目覚めよ!

文明批判と心の探求と

文學としてのあるべき暗さーわたくしの五木 寛之論ー

さて戦前の生まれの人達は戦後の生まれの人達とは何かが違ふやうだ。

 

謂はば少々のことではへこたれぬ強さを彼等は持って居るやうだ。

 

其れと比せば戦後の生まれの人達は何処か心が本質的に弱くてダメなのだ。

 

だが其れはほんたうにさうなのだらうか?

 

心が本質的に弱くてダメなのでは無くさう社会に調教されて来たばかりでのことではなひのか。

 

人間の心其れ自体が大きく移り変わって来た訳なのでは無く社会が好んでさう調教して来たと云ふことであるに過ぎぬ。

 

 

所詮人間の心とはさうした社会的な構築物なのだ。

 

だから具象性を帯びたところでの前近代的な価値に血道を上げることもあれば抽象性を帯びし近代的で且つ未来的な価値に突き進む場合もある。

 

前近代的な価値の追求とは主に衣食住を如何に社会的に充たすかと云ふことだった。

 

其れが成った戦後に於ひて社会は抽象的に欲望をシフトしていく。

 

其れはもはや単なる🚙では無く洗濯機でもなくTVでもなくより良ひとされる🚙であり洗濯機でありTVなのだ。

 

 

だが往往にして社会には危機が訪れやう。

 

そんな時に役立つのはより良ひとされる🚙であり洗濯機でありTVでは無く人間の根性其のものなのやもしれぬ。

 

 

 

「人と接し、本質を知る」五木寛之氏が語る人生の深み

 

尚わたくしは五木 寛之先生が生きてまさに其処に描き出して居られる精神の幅乃至は深みのやうなものがとても好きである。

五木 寛之先生はわたくしの父母と同ひ年でもって所謂昭和一桁生まれの人即ち戦前の生まれでの人だ。

 

五木 寛之先生は早大の露文学科中退の方なので露西亜文學には兎に角詳しひ。

わたくしもかっては露西亜文學に親しんでも居たので自然と先生がお書きになるものに対して興味が湧ひたのだった。

 

さらに人生の後半生を佛教の方へと捧げられても居るのだ。

主に浄土の思想を追求され親鸞上人のことを屡述べられても居る。

 

 

あれは廿年程前だったか、五木 寛之先生の講演会へと父と母を伴ひ出向ひたのだった。

新聞社の方にわたくしが応募したら券が三枚手に入り其の時点ではわたくしだけが妙に興奮して居たものだった。

 

講演会でもって五木先生は日本の自殺者のことばかりを何故か論じて居られた。

他にも何か話はあったことかと思われるが兎に角さうした話ばかりなのであった。

 

だが五木先生は純文學と云ふよりも直木賞作家であり作詞家なのでもあり元々世間のことを様々に知って居られる方なのだ。

 

其れにTVなどにも良く出て居られ其処は所謂権威としての偉ひ作家先生方とは少しく違ふのだ。

 

 

ところが基本的には兎に角話が暗ひのである。

 

尤も其の暗ひ話こそが気に入ったのではあったが。

 

何故なら廿年程前にそんな暗ひ話をして居る人など作家には限らず誰も居なかったのだった。

 

かうしてわたくしは暗ひ話を聞くと何故か心が落ち着く。

 

進歩だ利益だとさうして文明社会がしゃかりきになり前向きな思想を世に蔓延させて居るまさに其の時に五木先生がイキナリそんなお話をされると何だか心が慰められたりもするのである。

 

 

尤も五木先生は特に左翼なのでは無くまた原始佛教的なアナーキズムに染め上げられし人なのでも無ひ。

 

むしろ余り思想は語られずにでも色々と思想じみたことを語られても居られる。

 

そんな思想的に訳の分からぬところが多分好きなのではなひか。

 

 

先生はおそらく辛ひ体験と幸運を交互に積み重ねて来られて居るのだらう。

 

其の人生に於ける振幅を身をもって経験されて来て居るのだ。

 

だから暗ひ話にせよ其処には深みがある。【時代と寝た】五木寛之 歴史を語る

 

実存としての体験の深みこそが其処に語られて居るのだ。

 

 

 

先生は戦後の引揚げ者としての強烈な体験を持ち其ればかりか母親をむごひ形で亡くされて来ても居る。

おそらく其処には人間への憎悪や不信、或は体制や社会への疑惑や否定の念が渦巻ひて居たことであらう。

 

さうしたまさに理不尽な生への声にならぬ叫びがおそらくは作家としての五木 寛之の根本のところに渦巻ひて居たのだ。

 

だから其れは矢張りと言ふべきか純文學としての悩み其のものなのだ。

 

まさしく其れは人間とは何かと云ふ問ひの部分である。

 

さうして暴力を社会にまで拡張し個としての人間の運命を悪ひ方で翻弄し続ける人間の社会とは一体何か。

 

 

其の問ひを解く為に先生はまさに浄土の教へと向かわれたことだったらう。

 

 

さうした人間の罪深さ、救はれやうの無さをかの露西亜の文豪達もまた挙って描き切って居たのだった。

トルストイがまたドストエフスキーが、さうしてソルジェニーツィンが人間及び人間が集ふ社会を描き切った如くに先生もまた其れを行った。

 

さうして人間は罪深ひ。

 

どうしやうも無く罪深ひ。

 

罪深ひのでわたくしなどはもう逃げたひ。

 

こんな奴等にはハッキリ言って付き合って居られぬ。

 

 

兎に角早う逃げたひばかり。

だが戦前生まれの五木先生は逃げなひ。

 

 

まさに其処が偉ひのではなからうか。

 

 

先生は御自分で自分が暗ひと仰せでもあるが其処は逃げて居なひ分だけ随分と御立派です。

 

嗚呼、我我は此の戦後生まれの甘やかされし我我は果たしてこれから先を持ち堪へることが出来るのだらうか?

 

持ち堪へることが出来ぬと見ておく方が或は正しひ見方なのではなひだらうか。

 

 

と往々にして悲観する。

 

悲観すると精神が危なひので宗教へと走る。

 

 

其れでは如何にもマズひでせう?

 

全然マズくはありませぬ。

 

 

マズひのはあくまで現代文明の方だ、其れ即ち社会の方だ。

 

 

 

五木寛之作品が暗いエンタテインメントなのに支持される理由

 

五木先生は四十代以降三度も鬱の経験をされて来て居るのだと云ふ。

五木先生は謂はば鬱の大作家なのだ。

 

いや素晴らしひ。

まさに鬱を勝負にされて来て居られる大作家様だ。

 

尚皆様どうかご安心召されよ、鬱と云ふのはお利口さんしか其れも可成のお利口さんしかかからぬ病気である。

 

 

さて其の「暗さを大衆は支持した」のは何故か?

 

其れは暗ひのが人間にとり眞實だからなのだ。

 

暗ひのが人間にとりほんたうのことで後の明るさなどは所詮みんなウソだ。

 

暗ひのは芥川でも太宰でも似たやうなものながら五木先生は其れをあへて昭和~平成の時代まで貫き通して来られた分流石の大作家様である。

 

 

「そこにはただ腐った人間がいた」戦争のリアルを語り続けるということ

 

此処に語られしなかにし礼氏の体験などからしても確かに人間は腐って居り其の腐り方はむしろ普遍的なものだ。

 

そんな腐りし人間存在への絶望をまさにイヤと云ふ程に体験して来ざるを得なかったのが其の戦前生まれの人々でもあった。

 

だが我我戦後生まれが其の腐りし人間存在への絶望から免れて居る訳では元より無ひ。

 

我我はまた違ふ次元で其の腐りし人間存在への絶望と向き合って行かざるを得なひ。

 

 

さうして欠食やレイプや國家が行ふ人殺しから直接被害を受けずとも良くなった我々にせよ其の本質としての人間の抱へ持つ罪からは逃れられはせぬ。

 

逆に社会が其のどうしやうもなひ人間の醜さ、あさましさを隠蔽した分我我は普段から其の事實に気付かず安易に人間を信じて仕舞ったりもするのである。

 

 

どだひ近頃何故小学生の女の子が知らなひおじさんに擦り寄って行ったりもするのであらうか?

 

昭和の頃は学校でもって「見知らぬ人に近寄ってはいけません」などと必ずや先生が教へて呉れたものでだからそんなことは普通あり得ぬことだったのだ。

 

また「見知らぬ男の人の住み家へは行ってはいけません」などと必ずや先生が教へて呉れたものでだからそんな女子高生が何人も芸能人の住み家へ入るだのそんなことは絶対にあり得ぬことであった。

 

 

此のやうにむしろケジメが付かぬ世の中にして仕舞ったことこそが廿一世紀での文明の根本的な選択の誤りの部分なのだ。

 

また危なひからナイフを使ってはいけません。

溺れるから池や川へ入らぬやうに。

 

さう云ふ教育こそが危険なものをむしろ教へぬ教育なのだ。

 

さうでは無く親父に殴られ鼻血が出て初めて自らの過ちを認めることが出来やう。

 

さうして教師に鞭にてシゴかれてこそ自らの過ちを認めることが出来やう。

 

 

よって左翼教育ばかりではダメだ。

 

また戦前の教育ばかりでもダメだ。

 

 

さうした右左での振幅をよーく見極め同時に人間をしかと疑ひ五木先生の如くに暗ひ暗ひ大人になっていかう。

 

そんな暗ひ大人になればなる程に窮地での身の処し方と云ふものが分かって来やう。

 

と云ふか兎に角普段からいつも暗ひ。

 

常にジトーッとして居て楽しひことなど本を読む以外には何も無ひ。

 

 

すると庭にお花が一輪咲ひた時の其の喜びたるやまた物凄ひものよ。

 

嗚呼、かうして自然界には春の喜びが満ちて居る。

 

 

だけれども人間はいつまで経ってもドス黒く嗚呼まさに腐っておる。

 

其の絶望と向き合ってこその人間ぞ。

 

其の絶望から鬱にならなくてどうする?

 

 

との訳で其の鬱こそはむしろ正しひ鬱だ。

 

正しく無ひのは何でも前向きに捉へケジメを付けずに見知らぬオジサンの家へ女子小中高生がのこのこと入っていくことだ。

 

そんな訳で大作家五木 寛之先生の人間の本質を見詰めるお仕事の全てがまた正しひ。

 

 

其の基本的に暗ひと云ふまさに其の精神のスタンスをこそ現代文明は學ばねばならぬ。

 

何でも自由でもって民主的に許されるのでは無く何故なら根本として人間はとんでもなく穢れて居てまたとんでもなく腐って居るからだ。

 

其れを見詰めるのがそもイヤなので必然として精神は鬱へと陥るのだ。

 

 

つまり其れが其れこそが人間の本質を正視して居る様なのだ。

 

逆に鬱にはほど遠ひ奴等には人間としてのまともな魂が宿ってなど居らぬものだ。

 

其のやうに文人はもうイヤと云ふ程に人間の素っ裸の姿を見詰め続けていく。

 

 

即ち其れが文學と云ふものなのだ。

文學とは人間を正視すると云ふことだ。

 

畢竟其れは正視するに耐へぬ人間をあへてさうして何処までも見詰めて行くことなのだ。