目覚めよ!

文明批判と心の探求と

むしろ喜んで「下山」していくべき我我

 

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さうして普段は隠されて居て見へぬことが非日常の状態ともなれば次々と噴出して来たりも致します。

前回少し触れた戦争に於ける理不尽さと非日常での不条理さとは本質的に同じものです。

 

理不尽さや不条理は往往にして理性的なものではありませんから人間は何とか其れを撲滅しやうとして闘って参りました。

 

其の努力をもしも進歩とさう呼ぶのであればまさに其の努力乃至進歩は決して悪ひものでは無くむしろ望ましき理性の展開として捉へられやうものです。

 

其の意味では近代としての文明の営為を須らく否定することなどはかなはぬ。

 

近代とはまさに理性が開闢させるに至った世紀なのであり謂はば其処で本能に基づく原始的な欲求を放逐することを目指した時代其のものだった筈。

 

 

なのですがむしろ其処からが問題なのでした。

 

近代とは時代其のものがそんな理性其れ自体の枠内にあり即ち法治國家としての体面を保ち前近代的な搾取による不平等を根絶させていく理性的努力の賜物である筈だった。

 

ところが往往にして時代はさうして社会は矛盾致します。

 

むしろところどころに前近代以上での強欲がバラ撒かれ其れが圧倒的多数の人の死に繋がったり理不尽さや不条理な様を蔓延させたりも致しませう。

 

だからまさに其れが理性の矛盾であり欲望の矛盾なのです。

 

人間がさうして良かれと思ってしつつあることがむしろどうしやうもなひ地獄の様を形作って仕舞ふ。

 

 

なのですが個としての庶民には元より其れに抗ふ力などありません。

元より個としての庶民には至極限定されし力しか与へられては居なひ。

 

其処でどんなに明晰に考へることが出来たにせよ其れこそ作家の大先生でも無ひ限り何を言っても黙殺されて仕舞ふのが関の山です。

 

わたくしはそんな「理性の無視」のやうなものに我慢がならぬのであります。

 

庶民には確かに馬鹿もまあ多ひものですが馬鹿ばかりでは無く其処にはちゃんと地道に人間や社会のことを考へ続けて来て居る人もまた居るのだ。

 

其の種の理性が蹂躙されることに対して兎に角我慢がならぬのだ。

 

 

人間がさうして良かれと思ってしつつあることがむしろどうしやうもなひ地獄の様を形作って仕舞ふのは其の在野の理性の力を信じて居なひからだ。

 

わたくしは人間などまるで信じては居なひのだが其の在野の理性の力がそこかしこに存在するのではなひかとさう思ふにつれ其の種の理性の力だけは信ずるやうになって来たのだった。

 

其れは謂はば理性への信仰乃至は信心である。

 

但し其れは合理主義なのでは無ひ。

 

むしろ人文主義による理性への信仰乃至は信心である。

 

 

五木 寛之先生が示されるところでの知性にはそんな現代文明の推進力であるところでの合理的理性によるもの以外での理性の力を強く感ずるのである。

 

 

此処でまず五木 寛之先生はまず明らかに究めよ、とさう申される。【五木寛之】この時代に必要な 『覚悟』《学問ノススメ》vol 152

 

明らかに究めるのが人間の知性としての覚悟なのだ。

 

物事の内容を明らかに究めて行くと先生の如くに誰にも負けなひことだらう思考力が自然と養成されても来やう。

 

 

さうして嫌なものをむしろ見よと仰る。

 

嫌なもの=価値として正反対なものをむしろ見詰め続けていくことこそが一つの大きな価値なのだ。

 

どだひああして文學者は皆自分から死んで仕舞ふ。

 

そんな不気味なものを一体誰が好き好んで見たひものか。

 

 

不気味なもの、淫靡なるもの、地獄の責め苦、さうしたものはむしろ此の世に於ける一方での属性なのだ。

 

だから人間は必ずしも嫌なものが嫌ひなのでは無ひ。

 

なのだけれども、勿論其処には限界があり誰しも愛する者の死や愛する世界の破滅を望んだりはして居なひ。

 

要するに自己の範囲内では決まって地獄を避けるのだが他人が地獄でもってもがくのはむしろ誰にとっても眞の苦痛では無ひ。

 

本能=煩悩=獣性からすれば所詮はさうなのだ。

 

だが理性=知性からすれば必ずしもさうで無ひ。

 

 

眞の理性はむしろ他人が天國へ入ること、また浄土へ旅立つことを心から喜ぶ。

 

勿論其の天國や浄土こそが此の世に於ける一方での属性なのだ。

 

もっと限定して言へば美人でもってして貞淑且つ知性に溢れた妻を娶り優秀なる子を授かった。

 

其れもまた現世利益ではあるのだが獣性にとってはまさに其こそが天國であり浄土なのだらう。

 

 

人間の心と云ふものは其のやうに二元的に分裂して居る。

 

なので其の原理に基づく世界は基本的に不安定な世界とならざるを得ぬ。

 

相対分離世界であることこそが此の世の實相であり其の相対分離を心理的に離れなければ其処に成佛など成らぬ。

 

さう云ふ難しひ佛教哲學のやうなことを考へずとも自分の心に二面性があり其処に悪ひ奴と善き奴が常に対立する様を我我は実感的に良く知って居る。

 

 

明らかに究めるには兎に角其の両極を同時に見定めていかねばならずさう云ふのが出来るのはおそらく直観出来る人であらう。

何せかうして直観が得意なわたくしです。

 

其の直観せしところを何処までも述べよ、ともしさう言はれたならば実際何処までも其れを述べても行きませう。

 

其の直観は五木先生にもあるそうです。

五木先生は戦前生まれの高齢者には似合はず物凄く過激なことを述べて居られますがまさしく其こそが其の直観によるものなのだらう。

 

 

其れによれば近く人間には大きく社会が変はることだらう変化が訪れるとさう仰る。

 

即ちある意味で廿一世紀とは時代の危機としての時代である。

 

其れは五百年に一度の大きな崩壊であり一面ではルネッサンス以降のヒューマニズムの崩壊に繋がるものなのかもしれなひなどとも述べられた。

 

 

個人的に此の認識こそが的を射たものだとわたくしは思ふ。

いずれにせよ廿一世紀は人類又は文明にとり特別な意味を持つ時代であらう。

 

先生の仰る其のヒューマニズムの崩壊とは「行き過ぎた合理化」による人間に対する諸の破壊に関して述べられたものだとわたくしは解する。

ところが社会が変はるにせよ、實は其処でよーく考へてみると社会は別にそんなにしゃかりきとなり変はる必要など何処にも無ひのである。

 

 

だから、昨日と今日が同じでは何故いけなひのだ?

今日と明日が同じで困ることなど一体何処にあるのだらう?

 

其れに二番じゃ何故いけなひんですか?

たとへ三番でも四番でも百番でも千番でも結局皆同じ人間なのですよ。

 

全くこんなに食ひ物に囲まれて居ますとむしろ何が美味ひのやらマズひのやらまるで分からなくもなる。

其の割に昔母ちゃんが作って呉れた本物の味がもはや何処にも出て居なひのだが。

 

 

現代社会がグローバルに資本主義を展開してしかも共産主義の中國から病原菌が出て其れが世界中に蔓延するのは最高に皮肉な結果です。

其の病原菌も結局はグローバルな儲け主義が齎したもので誰に責任があるのかと言へばズバリ自由貿易を推進した新自由主義者達にこそあらう。

 

要するに全ては思想の持ち方の誤りでの問題だ。

 

 

そんな風に社会の思想が悪ひので人類はいつまで経っても幸せにはなれぬ。

 

「行き過ぎた合理化」=「行き過ぎた価値の抽象化」は当たり前のことながら人間性をもうイヤと云ふ程に圧迫して参りませう。

 

なので今小中学生また高校生がやらねばならぬのは塾の先生や学校の先生に躊躇わずに疑問をぶつけてみることです。

 

社会が変な思想に染まらずにそれぞれに國の分を守ってほどほどに生き抜ひて居れば無論のことこんなパンデミックなど起こりやうも無かったのです。

 

 

かってとの人心としての肌触りの違ひ、世界の空気の入れ替はりのやうなものを感ずると凡そ十一年前の五木先生は述べられて居たのだった。

 

だが其の頃にまさか世界がこんなことになるとは勿論誰も思ってなど居なかった。

 

無論のこと其処から生まれたのが「下山の思想」である。

 

文明はもはや躁の時代から鬱の時代へと移り変わって行く他は無ひ。

 

 

文明の進歩はおそらくすでに臨界点を越へて来て居るのだらう。

かうして我我は三百年間にも亘り充分に搾取し尚且つ充分に自然を壊し続けて来た。

 

其のことによる破壊とはまさに罪である。

地獄へと真っ逆さまに堕ちて行くまさに其の罪の内容だ。

 

だがもはや現代人の心は曇って居る、腐り切って来て居る。

 

道義的な基準其のものを失ひつつある。

 

いやむしろ自分から其れを壊した。

 

 

だから神は怒った。

 

おおー、今まさに神が御怒りだ!

 

さても困ったな、先は見へず、不安ばかりが先に立つ。

 

 

其れも此れも全ては文明による選択の誤りによるものだ。

 

先生によれば以降の世代は「下山の時代」を生きていく他は無ひ。

 

経済成長はもはや回復せず。

 

むしろ下降していく。

 

人口も減少し、GDPなども勿論減る。

 

 

其のやうな負の連鎖にどう立ち向かふべきなのか?

 

實は其のやうなマイナスの成長を唯物思想は認めて居なひ。

 

共産主義であるにせよ計画経済にて経済力は其処に維持されやう。

 

其れを述べたのは世界で唯一五木文學でのみ。

 

 

さあ、下山だ。

 

かうして意気揚々と下山するのだ。

 

 

経済成長などはむしろ恐るべき幻想だ。

 

資本主義はよくもこれまでそんな幻想を信じ込んで来たものだ。

 

経済成長すればする程に大宇宙の摂理から外れ文明を滅亡の淵へと追ひやることを何故悟らなかったのか。

 

 

さあ、下山だ。

 

むしろ楽しひ山下りだ。

 

下山とは収穫期だ。

 

おおまさに其のハーベストタイムのことだ。

 

 

だがわたくしは其の収穫ももはや無理だとさへ考へて来て居る。

 

即ち五木先生以上に文明に対しては悲観的なのだ。

 

 

其れどころか飢饉は必ずや来るとさうも述べて来た。

 

イザ飢饉にでもなればもうエラヒことだぞよ。

 

今のうちに沢山食べておかう、かうしてごっくんと。

 

そんなものではまるで食ひ溜めなど出来ぬ。

 

 

さうして蟻を食べ木の根を掘り道端の草を皆食べました。

 

勿論そんな風には誰しもなりたくは無ひ。

 

 

だが今回の件でもって文明は決して余裕がある訳では無くすぐに壊れる虞のあるものであることが誰しも良く分った。

 

だからむしろ自分から「下山」すべきだ。

 

いやむしろ今若ひ人々は下山をし始めて居るのではなひだらうか。

 

さうしてゴルフもやらず車も買はず恋愛もせずで。

 

其処はむしろ素晴らしひ草食振りだ。

 

 

むしろイカンのは高度経済成長に慣れた七十代以上なのではなからうか。

 

高度経済成長と云ふ思想はむしろ最悪の思想であった可能性すらもが今此処に至り出て来た。

 

即ち其処に価値観の大転換が齎される可能性もまた出て来た。

 

 

経済成長反対!

オリムピック反対!

 

長期休業賛成!

五木 寛之賛成!

 

文學を支持!

科学技術は不支持!

 

兎に角もう下山したひ。

 

 

だが今後生まれて来る世代は必然として「下山」して行かざるを得ぬ。

 

さう云うのは悪ひ運命では無くむしろ望ましき未来である。

 

イヤイヤながら進歩思想に踊らされて来し我我よりもずっと幸運だ。

 

イヤイヤながら🚙でもって飛ばしお立ち台の上で踊り酒を飲まされつつ営業ノルマを課せられて来し我我よりもずっと幸運だ。

 

 

かうして「下山」は悪ひことでも後ろ向きなのでも無くむしろ将来を直視した上での前向きなことだ。

 

日本國の運が悪くて仕方なく下山するのでは無く下山しなければ文明の継続は無ひからむしろ喜んで下山するのだ。

 

下山したにせよ最低限食っていければ其れでもって御の字だ。

 

2050年まではさうして下山しつつ細く長くやっていくべし。

 

 

2050年以降の文明はもはや存続の保証などまるで出来ぬ。

 

2050年以降の文明は事實上崩壊の一途を辿ることだらう。

 

だがまさか其処までは五木 寛之先生も考へては居られぬやうだ。

 

 

何せ戦前の世代には戦後世界への期待感が何処かにあるものだ。

 

だがわたくしにはそんなものは無く兎に角戦後世界に対してはビシバシと鞭打つばかり。

 

さて抽象的に進歩を遂げる文明程滑稽なものもまた無ひ。

 

ほんたうは幼稚園児にも分かりさうな程に其れはバランスを欠き其れ以前に兎に角馬鹿げても御座る。

 

 

抽象的な進歩を止めること、只其れだけで此の世の中はまさに救はれるのだ。

 

そんな抽象的な進歩など人類にとっての不幸を齎すだけだ。

 

逆に具象的な進化ー肉体としての進化ーこそが我我をして今此処で幸せになる為の唯一の道なのだ。

 

 

ところで五木先生ー🐺大作家様ーはまだ生きておひでですか?

 

加島先生などはあっと云ふ間に亡くなられましたので何やら心配なのですがまだ大丈夫でしたか?

 

少なくとも十一年前まではペラペラと良く喋られる方でもって實にお元気だったのですね。