ー此の夏人間は一度位どーぶつに喰われてみるべきなのではなひか!ー
さて、アマゾンプライムヴィデオでは他に時代劇、極道モノの映画などが楽しく視聴出来る。
特に時代劇は素晴らしひ。
そして其の全部で涙が出る。
何が良ひか?
現実だから良ひのである。
江戸時代だらうが現代だらうが現実はあくまで現実。
金の問題、女の問題、さらにまた家族の問題、社会の問題。
結局は其ればかりである。
人間とは結局其ればかりである。
但し現代は問題がよりややこしひ。
現代の問題は統治者側としてのインテリ層ですらもはやお手上げなのだ。
現代の問題は其処にある意味で直観的な解釈が要求されて居る。
だからほんたうはもっと哲學者や藝術家が頑張らないといけなひ。
だがすでに哲學は観念的に骨抜きにされて仕舞ったのかもしれなひ。
其処でもって考へ過ぎすでに自滅の域に入ったのやもしれぬ。
対して藝術家がものを言ふと決まって何言ってるのだか分からなひ。
其の泣けると云ふ部分にこそ人間として与えられし真実がある。
真実とは真理では無ひ。
真理では泣けないが、もはや終わった真実であれ真実は真実だから泣けるのだ。
かってかうして武士は刀を振り回して居たにせよむしろ其れは野蛮では無ひのだ。
野蛮なのはむしろ現代の自由競争世界なのではないだらうか。
貧しさやら封建制度上の矛盾やら、まさに武士は泣きながらさうした実存的運命と闘ふのではあるが、映画の場合には大抵の場合👪への愛が其れを救ふのである。
いや、其れは現代にせよ最終的には同じことなのであらう。
実際歯を食ひしばりつつ我我が此の世を生き抜くのは其れは自分の為にと云ふよりも👪の為にさうして居るのだらう。
だが其れは所詮は大衆の価値だ。
なのだけれども、所詮は其れが現実だ。
現実とはさうしたことなのであり、まさに其のことを気付かせて呉れるのが下級武士の生き様を描く一連の映画だ。
武士の映画には凄ひ映画もまたある。
映画の題を忘れて仕舞ったが、兎に角腹を切る映画である。
いや、内容の方もどうやら忘れて仕舞ったらしひ。
ただし個人的には中高年層に是非おススメしたひのがSF映画である。
逆に若者に是非おススメしたひのが武士を描く映画だ。
何故なら中高年層、其れも還暦世代より上の世代ともなれば小中学生の頃にチャンバラ活劇やら何やらでそんなものは良く視て居たからなのだ。
今思へばこんなに愉快かつ痛快なTV時代劇は他になかった。語り継ぐ昭和名作ドラマ「素浪人花山大吉」!
焼津の半次は蜘蛛が大嫌ひで蜘蛛が出た時の其の顔つきがたまらぬ。
尚わたくしは融通が利かぬと云ふか堅物的なところがどうしてもある故笑ひを強ひるやうな吉本の芸人など余り好きではないのだが何故か吉本新喜劇自体は好き♡と云ふか嫌ひでは無ひ。
要するにドタバタ喜劇が好きなのである。
其れも普段難しひことばかりでアタマの中が一杯になって居る分人情味のあるドタバタ劇こそが好き♡なのだ。
尚三河の殿様松平 健は余り好きではなひ。でも嫌ひでもなひ。
竹下景子はお嬢様学校出でそこそこのインテリである。
ワインだとかで妙に背伸びして居たインテリ女優川島なお美は若くして死んだ。
松原 智恵子は最高に美しくかつ人間的にも素晴らしくまさにわたくしにとってのあくがれの婆様だ。
兵藤 ゆきは相生山に実家があった。勿論ドラゴンズファンである。
玉木 宏のことはよう知らん。
ザピーナッツは五十年代後半に市内で歌っていたのだそうな。
わたくしはまだ生まれて居らぬゆえ知らなかったのだが。モスラの歌 ザ・ピーナッツ 1961《映像編》
さて、山本周五郎時代劇 武士の魂ーアマゾンプライムヴィデオで視聴ーがまさに素晴らしかった。
もう、何とも言へず素晴らしひ。
即ち封建制と雖も時代には常に社会の矛盾があり、其の社会の矛盾と常に相対する形で武士は生きて来ざるを得なかった。
其の武士は刀を持つが故に肉体派かと思いきや常に精神的な存在なのだ。
我我は今武器ー危険なモノーを手には持たざるが故に實は精神的に可成危なひところへ追ひ込まれても居やう。
だから其の武器は、必要だ。
武器とは即ち精神だ。
尚かっては御坊様方も武器を手にしたものだった。
たった今此処に日本刀の美こそが是非必要なのだ!
かの日本刀の美とは其れ即ち精神の美のことぞ。
武士は愛を守り抜く為にさうして闘ふのだぞよ。
無論のこと真の保守とはさうしたことだ。
真の保守とはまず剣の腕を磨かねばなるまひ。
剣の腕を磨きすぐさま敵の首を刎ねよ!
ちなみに剣道とゴルフの基礎は同じだ。
其れは敵の首を刎ねると云ふことじゃ。
一体何処が仏教詩人なんですか?
分からぬ、元より其れだけはわたくしにも分からぬ。
確かにカッコイイと云ふことだけで武を肯定などしてはならぬ。
ただ、現実として此の世は闘争の世界ぞ。
其の闘争の領域が抽象化しただけの話なのだ。
刀→経済力、軍事力→IT力へと移行しただけの話なのだ。
だから基本構造は何ら変わってなど居らぬ。
武士は企業戦士またはマイホームパパへと変身し、さらに今は草食男子、趣味の無ひ堅実廿代へと移り変わっておる。
其の堅実も草食もひとつの闘ひぞ。
刀が無ひだけのことで實は全部が闘ひなのだ。
尚個人的には「壬生義士伝」で佐藤 浩市が演じたところでの斎藤 一が好きです。
が、かように危険な男は破滅するかと思いきや何と生き延び孫さへ持つに至る。-映画での設定上は-
ところが、中井 貴一演じる妻子を死ぬほど愛した男吉村 貫一郎は逆に腹を切らねばならなくなる。
勿論此の部分は浅田 次郎氏による創作の部分なのだと思ふ。
なんですが、其の対比は見事と申す他は無し。
斎藤 一は事実生き延び警察官となります。
佐藤 浩市のやうに女たらしであったかどうかは不明ですが兎に角とんでもなひ手練れであったと云ふ記録も残って居る。
兎に角佐藤 浩市の女たらしの度が凄過ぎます。
佐藤 浩市は女っぽい心を持つ男性が酷く嵌って仕舞ふ役者ですのでしかも危険ですので余程に気をつけませう。
其の一方で兎に角中井 貴一の真面目さが光ります。
或は地でいっていたのではなかったでせうか。
さう真面目な不揃ひの中井君としての。
「たそがれ清兵衛」での真田 広之もまたイイです。
ちなみに真田 広之の眼付きがわたくし嫌ひなんですが生活苦にめげず真面目に家事全般をこなす男性の持つ真摯な眼差しと云ふものにつひ心が動ひて仕舞ふのです。
「雨あがる」での寺尾 聡もまた素晴らしひ。
剣の腕はあっても仕官が叶わぬと云ふ矛盾を抱へ生きさうして其の苦境を支へる妻が居る。
かように昔の女は兎に角精一杯働き甲斐性の無ひ旦那を肉体的に支へて居った訳です。
其の様や不倫どころか、用事も無ひのに家から一歩出ただけで打ち首です。
結局屈折やら苦節の部分が無ひと特に時代劇は面白くはなりませぬ。
結局封建時代は貧しかった。
下級武士の暮らしの苦しさはまさに爪に火を点すが如きもので今のやうに楽な暮らしはたとへしたくても不可能だった。
其れでも武士として其の魂、武士は食わねど高楊枝、との其の心意気または志の高さばかりはおそらく確かにあったことでせう。
逆に刀を振り回して居たので無用な殺生を避け其処で生の尊さや人への優しさの意義に気付いて居たのやもしれぬ。
近現代へと時代は移り変わり豊かにはなった我我ですが逆に格差は拡がるばかりでたとへば今でも餓死する人さへ居るやうです。
また全般的に心の方がさもしひものとなりつつある。
或は何故さうなって仕舞ったのかと云ふことの答へを是等の映画やまた文学作品から汲み取ることが出来るのやもしれぬ。