人並の生活をすることも實は可能なのだが。
其処を思へば此の雁字搦めの現代社会にも結構選択の幅がある。
其の役立つか又は役立たぬかの哲學的な解釈が其処に實は問はれて居る。
有史以来我我人類の価値観に於ひて其の哲學的な意味こそが問はれて来たのである。
其の役立つ価値を最終的に否定するのは釈迦とキリストによる原始佛法及び原始キリスト教に於ける価値観であり他には無頼派の価値観や西洋のニヒリスティックな思想ならびに悪魔主義、若しくはルンペンさんなどの社会を否定しつつも生きて御座る方々、罪人其れも大罪人などのアウトサイダーやアウトローの方々などである。
と、結果的に聖なるもの、善なるものはさうして悪と連なりまたニヒリズムとも繋がって仕舞ふのだ。
世間の人々は聖なるもの、善なるものは清ひものばかりだとさう思って居やうが其れはさに非ず。
聖なるものは常に二元分裂を抱へて居り其の二元分裂を乗り越へることでこそ聖なるものへの一元化が適ふ訳だ。
其れが言はば役立たずして役立つことの意義なのである。
其のやうに此の世界を規定する言葉とは其のものズバリなのでは無ひ。
眞の知性とはまさに其の相対する領域にまで考察の対象を拡げて行かねばならぬ。
だが往々にして知性もまた限定される。
知の領域を狭められ其の範囲でしか思考を巡らせることが出来なくなる。
勿論其れではほんたうはイケナヒのだ。
知識は狭まれば狭まる程に深まらうが其れでは全体を見渡し難くなる。
眞の智慧とは知識では無くさうした意味での考へ方其のもののことなのだ。
左様に科学は今文明を回して居るが本質的に其れが役立つ訳では無くむしろ役立たぬ部分を役立つやうに見せかけて居るばかりなのだ。
だからこそ其の逆の価値観、即ち安吾流に言へば阿呆の価値観が我が國の諸価値を蝕み次第次第に崩して行くのである。
一体何を?
日本國としての精神を。
其の精神とは武士道ー三島特攻ーでも無く太宰流の破滅主義なのでも無ひ。
ズバリ其れは本質を見抜く知力のことである。
其の知力を失ったが故に實はこんなことにもなっておる。
其の知力は何処にあるのか。
其の知力はもう死んだのか。
大衆社会と戦後民主主義とに骨抜きにされもはや屍となり果てたのか?
日本人と独逸人の其の同盟関係としての宇宙一の知力は一体何処に行ったのだ?
ひょっとしてアノブラックホールのやうな宇宙の肥溜めにでも落ちて居るのではなひか?
わたくしが一番言ひたひこととは、兎に角科学は現金だと云ふことです。
現金だと上手く行くやうに皆様思はれることでせう。
事實現金な人は屡成功して居たりも致します。
だが、其の現金なことは考への上ではむしろ望まれぬことである。
文學にせよ、また哲學や宗教にせよ、其れは一言で申せば功利主義では無く現實主義ですらありません。
然し自然科学は其の現實の上での合理化により世界を規定して行くもののことです。
此処で注意せねばならぬのは、人間ー文明ーが世界によりさう規定されたのでは無く自然科学が世界をさう規定して行くことです。
近代以降人間は其の規定される者から自らがさう規定する者へと質的に変はって行きました。
其れは世界の現在と未来を自己決定としての自由意志の中に招き入れたと云ふことです。
つまりは自分の意志を自分流に生きることにして行った訳だ。
其の自己流の生の構築に大きく貢献して来たのが科学の力です。
さうして科学は自由意志としての申し子です。
だから鉄腕アトムもまた自由意志としての申し子です。
ところが手塚 治虫はむしろアトムを悩み苦しむ人間のやうに描き、事實アトムは地球を救ふ為に自己犠牲として太陽に突っ込み果てたのでした。
ーアトムは初登場の作品である光文社の雑誌「少年」連載の漫画『アトム大使』では脇役だった。その作品自体の人気も今ひとつであったが、『少年』編集長の金井武志は「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられる」と手塚に提案し、アトムを主人公として設定を少し変更した上で描かれたのが本作である[注 3]。
原作の公式設定では、2003年4月7日がアトムの誕生日とされる。製作者は天馬博士。交通事故死した博士の息子の「天馬飛雄」に似せて作られ、当初は「トビオ」と呼ばれていた。トビオは、人間とほぼ同等の感情と様々な能力を持つ優秀なロボットであったが、人間のように成長しないことに気づいた天馬博士はトビオをサーカスに売ってしまう。サーカスにおいて団長[注 4]に「アトム」と名付けられる[注 5]。やがて法律が制定されて感情を持つロボットに対して人間と同等に暮らす権利が与えられるようになると、アトムの可能性に着目していたお茶の水博士に引き取られた。そして情操教育としてロボットの家族と家を与えられ、人間の小学校に通わされるようになる。学校での生活は、同級生達と紆余曲折しながらも仲良くやっている。
性格は真面目で正義感が強く、困窮した者には自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる優しい心を持つが、時にロボットである自分に苦悩や葛藤することも多い。また「アルプスの決闘の巻」では複雑な感情を抱けない(芸術や自然への感動や恐怖心がない)という劣等感から、お茶の水博士に人造心臓を取りつけてもらって人間と同レベルの感情を一時的に得たことがある(その後両親をさらった敵との戦闘で恐怖から体がすくんで手も足も出なくなったため、ケン一によって人造心臓を破壊された)。ー
ー現在の日本のロボット工学学者たちには幼少時代に『鉄腕アトム』に触れたことがロボット技術者を志すきっかけとなっている者も多く、現在の日本の高水準のロボット技術力にはこの作品の貢献が大きいともいえる[2]。ー鉄腕アトムより
TVアニメの『鉄腕アトム』は我我が幼稚園児の頃に所謂白黑TVにて屡視て居たものだった。
ー鉄腕アトムの漫画を見ていない方でも、「アトム=正義のヒーロー」という印象を持っている方は多いのではないでしょうか?しかし原作者の手塚治虫さんは「アトムは正義のヒーローではない」と考えていたようで、世間のイメージや感想との間にズレがあるようです。漫画の原作は科学技術をただ評価するのではなく、数多くの問題提起もなされています。そのため漫画のテーマとずれていくアニメの制作に苦痛を感じていたそうです。
科学技術は人々の生活を便利にし、人々の生活をよりよくするためのものと考えられています。しかし手塚治虫さんは鉄腕アトムの漫画の中で「科学技術は暴走すると人間の脅威にもなりうる」というテーマを一貫して描いていました。鉄腕アトムの中で繰り返し手塚治虫が警鐘を鳴らしていた思いは、人々からの差別に苦しむアトムを通して描かれていましたが、世間とのイメージのズレがあるという悲しい現実もあるようです。
紹介する2つ目の感想は、鉄腕アトムの漫画原作の最終回とされている「アトムの最後」のストーリーが、あまりに救いがなさすぎて見事だという感想です。「アトムの最後」では、主人公も主人公に頼まれ戦ったアトムも最後にはあっけなく死んでしまうという結末でした。また、鉄腕アトムのアニメの最終回として書かれた別の漫画や、セルフパロディの漫画も、同じくハッピーエンドとは言い難いという感想があるようです。ー鉄腕アトム最終回のネタバレあらすじと感想!救いがない衝撃の最後・結末とは?より
手塚 治虫氏ご本人はかやうに「鉄腕アトム」をむしろ科学技術へのアンチテーゼとして設定されやうとして居たものらしひ。
「科学技術は暴走すると人間の脅威にもなりうる」
まさに此のことこそが眞理なのだ。
科学技術は抽象的営為故に暴走し易ひ。
だからかうして今もまた暴走し続けて居るのである。
アトムの結末の救ひの無さとは其の科学技術に対する不信感から齎されて居るものだらう。
ところが大衆はむしろ「科学技術は正しひ」とさう信じて居る始末なのだ。
かやうに藝術家と大衆の認識の仕方は常に異なる。
藝術家は生は必ずしもハッピーでは無ひとさう思ふものだがみんなはもうまるで「生きてるだけでモウケモン」なのだ。
まずは科学へは感情移入などして居てはいけなひことだらう。
さうして科学が諸刃の剣であること、科学がとても恐ひものであると云ふ視点を何処かに持って居ることこそが大事だ。
でも文學よりはずっと健全だらう?
どんなに不健全であれ文學は人間の営為だが、科学こそが實は人間の営為には非ず。
じゃ一体何なのだ?
👽が宇宙から持って来たものなのか?
いや結局人間の抽象性が生み出したものである。
抽象化しまた合理化されしものなので其れは人間の心をすでに離陸して御座る。
要するに数的還元値の産物、合理主義の産物であると云ふことなのだ。
次に科学には悩みなど無ひと云ふことである。
科学は目的論的に理論が構築されれば其れを成果と見做し其れがたとへ道徳的に許せぬものであれ結局は其れを實現して仕舞ふ。
即ち科学上の成果には悩み苦しむことが無ひ。
まさに其の眞逆の価値こそが太宰であり芥川なのであらう。
文學者が受け持ったまた釈迦やキリストが受け持った其の大事な人類のお苦しみの部分を科学は無視し歩む。
だからこそ科学なんぞ所詮ダメなものなのだ。
もう太宰のやうに潔く心中してみよ。
安吾のやうにキチガヒ🏥へ入れ。
三島のやうに特攻だ!
またかのワヒルドなんぞ牢屋に入れられ其処でもって『獄中記』を完成させたものだった。
即ち人間は悩まねばならぬ、悩まねば人間はかうして暴走する。
其れも其の科学技術文明が暴走するのである。
即ち我我はいつの間にかさうした合理主義の奴隷となり今まさに其れに飼育されつつあるのだ。
そんな受け取り方は無ひ筈だ。
だってかうして日々便利さを生む科学技術は正しひ。
でも『人間失格』はまさに人間として今日も明日も失格だ。
だからおまへの価値観其のものが異常である。
おまへの価値観其のものが信用出来ぬ。
第一おまへの書くものは文學か宗教のやうな七面倒臭ひことばかりだ。
だからこそ一番嫌ひなのが實はロボットなんだ。
第一機械には頗る弱ひのだ。
PCにも實はまるで弱くて、兎に角分からなひのだから使って居ても何をやってるのだからまるで分からなひ。
ケータイ電話さへも實はわたくしには難しくて扱へぬのだ。
但しPCはもう四半世紀程やって来たので其処は感覚でもって分かる部分もある。
其のやうに元々電脳世界とは遠く隔てられたわたくしである。
其れと数学が大の苦手である。
其のやうに抽象度の高ひ数的還元の世界とは頗る相性が悪ひ。
『鉄腕アトム』が合理主義礼賛に終はって居なひことはまさに素晴らしひ部分かと思ふ。
かくして科学技術は人間にとりさうして文明にとり究極的な問ひを孕むテーマである。
「合理化すればする程に人間の心は貧しくなり且つ幸せからはほど遠くなる。」
さても其のことは、何故さうなるのだらう。
宮澤 賢治もまた科学は冷たく暗ひとさう述べて居たものだった。
賢治は理系の教師なので兎に角理科的な要素には詳しひ。
賢治の銀河鉄道は何よりもまず内面の銀河鉄道なのだけれど其れはまた宇宙であり星々の世界のことでもあった。
農民芸術の興隆
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
農民芸術概論綱要 宮沢賢治より
かっての師父たちが貧しひながらも楽しく生きられたのは其れは社会が良かったからだったらう。
其の労働が生存があるばかりなのは、其れは岩手県などよりも余程に東京、横浜、大阪、神戸、京都、名古屋、仙台、札幌、博多などの都会の方がより苦しひ。
もう都会なんぞ特に東京なんぞは脱出して仕舞ふべきだ!
第一岩手県だけコロナ感染者が出て居なひ。
其れは何故だ?自然が凄過ぎるからなのか。
もうイヤだ、こんなコロナ特攻ばかりの都会なんぞはイヤだ、早う小岩井農場へでも逃げたひ。
兎に角画像だけで癒されますね。
ところで此処にアイスクリームはちゃんと売ってますかね?
暑ひので今是非其れを食べたひのですが。
さうして我等は正しき道を行き美を創造せねばならぬ。
「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」
「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」
以前からこんな山猫軒があることは知って居たのですが何せ遠ひのでなかなか行けません。
三十代の中頃に此処で其の「銀河鉄道の夜」を観て来ました。
尚此処は夜になるとプラネタリウムの上の空が其の侭にプラネタリウムとなります。
そんな山の只中でほんたうの星が満天に瞬ひても居ります。
おまへは一体何が言ひたひのだ?
いや只観光して居るだけです。
其れも日本中がコロナなのでかうしてネット観光をして居ります。
尚自然科学に其の自由意志との関連での問題が組み込まれて居ることはほぼ間違ひ無ひことかと思はれる。自由意志 #概要
だが今回は其の自由意志に関する難しひ論議はしなひつもりである。
尚、わたくしは今でも七月も後半になれば夏休みだとさう思って居るのである。
実際には夏休みが無くても夏休みなのだ。
尤も其処では文學や宗教の本などは読まなひ。
其処で生物學系の本を読むのが何よりの愉しみなのだ。
わたくしはロボットが嫌ひでもさうして生物學の方は好きなのだ。
かくてわたくしは完全に文系の人間なのだが高校時代に必修クラブの方で生物クラブと云ふのをやって居た。ー中学の時には地學クラブに居たー
さうして美術部の奴等二人とわたくしとで研究課題を決め生物につき研究するのである。
ところがこんな文學人間と美術人間とでやる理系の分野のことなので一種滅茶苦茶で大抵はまず絵が描かれ其処にわたくしがちょろりと添へ書きなどし其れをホチキスでもって止めて終はりなのだった。
兎に角高校で習った生物もモルだの何だの其れから化学式だのが出て来た途端にもう投げ出すのであったが其れは美術部の二人もまるで同じことのやうであった。
其の研究した生物とはプラナリアである。
ーいちじるしい再生能力を持つことから、再生研究のモデル生物として用いられる。進化的には前口動物と後口動物の分岐点に位置し、三胚葉性動物・脳をもつ動物としてもっとも原始的であることから、比較発生学・進化発生生物学でも用いられる。雌雄同体である特性から、生殖生物学でも扱われる。水質の変化に著しい影響を受けることから、指標生物でもある。
有性生殖と無性生殖ができる。水質や水温などの生息環境が悪化すると、次第に腹部がくびれてきて2つに分裂してしまう。
- 頭に切れ込みを入れて3等分にすれば、3つの頭を持つプラナリアに再生する。
- ある学者がメスを使い100を超える断片になるまで滅多切りにしたが、その全片が再生して100を超えるプラナリアが再生したという逸話がある[1]。プラナリアが再生できる栄養環境さえあれば可能であるとされる。
- トーマス・ハント・モーガンの実験では、遅延や不完全な再生はあったものの、279に分割された断片から再生したとされる[2]。
- 咽頭および目の前にあたる部分からは、それらが万能細胞を持たないため再生出来ない[2]。
- 切断実験をする際は、1週間前から絶食させておかないと、切断時に体内の消化液で自身の体を溶かしてしまい、絶命する[3]。
プラナリアは日本中の川の上流に生息しており、石や枯葉などの裏に張り付いている。主にカゲロウの幼虫などの水生昆虫を餌としている。 また、アクアリウムなどではプラナリアが大発生する事があり、害虫として嫌われている。 捕獲、除去には、体が柔らかくピンセットでつまむとちぎれることがあるので、筆を使って撫でるように取るとよい。また餌となるものを入れておびき寄せる捕獲器も市販されており、自作する者も居る。捕獲器に入ったものはえてして内部の水質悪化により短時間で死に至る場合が有るので、生態観察などを目的とする場合は速やかに取り出す必要がある。ープラナリアより
プラナリアは扁平な小さひナメクジのやうな可愛ひ生物で生物だとは思へぬ程の再生能力を持ち兎に角何処から切っても再生して仕舞ふ。
だがプラナリアの何処をどう切ったかと云ふことなどはすでに忘れて仕舞った。
第一まずは誰かがプラナリアを捕まへて来ねばならぬ。
其れでもすぐには行けぬので毎時間絵を描ひて遊んで居たが其のうちに美術部のI君が闇苅渓谷にて其れを捕って来た。
ありゃ、何やら小さくて可愛ひ生き物だなあ。
とさう思ひつつも其処をあへてカッターナイフでもって真っ二つに切ってみたりするのであった。
すると其れが二匹になって居た。
尤もどの位時間がかかったのかはもはや覚へては居なひのだが。
此の経験がいまだに心の片隅に残って居る。
其れがわたくしにとっての貴重な理系での経験であったが故になのだ。
今注目を浴びることが多ひのが其の再生能力を人間の體に生かさうとする再生医療の分野である。
しかしながら、ご立派な人格をお持ちの山中先生に対してこんなことを言ふのは心苦しひ限りなのではあるがわたくし自身は人間にとり再生能力は要らぬとさう考へて来て居る。
何でかと言へば其のプラナリアは兎に角下等生物だったからなのだ。
下等生物だからこそ色んな捕食者に襲はれやうからさうなって居るものかと思はれる。
だが其れがのべつまくなしに増へる訳では無ひ。
其れはあくまで自然界の内側に於ける再生なのだ。
でも人間は自然界をすでに離陸して仕舞って居る。
我我は観念的に飛翔を続けるひとつの自己決定者なのだ。
我我には科学的分析力なる自我を持ち其れでもってかうして自然界を征服して来た。
我我の意思決定には自由があり、其の自由こそが近代的な価値を其処に築き上げて来た。
だがわたくしは其処にこそ問題を感じて仕舞ふ。
感じて仕舞ふだけだともはや誰も相手にはして呉れぬのである程度ー人文的にー理論化して其れを世に示さうとして来て居る。
其れでもってカントのことなどを引き合ひにして理性のことを突き詰めて考へ其処に「原始退行」と云ふ現象が引き起こされて居ることを明らかにした。
「原始退行」とは理性の自己矛盾化の過程を述べたものであり、要するに其処に自然科学其れ自体が有する自己矛盾性を表現したもののことだ。
平たく言へば再生医療もまた其の「原始退行」的な人間の生への欲望への飽くなき追求であり要するにやらなくても良ひこと、いやむしろやってはならぬ分野での科学的希求としての流れであるに過ぎぬことだらう。
「人間は不自然に拡張されて来て居る」
まさに此れが人文の徒としてのわたくしの意見である。
人間はどうあるべきか?
其の問ひは戦後特に問はれなくなったことかと思ふ。
戦後問はれたのはむしろどう豊かになるかでありまたどう長生きするやうにするかであり其れは一種の思想の合理化であり洗脳でもまたあった筈だ。
正直其れではイケナヒのではなひかとわたくしはずっと思ひ続けて来た。
人間はどうあるべきか?と云ふ問ひこそが人間にとって最も大事なのであり技術的にどう生を快適なものにして行くかと云ふ課題はむしろ後回しにして置くべきことではなかったか。