目覚めよ!

文明批判と心の探求と

春の訪れと成らぬ人間の欲の制御と

トム・ハンクス、映画製作のため滞在中のオーストラリアで新型コロナ感染

もはやお化けの話をして居る場合では無ひ。

 

謂はば愈々我我は突き付けられし現實との臨戦態勢に入った。

 

だとは申せ本日は丁度天気も良く次第に花花が咲き乱れる季節ともなって来た。

 

 

昨日はとある公園に美しひモクレンの白ひ🌸が咲き乱れて居たものだった。

 

かうして何処までも自然の様は美しひ。

 

なのにいつまで経っても人間界は醜くしかも絶望的だ。

 

但し其のほんたうの人間を見詰めることこそが確かに文學の仕事なのではあらうが。

 

 

だがわたくしは生来人間が嫌ひだ。

 

だから小説などでは無くまさに詩の方をやる。

 

詩の方をやるのだがなかなか詩のところまで行けずに困っても居る。

 

要するに人間界のゴタゴタに邪魔され常に詩的感懐を保つことが難しひ。

 

 

暫しはかっての日本の象徴詩など研究し自分でもそんなものを書ひてみたくも思って居しが今はまさに其れどころでは無ひ。

 

さうして文人の静かなる心を乱す此の腐った社会とは一体何者なのであらうや?

 

 

そんな中ひとつ驚きしことがあった。

其れは我が年老ひた母の言葉である。

 

尚わたくしは母の性格が嫌ひだ。

 

即ち社会的に人気のある人で華道のさる流派でもってNo.3の立場をいまだに務めておる。

事實上はNo.2なのだが其れを男性の後輩に譲って居るのだ。

 

さう云ふ人はまず社会を信じて居る。

 

と同時に人間其れ自体を信じて御座る。

 

そんなものはいつか破綻するから止めて置けとわたくしはいつも母にさう語って居たものだった。

 

 

元より人間を信じては居なひわたくしは信じて居るのは自然の様と神佛ばかり。

 

昨日も夜空がとても綺麗で其処に宵の明星が輝き其ればかりかおおシリウスがあんなに美しく瞬いて居る。

 

シリウスの横にはオリオン座があるが其れの左上の星はベテルギウスでかの星は今赤色巨星化して居りやがて超新星爆発を引き起こすことであらう。ベテルギウス

 

 

其の諸の美と共に矢張りと云ふべきか必ずや自然界にはリスクと云ふか面妖なこと禍々しきことが渦巻ひて居るものよ。

 

つまるところ美とは破壊と創造と云ふ二元的対立より発現されるべきものだ。

 

 

👩の美でも👨の美でもまた自然界の美に於ひても其の二元的対立を抜きにし語ることなどかなはぬ。

 

なので美が良ひのだか悪ひのだか其れはまるで分からぬこと。

 

其の美しひと云ふこと自体が感覚にとっては勿論嬉しひのだが果たして其れが良ひのだか悪ひのだか其れはまるで分からぬこと。

 

 

其の点のところをずっと掘り下げて述べて行きたひところながら其れをやると哲學の話となって仕舞ふ故現實へと戻る。

 

兎に角そんな現實的でもって外を向くー社会的に活躍するーのが大好きな老ひたる母が今朝いつもとは真逆のことを言って居たものだった。

 

 

1.かういふ状況は人間が謙虚では無ひことに対する神の怒りなのだらう

2.何千億も一人で儲ける社会がそもおかしひので結局かうなるのだらう

3.昔から何でも一番になりたがる人間ー社会ーは余程におかしひ

4.五木 寛之ー母と同ひ年ーも「下山」と前々から言っており其の本も読んだが矢張り其の通りのやうだー或はわたくしが読ませたのだったかー

 

とのことで至極正論である。

 

尤も母は元々女学校の文藝部出身者なので馬鹿では無く此の世の馬鹿を心の底では或は分かって居たのやもしれぬ。

 

 

 

さて何故人間はかうして常に馬鹿なのか?

 

其れがまさに永遠の問ひなのではなひだらうか。

 

わたくしは其の人間の馬鹿と常に対峙しかうして格闘して来た。

 

 

むしろ其れは脳減る賞級の格闘だらう?

 

ほんたうに何故人間はかうして常に馬鹿なのか?

 

 

結局其れは欲の制御の問題に帰することとわたくしは思ふ。

 

我我はさうして欲の制御が出来ぬ、まさに其れこそがままならぬのだ。

 

 

結局全ての問題は其処へと帰結する、さう全ての問題は其処へと集約されて来る。

 

欲望を制御出来ぬが故に今我我は此処に生存を得かうして世界的な苦に直面して行かざるを得ぬ。

 

だとするといっそのこともうみんな死んだ方が良ひのでせうか?

 

 

重要なのは生死は人智を超へたところにあると云ふ点なのだ。

 

其れは我我が判断すべきことでは無く我我がさう望むべきことでも無ひ。

 

其の対義的選択としての「生への不断の意志」のやうなもの即ちショーペンハウアー流に言へば「生きんが為の盲目的な意志」だけが其処には残る。

 

 

理性的な選択としてのあらゆる疑ひの果てに残るのはデカルトの言ひしやうな思ふが故の我では無く「生きんが為の盲目的な意志」のみだ。

 

どうも此の「生きんが為の盲目的な意志」=本能的に規定されし生への意志、こそが其れこそ自己矛盾して行くやうな気がしてならぬ訳だ。

 

 

どうも其れを強く持ち過ぎると現象としての全ては崩壊する方へと舵取りがなされるのだ。

 

尚其処は理論的にはかういふことだ。

 

かってわたくしは此の世の滅亡への過程を理論的にかう構築してみた。

 

 

「生きんが為の盲目的な意志」=本能的に規定されし生への意志⇔智慧

 

勿論此処にはバランスが成り立って居る。

封建時代までは少なくとも其のバランスは崩れなかった。

 

「生きんが為の盲目的な意志」=本能的に規定されし生への意志⇔分析知+人文知

 

時代が下り近代以降は其の智慧がかうして分離された。

 

のみならず廿世紀以降は分析知のみが巨大化し人文の知恵即ち文の智慧を何処かに置き去って仕舞ったのだった。

 

 

すると、

 

「生きんが為の盲目的な意志」=本能的に規定されし生への意志=分析知

 

と何故かなって仕舞ふのだった。

 

要するにマイナスの部分が何処にも無く全部が+でもってして人間がもうやりたひ放題だ。

また要するに智慧が本能の領域へとさうしてなだれ込んでいく。

 

 

謂はば儲け放題、女を口説き放題、世界中を旅行し放題、酒を飲み放題、食ひ放題、自然を搾取し放題。

 

だから其処にはバランスなどもはや無ひ。

 

バランスなんぞもう壊れ其処では人間の心が穢れ切って仕舞っても居やう。

 

 

とのことでつまるところは現状とはむしろ必然のことなのだ。

 

自然又は宇宙の摂理からして其れは当たり前のことでありだからこそ其れは神の御怒り其のものなのだ。

 

 

其の分析知は還元知でもって計算高ひ謂はば欲得に従ひ形成される合理的な価値ヒエラルキーのことだ。

 

其の合理的な価値ヒエラルキーばかりのことへと文明のシステム其れ自体が合理化されることで人間の心を失ったのだ。

 

さう人としてあるべき其の大切な心ー精神ー其れ自体を失った。

 

 

何故さうなったのか?

 

理性に対する原始退行が始まったからなのだ。

 

其の人文としての智慧、心としての人間の知恵の部分までもが合理化されるに及びまずは人文としての智慧が死に絶へるに及んだ。

 

 

残るは分析知のみ。

 

ところが分析知には心が無ひ。

 

心が無ひ分析知はやがて暴走し始め理性としての原始退行を生じせしめる。

 

 

原始退行とはカンタンに言へば理性が皆本能へと逆戻りすると云ふことだ。

 

イザさうなれば欲望がある意味其処では理性化されるつまりは合理化されやう。

 

不断の欲望の合理化が其処にて引き起こされると云ふことだ。

 

 

 

するともはや欲望のパンデミック状態だぞよ!

 

だから、儲かれば地球は壊れてもヨシ。

 

家族さへ無事で安泰なら地球は壊れてもヨシ。

 

じぶん一人が給料貰へば地球は壊れてもヨシ。

 

 

 

ではズバリ言はせて頂く。

 

パンデミックは我我一人一人の欲望の積み重ねにて結局さうなって御座る。

 

 

但し庶民は力が無ひ故其処は個々に罪があるのでは無く大衆としての下賤なる欲の集積の方にこそ大きく罪が生じるのだ。

 

勿論其れ以上に罪深ひのは自然破壊を金儲けの手段か又は目的と化して来た所謂金融資本主義に於ける腐った欲望の世界である。

 

 

かのイエス・キリストなどは原始的な市場でさへこんなバカなことをしてはならぬ!とさう御怒りになり市場を破壊されやうとされたのだった。

 

何故君等人類は其の諫言に耳を貸さうとしなかったのだ。

 

 

其の大衆としての無責任なデカひ欲望と金持ちとしての大金へのデカひ執着が幾重にも連なり人類の欲望をもうどうしやうもなく腐ったものとなし地球を壊し👩をして文明に擦り寄る色情狂となし常に大酒を喰らひ動植物を絶滅へと追ひやるのだ。

 

 

なので詩人にはもはやとうの昔から人類の其の破滅への様はしかと見へて居た。

 

実際全てはお見通しだった。

 

其の視野から当然の帰結として齎される危機につきわたくしはこれまで延々と語り続けて来た。

 

 

 

そんな絶望の只中にてさて我我は今何を見詰めていくべきなのだらう。

 

 

其れはもはや金融資本主義でも無くあらゆる合理的理論、合理的理性なのでも無ひ。

 

我我が今見詰めるべきなのはまずは文學だ。

 

其れも芥川の遺書だの、三島先生による檄文だの、宮澤  賢治の生き様だの、兎に角さうしたマイナスの文學、おおまさに死んでも死に切れぬ文學としての呻き、地獄の呻き地獄の責め苦の果てのまた地獄の未来のさ中での呻き。

 

其のほんたうのことをだけまずは見詰め何を為すべきなのかと云ふことを自分にて判断しやう。

 

 

其処をゆめゆめ見誤ること勿れ。

 

けだし其処では何も欲望の全部を否定するに非ず。

 

汝等自身が壊れぬやうに汝等のデカひ欲望ー社会的な欲ーを捨てよとさう述べて居るばかりでのこと。

 

 

其の汝等とは我我を否応無く巻き込み含む人間の社会其のもののことであり個としての小さひ欲のことでは實は無ひのである。

 

社会のカラクリにて我我個としての欲望は文明欲、人類欲へと連なり何処までもデカくなって仕舞ふ。

 

其の欲をこそ断じねばならぬ。

 

 

今まさに其の抽象的に規定されし欲の全てを捨てよ。

 

金融資本主義=抽象的蓄財

スマフォ=電脳による抽象的肉体化ー電脳が歩ひてるー

自動運転=電脳による抽象的移動化

遺伝子改変、細胞再生技術=人間の抽象的改変

フリーセックス=性の抽象的破壊ー👩の性が暴れ出すー

森林伐採=抽象性による具象的破壊

オリムピック=肉体による抽象的爆死

 

 

 

欲望を個の領域へと抑へ込め、おお今まさに其処へと封じ込めよ!

 

 

ところでたとへばアマゾンは電脳空間ですが其れは否定せぬのですか?

 

アマゾンは何かと使ってます。

 

兎に角重宝です。

 

ところでたとへば社会的な欲を捨てるのだとして、時節柄若ひ人は希望に燃へてこれから學ぶだの働くだのさうしたことともなりませうが其の希望も捨てよと仰ひますので?

 

 

時代が変はったのだ、正直こんな時代に生きて居る若人は運が悪ひのだ。

 

いや、むしろ運が良ひ。

其れもサイコーに運が良ひ。

 

これからはむしろほんたうの世の姿、人間のほんたうの姿が見へて来やう時ぞ。

 

もうこれからは儲けられる技術系、理系では無く物凄く暗ひ文學部だの宗教学科だの哲學科だのへ行かねばもはや人間は生き抜ひていくことすら出来ぬのだ。

 

 

さあ、みんなでもって至極冷静に考へてみやうではなひか。

 

日本人のみんなは兎に角みんなが好きだらう。

 

みんなでもってこれからは文哲をやらう。

 

みんなでもって文哲を学び社会へと立ち向かへ!

 

かうしてみんなでもって文明と闘おうぞ!

 

 

みんなでもって其の人類の滅亡と闘ふのだ!!

 

嗚呼、今の若人がほんたうにむしろ羨ましひ。

 

さうだ、わたくしの場合は生まれて来るのが半世紀だけ早過ぎたのだ。

 

半世紀だけ遅れて生まれたならばわたくしはまだ拾歳だ。

 

 

ようし、まだまだこれからだ。

まだまだこれから其の抽象性其のものとの死闘を繰り広げていかねばならぬ。

 

まだまだこれからようやく引退するのだ。

 

は?まだまだこれから闘ふのでは?

 

だからもう半分はベテルギウスの中にかうして埋まって居るのだしショーペンハウアー流にやる気は無く正直今は芥川の遺書だの、また三島先生による檄文を是非分析論文化してみたひとさうも思って居るところなのだ。

 

 

生きるとは反対の世界に半分は埋まりつつ何かを述べて居ると云ふのが偽らざる詩人の内面であり今後の文明社会のあり様なのではなひだらうか。

 

 

だが真面目なのやら不真面目なのやら此の社会自体が分からぬ。

 

さうして不真面目ー抽象的ーに社会性を展開させて来て、其れでもってイザ具体的に危機が迫るとホモ・サピエンスは決まって真面目にお手上げだ。

 

 

なる程、其れも一種の鋭ひ社会批判だ。

 

さて何故そんなに社会が嫌ひなのですか?

 

いや、幼稚園児の頃から元々嫌ひでしたよ。

 

 

みんなでもって一緒に悪さをするのが特に嫌ひなのです。

 

でもみんなでもって一緒に善行を積むことも出来るじゃなひですか。

 

 

ウソこくな。

 

みんなでもって一緒にやれることは今や地球の破壊か宇宙の破壊だけだ。

 

だから其のみんなの範囲をわたくしの場合は別のところへ接続して居るだけなのです。

 

即ち繋がるのが👪でも所謂トモダチでも無く、ベテルギウスだのショーペンハウアーだの🐈だの🐗だの🐻だの🐵だの🐍だの🐅だのお化けだのになって仕舞って居るのです。

 

 

しかも其れが無理なことではなく元々さうなのでありまた現在もさうなのでありたとへ死んでもさうなのです。

 

 

さうか、流石に詩人だなー。

 

へひ、詩人にとり其れは至極当たり前のこと。

 

さうしてあちこちへと此のタマシヒが飛んで行くのであります。

 

 

其れではこれから遊びに行って参ります。

 

また此の御時勢に一体何処へ?

 

詩人が遊ぶ場は社会や👩などでは金輪際御座らぬ。

 

彼が遊ぶ場は人里離れた山の中と相場は決まって居らう。

 

 

尤も山の中とは限らず其の辺の林の中でも勿論良ひのだ。

 

そんな春と云ふ季節の訪れのさ中でこそ魂を浄化しまた人間界と一戦を交へねばならぬのでな。