特に此のやうなことは絶対にしないやうに。
不倫をすれば即地獄へ堕ちます。
アマゾンプライムヴィデオでではないが今年の三月に人から借りたDVDで視たのがレヴェナント: 蘇えりし者である。
さうして此の映画こそが究極のサヴァイヴァル映画だ。レオナルド・ディカプリオの俳優魂!7つの過酷な挑戦に迫る『レヴェナント』
近代と云ふ子宮思考によるところでの生ぬるい生き方に嫌気がさしておることだらう男らしひ方々に是非おススメの映画だ。
最初から最後まで兎に角見て居て疲れる映画である。
次から次へとまさに生きるか死ぬかの闘ひの連続だ。
ある意味では戦争映画よりもさらに過酷な生の闘争の連続である。
然し過酷さは時に生の意味を思い出させても呉れやう。
逆に優しひばかり、癒しばかりの生では生の意味其れ自体を失ひ其れこそ倦怠と虚無の中に精神を埋没させて仕舞ふことだらう。
かく云ふわたくしは実は闘争が何より嫌ひである。
平和主義も此処まで来るとたとへば常に蟻を踏み殺さないやうに気を付けて歩いていなくてはならぬ。
のみならずゴキブリなども決して殺さぬ。
だからさう云ふのがむしろ真の平和主義なのだが、他方で諸と闘い非情にもブチ殺しまくり生き延びねばならぬのが現実であることも良く知って居るつもりだ。
なのでさうした両極を常に見て居る。
共に其れを見ないと生の全体像が見えて来ない。
いつも穏やかであると同時に屡怒りたまにブチ切れたりもしておる。
が、わたくしは其の振幅の中でこそ二元統一へのきっかけを攫むことが出来るとさう考へるのだ。
其れともしも生きることに疲れて居るのであれば此の有無を言わさぬ不断の闘ひから生と闘ふ勇気を与へられることであらう。
これほどまでに摩耗しつつも生きることのそも其の意味とは何ぞや?
と問ふ間もなく襲ひ掛かる自己への執拗な攻撃に対しどう防衛しどう意志すべきなのか。
かように生きると云ふことの本質を描ひた映画なので鑑賞するのは兎に角疲れるが生のニヒリズムの側面に打ち克つ為には是非視ておきたい映画のひとつである。
過激な映画と云へば2004年の「パッション」と云ふキリストの処刑を描ひた映画があるが其処で何が過激なのかと言へばキリストに加へられる肉体的加虐が凄まじひとのことである。
ところがThe Passion of the Christは日本語版DVDが約九千円もして入手出来ないので海外版を持って居るのだけれど其れが視られるのかどうかはまだ分からない。
彼はまた純潔運動の推進者であるそうな。
其れは宗教の枠を越へてさう規定されて居る事実なのだ。
イエス様が磔刑に処せられたのは罪深き人間共の煩悩、其のしつこひばかりの色欲の罪を贖ふゆえにさうなられたのである。
其の色欲こそが嗚呼其の色欲こそが生きる力であり同時に死する力である。
かように生死はセットでもってして、其処で生ばかりを望むことは叶わずつまり無限の性欲の解放を望むことこそがソレに当たる。
然し死ばかりを望むと健全な性欲の発散すら否定されて仕舞ひがちだ。
が、どちらがより安全かと言へば其の色欲の抹消の方に分があり要するにもう女には触るな。
指一本触れてはならぬ。
どんな残虐もまたどんな不運も結局は子宮が生み出しておる。
ところが其の子宮自体に理性は無ひので必然として世界は獣欲の発散の場と化して行かう。
なのでかのルバイヤートでは女をして徹底的にコキおろしもう全部はアホンダラの母の仕業なんで男は皆酒に飲まれて憂さを晴らせとの仰せである。
飲める男はあへて皆アル中になりまさに酔生夢死せよとの仰せである。
確かに其れもまた一理ある。
なんだが、今まさに死なんとするキリストを見守るのはむしろ女共であった。
十二使徒は皆逃げて其の処刑の場には居なかったのだ。
だから男共はまた権力の恐さをまず実感として知って居やう。
社会に逆らふとたとへ聖人様でもかようにムチ打たれ肉は破れ骨はへし折れまた其の折れた骨が白々と突き出し今此の永遠の責め苦の中で、其の現在と云ふ永遠の責め苦の中に息絶へる他は無ひ。
女共は、されど信じ易ひ。
信仰へと入り易ひ。
なんとなれば奴等は鈍感だからなのだ。
おそらくは理性に欠ける分だけ逆に現象には目敏ひのだ。
嗚呼、でも女共よ、其処でもってしかと泣いておけ。
泣いた分だけキリストの死の意味は深まることであらう。
泣いた分だけ汝等の罪障は減じ其の罪深き子宮のままで、其の罪深き肉の欲望のままで神の園へと近づいていくのだ。
が、暴力だからこそ其処に宗教が希求され得、獣欲だからこそ其処に理性の覚醒が希求され得るのだ。
つまるところ聖なるものは下品ムキ出しの何かいけないものからのみ生まれて来やう。
即ち聖なるものとは最も穢れた処から生じるのであり、祈りもまたそんな苦しみより生じ罪もまた苦しみ=欲の追求より生ずる。
ただ真の意味での野蛮と云ふ性質は其の未開を無理やりこじ開けて平和な土地を奪ふ文明の思ひ上がりの方にこそあらう。
要するに文明は野蛮である。
が、同時に未開もまた野蛮である。
即ち何も変わってなど居ない。
近代三百年を経て尚我我は野蛮なのだ。
文明の野蛮さと未開の野蛮さの間には質的な変化など無ひ。
人間の欲望に対するスタンスは時代が移り変われど変わらず今はむしろ要らぬ欲望に対する希求度が増して来ておる。
昔は生きるに必要な何かを得る為に闘って居たが其れでも神仏に諭され其れでは間違って居るので治せと屡言われて居たのだったが今は逆に必要ではない何かを追い求めるべく我我は観念的に構築されし欲望の今を生きていく他なし。
我我は元々精神の領域でのみ理性的に生きることが可能なのだから。