元より政治家が元アイドルではダメなのであるしたとへば障碍者であることを売りにして国会議員にならうなんてのもダメ。
民主制は其の様に本質として劣化するものであることを有権者はしかと学んでおくべき。
さて本日は陰陽説と吉本 隆明氏の思想につき述べる。
共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、①「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が、矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、「知識」を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する(「二段階転向論」)②マルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする(「非転向」=「転向の一形態」)の二つあると論じた。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は、この内の「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性との対決を回避」していると、批判した[4]。 吉本 隆明より
まあさうなんでせうね。
吉本 隆明氏は元々理系でもって明晰かつ論理的なのに詩人でもって文系人と云ふまさに訳の分からぬ人でした。
ちなみにわたくしは吉本 隆明を読んでいません。
が、ネット上で調べる限りは真に尊敬に値する思想家なのだとさう思われる。
考へ方としてウマが合ふと云ふか、じぶんにとっては共感することの出来る考へ方をされて居たやうに思ふ。
さて二元論と云ふのは存在論としての一形式かと思われますが、実際には認識論の形式でもまたあるのではないか。
尚二元論的な形式こそがそも誤りだと云ふ捉へ方もありませうがわたくしの場合は二元論的対立こそが実存的な展開として直観されて居ることからも其れを外すことなど元より出来ぬ。
あくまでわたくしにとり直観の一形式としての相対的認識こそが実存ですので其の二元的対立自体を外せなひ。
「中国を中心に発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の二つの要素から成り立っていると考える。具体的には光と闇、昼と夜、男と女、剛と柔などにそれぞれ陽と陰の属性が対応すると考えられた。この場合二つは必ずしも対立することを意味せず、むしろ調和するもの、調和すべきものと捉える。そして、一元化はしない。そういう点では善悪二元論に陥りがちな一神教の究極的には一元化するものと意味づけられた二元論と、大きく違っている。」 陰陽思想より
尚わたくしは陰陽思想を学んでは居なひ。
ですが結果的に今は此の立場へと至った。
あれこれとやるうちにいつの間にか此処へ到達して居たと云ふことなのだ。
ー与えられたものなのではなくじぶんで其れを創り上げた-
問題は其の要素の違ひー差異ーが反目し合ふか其れとも互いに受け容れていくかと云ふ点にこそあらう。
陰陽思想では左様に無理な一元化などはしなひ。
ただし、無理をせずタダ二元的対立を保持する限りは劣化する。
劣化とは半分滅ぶと云ふことであり民主制の劣化や性の劣化、日本国民の劣化や教育の劣化、ならびに社会制度上の劣化やひいては近代社会自体の劣化がこのところ噴出して来て居らう。
だから二元的対立を容認するのではなく緩和していく。
と言ふよりもさうせざるを得ぬ立場へと追ひ込んでいく。
其の立場に於ひては近代的な二元の劣化構造をまずは理性的展開にて排斥する。
すると古ひ思想の持つ良さが見へて来る。
古き善き寺子屋での学問が。
いや、古き善き時代での感性が。
兎に角そんな風に調和を目指すが本来は別々だ。
確かに大元では同じものなのだが現象化した以上は別物なのだ。
別物なんだけれども、其れがあるからじぶんがあり、其れが無ひからまたじぶんも無ひ。
だから其れはもうほとんど自分だ。
かように他は自分そのものではないにせよ他面での自己なのだ。
なので他を認め助くることは自己をも助くる筈。
「受動的な性質、能動的な性質に分類する。具体的には、闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女、光・明・剛・火・夏・昼・動物・男などに分けられる。これらは相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない。森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。
重要な事は陰陽二元論が、この世のものを、善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なると言う事である。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。」陰陽より
重要なことは其の二元的対立関係が相克しつつも相即して居ると云ふまさに其の様にこそ存して居らう。
さうして善悪による価値観の判断ではなく、善や悪への一元化などそもしやうが無ひ。
だから理解し難ひことに就ひても受け容れていかねばなるまひ。
謂わば二元的に対立するつまりは相剋する関係であるにも関わらず相即する即ち互いを必要とししかも半分はじぶんである。
かうして矛盾して居るにも関わらず其の矛盾が矛盾そのものとは重ならぬ。
善ながら常に悪と相克し尚且つ善でなく悪ながら常に善と相克し尚且つ悪でなひ。
其のやうな関係性こそがおそらくは世界の実相だらう。
まさに其のやうに反対の領域をも理解しさうして受け容れよ。
だが受け容れられぬ。
理解出来ぬものは理解出来ぬ。
逆の性質などそも理解が出来ぬ。
ならば出来ぬでヨシ。
第一誰がそんなもん理解出来るものか。
全く仏様でもあるまいし。
イエス様でもあるまいし。
だが、結局は其れもまさにじぶんの一面だ。
自分の中の他の面と今対峙して居るに過ぎぬ。
なので他を愛するまでいかずとも認める即ち尊重する位のことは出来やう。
また不倫などしてはいけなひと云ふことを其処から学び取るのだ、特に現代の女共は。
対する男共は浪漫に過ぎること、又は理性がちであり過ぎたことを反省しもっと適当に生きていくべきだ。
社会的にさう雁字搦めではちゃぶ台をひっくり返すだけの力ももはや出ぬので特に夏休みなどは早う海へ山へと逃げていかう。
其のやうにして人間として以外の自分を是非取り戻すのだ。
「観念論や唯物論の対立」とは近代思想の限界を指し示すものでもまたあらう。
尚個人的には長らく観念論の世界の住人でした。
- 神を立てて宗教と結合させる[3]。
- ideaと事物とを同一視して、一元論化し、いわば裏返しの唯物論になる[3]。
- 外界の存在については沈黙する懐疑主義になる[3]。
- 物自体を想定し、物自体は不可知である、とする[3][4]。
- 人間に即して考えられていた精神を絶対的なものに仕立て上げる[3]。観念論より
此処にあるやうに観念性は宗教と結合させることが可能です。
ですが最終的には一元化していくのだし、其処に客体化された現象は見出せず物自体としての絶対領域を生み出さざるを得ぬ。
さうしていつの間にか理性へ傾き過ぎていきませう。
宗教もまた一元化の過程なのだと思われるが、其の一元化とは果たして正しひことなのだらうか。
其の一元化とはむしろ無理をして居ることなのではないか。
さう思った時に、観念論自体への相剋が生じて仕舞ったのです。
さらに観念論の反対の唯物論、コレへの疑念さへもが増していく。
ひょっとするとあらゆる一元化は人間を辞めたり社会を滅亡させることにしか繋がらないのではないか。
でも勿論其のままでは劣化します。
時の流れとは実は劣化のことで、其れ即ちシンポでもなく進化でさへなひ。
いや、確かに進化は致しませうが、其処でより本質的には其れは劣化する現在でしか無ひ。
歴史過程とは其のやうにむしろ劣化の過程なのだ。
時間とはまさにそんな負の歩みのことだ。
だから其処で二元化することを余儀なくされた。
むしろ二元の極へ行け。
即ち「あしゅら男爵」だ。
どだいじぶん自身が「あしゅら男爵」的で何だか分裂しておる。
さうして其のやうな分裂に於ひて統合を試みるより他は無かった。
其の統合とは融合ではなく互ひに互ひを認められぬままに大事な存在として認めていくことだ。
即ち対極の要素を受け容れる。
さう受け容れてもまだ女はドレイでもって其れでよろしゅう御座りますか?
まあ良くはなひ。
が、悪くもなひ。
「疎外とは、そこから派生するがそこには還元されないと言う意味である。意識は身体がないと発生しないが、脳のような身体の部分部分には還元できない。生命体の身体は、機械のように要素や各部分に分解して、また組み立てなおすことはできない。分解したら死んでしまい、意識は消え、生命体ではなくなってしまうからである。要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。よって、身体と精神は相対的に自立していると考えている。」実体二元論 疎外論と幻想論より
確かに意識は肉体があらねば生じやうが無ひ。
其の意識こそは全体性であらう。
還元主義にて其れを逆戻しし組み立てても人形が出来るだけで決して人間にはならぬ。
「身体的な全体性」即ち肉体を媒介とする全体性こそが生命の本義であらう。
よって精神と肉体は相対的に分けられやうが同時に相克ししかも相即した関係の中に投げ込まれやう。
「死とは瞬間的な現象ではなく、すべての細胞が死滅するまでの段階的な過程なのである。
意識と身体は、炎とロウソクの関係に似ている。ロウソク(燃える物)が存在しないと炎は生まれないが、炎という燃焼現象はロウソクには還元されない。よって、いくらロウソクを調べたところで炎という燃焼現象の本質は理解されない。炎はロウソクから疎外された現象なのである。」実体二元論 疎外論と幻想論より
確かに肉体が無ひと精神もまた無ひ。
故に肉体は常に大事だしましてや肉体が常に精神にとり優先的に振る舞ふ訳でもなひ。
精神とは要素に還元され得ぬなにものかでありあへて言語化すれば其れが全体性である。
ところが其の全体性は精神其れ自体のみで創り出される領域ではなひ。
あくまで肉体ー物質ーとタマシヒー精神ーとの相互作用であり、しかも其の関係性は相克し且つまた相即するものだ。
尚其の「疎外」と云ふ概念は面白ひ。
「精神は肉体から常に疎外された現象である。」
其処は何となく分からぬでもなひ。
精神は多くを望むのに常に肉体は現象と云ふ牢獄に繋がれて居やう。
其の様を釈迦は苦と捉へキリストは神に背きし状態だと捉へた。
「文学や芸術が自然科学的に説明できないにもかかわらず、確実に存在するのと同じである。心身二元論を自然科学者が否定するのは当然であり、エスや心的現象はもともと自然科学的カテゴリーではないからである。物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである。脳の動きが物理的な作用によらずに動き始めたら超能力だと言うが、生命とはもともとそういうものであり、無生物がなにも物理的な力を加えずに動き始めたら確かに超能力だが、生命体が自分の意思で自分自身の身体を動かす分にはなんの矛盾も問題もない。自分の意思で自分の身体を動かすことができるから生物なのである。」。」実体二元論 疎外論と幻想論より
〈原生的疎外〉とは、其れをわたくしの言葉に置き換へれば瑕疵であり負債であると云ふことだ。
わたくしは其れを直観したので、これまでさう述べて居ただけのことに過ぎぬ。
疎外としての生とはかうしてむしろマイナス要因なのである。
生の場自体が其の負の場そのものなのだ。
何故疎外されて居るのかと言へば全体性としての精神が還元主義としての肉体に限定されて仕舞ふからこそ疎外であり瑕疵であり負債なのだ。
或は煩悩の世なのだ、罪の世界なのだ。
生命の本質が示される全体論としての精神は物理的現象ではなひが同時に其れは肉体と云ふ物理的過程からは離れられず矛盾に苛まれることとなる。
即ち生命の本義とは悩むこと=苦であり、また罪であり本質的暗愚であり要するに其処でもって相剋せざるを得ぬものだ、
其処をどう捉へていくかと云ふ点にこそ科学主義と人文主義との違ひ、合理主義と藝術や宗教の分野との違ひが存して居るのだらう。
「心的現象とは自然科学的に〈観察〉するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に〈了解〉することによって初めて出現するのである。吉本は心的現象とは〈幻想〉であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。脳科学や神経学の発達で、知覚の問題は説明できるかもしれないが、人間の持つ感想、解釈、意味付与、価値観、審美眼の問題は説明できないのと同じである。」
〈観察〉する即ち客体視することのみで心は生じぬ、其れはそも其処では心が不要だからなのだ。
第一物理現象に心は必要なひ。
だから其れが合理主義となる。
だが心が無ければ生の本質を見据えることなど出来ぬ相談だ。
還元主義の数学的記述でもってたとへ全宇宙を示すにせよ、自然の中を舞ひ飛ぶ一匹の蝶の美しさを指し示すことなど出来ぬ。
人文科学の意義とはまさに其の本質としての生の体積ー堆積ーを指し示すことにこそあらう。
心とは其のやうに生の根幹でもって燃え立つ焔の如きものだ。
其は冷たき機械的な反応などではなく、むしろ灯のことなのだ、生を遍く照らし出す燈火のことだ。
其れは〈観察〉するのではなく、〈了解〉されさらに「祈り」の階梯へと連なっていくものでもある。
〈幻想〉即ち「浪漫」が、まさに人文の知の領域で灯のやうに点り我我の未来を形作るものでなければならぬ。
二元の対立を相克ししかも相即することで其のやうな灯を点していかずしてどうする?
永遠に点り共に悩みさうして苦しみ、祈り、且つ又悟りへと向かわずしてどうする?
或は神と共に歩まずしてどうする?
が、其処ではなかなか悟れずしかも神と一体ともなれぬものだ。
なので今ココで詩人の言葉に耳を傾ける。
さうだ、二元対立を相克しかつ相即するままに陰陽説へと至るのだ。
真面目な話陰陽説をこそ是非学んでみたひところだ。