目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

日本人が好きな「みんな」と云ふお化け

 

非論理的な「みんな至上主義」

「みんな」という顔の見えない化け物

何かを守るためには、何かを犠牲に

「昭和型危機管理」は通用しない

「みんなを守れ」と叫びながら破滅の道

 

其のお化けと云ふのはまず我が國に社会的に成り立つであらうお化けのことだ。

結局其れは所謂全体主義としての日本的な価値の保全であり権威的価値ヒエラルキーの維持のことなのでもある。

 

 

尚わたくしは其の権威が嫌ひだ。

なんだけれども、天皇制にせよまた良ひ仕事をする伝統芸能や職人技の世界にせよ日本國の価値ヒエラルキーは皆権威主義的な上下関係が成り立たせても居やう筈。

 

無論のこと其れはあくまで否定など出来ぬ。

何故なら其れを否定した時点で日本と云ふ國としての価値其れ自体が崩壊するからなのだ。

 

勿論左翼思想的に、つまり合理的且つ論理的に其の価値観を修正していくことが其処には求められて居た。

戦後と云ふか明治以降の近代化の時点でさうした近代的な方向転換がかの國には突き付けられて居たのだった。

 

ところが其れはあくまで技術的つまり具体的な範囲での転換に留まり抽象的つまり理念的には其の封建制微塵も崩すことなど出来なかったのだ。

議会制も産業化による経済成長も国際社会への参入も何もかも其の技術としての転換に終始し其の實は封建制度としての理念的伝統を脱することなど其処には出来なかったのだ。

 

 

だから其処では何を基準にし意思決定を為すのかと云ふそもそもの部分が全体主義であり権威的価値ヒエラルキーに従ふと云ふことにしかならぬ。

全体主義であり権威的価値ヒエラルキーであるところでの「みんな」の価値が實現されぬ限り其れは日本國としてのまた日本人としての価値判断では無ひ。

 

だからアナーキストの面々は皆投獄されるしか無ひ。

尤も米國にせよ露西亜にせよ中國にせよ多分アナーキストだけは皆投獄されるのであらうが。

 

アナーキストはだから牢屋の中で独り考へ其処で野たれ死ぬ他は無ひのだ。

 

其のムシの良ひ守りと云ふのが實は大きな組織に限らず家庭だの町内だのと云ふ社会の小さひ方での単位にまで浸透して仕舞っても居らう。

 

理念としてはあくまで封建制を維持する余りに要するにリスクを分かち合ふと云ふのか痛みを分け合ふ部分に極端に億劫であり必然として其処では誰もが意思決定することを自然と避けて仕舞ふ。

 

なのでコレではマズひとさう言ひ切れる奴が何処にも居なひ。

 

 

なのだけれども、知性と云ふものは本来守るものではいけなひものだ。

 

どだひ芥川にせよ太宰にせよまるで守っては居なひ。

 

謂はば死ぬ程悩んで生と闘ふ其の生き様こそが最高のリスク管理なのでもまたあらう。

 

皆じぶんで死んでるじゃなひか?

 

皆じぶんでもって死んだ程に悩んでおったじゃらう。

 

其処こそがむしろ大事だ。

 

 

 

さて「みんな」でもって日本の社会は一体何処へ行くのか?

浄土か?其れとも地獄なのか?

 

あくまで現實的には地獄へと向かって居らう。

 

だが其れは日本社会ばかりでのことでも無ひ。

 

本質的には現代社会其のものがまさに自滅的であり此の侭ではマズひ社会だと云ふことと必然的にならう。

 

其処に於ひて重要なことは其れは当の社会にはまるで其の危機が認識され得ぬと云ふことなのだ。

 

社会は決して其の事實を認めやうとはせず其ればかりかこれまで以上に我我個としての抽象的欲望を煽り続ける。

 

 

だからわたくしは個が個として利口になる必要があるとさう述べて来て居たのだ。

知性を「みんな」の価値の方向へでは無く個の価値観での方向へとシフトして行く必要がどうしても其処に生ずる。

 

 

其の「昭和型危機管理」又は日本型の封建的意思決定に於ひては所謂無責任体質が炙り出されて来やうから近代型としての危機管理には須らく失敗して仕舞ふ。

 

でも何度も言ふやうに鎖国する限りに於ひては其の「昭和型危機管理」又は日本型の封建的意思決定は成功するつまりは上手くいく。

 

だからむしろ日本國は鎖国する方が何もかもが上手く行き易ひのだ。

 

 

尚此処でもって窪田氏は危機への「優先順位」を付け「みんなを守れ」と叫びながら破滅するなとさうも述べて居られる。

 

其の「優先順位」を何故頭の良ひ筈の官僚組織が決められて来なかったのか、またまさに其れが仕事の筈なのに何故危機管理に於ひて政治家や官僚は役に立たなひのかと云ふ根本での疑問が兎に角其処に残る。

 

或は仕事する振りをしつつ實はほとんど仕事などして居らずしかも平和ボケでもってして高給ばかりを毟り取り其の實は何をやって居たものやら知れたものでは無ひ。

 

 

本質的にはあくまで其れは守ることつまり「保守」としての腐りなのだ。

 

「保守」はさうしてとても腐り易ひものなのでむしろ常に気持ちを引き締めたとへば柔剣道に勤しみ最新鋭の戦闘機にも乗り何処までも何処までも身体の鍛錬と危機管理のことを忘れてはならぬ。

 

武士道は自決と云ふことを本懐となし、其処にて女子供を守り国難を排し毛唐共を追ひ払ふべし。

 

 

なんだけれども、實は其ればかりではダメで其処に合理的な個としての意思決定の過程を是非加味して行かねばならぬ。

 

つまり左と云ふかむしろ近代的で理性的な意思決定力をどうしても其処に入れて行かねば其の「保守」も時代の流れと共に腐敗して行かざるを得ぬ。

 

 

だがそんな悲劇も所詮は其れも無常なる様、即ち諸行無常の鐘の声でのことなのか。

 

 

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 

祇園精舍の鐘の音には、諸行無常すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。娑羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。ー 平家物語 祇園精舎

 

 

かように釈迦が語りし眞理としての諸行無常、まさに其のことを今我我は知っておかねばなるまひ。

 

 

ーEvaṃ kho aggivessana bhagavā sāvake vineti, evambhāgā ca pana bhagavato sāvakesu anusāsanī bahulā pavattati:
paṃ bhikkhave aniccaṃ, vedanā aniccā, saññā aniccā, saṅkhārā aniccā, viññāṇaṃ aniccaṃ.
paṃ bhikkhave anattā, vedanā anattā, saññā anattā, saṅkhārā anattā, viññāṇaṃ anattā.
Sabbe saṅkhārā aniccā, sabbe dhammā anattāti.

アッギヴェッサナよ、私はこのように弟子たちを戒める。このように頻繁に語る。
「比丘たちよ、は無常、は無常、は無常、は無常、は無常である。
 比丘たちよ、色は無我、受は無我、想は無我、行は無我、識は無我である。
 すべてのは無常である、すべての法は無我である。」と。

Sabbe baṅkhārā aniccā'ti yadā paññāya passati
Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.

「一切の形成されたもの(行,サンスカーラ)は無常である」(諸行無常)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦(ドゥッカ)から厭い離れる。これが清浄への道である。

Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino,
Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho

諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽

諸行は無常なり、是れ滅の法なり。
生滅(へのとらわれを)滅しおわりぬ、寂滅をもって楽と為す。

諸行無常より

 

今我我は感染症により常に命の危険に晒されておる。

 

其れは社会の不始末がさう仕出かしたものである。=文明災害

 

つまるところは社会が馬鹿だ。

 

なんだけれども、實は其のどうしやうも無ひ社会と云ふ客体にじぶんを縛り付けて居ることこそが根本での自己矛盾なのだ。

 

 

社会が馬鹿で悪ひのは其れはむしろ当たり前のことなのであり其れと好んで縁して居る自分こそが實は一番悪かった。

 

其処のところに貼り付ひて居るじぶんの心の出来其れ自体が最悪であり要するに地獄の様なのでもある。

 

とまずは其のやうに佛法では此の世での問題を須らく内面化し捉へる。

 

 

のではあるが、さうは言はれても相対認識する限りに於ひて此の世の不条理や矛盾の様はもはや明らかだ。

 

其の不条理や不具性と闘ふのが文學であり宗教としての力なのだ。

 

 

だからあへて其処から離れて居てはならぬ。

 

合理主義により其の領域を失って仕舞っては決してならぬ。

 

 

兎に角理性を、其の折角授かりし知性を金儲けや👩をたらしこむことなどには金輪際使ふな。

 

 

 

「一切の形成されたもの(行,サンスカーラ)は無常である」

 

我我はかうして想念からも肉体からも自由で居られぬのだ。

此の世界の形成は其の想念と云ふ錯誤との不倫である。

 

キリスト教的に言へば悪魔との不倫こそが此の世界での実相だ。

 

 

 

諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽

 

 

生じ滅ぶ性質しか持ち得ぬ世界に我我はワザワザ自己を縛り付けても御座る。

其処をキリスト教的に言へば悪魔とは縁の切れぬ失楽園に住まふ他は無ひ訳だ。

 

兎に角そんなヤバひ世界なので兎に角いつも金が欲しく兎に角いつも👩に触りたひばかりでのことだ。

 

だが其れを今まさにガマンせよ、つまりはおあずけ!だ。

 

 

即ち他の次元でもって其の欲を解消せよ。

 

 

さて本質的な楽とは何か?

 

むしろ其れは求めぬことである、或は自ら須らくを限定し下山していくことだ。

 

其の最終地点にこそ解脱があらうが其れはむしろ我我にはなし得ぬことでもある。

 

 

だが兎に角精神の方向性により人間は如何やうにも未来を選択することが出来る。

 

其の精神の方向性が悪過ぎるが故今我我はかうした運命を生きて居ざるを得ぬのだ。

 

 

さてこんな時にこそしこたま儲けたひ奴、また逆に捨てばちになり感染拡大を目論む奴とかが幾らでも出て来やう。

 

即ち日本國の抱へし問題は組織の上での問題だけでは無く精神的な崩壊の部分こそが多分に含まれても居やう。

 

 

其のやうな折にはまずは滝にでも打たれ只ひたすらに佛道へと精進されたし。

 

 

さうして全ての現象は絶へず変化し良かれと思ひ為したことが逆に我我をして何処までも追ひ詰めても行かう。

 

其のことは嗚呼まさに其のことのみが古来より変はることなき宇宙の摂理である「無常」と云ふ眞理なのだ。

 

 

「一切の形成されたもの(行,サンスカーラ)は無常である」

 

一切の形成されしものを無常と見る其の認識こそが目覚めた視点であり且つ眞の智慧なのだ。

知恵は人間が「頑張る」為に使ふべきものでは無くむしろ必要以上に頑張らぬ為に使ふべきものなのだ。

 

 

つまりは逆です、逆、眞逆。

 

形成されると云ふ其の構築其のものがむしろ分離であり分裂だ。

 

即ち形成されぬものの方が霊的には救われて居りたとへば動くことよりも動かぬこと、生きて居ることよりも生きて居らぬことの方が罪でも無く煩悩でも無くより望ましひ認識の状態なのだ。

 

即ちお化けであることの方が少なくとも人間よりはずっと上であった。

 

 

かうしてドラッグストアを回り便所紙を買ひ占めました。ー✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖ー

体調が悪ひのであへてあちこち回りウイルスを撒き散らしてやりました。ー✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖ー

 

此の際お釈迦様に縋らうかと思ひお寺へ行きつひウイルスを撒き散らして参りました。ー✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖と🌸ー

此の際結婚するのを止めヲタク、其れも佛法ヲタクにならうかとさうも思って居ります。-🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸と✖-

 

 

形成されしものは非自性でもって非我である。

故に現象は時間の経過と共にむしろ悪くなる、即ち劣化していくのである。

 

其の本質としての劣化を食ひ止めんが為に我我人間は近代的な過程を発明したのだった。

だが逆に今まさに其れが人類を追ひ詰めても居らう。

 

我我はこれからどうすべきなのですか?

 

もはや其れは日々修行を重ねつつ下山ー限定ーしていくより他は無し。

 

 

悪魔乃至魔と云ふものは常に我我の認識其れ自体をさうして惑わして来て居るのだ。

 

尚此の度のパンデミックは世界の思想=文明の思想が自然界からまさに拒否されたかまたは問はれて居るものとも捉へられやう。

 

要するにホモ・サピエンスによる抽象的進歩其れ自体が自然界から拒否されたかまたは問はれて居るのである。

 

そんな大問題なので其れは経済破綻ー恐慌の発生ーや日本國一国の沈没の問題には止まらぬものなのやもしれぬ。

 

さうした点から鑑みてもどうも此れは神の怒り其のものなのではなからうか。

 

 

其れでもってキリスト教でもって何か面白ひ映画は無ひのかなと思ひプライム・ヴィデオでもって探してみたところ何と其れがしかとあるではなひか!

 

 

其れがズバリ此の映画だ。

本作は批評家から絶賛されている。映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには132件のレビューがあり、批評家支持率は98%、平均点は10点満点で8.5点となっている。サイト側による批評家の見解の要約は「ポール・シュレイダー監督の緻密な仕事とイーサン・ホークの卓越した演技は『魂のゆくえ』に生命を吹き込んでいる。同作は重苦しい主題に鋭敏かつサスペンスに満ちた視点を投げかけている。」となっている[11]。また、Metacriticには45件のレビューがあり、加重平均値は86/100となっている[12]魂のゆくえ (映画)より

 

 

いやー、此れはまた實に凄ひ映画だ。

要するに玄人筋の評価が滅茶苦茶に高ひ宗教映画なのだが同時に環境破壊に対する強烈な否定的メッセージを含んでも居る社会批判の映画なのでもある。

 

此の映画の主題は文明の自己矛盾性にこそあらう。

 

即ちしこたま儲けて環境を壊す文明をたとへ神は赦しても果たして一人の真面目な神父さんが赦せるのかと云ふ人間の良心乃至は聖性への問ひかけが其処には含まれて居る。

 

ちなみに次回は此の作品の映画評を是非させて頂くつもりである。

 

最近視た映画では先の「沈黙」と此の「魂のゆくえ」が兎に角凄ひ映画であった。

 

共にキリスト教を描く映画でもあるのだが其処にはもしやキリスト教自体のあり方に対する問ひかけのやうなものが含まれて居るのやもしれぬ。