目覚めよ!

文明批判と心の探求と

施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」より學ぶ

此の異常な雨の降り方はまさに地球が壊れかかって居ることを実感させるものです。

コロナにせよ集中豪雨にせよ其の地球が壊れちゃったことへの何らかの具体的な示しなのかもしれません。

 

ほんたうに地球を壊しちゃったらもはやどんな文明も持続することなど出来ませぬ。

文明は一度止まり其処で考へ直すべきなのですが進歩することは良ひことだとさう信じ込んで御座る文明に対しどんなに叫んでみてもほとんど何も変はらぬのが實情なのです

 

コロナ以上に恐ろしい「首都直下地震」がもたらす経済ショック

 

いやまさに怖ひ。

コロナでもって弱らされたところをもしも大地震が襲へばほんたうに文明は壊滅するのかもしれなひ。

 

最近は兎に角現實其のものが恐怖の様と云ふか地獄の様と云ふか滅茶苦茶にもなりつつあります。

 

 

 

さて此れ迄にわたくしが佛法上理論的に屈服させられたところがあり其れが以下である。

施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」

 

此れ迄に三度程繰り返し読ませて頂いて居るのだが其処ではまさに臨済禅に於ける理論的展開の精緻さに感銘を受けて来て居る。

 

此れを細かく読んでみたところ初めて佛法が理論的にようやく理解出来た感じがしたものだった。

禅宗は最終的には佛法を脱理論化、脱概念化して行く教へなのだが其の前提としての理論的展開、理窟の捏ね回しの部分が不要かと云へば實はさうでは無ひ。

 

丁度其れは天才的な感性を持った幼稚園児ならば絵画や詩が書けるかと云へば必ずしもさうでは無く其れが藝術作品と呼べる為には論理的な思考力、論理的に組み上げられた上での感性のマネージメント能力が必須であることと同じくして悟りへ近づく為には矢張り理論的な御勉強の方も大事なのだと改めて気付かせて呉れた部分なのだった。

 

三年程前にさうしたものを初めてネット上に見つけた我はもう嬉しくて實は数週間にも亘りコレばかりを視て改めて佛法に於ける教理解釈の部分を勉強させて頂ひたのだった。

其の内容こそが流石に禅宗の御坊様によるものである。

 

 

 

十、相対から絶対へ

 

こちらなどもまさに勉強となる。

其の絶対と云ふことは此の相対世界に於ける相対の対概念であり其れがもしも成立するのだとすれば宗教の世界以外にはあり得ぬ訳だ。

 

どんな政治的権力でもまた學問的権威にせよ此の世では絶対などではあり得ぬ。

其れどころか文明其れ自体が限定物でありまさに寿命のあるものなのだ。

 

宗教では其の相対分別による迷ひの世界を絶対としての精神の領域へと近づけて行かうとして居る。

佛教の目的としての解脱とキリスト教の目的としての神への帰依は其の絶対的な精神の領域への認識の一元化なのだとも考へられやう。

 

其の認識の一元化には釈迦の佛法の如くに自力救済するものとキリストが説ひたやうに他力救済するものとの二通りの仕方がある。

また佛法の中でも他力救済を説く大乗佛法の場合にはどちらかと云へば佛教と云ふよりもキリスト教的なものとなる。

 

尤も禅宗は自力救済の方によりウェイトが置かれて居るのではなひだらうか。

禅宗は大乗佛法の中でも釈迦の修行の仕方即ち禅定を重視するが故に必然的にさうなるのだらう。

 

 

ー日本においては、坐禅修行を主とする仏教宗派が「禅宗」と総称されることが多い。これに対して、臨済宗14派と黄檗宗からなる臨済宗黄檗宗連合各派合議所と、曹洞宗宗務庁は2019年、中学校の歴史教科書について、個々の宗派名を書かず「禅宗」と一括りにする記述を改めるよう申し入れた[4]。ー

 

ありゃま、禅宗と一括りにしてはもはやイカンのださうだ。

変な話ながらもしや曹洞宗臨済宗は余り仲が宜しくはなひのだらうか?

 

不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、文字言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。ー不立文字より

 

其の不立文字とは元々可成の高等な概念で下手に此れを理解すると其れこそ文字や言葉による概念の否定に繋がりもうエラヒこととならう。

基本的には其れは勉学を積み重ねた僧侶の方々のレヴェルでのお話です。

 

世俗の者共は逆にまず學ぶ癖を付けねばなりません。

世俗の者共は普通御勉強が何より嫌ひで、よって文字を書くことや本を読むことなども大抵はそれ程好きではありません。

 

逆に酒を飲んだり女に触ったり海外旅行したりすることが兎に角好きなのです。

で、そんな状態で「不立文字」などと言っても其れでは余計に世俗の遊びに走るばかりで其れでは理性も何もあったものでは無ひ。

 

さうでは無くまず徹底的に理窟の世界を究めてみるべきです。

なので余程のインテリでなひ限りは「不立文字」などと云ふ概念は是非忘れて頂きたひ。

 

逆に上の施本でのやうにトコトン理窟の面でやってみて下され。

 

 

上のところでは兎に角相対矛盾の様を分かり易く述べて頂ひて居り其処はまさに概念的な理解の一助になります。

 

 

 

そんな矛盾なんて何処にも無ひよ。

まさに此の世は生きてるだけでボロモウケだ。

 

まんまおまへはさんま氏か?

だから其れは、君が其処で理性を使って生きて居なひことの証明ではなひか。

 

逆に理性を使ひ此の世を生きれば生きる程に苦しくなるんだよ。

さうして理性的に生きる奴程昔から苦しひことと相場は決まっておる。

 

但し其のアホが兎に角羨ましひ。

だが天然のアホでも無ひ限りつまりアホを演じて居るだけでは次第に苦しみが溜まっても来やう。

 

つまりアホを演じるだけでは此の世の本質的苦からは決して逃れられはせぬ。

 

 

十、相対から絶対へ

またこちらの方へと戻ります。

 

かように偏った思考または概念に捉はれると矛盾に陥るが故に此の世は苦しくなるのである。

其の苦しくなるのは社会もまた同じなのやもしれぬ。

 

わたくしの言葉で言へば主客即ち個と世界、自然と文明、男女、美醜、優劣などどんな相対概念でも其れは相剋しかつ相即する=相互依存的な関係を保つが故に単独での価値判断の基準を設けることは出来ぬと云ふ意味にて本質的に平等である。

かうして相対概念の一方での価値の追求は矛盾に陥り苦を生ぜしめるのだからこそ元来止めておくべきものなのである。

 

で、近現代社会はずっとより「明るく」より「良ひ」今を或は未来を築かうとさう努力を続けて来た。

だが「明るひ」ばかりとなると其処には「暗さ」が無くなり逆に今の「明るひ」のがバカバカしひ程の脳天気なものとなり次第に冗談のやうに不真面目な社会を築き上げて行くこととなる。

 

また「良ひ」社会をばかり築き上げやうとすると「悪ひ」ものは皆排除されるのでいつの間にか今がほんたうに「良ひ」のかどうかまるで分からなくなって仕舞ふ。

其処で今度は「悪ひ」ものや「暗ひ」価値に生きやうとしたところ悲観主義虚無主義に歯止めがかからなくなり不道徳なサヒトがいつの間にか増へ申した。

 

要するに其れは「正の指向」と「負の指向」のいずれにせよ其れ自体を指向して居てはならぬものだったのだ。

尚近現代の文明の場合は「正の指向」=楽観主義、功利主義の部分を社会的な合理化により此れ迄只ひたすらに追ひ求めて来たのだと言へやう。

 

 

だからそんなものはすぐに矛盾に陥るのだ。

やがてはもう矛盾だらけでどうにもならなくなるのだ。

 

相対分別としての自己矛盾の様とは實は人間の抽象的思考としての癖の問題なのだ。

言葉による概念規定が其の自己矛盾を生み出すのだと言っても良ひことだらう。

 

であるからし禅宗は、さうして釈迦の佛法は只ひたすらに其の自己矛盾としての苦を放逐すべく分別智を消し去り無分別の智慧を獲得しやうとして行く。

 

まずもって其れは大きな努力だが實は其れが社会的な常識に従って居ては決してならぬ価値観である。

善悪も正邪も正誤もまた相対分別としての自己矛盾の様であり人間の抽象的思考としての癖の問題なのだ。

 

 

施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」は多分に社会科的な纏め方がなされたものであるやうに個人的には思ふ。

さう其れは文學的に成立させたものでは無く多分に法解釈、条文解釈の要素が入って居るものと思はれる。

だから此処はわたくしとは極めて相性が良かった。

 

まさに非常に分かり易く兎に角其れまでまるで分からなかった佛法の上での理論的要素が全て此処にて了解されたのである。

勿論難解な部分もまたあるのだが其の難解な部分までもが至極分かり易くまるで複雑な法体系を整理するかの如くに纏め上げられて居る。

 

 

ー宗門系大学ではなく、関西大学法学部に進学した川口は、政治活動に没頭した。地元代議士の故・塩川正十郎氏の事務所の手伝いに勤しみ、選挙活動に尽力したり、自民党大阪府連の青年局で学生部の立ち上げをしたりする中で、「政治家」が自らの進路として頭に浮かび始めていた。

大学2回生の時、父である住職が体調を崩したことで、状況は一変した。

このまま住職の体調不良が長引けば、寺の法務は立ち行かなくなると考えた川口は、仏門に入ることを決意。大学を休学し、政治活動に別れを告げ、臨済宗の僧堂で修行を開始した。ー


かくして川口 英俊禅師は法学部の出身者であったやうだ。

しかも政治の方が御専門であったらしひ。

 

 

 

ー大学休学の二年間における約1年8か月の修行後に往生院六萬寺へ入寺した川口は、住職の体調が無事回復したこともあり、関西大学へ復学。副住職として寺の仕事をしながら大学に通う中で、「やはり僧侶以外の道もあるのではないか」と考えていた。

再び政治活動に飛び込み、議員の応援活動をしながら政策立案について学ぶほか、新たに弁護士を目指し、司法試験にも挑戦した。

結局、司法試験の高い壁に阻まれ、弁護士の道を諦めた。様々な模索の果てに、寺での活動に専念すると腹を決めた。

川口が政治活動や司法に惹かれたのは、「社会をもっと良くしたい」という思いが根底にあるからだ。

僧侶になってから、その思いを現実のものにするいくつかの機会を得た。ー


法学部の出身者には、かの三島先生ではなひのだけれど「社会をもっと良くしたい」との思ひが常に何処かにある。

わたくしの場合には司法試験や公務員の試験とは無縁だったのだけれど、其れでも兎に角社会のことを考へねばならなかった故に塾でもって社会科を教へたのだった。



ー川口は相談を受けると、吐き出された苦しみの裏側にある背景にまで考えを巡らせる。

そして、ただ仏教の教えを伝えるのではなく、当事者である自分を通した上で考えを提示する。

悩みに対する答え全てが、経典から学んできた中にあるわけではないからだ。相手と目線を合わせさられるこの姿勢は、川口の強みだ。

様々な過去世からのそれぞれにおける因縁があり、決して親の業だけがその理由であるわけではないからだ。

過去は変えられないが、これからの因縁は変えていけることを伝え、前向きな言葉で彼らを支援している。


此の際川口副御住職に個人的に是非相談したひ位である。

 


 

 

ー当初は、高い場所から仏の教えを説いていたが、ある時、相談者の悩みには個人差があり、それらひとつひとつに答えることが大事だと気づき、やり方を変えたという。それ以来、相談者の反応も良好だ。

この形式に変えてから、川口の勉強量は格段に増えたという。相談者の悩みに回答するには、引き出しの数を増やさないといけないからだ。

相談に訪れる人々は、ひとつの宗派の方だけではないし、仏教徒以外の方もいる。そのため、様々な宗派、宗教について絶えず学び、自分の知識にしなければならない。ー



「様々な宗派、宗教について絶えず学び、自分の知識にしなければならない。」

まさに御尤もなことである。

 

 

ー現代は、修行が僧侶になる資格を取得するためだけのものになっているという。本来、僧籍の取得後も仏教や他宗派について学び続けねばならないにもかかわらず、そういった修行をする僧侶は減っているそうだ。

そのような状況に陥っているのは、現在の仏教界が宗派主義にとらわれていることに要因があるという。

川口は、これらを解決するひとつの手段として、寺院の単立化(宗派本山の包括寺院ではない宗教法人となること)を提案している。

「宗派という余計なしがらみから逃れた方がよいのです。そうでなければ、困っている人や迷っている人の多くに、すっと傘を差し出すことはできません。」ー


組織は巨大となればなる程より権威を高め末端から搾取の度を強め自らが肥へ太らうとして行くものだ。

故に組織は小さひ方が良く僧侶も偉くはならぬ方が本来の釈迦の教へに沿っても居る。


社会と云ふものは其のやうに余計に矛盾化を加速させやうから決して良ひものには非ず。

現代のグローバル社会は左様にデカ過ぎるが故に自己矛盾を加速させ崩壊へと突き進んで行くのだ。




ー川口がチベット仏教を学んでいるのは、前世とのつながりだけが理由ではない。

哲学的に精緻な論理学と認識論という強固な2つの軸で確立されているチベット仏教が、弱体化してしまった日本仏教界の修道論の復活につながると考えているからだ。

特に、チベット仏教におけるラムリムという思想には、悟りへと至るための筋道が順序だてて説明されており、どうすれば仏になれるかまでが明確に記されている。

チベット仏教をもっと学び、広めることが、いまの日本の仏教界に必ず役立ちます。それは、私の前世からの使命だと思います。」ー



チベット仏教にはいかがはしひ部分もまたあるのだが無論のこと其ればかりでは無からう。

悟りと云ふことはすでに現代大衆には難易度が高過ぎ其れは事實上不可能である。


現代人に必要なのはむしろ宗教の提示する道徳的基盤なのではなからうか。

宗教は必ずしも道徳的目的を持つ訳では無くむしろ場合によって其処には不道徳な部分さへもがあることだらう。


だがごく基本的な生きる上での作法、注意深さのやうなものをどんな宗教の方々でも持って居られる筈である。

ーたとへ新興宗教の人々にも其の点は感じられるー


現代人はむしろ其の生きる上での躾のやうなものがなっていなひのではなからうか。

悟りよりも遥か以前での躾の部分がむしろ一番出来て居なひやうにわたくしには感じられる。


例ー最近狭ひ歩道などを皆が横一列に並び歩ひて御座る。二人でも三人でもさうして横に並び歩く。其の様にもう馬鹿野郎と言ってやりたひ。確かにこちらも自転車なので本来ならば車道を行かねばならぬ。

だが人間は仲間が居るとかうして気が大きくなり緊張感が失せるのではなからうか。馬鹿野郎、仲間が三人居れば其の三人が縦一列にて規則正しく手足を動かしまた対面者の邪魔にならぬやう素早く歩道を歩き切ることが大事だぞよ。

わたくしには現代人の其の此の周囲に対する配慮の無さ振りが兎に角理解出来ぬ。其れも中高生だけでは無く子を連れた👪や五、六十代のカップルなどでも屡其のことが見受けられるからだ。-



「私の中で、仏様は医師で、僧侶は薬剤師という考えを持っています。仏の教えである経典を処方箋として、悩みを抱えた方々に、僧侶が適した教えと分量を調合し、お渡しするというイメージです。」

僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ 往生院 六萬寺 川口  英俊より

 

まさに其の通りで、是非御坊様方が我我凡夫の為の薬剤師となって頂けたら幸甚です。

但し佛法は生に悩み苦しむ人の為の教へです。

逆に言へばさうした性質では無ひあっけらかん人間は此の世には居ます。


其の様やまさに生きてるだけでもうけもん、です。

さうした関西人はいや関西人には限らずさうした明る過ぎる人は要注意です。

逆にわたくしのやうに暗過ぎる人も要注意です。


 

 

相対的相依⇔絶対的実在

 

我我の現象世界では相依存による縁起の関係にて物理現象が連なる訳なので其れは必然的に實在を離れて居る。

 

實在が分離ー分解=限定ーされることで現象が引き起こされて居るとたとへばわたくしはかねてより直観する。

 

實在とは其れ単独で在りむしろ現象せぬもののことです。

 

 

現象せぬものがむしろ在るものであり逆に無ひー本質的にはーが故に有るが如くに見へるーさう認識するー。

現象とはさうした錯誤であり誤謬であり負債であり要するにビョーキのことです。

 

まさに其の現象こそが病なのです。

 

では病では無ひ實在は何処にあるかと云へば實は何処にもありません。

 

何処にも無ひ=限定されぬからこそ其れは何処にでもあるのです。

 

認識とは分離ー分解=限定ーにより人間が今此処に生じさせて居る観念です。

 

其れはまさに時空に於ける認識を可能とする訳ですが其れもまた分離ー分解=限定ーにより人間が今此処に生じさせて居る観念です。

 

其れが客体的に現象して居る訳では無く分離ー分解=限定ーとしての認識がまさに生じさせて居る。

 

尤も正確には観念其れ自体では無くまた客体にも分けられぬ形でもってして。

 

 

さても其の「絶対的な精神の領域への認識の一元化」は果たして釈迦のやうな両極否定にて可能なのだらうか?

 

其れもそも相対領域にて認識の一元化は可能なのか?

實のところを言へばわたくしは其の一元化論には余り興味は無ひ。

 

何故なら其の人間の相対認識とはほぼ絶対的なものでもあるからだ。

 

 

「仏教の視点から新型コロナウイルスによる人類の苦しみをどのように解決していくべきか」往生院六萬寺・令和2年・春季彼岸・施餓鬼法要・法話・関係者限定

なる程有難ひ現在を軽く考へて居た余りに事前の準備や心構へには確かに我我個もまた文明も欠けて居たことでせう。

其処にむしろ智恵を働かせ賢く防御策を講じておくべきだった訳だ。

 

まさに佛法が説く如くに「心の無知」が危機を呼び込んで居る訳だ。

また不安や悲観に傾き過ぎず前向きに何か出来ることを見詰め苦の消滅を図ることも大事だ。

 

但しわたくしの場合は以前からずっと文明の危機感の無さを批判して来て居た訳だ。

其れが偉ひと云ふ訳では無く社会として日常に安住すること無くちゃんと対策なりをやって置かねばならんと云ふことなのだ。

 

要するに社会の備へが何より悪ひ、まるでお粗末である。

 

さうして今後はむしろ複合的な災害こそが恐怖であらう。

 

だがいずれにせよ佛法はどんな時にもかうしてブレずに智慧を示して呉れる筈である。

但し社会には其の智慧の本質的意義など通じはしなひ。

 

 

社会は所詮動物なのだからこそ厳しく叱責しつつ変はるのを待ちたひところながら結局は変はらぬのでせう、つまりは社会を変へることは個を変へること以上に大変なのだ。

まあ当たり前のことではあるのだけれども。

 

社会を動物並に鞭にてビシバシと調教して行くことこそが今後の世界を乗り切る上での一番大事なことである。

ああ、じぶん?

自分やアンタは悪くなど無ひよ。

 

ちゃんと税金を払ってさへ居れば其れは須らく社会の問題だ。

此の際首相やら国会議員やらをビシバシと鞭並に手ひどく批判してみる其の手立てを考へて置かねばなるまひ。

 

ビシ!バシ!

 

痛ーひ、やめれ。

其の痛みこそが國民の痛みだ、そーれビシ!バシ!

 

此の痛みにて目覚め良く分かりました。

我我が仕事せず佛法も無視して居たことにこそ問題があったことが。

 

さうか其れでは君等は今夜から議事堂へ泊まり込みにての徹夜仕事だ。

國民を全員コロナから救ひ出すまでは睡眠時間一時間でもって事に当たれ。

なにせおまへらにとっては國民様こそが神様なのだから。