人間の「生物としての側面」を無視することで抽象的に利益ー果實ーを貪り求める文明の様はまさに楽園を追はれる罪深ひ一組の男女の如きものだ。
さう我我人類は今まさに其の「失楽園」をやって居る最中なのだ。
昔不倫の話で「失楽園」と云ふのが確か流行ったものだったが皆様覚へておひでだらうか。
まあそんな通俗小説は所詮通俗文學なのだが。
でもわたくしはあくまで芥川でありさうして太宰なのだよ。
ちなみに「失楽園」のドラマ版の方へ出て居た川島なお美は愛知県立中村高等学校ー結構利口な学校ーから青山学院大学へ進んだなかなかの利口👩だったがそんな変なドラマへ出た故か54歳でもって病気で死んだぞよ。
兎に角わたくしは俗なものには一切興味など御座らぬ。
兎に角我我は今まさに其の眞の意味での「失楽園」をやっておるところだ。
さて問題は其の「失楽園」の象徴的意義にある。
「生物的な限界」を認めたくは無ひ現代社会の合理化システムは可死的な存在である筈の我我を何処までも抽象化して行かうとして御座る。
つまりは君、君はそも死ななひのだし病気にもならなひ。
死んだり病気にでもなれば即会社は首だし妻や子も勿論サヨナラだ。
だから君はもう死ねなひのだし病気にもなれぬ。
さうしていつも朗らかに会社や國家の為に尻尾を振り利益を兎に角一円でも多く稼ひで来ひ。
そんな会社のドレイのやうな営業マンには金輪際なりたくは無ひ。
いや、商人や営業マンを見下して居る訳では御座りませぬ。
実際わたくしの弟も営業マンなのですし。
でもわたくしにはとても出来ません。
大學を出た頃も営業マンなら当時は幾らでも大手企業の募集が学生課の方に来て居りましたがわたくしはさう云ふのが兎に角まるで向ひて居なひのだった。
でもわたくしは文學部じゃ無く法学部の出身者ですよ。
尤も文學部を出た奴よりも大抵はより文學に就ひて詳しひのですがね。
兎に角現代社会は抽象的に利益ー金銭的価値ーを無制限に追求しやうとして来た。
其れももう三百年ばかりは其れをやって来た。-日本の場合は此の150年程を-
だが其れは頭がおかしひと言はれてもまるでおかしくは無ひ価値観だ。
頭がおかしひのでおかしひとさう言って居るのに何故みんなは其れがおかしひとさうは思はぬのか?
左翼思想とはさうした資本主義社会が抜け出すことの出来ぬ社会の根本の矛盾につき挑んで行く考へ方其のものだった筈。
よって左翼思想には左翼思想としての理ー利ーが勿論ある。
尚かってわたくしが大きく感銘を受けたのが詩人でもあった吉本 隆明氏の思想である。
ー吉本隆明は、著書『共同幻想論』(1968年)で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
- 自己幻想
- 対幻想
- 共同幻想
1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。職場にいる顔と、家庭にいる顔、そして1人でいるときの顔や行動は、それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな男が、家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、じゅうぶんありえることなのである。
吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張する。
例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。ー共同幻想より
確かに其の自己幻想の領域に於ひて我我個は常に自由なのだ。
特に近代的な法治國家である限りは自由である。
其れが対幻想の領域となると多少我儘は許されるものの拘束が生じ其の自由の内容も制限されて来やう。
さらに共同幻想即ち社会的領域ともなれば公の部分に常に束縛されるが故にまさに「個人が幽霊としてしか存在出来な」くもならう。
但し対幻想と共同幻想の差は程度差であるに過ぎず本質的には👪や友人でさへあくまで其れは社会関係により成り立つものだ。
で、問題は其の社会関係が個に於ひて生ずると必ずや個が其の社会其のものに圧迫され其の規模が大きくなる程に次第に身動きが出来なくなって行く点にある。
但しそんな社会に交はればご褒美は必ずや与へられやう。
まるで飼ひ🐶にエサが与へられるかの如くに可愛ひ御嫁さんだの子宝だの其れを養ふだけのお金だのが其処にうまくバラ撒かれやう。
いや、別に結婚して居らずとも飲み屋やキャバクラやパチンコ、競輪競馬へ行くだけの金はしかと口座に振り込まれやう。
が、問題は其の御褒美が個に対する正当な報酬か否かと云った部分である。
此の吉本理論によればあくまで其の報酬はインチキであり其れがインチキであるからこそつまりは個は幽霊としてしか存在出来なくなる。
だから、其処にこそ社会の根本問題がある。
また其れは資本主義社会にせよ共産主義社会にせよ同じ問題を孕むと見ておくべきだ。
だから思想の右左など関係無く社会は本質的に個を圧迫して行かざるを得ぬ。
なので社会の価値にはまるで従ひたく無ひ。
まあさう云ふ人もまた此の世には居る。
多分わたくしなどもさうだ。
で、たとへコロナ禍でも働かなひと困るところがあり實は其処では労働其れ自体が過酷なものともなって居る。
でもまだ時給の高ひ医療従事者などは良ひ方だ。
だが日銭稼ぎの為にドラッグストアやスーパーでまたコンビニでレジをやって居る人などは死と引き替へに低賃金にて働かされて御座る。
何故資本家及び投資家はそんな理不尽な労働のあり方につきマズひと思はぬのか、麻生大臣、アンタはさうした労働者をまさに🐕🐈以下に思って居ることだらうが間違ひ無く其れは誤りだ!!
さうして日銭稼ぎで仕方なく底辺の仕事をして居るだけなのに何で麻生氏や安倍氏のやうな心無き人々の為にかうして働かねばならんのだ?
コロナ労働は一律でもって日頃の三倍の給金を是非出すべきだらう!!!
もうつひ頭に血が上って仕舞ひ保守の面からも是非反対の立場を書かうとさう考へても居たが其れが全部ブッ飛んで仕舞った。
いや、今ようやく思ひ出した。
要するに其の社会的な要素としての「公」の立場もまた大事なのだ。
何故なら「公」は行き過ぎた競争や行き過ぎた利益の追求を抑止する働きを持つ。
ところがまた其の「公」に安住して居れば居る程に既得権益だの特権意識だのが芽生へ組織は腐敗し魔殿化しやう。
なので兎に角其のバランスを保つこと其れ自体が組織ー社会ーにとっては至難の技なのだ。
至難の技なので、至難の技であることが分かって居るので文人に限り社会ー組織ーからは逃げて行くのであります。
もう兎に角社会はイヤだ。
社会なんてもう金輪際イヤだ。
でも社会化せぬと御褒美が何処からも貰へぬ。
さても困ったな。
一体どーしたら良ひのだ?
一つだけ方法があります。
さすればアナタは一流の作家であり詩人となれませう。
其れが取れませぬ、其れもこんなところでこんなことを毎日書ひて居る限りは。
第一還暦以上のトシでもってそんなものを貰った人など居なひことでせう。
もう頭の中も適度に濁って来て居りますのですし、其れに👩にも昔程興味が無ひのでありますが其れでも何とか役に立つのでせうか?
そりゃあやってみなければ分かりません。
と言ふよりもマジでもう終活の方に着手したひとさう思っておるのですが其れでもなを芥川賞だのH氏賞だのを狙ふのですか?
まあ無理でせう。
アンタにはせひぜひ此処がお似合ひですよ。
何やらバカにされたやうで余計に気分が悪くなった。
コロナ苦以上に気分が悪くなったぞ。
尚矢張りと云ふべきか宗教もまた布教が開始された時点で社会化される訳です。
なので宗教とは其の教祖様以外は須らく社会的な営為であり即ち個として其処に束縛されて行かざるを得なひ。
但し信仰と云ふ次元に於ひて其の教へと個としての自己の関係を社会の最小単位ー対幻想ーとして再構築することが可能だ。
逆に言へば俗世間での社会関係は須らく共同幻想としての次元のものと化す為確かに其処では個は現象として幽霊化されて行かざるを得ぬことだらう。
ー吉本は有機体を原生的疎外と呼び、生命そのものが自然物からの疎外であり、微小ながら幻想性を有していると考えている。自然からの疎外そのものが、幻想性なのである。ちなみに疎外とは、そこから派生はするが還元されないという意味である。肉体がないと意識は生まれないが、意識は肉体には還元されない。意識は肉体から相対的に独立して存在するのである。身体を引き裂いて一度死んだ人間を、また縫合しても生き返らないのと同じである。生命は機械とは違うのである(ここは、ソビエト的な唯物論に対する批判でもある)。
意識と肉体は、炎とロウソクの関係に似ている。ロウソク(燃える物)が存在しないと炎は生まれないが、炎という燃焼現象はロウソクには還元されない。よって、いくらロウソクを調べたところで炎という燃焼現象の本質は理解されない。炎はロウソクから疎外された現象なのである。
また、ここで言う疎外とは、単純に自然哲学の概念であり、マイナスイメージは含んでいない。だから、やがて疎外を弁証法的に統一すべきであるというニュアンスもない。ただ、意識(有機物)と物質(無機物)の関係を説明するための概念である。吉本は、意識、物質どちらかにすべてを還元しようとする唯心論、唯物論を拒否し、疎外という概念を使ってそれを乗り越えようとした心身二元論者である。
疎外の概念を用いて、各幻想を定義したら、
- 個人の身体という自然基底から疎外されたものが、自己幻想(自己意識)
- 男女の肉体的な性交渉という自然基底から疎外されたものが、対幻想(性的交渉)
- 市民社会(社会的国家・マルクス的にいえば下部構造)という自然基底から疎外されたものが、共同幻想(政治的国家・マルクス的にいえば上部構造)
となる。ー#幻想論と疎外論より
此の吉本氏の疎外論にはかって驚ろかされた。
即ち生命其のものが自然物からの疎外である。
其の幻想性とはつまりは抽象性のことなのではなからうか。
人間とはさうした意味で抽象的にしかー幻想的にしかー現象し得ぬ生き物なのやもしれぬ。
さうして抽象的に人間は自然より派生はするが自然其のものへは決して還元されず其の意味ではさうして不可逆の歴史過程を永遠に漂ふ存在なのだ。
わたくしはさうした人間のあり方が兎に角怖ひ。
實は幼稚園児の頃からすでに恐れて居た。
対人恐怖症なのでは?
いや少し違ふ気がして居る。
何故ならわたくしは個人がまるで怖くは無ひ。ー案外人と友達にもなれるー
兎に角集団となった人間への原初的な拒否反応のやうなものだけが確かにある。
かうして吉本氏が述べるやうに肉体が無ひと意識は生まれぬが意識は肉体に還元され得ぬのだ。
蝋燭が無ひと燃焼はせぬが燃焼其れ自体は蝋燭には還元され得ぬ。
炎ー燃焼ーはロウソクから疎外された現象であり意識ー精神性ーもまた肉体ー物質性ーから疎外されし現象だ。
うーむ、しかしながら此の論理は凄ひ、かうして思はず唸って仕舞ひます。
つまりは其の意識性ー精神性ーは肉体性ー物質性ーへと後戻りが出来ぬ。
さうして人間は抽象的に其の疎外の過程を何処までも歩んで行くことしか出来ぬ。
また引用部にもあるやうに心身二元論として唯心論と唯物論を否定した部分にこそ此の疎外論の意義がありませう。
其の意義は事實上符合して居るやうにも思はれる。
さうして人間は自然からは抽象的に離陸し自然の空とは何処か違ふ空の上を飛んで行かざるを得ぬ。
或は宙ぶらりんにて神の視座と地との間を只永遠に漂ひ続けるのだ。
其れも信仰と云ふ宗教的な次元を除ひてはさうならざるを得ぬ。
要するに資本主義も共産主義も前者の次元での単なるヴァリエーションのことであるに過ぎぬ。
つまりは人間は幻想ー抽象性ーを生きて居ざるを得ぬ。
何処までも何処までも其の抽象領域つまり架空領域を訳の分からぬ価値観をさうして振り翳しつつ訳の分からぬ宙ぶらりんでもって生きて行くより他は無ひ。
ああー、もう兎に角逃げたひ。
此の人間其れ自体から早う逃げたひ。
かうして自己幻想も対幻想もまた共同幻想も其の抽象的幻想性からは決して逃れられぬ。
疎外=抽象性と捉へたならば、人間存在自体が其の疎外の権化であり抽象性の権化なのであらうから疎外されぬ自然基底其のもの、また性交渉其のもの、及び市民社会其のものへとは後戻り出来ぬ抽象性を獲得するものこそがまさに人間其のものであり社会其のものなのだ。
要するに人間及び人間の社会はお先真っ暗なのですか?
まさに真っ暗でせう。
其の人間の生物としての限界、生化学的な反応の限界を本来ならば最も重視しなくてはならぬ筈だ。
何故ならあくまで人間は自然の一部として地球上にかうして組み込まれて居る。
其の本来具象的である筈の人間の肉体性を抽象的に改変ー進歩?ーさせて行くことが果たして我々にとり幸福な状態へと導くことなのだらうか。
ところが、現實としてもはや我我は便利で快適な其の「生物的な限界」を否定するシステムを信じ切って御座る。
わたくしは保守と云ふ価値観を継続させて行く価値の流れにはかうして盲目的に現状を肯定して行くと云ふ怖ろしひものがあるとさう判断して来て居る。
保守と云ふことは同じことを繰り返す流れのことでもまたある訳なので其処でもって事の本質が悪だらうが何だらうが其れは其の侭続ひて行って仕舞ふのである。
また場合により其の価値の継続がまさに今回のやうに困難になる場合さへもがまたあり得やう。
其処にてまず問題となるのは総合的な視野の広さでありーわたくしをも含めたラヒターの方々のやうなー、批判精神の確立でありアウトサイダー的な見方への接近であらう。
だが所詮其れを大衆に求めて行くのは難しひのやもしれぬ。
何故なら大衆とはさうして社会システムに対し尻尾を振ることで己の保身を図る者達のことを言ふのだから。
今一つにはスローダウンとしての所謂「ダウンシフト」なる考へ方が實は存在して居る。
此のダウンシフトも大衆のレヴェルでは難しひことだらうとわたくしは見て居る。
其れが可能なのは見識の高ひ一部の學者や兎に角意識の高ひ藝術家などとなることだらう。
或は橋の下のルンペンさんとかが。
尚此の「ダウンシフト」こそが今後の我我にとりグローバル・スタンダードとなる考え方其のものであるやうにわたくしには感ぜられる。
今後人類は努力により培ふ広ひ視野より全体論的に生命のあり方を見詰めて行くこと、又はマクロな視点より生態系を見詰め自らの行動を決して行くことなどが自然に求められても来やう。
だが其れは常に困難を伴ふことであらう。
何故ならたとへばかって宮澤 賢治と云ふ詩人が東北の岩手に住んで居た訳だ。
其の詩人の感覚とわたくしの感覚はおそらく理解し合へる範囲にあることだらう。
だが大衆はおそらく其れを理解し得ぬ筈である。
現實としての詩人又は藝術家はなかなか余人には理解がかなはぬものと相場が決まって居る。
其れだけ違ひがあるつまりは大衆的感覚とは隔たりがあるからこその文人の作品なのだ。
要するにわたくしは現代文明とは其の大衆としての欲望が成り立たせて来たものだとさう考へて来て居る。
だから人類の指向、人類の欲望として脱大衆が出来なければ結局文明の大枠を変へることは難しくなることだらう。
但し幸運なことに今回まさに自然からの「ダウンシフト」がかうして突き付けられて居る。
或は其れは絶好の機会なのやもしれぬ。
だが其の「ダウンシフト」が何処まで加速し行はれるものなのかと云ふことが現状では把握することが出来ぬ。
勿論最悪のシナリオはコロナ禍に地震の発生や温暖化による不作や気候変動による災害が重なり文明が丸ごと崩壊して仕舞ふことだらう。
但し其れが起こるか起こらぬかそんなことは誰も知らなひ。
尤も起こった時のことを想定して様々な価値を設定しておくべきだと云ふことなのだ。
吉本氏による原生的疎外の論理は或は生命現象の本質を突ひて居るのやもしれぬ。
生命が元々さうして「疎外」された現象だと云ふことだが其れは要するに+、-で言へば-の論理で良し悪しで言へば良くは無ひ=悪ひと云うニュアンスを含む考へ方だ。
つまりは所謂人間中心主義の逆を行く考へ方だ。
吉本氏の思想はかっての学生運動の理論的支柱でもまたあった訳だが其の後の世代の我我還暦世代にとっても全く新鮮で且つ尊敬出来る内容をかうして持ち合はせて居ることと思ふ。