輪廻転生の有無や死後の世界の有無は相対的規定ー論理的判断ーであるが故に一方の結論に傾くことが無意味なこととなります。
即ち輪廻転生を有無と云う絶対的価値観で肯定または否定することがそも出来なひのであります。
また死後の世界の有無も同様に絶対的価値観でもって肯定または否定することがそも出来ぬ。
宇宙が無限か其れとも有限か、神は存在するか其れとも存在しなひか、また佛は居るか居なひか男女の本質的な違ひは有るか無ひか、世界は観念のみから生ずるのか否かと云ふ具合にあらゆる形而上の問ひは肯定または否定することがそも出来ぬ。
かように相対的絶対領域は必然的に相対矛盾を生じ其れ以上論理ー言葉ーでもって記述することが出来なくならう。
なので其処が理性の限度、限界なのだと云ふこととなりませう。
即ち形而上の問題への回答は必然として戯論に陥りませう。
そも、認識と云ふ作用其のものが分離ー直接的では無ひ把握ーから生ずるもの故癖のある偏った見方のみをして居ると云ふこととなる。
かように認識は真に対象を把握する力には元々欠けて居る。
なんだが認識として知覚せられた世界を生きざるを得ぬのが我我人間なのです。
尚其れは観念的認識なのだと云ふこととなる。
対する動植物は観念的認識でもって世界を生きては居りません。
人間にはそんなややこしひ観念世界が拡がる故自然物のやうに其のままで生きてはいけぬ。
實は其れだけが問題なのです。
宇宙の大問題とは宇宙を規定する物理法則を大統一するとかそんなことではなしに人間の持つ癖=罪または煩悩への執着を如何にして断って行くかと云ふことのみ。
さう捉へるのが宗教の本義としての役割です。
其れでは何故其の罪または煩悩への執着がイケナひことなのかと云ふ部分ですが、其れは何度も述べましたが如くに其れが最終的には破壊しか齎さぬものであるからです。
相対分別による相対矛盾は結局破壊へと全てを導ひて仕舞ふと云ふことだ。
宗教でも純粋なものとなればなる程其の人間の本来持つ業の部分、其の業としての救ひ難さを嫌と云ふ程に述べて来て居りますし其の意味では我我をして野放しにして居る訳では御座ひません。
事実として人間は性悪です。
其れも近代以降其の性悪の度が肥大化して参りました。
さて認識論とは左様に實に厄介なものを孕んで居ります。
では認識とは何だと云ふことになりませうがあくまでわたくしの直観からは其れは分離だと云ふことを申しました。
と云ふことは認識其れ自体に大きく問題が生じて居る可能性が高ひ。
元々現象を直観すれば、其れは空であり虚であり非実在であると云ふこととしかならなひ。
対して感覚のままに見れば現象だけが実在して居るかのやうに見えるのです。
現象だけが真であり實であると云ふ其の錯覚と云ふか錯誤と云ふか偏った見方、誤った見方をする癖を我我は持って居る。
持って居るから其れは在る。
我我にとってはあくまで在る。
だが其れは単なる癖だ。
如何にも人間クサひ癖なのだとは申せませう。
分離したのであくまで其のやうにしか見へて居なひのであります。
で、しかも其処でもってせっせと構築を始めて仕舞ひます。
常⇔無常=常住⇔断滅、分離⇔未分離=人間⇔自然、観念⇔肉体=認識論⇔存在論、と云ふやうに分けて世界を捉へ生きるのは良ひが其の分別が欲望を生むので結局破壊に勤しんで仕舞ふこととなる。
其の破壊を止めやう、破壊を元から断とうとなされたのがお釈迦様の理性的闘ひではなかったかとわたくしは思ふ。
ただし其の闘ひとは戦闘では無く理知的な放棄にこそあった。
左翼が戦争反対!と叫ぶのとは違ひ其の放棄はまさに完全なる自主的放棄だったことでせう。
「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足は満たされることはない。快楽の味は短くて苦痛であると知るのが賢者である。」ダンマパダより
確かに欲望は充たされ得ぬ。
快楽には限りがあり生存にも限りがある。
限りがあるだけに目一杯楽しもうと云ふそんな論理にも根拠が無ひ訳ではなひ。
なんだけれどもより大きな欲望の領域を捨て去って置かうと云ふのがあくまでじぶんとしての考へ方であった。
即ちわたくしにとって美だけは捨て去ることが出来なかった。
他は女も金も車も家ーの継続ーも皆捨てて来たのだったが。
尚、欲望は全否定されるものには非ず。
何故なら欲望を抑へ過ぎると人間は死に至らざるを得なくなる。
死んで苦しみから逃れやうとするのは生きて欲の花を咲かせるのとまるで同じことなのだ。
ただし飽くことなき欲望は其れが肥大化すればする程に破壊を齎す。
なんとなれば世界は限定だからもはや何処からも掠め取れなくなり其の肥大化した欲望もろとも自滅する他なくなる。
「快楽と不楽と家の執着する思慮とを、すべて捨てて、なにものにも欲を起こすな。かれこそ、欲を離れているから、無欲の修行者である。」テーラガーターより
逆に苦しひところへ追ひ込むのも實はダメ。
女房子供や家に執着するのも矢張りと云ふかダメ。
ではどうするかと云ふとそも捨てて居るのでー相対分別による価値ヒエラルキーをーもうまるで何も見て居なひ。
見へて居なひのではなく、見へ過ぎて仕舞ふが故に實は見ては居なひ。
こんな風に釈迦の仏教は徹底的に理性化されし無欲の仏教。
しかも宗教的権威にせよ教団の伝統的存続、世襲、などにつきほとんど顧みるところがなひ。
どだいさうしたものこそが価値ヒエラルキー建設の牙城とならうからそんなものにはそも興味が御座らぬ。
「われは、死を喜ばず。われは生を喜ばず。この身体を捨てるであろう。ー傭われた人が賃金をもらうのを待つように。
二つの極端のどちらによっても、これは死のみである。(この生涯の)先にも後にも不死は無い。道を実践せよ。滅びるなかれ。瞬時も空しく過ごすな。」テーラガーターより
聖者にとって、死は喜びー救ひーの対象ではなく、同時にまた生は喜びの対象ではなひ。
さらに肉体にも執着することも無ひ。
肉体はむしろ牢獄であらう、観念とは違ふ方向でもって其れは牢獄だ。
二つの極端を避ける、即ち常でも無常でもなく、また生でも死でもなく、尚且つ女でも男でもなく、人間でも動物でも無ひものへと。
極端に寄り添ひ生きると死が待つのみ。
何故か?
其の極端には最大の欲望が宿って居やうからなのだ。
まさしく其の極端こそがヤバい。
ヤバいが、實は視野が拡がる。
両極を見詰めることでこそ大きく見詰めることが出来る。
ただし其処に固着するなとの仰せであらう。
尤もこんなに固着して居りたひのではあるが。
滅びるなかれ?
其れは相対分別者に対する教へで御座りませうか其れとも現代文明に対する教へなので御座りませうか。
其の相対分別の巨大化が文明と云ふこととなるのでは御座りませぬか。
「ブッダによって説かれたようにそのことを理解する人は、いかなる迷いの生存をも受けない。-ひとが灼熱した鉄丸をつかまえないようなものである。
われには(われが、かって存在した)という思いもないし、またわれには(われが未来に存在するであろう)という思いもない。潜在的形成力は消滅するであらう。ここに何の悲しみがあるであろうか。
諸事象の生起を純粋にありのままに見、(個体を構成する)諸形成力の連続を純粋にありのままに見る人には、もはや恐怖は存在しない。」スッタニパータより
其の生存とは、何より迷ひなのです。
迷ひとはじぶんのことでは無ひと思って居る人が多いかとは思われますがさうではなく人間の生存自体が迷ひなのです。
よってまた生まれ変わりたひ、是非今度はタレント並の美貌に生まれ変わりたひ、などと思って居てはなりませぬ。
生存とはさうした負の過程である。
だからと言って其処で死を望むと其れはマイナスの欲望の成就となり誤った認識に陥ることとなる。
逆に此の世で蓄財を為し思ふが侭に生を送り今度はもっと成功してやるからまた人間に生まれたひ。
などと云ふのは最も救われ難ひ地獄への道です。
様々な思慮分別を消し去っていくことで逆に眞の価値、まさにほんたうのほんたうの価値が結果的に立ち現れて来る。
然しながら其れは凡夫の価値=社会的価値=日本国の価値=近代の価値、からすればまるで無価値なのです。
此の世から好き好んで消えて行くのを最高の価値として捉へるのですからそんなものはどんな社会でも通用する筈が無ひ。
でも本質的にはむしろ其の無価値こそが価値ヒエラルキーには毒されて居らぬ唯一の価値です。
ありのままに見たところでの価値とはむしろさうした無価値のことなのだ。
無価値であるかまたは価値ヒエラルキーが弱ひ方が聖者の認識にはより近づいていかう。
なぜなら諸事象の形成力は無価値であればあるほどに弱まりませう。
ただし死んで仕舞ふほどに其れを無価値として捉へるべきでは無ひ。
仏法とはさうして二辺から共に離れた位置にバランスする精神のことです。ー中としての精神ー
故に其の無価値に寄り掛かって居てもいけなひ。
さうして結局其れが認識上の真理としての全てなのかもしれません。
其の認識上の真理に達すれば恐怖も無く死も無くまた生も無いのです。
さうした分別的な認識其れ自体を滅し去って仕舞った。
だからすでに其処では問題が問題として捉へられて居りません。
よってすでに死への恐怖も孤独への恐怖もまたどんな不安も心から消え去る。
真理とは其のやうに寺でも無く御坊さんでも無くお墓でも無く釈迦の言葉=法より紡ぎ出される究極としての詩の言葉だ。
其れを釈迦が書いた詩である、として読んでも勿論おかしくはないことだらう。
最期に墓のことに就ひては以下を参考として頂きたひ。お墓の意味