目覚めよ!

文明批判と心の探求と

仏教詩人による辻説法ー絶対的絶対 壱ー




人間は普通「絶対」としての領域を生きて居る。

其の「絶対」とは現象としてのじぶんの限定性=瑕疵性、負債を打ち消すやうな働きのことだ。

其れを我がものとしやうとして観念的にもがくのだ。

何故観念的にもがくのかと言へばそも肉体的にはもがきやうが無ひからなのだ。


其の絶対とは前近代の段階で神であり佛であった訳だが最近はむしろ金だの社会的立場ー社会的評価ーだの👪だのに移り変わって来て居る。ー世俗化過程としてのー

むしろ其れ等を絶対にして置かなひと自己としての自立性を確保することが出来ないゆえ其処を何とかしやうと兎に角いつも必死なのだ。


然し人は何故其のやうにじぶんの内側だけでは充たされないのか?

畢竟人間は其のやうに個として弱き者である他は無ひ。

だがもしも人間には神も要らず宗教も要らぬものだとすれば其れは人間が強ひと云ふことの証左であらう。


然しかのニーチェにせよまた唯物論的な弁証法過程にせよ、其処では余りに人間を買ひかぶり過ぎて居り人間の本質としての其の弱さに寄り添うどころか其の弱さ自体を否定するものではなひのか。

其のやうな非感覚的な論理のみではかの人間としての弱さを見詰めることなどは元より出来なひことだらう。



人間は事実として弱ひ。

また根本的に負債を抱へる生物だ。

自然は其の負債を抱へぬ分より強く、のみならずより気楽だ。

其の気楽なのが兎に角羨ましひ。



されど歴史過程は、其の近代としての社会過程はむしろ人間の其の弱さを認めぬ方向へと進んで来た。

かうして進歩に次ぐ進歩、即ち間断無き改革と改善にて其の弱さを克服出来るとさう結論付けて来た。

だがつまりは其れこそが合理主義なのだ。


其の合理化にて「絶対」を「相対」の立場へと追い込むのが其の時代としての近代の目論見なのだ。

但し先にも述べたやうに、近代には近代として寄って立つところでの必然としての価値がある。

近代とは人間が必然として抱へ込まざるを得なかった其の自虐的な価値過程だったのだ。


即ち其処に於ひてもはや人間は弱音を吐くことさへ出来ぬ。

さうして社会に己の一分、一秒までをも管理され其れが提示するところでの新たなる価値に次から次へと価値観をシフトしていかねばならぬ。

だがわたくしは其の現代の価値其のものに寄り添ふことなど出来ぬ。



第一もっと楽に生きた方がずっとイイぞよ。

何でそんなに急いで居るんだ、君達は。

一体何処へ行かうとして居るのだ、君等屁コキ虫共は。


かうしてお釈迦様やイエス様を拝んでおった方がむしろずっと楽だ。

即ち形而上学でもってして神仏こそが絶対の世界だ。

其処には理性さへもがもはや不要である。


いや、理性はあっても良ひが少なくとも相対的絶対領域と云ふのはあった方が人間はより楽で居られやう。

しかしながら楽と言ふと決まって仏教の方では叱られやう。

いや、違ひました、苦でした、全てが苦です、とさう言って置ひた方がコイツは見所のある奴だとさう認められるのやもしれぬ。



然しわたくしは長年に亘り實は悩んで来た。

何故人間の生はよりによってこんなに苦しひものなのか。

これでは其の辺の雑草に生まれた方がずっと良かったではなひか。


何でよりによってまたこんな厄介なものに生まれつひておるのだらう?

さうは言ひながら趣味では色々と目一杯に遊んでも参りました。

其れにかっては女にも触りました。

女にも良ひところはあります。

其れは御飯を作って呉れるところです。


つまり肉体を維持して呉れる方向性へと導ひて呉れるところであり、まさに其の様こそが聖母マリヤ様なのであり実際理性体のみでは飯も食わずにすぐに死んで仕舞ふことでせう。

其の形而上学的に捉へられる神仏と云ふか神の概念ですが、あくまで其れは観念的には相対的絶対を指し示すものですが宗教と云ふのは論理を超へた信仰の世界でもある故其処で相対即絶対の境地に至って居る可能性すらありませう。


ただし仏教では其の形而上学其のものが否定されて居ります。
仏教は元々キリスト教よりも論理的傾向が強く即ち合理主義ですらある。


日本の仏教がさうした論理性に貫かれたもので無ひのは、
1.大乗仏教としての教義上の変容
2.中国や日本の土着の習俗との融合
3.儀式化、葬式仏教化された部分

などのまさに長ひ時の流れの中での仏法の変化がさう成らしめて居るものですが、實は其れー大衆レヴェルーばかりではなく僧侶が修める學としての仏教の方へと近づいていけば幾らでも其の強固なる論理性が見て取れやうものです。

要するに仏教は神を立てる宗教とは根本的に違ひー神=佛なのでは全然無くーむしろ根本的には観念的に自己と闘ふ様若しくは観念もろとも世界と刺し違へ爆死する様、其の特攻の精神に於ひてこそ仏教徒としての本義が見られるのであり、かと言って余り過激になりますとまさにかのオウム教の如くになります故むしろ其の位の気持ちで闘っては居るが現実としてはむしろヘラヘラとしていつも笑って居る。

まさに真面目なのやら不真面目なのやら分からぬままに浄土教、さうして密教上座部原始仏教とそれぞれのお花の上を飛び回り時にはしかと其の花に貼り付ひて其の蜜を吸ふのであります。

おおまさにチュウチュウと其の花の蜜をば吸ひ尽くし最終的にはキリスト教へさへ飛び付く。
いや、キリスト教と是非対決するのだ!

近代を生み出ししキリスト教と結婚しさらに離婚せよ!



尚其の「絶対」としての領域を生きんと欲することは人間にとってむしろ普遍的に存在したところでの当たり前の感情でした。

さう論理などではなく其れは感情だったのです。


ですからアニミズムにせよ、多神教にせよまた一神教にせよ、其の「絶対」としての領域を生きる素朴さに於ひて皆社会的に何かが課せられて居た訳では無くむしろ解放されて居たのであります。

要するに神が居るのですからもう兎に角楽でせう。

楽と云ふことは合理化など為されて居なひと云ふことであり、よって人間の行ひは自己責任または自己決定による自裁などではなく自然やら神やらがむしろ其のままに決めて下さることでした。

神道と云ふものもまたさうしたアニミズム多神教の融合でしかも大衆に対する教義などは無ひのですから其れもまた随分と楽なもので第一其れは教へですらありませぬ。



ところが仏教はむしろ存外にキツイ訳です。

仏教の佛は形而上の相対的絶対などでは無ひ故むしろ其の絶対性を生半可に追求してなどは居なひですから修行者への心理的負担と云ふものはむしろキリスト教以上に重くのしかかって参りませう。


だから仏教は宗教としては極めて特殊です。

ただし習俗化された伝統的大乗仏教は往往にして楽です。

何故なら御坊様が全部やって下さり、我我名ばかりの●◎宗徒は仏教を學ぶ必要もなくまた袈裟を着込み托鉢して其の辺を回って来る必要もありません。


さうか、楽だ、コレは楽だぞ。

其の楽もひとつの価値だと言へはしなひのか。

が、本気で成仏しやうと思へばむしろこんなにキツイ宗教もまた御座ひません。

つまりは御坊様だけがキツイ。


さて近代又は現代社会と其の形而上の絶対領域としての素朴な宗教、または習俗化された伝統的大乗仏教、さらに上座部仏教との相性は元々極めて悪ひと申さねばなりません。

であるからしてむしろ我我は楽には生きられぬ社会構造の中にこそ放り込まれて居る。

其れも精神的に安定と云うか安心出来ぬ社会的自我の中に組み込まれて居るのです。


ですのであくまでわたくしは無論のこと宗教の擁護派として此処でかうして機能して居るのであります。

つまるところは其れでは楽じゃなくむしろ苦しひ方向へ社会的に向かわされて居ると云ふことなのだ。

もはやさうしたことは實は仏法としての難しひ観念上の問題では無く社会思想史上の修正やら政治的選択と云った歴史的課題に直結するものです。



其の社会の問題の根に横たわるものは畢竟其れは合理化の問題でせう。

むしろ合理化こそが人間と宗教の距離を隔て即物的な快楽に酔ひ痴れるやうな現代大衆の群れを生じさせて居ることだらう。


なんですが、實は仏教も合理的なものであったと云ふ其の皮肉と云ふか矛盾と云ふかそんな一種の哀しひ部分を描ひてみたくて實は此の特集を組んでみたのであります。

表面的な形だけで見ればおそらく仏教は其の合理化にも対応することが可能なのかもしれなひ。

やがて墓は永代供養付きのマンション化されていくことでせうしおそらくは次第に盆仏教、葬式仏教としての儀式仏教のあり方は時代と共に移り変わっていくことでせう。

なんだけれども、其の真理としての絶対主義はまさに法の内容として各宗派の教義の中にしかと残っていく筈です。


いえ其れもほんたうはさうではなくあくまで脱絶対主義なのですけれども。

絶対は此の世に無ひ、と云ふ絶対的絶対に脱観念として到達するのが本来の仏教のあり方ですので。

ですが、其れをあくまで社会化と云ふ歴史過程で捉へる場合に仏教もまた宗教でありよって其れは相対化ではなく絶対化としての過程なのだ。

対する相対化と云ふのは近代的な精神構造より齎されるもののことです。


其がまさに仏蘭西革命以降の近代主義の拡張であり文化相対主義であり、大衆社会の出現であり個としての強固な自我形成の流れでのことです。

なんですが其れは必ずしも楽な展開では無ひ訳だ。

自由にせよ平等にせよ自己決定にせよそんなものはむしろ楽なものなんかでは無ひ。

近代とはさうして基本的に人間に強ひ圧迫を加へる思想体系のこと。

勝手に神や仏を遠ざけて置ひてしかもスマフォだ仮想通貨だと浮かれ騒ひで置ひて其の癖一番大事な精神の領域を疎かにしまるで顧みぬ。


そんなことでは資本主義による儲けも泣くぞよ。

そんなことでは一党独裁による平等も泣くぞよ。


かくして社会が悪ひ、との結論にわたくしの場合はどーしても傾ひて仕舞ふ。

では其の社会とは一体何だと云ふこととなりませうが社会とは相対化の流れのことだと言へることでせう。


即ち相対化=合理化の流れのことだとして置ひても良ひのではなひか。

今後合理化が極限的に価値を相対化すれば人間の価値はむしろ絶対的に破壊され尽くされることでせう。

即ち真っ直ぐに便利さや豊かさと云った自然よりも上位であると観念的に捉へられる価値を追い求めてはならぬ。

さうすればする程にむしろ人間としての価値は破壊されていき最終的には水や空気、又は草花や木木や動物達が織り成す自然の光景に至るまで兎に角全部が破壊され尽くすに至らう。



其のやうに人間こそが破壊者=悪魔=悪役=バイキンだと云ふことなのです。

極めて理性的に解釈すれば其のやうな結論に至らざるを得ぬ。

だが其れでは余りに哀しひのでショーペンハウアーとわたくしは空を舞ひ飛ぶ蝶蝶となり藝術及び宗教を出来得る限りに擁護して来たのです。

ショーペンハウアーの母ちゃんは家事のまるで出来ぬ女流作家にてショーペンハウアーはそんな母ちゃんのことが大嫌ひで其の後スッカリ女嫌ひになって仕舞ったのです。

わたくしの場合も母ちゃんが女学校の文藝部出身でおまけに茶華道の先生ですので余計に家事が出来ず其の性質に限りわたくしは大嫌ひで其れでもって其の後スッカリ女嫌ひになって仕舞ったのです。



さて其の「絶対」とは何かと云ふ問題ですが、わたくしの場合には其れを言語以前の段階としてかねてより直観的に捉へて来て居ります。

わたくしは余り女にはモテずー其れも昔は美男子だったのですがねー其れでもって心が清ひ故動植物とお話しが出来しかも詩が書けるのです。

そればかりか利口なのでつひ理性が発達し過ぎて仕舞ひ次第次第に直観が効くやうにもなりました。


其の直観知から申しますと、存在とは無であり一面では其れは絶対なのです。

あくまで観念的には絶対として捉へられやう。

ただし存在を観念にて捉へることは出来ぬ。

だから其処では観念的な相対的絶対が捉へられるのみ。

其れは観念が二重の限定を受けて居るからだ。

其処を直観にて逆戻し無としての存在を捉へるのだ。



対する現象とは分離です。

観念的には分離として捉へられやう。

其の現象を引き起こして居るものが分離です。

分離すると時間が流れます。

さうして其処までが自然界の様です。


此処からが問題で、何が問題かと言へば人間であることだけが問題です。

何故問題なのかと云ふに、相対分別により苦を生じ欲望を撒き散らし破壊に勤しむやうになる其の人間の本性こそが問題なのです。


と云ふことは二重に分離されて居るのが人間なのだと申せませう。

肉体的に分離し、尚且つ精神的にも分離して居るので其処で余計に話がややこしくなり其処ではもはや治し難ひと申しますか兎に角早う🏥にでも入るべきだ。


で、其のニンゲンがまた御大層にも絶対者としての神や仏を希求致します。

其れが宗教の始まり、即ち内面世界の拡がりの開始な訳です。

ただし其れは地獄への入り口の始まりでも御座ります。


宗教など要らん、と云ふ其の御意見には実は合理的な意味での根拠もまた御座ひます。

なんですが、絶対者が居なひとむしろ人間は常にシンドイと云ふお話を致しました。

其の相対化の過程に於ひて人間の方に自己決定やら自己責任やら何やら其れこそ最終的には其のシンポが齎す破壊の尻拭ひですらニンゲン共がやらなひといけなひこととなり其れがもう物凄くキツイ訳です。

なんですが、おバカ大衆は其れが地獄の様だと云ふことにさへ気付けなひのであります。


いや、確かに學者の方々は色んなことをむしろ言われて居ります。

其処は流石に大衆とは違ひ利口な訳です。

ところで其の相対化によりむしろ色んなものが壊れていくと見て置ひても良ひことだらう。


もう少し現実的に言ひますと左翼思想とは其の相対化のことです。

さらにグローバリズムやIT至上主義、また市場原理主義や温暖化否定説などは皆其の相対化のことです。


またキリスト教の流れでさへ其の相対化過程のことです。

ところが仏教は元々相対主義だったのでした。

何せ其処には神は居なひのですから。


ですが次第に俗化し神がくっつひて来たのですが其れでもあくまで神は仏より下の位なんです。

キリスト教の神は絶対者なので其の絶対性が時の流れと共に相対化されていった部分がキリスト教の改革史であり歴史過程です。

仏教に於ひては仏自体の相対化が原始仏教→部派仏教→大乗仏教の流れの中で引き起こされて来て居ます。

即ち途中から何故か釈迦以外の色んな佛が登場ー捏造?-するやうになりアノ日蓮など末法の御本佛と云ふ立場にいつの間にかなって仕舞ったりでいやはやまた何を考へて居るのやら。

ただしわたくしは「南無妙法蓮華経」を否定する積もりは毛頭御座りません。「南無阿弥陀仏」も否定する積もりは御座りません。

信仰を貶す積もりなど何処にも無ひ。信仰は常に大事だ。



否定すべきはむしろ其の合理化です。

合理化すると、人間は決まって生きにくくなりませう。

なのでニーチェの説ひたが如き超人思想も明らかに人間の合理化なので×。

人間が火星でもって生き延びるのも明らかに人間の合理化なので×。

女性管理職の増殖、不倫の是認などもまた人間の合理化なので×。

ですから、合理化はやってイイところとやってイケナイところとがあるんです。



ところでショーペンハウアーなどはどうなのですか?

此の爺様は逆に絶対化してもおらう。

最初は相対化したにせよ宗教は否定せず逆にイエス様の徳など讃へておる。

まさに偉ひ爺様じゃ。


仏教のことも勿論讃へておる。

全く偉ひ爺様じゃ。

さらに藝術至上主義者でもある。

ほんに偉ひ爺様じゃ。


さて仏教にとっての絶対化の過程=成仏の絶対性、仏性の絶対性の問題は最大の難問なのです。
そも相対的な分別世界に「絶対的な絶対」としての領域が果たして成立するや否か?

其れでも無明⇔明知、現象⇔涅槃、凡夫⇔佛のやうにどうしても概念としては二分化されて仕舞ふ。
だから対概念としての論理的規定を離れぬ限り「絶対的な絶対」としての成仏や仏性を成り立たせることなど出来ぬ相談だ。


個人的には仏法もまた限定されていくべきなのだと考へます。
   
合理化すべきものでは無ひと云ふことです。


大乗仏教はゴチャゴチャとして居るやうで居て實は合理化されても居やう。

どう合理化されて居るかと云ふに、大衆迎合する形でもっておそらく社会的に合理化されて居りませう。

なんですが、其の合理化と元々の釈迦の気質であったところでの合理的理性の質とはまるで別物なのだ。


「絶対」の「相対」化が文明の目的であるならば其れは概ね破壊を伴ふと見て置ひて良く、「相対」の「絶対」化はむしろ破壊など伴わず安全です。

但し自然はさうして絶対化を目指す訳では無ひ。

自然とは肉体としての分離の様ですので其処に観念の分離が罪ー煩悩ーとして捉へられる訳では無ひ。

ところが何故人間はかうも絶対化を目指すのだらう。

其れはじぶんが余りにも不完全かつ限定的だからです。

其の絶対化の過程こそが宗教史としての悠久の流れのことでもまたある。⇔合理化としての歴史過程