目覚めよ!

文明批判と心の探求と

矢張り「遺言。」より


養老先生は意識の中だけに住み続けるのは現代人の病であるとさう述べて居られます。

さて其の意識化過程=合理化過程とはまさしく社会的過程のことであります。
まさに個が集まり全体化することで其の社会的過程を生み出して居るのです。

此処で問題は何処に生じて居るのか?
畢竟其れも社会が悪ひのでせうか?

いいや、さには非ず。
其の社会化と人間の性質との複合そのものが悪ひのです。

人間の根性の悪さが社会化する時まさにとんでもなく悪ひものを生じせしめ諸の破壊を撒き散らす。
何故なら🐜は極めて社会的な生物ですが決して其処で破壊などしては居りません。

🐜にも意識はありませうが其れは我と云う観念領域にまで至ることのない弱い意識であるに過ぎぬ。


だから其の少なさと言うか至らなさ、実は其れこそが世界に於ける均衡を生み出して居る。

曰く過ぎたるは猶及ばざるが如し。

限度を知らないこと程怖いことはなく破滅的なこともまたない。


では其れは何ですか?

何ぞ悪ひことでも仕出かして居るのですか、人間共は?

まさしくさうだ。

人間の行ひは社会化すると必然的に悪くもならう。


だから人間とは常に破壊者なのだ。

其の破壊者としての人間を意識することなくして人文主義は成り立たぬ。

まさに人文主義とは其のやうな反省力のことだ。

意識の中に於ける自省の心のことだ。


社会の過ちは個に於ける過ちよりも常に大きくより破壊的だ。
かように大きなものが犯す過ちは人間の修復力を遥かに超えて仕舞ふ。

社会的自我による価値観
1.意識化ー言語化
2.現在化ー現在の永遠化ー
3.等質化ー同一化ー

また其処で抽象化と普遍化が兎に角得意。


近代以降社会としての人間が追い求めて来たものは意識ー意思ーの実現である。
意識は感覚との対概念でもって実は相即の関係でもってのみ規定されるべきものだ。

つまり本来ならば意識のみまたは感覚のみとしては分離してはならないものだ。
さらに言えば精神ー観念ーと肉体ー物質ー、男と女、陰と陽といった二元的要素を一極のみで拘わったりしてもならない。

あへて其れを分けるのが感覚である。

対する意識は等質化していかうとする。

だから逆に極めて危なひ訳だ。



「かように同じものとして違ふ何かと違ふ何かを纏め上げる能力が我我にはある。

結局其れは一元化能力があると言うことなのであらう。
然し其の観念的一元化能力は動物の持つ二元的感覚よりも高級だとは言い難ひ。

二元的限定とは二元的分離を保ったままで其の対立関係を縮小していくことだ。」



さて果たして其の一元化とは望ましひことなのだらうか。


結論として言えばわたくしはむしろ其の一元化をこそ避けるべきだと考へて来た。


たとへば其処でもって宗教は神または佛による一元化を図る。

然し一元化とは畢竟観念化と云う事を離れる訳にはいかない。


対して自然に神仏は要らない。

なんとなればまさに其れは二元的限定なのであらうから。


実はわたくしは其れをこそ目指すべきだと思って居る。


ただし自然に返れ、と云うことでは其れはない。


もはや自然には逆戻り出来ないのが現代人なのだから。



其の対立関係の縮小こそはむしろ観念的に指向すべきことだ。

感覚への依存度を高める訳ではなくたとへば其処で人文の知恵を使ふと云った具合に。



人文の知恵とは偏差値の上での知識ではなく心の利口さのことだ。


IQではなく謂わばEQと云うもののことだ。



さて文字は永遠に普遍である。


謂わば時空を超越して其れはある。


さうして意識は常に文字に化ける。

つまるところ文字とは意識のことだ。


しかしながら意識には元来香りや手触りが分からない。


意識は香りや手触りを表現することは出来ても其れ等其のものを確かめられぬ。


だから言葉もまた必然として美辞麗句とならざるを得ない。


ただし直観は常に働き其の美そのものを捉へることは出来やう。

藝術は其の分だけ感覚寄りである。


なので見てパッと分かるのだ。



ところがパッと見て分からない人も居るのである。


事実、絵とか詩が分かりますか、私は全然分からない。


ととある男性ー68歳のーに言われたことがあった。


むしろ私はそちらの方が良く分かるのでいつも美術館など行きまたたまには詩を書いたりして居ります。


然しどうも其の方はソチラの方には価値を感じて居ないやうだ。


其処からしてもどうも人間には持って生まれた心の性質がありどうやら其れは生涯に亘り変わるものではないやうだ。



さて其れではどちらがより好ましいのであらうか。

絵とか詩が分かる方が良いのか、其れとももっと現実的であるべきなのだらうか。



結局どちらがより良いと云う事でなく謂わば等価にどちらも大事な性質なのである。


内向性や外向性、つまるところ暗ひか明るいか、また男女としての性質の違ひなどはまさしく二元的な差異なれど等価にどちらも大事な性質なのである。

然し其のことを社会は見失ひ易ひ。


社会は大きいものだから必然的により極端な方向性を持ち易ひ。


個よりも其れは常に過激なのである。


何故社会はさうなり易いのだらう。


おそらくは社会自体に権威だの虚栄だのの絶対的価値を付与して仕舞ふからだ。


勿論其の傾向は個にさへ見られる。


が、個にとっての権威だの虚栄だのは常に限定されて居やう。



個は限定されざるを得ないがイザ膨張した社会的自我はもはや止められぬ。


限度を失いし社会はかうして何処までも巨大化していく。


謂わば意識化していく。


個の意識を置いてけぼりにしつつ何か別のものになっていく。


もうまるで人間ではない何か別のものになっていく。


近代以降の産業化社会や情報化社会がまさに其れに当たる筈だ。



即ち科学技術文明こそが其の別ものへの変身を可能たらしめるのだ。


ではそも其れは要らないのだらうか。



まあ非破壊としての文明の維持の為には要らないと言えば要らない。


然し破壊の為の文明としては其れも必要欠くべからざる進歩の様だ。



つまり善悪や良否と云った二元的価値観では結論が出ない。


でも此の場合には近代的価値を一極として大事にする訳にはいかない。


何故なら其れはバランスを欠く価値であり不可逆的な価値なのだから。



言うまでもなく二元的価値は相即してどちらにもシフト出来るやうなものであるべきだ。

さういうのがまさに限定されしバランスなのだ。


ところが現代の価値は一極に無限膨張するばかり。

より快適でより生きる価値を高めやうと躍起になるばかり。



だがさういうのこそが破壊を生み出す悪ひ癖だ。


まさに極悪の癖でまるで長続きはしなひ。


なので近代以降の社会的価値は須らく間違っておる。


さうではなく他方へも移れるやうにしておかなければならぬ。



別に男でも女でも良ひのだがどちらへも移れるやうにしておかう。

利口でもバカでも良ひのだがどちらへも移れるやうにしておかう。


自然科学でも人文科学でも良ひのだがどちらへも移れるやうにしておかう。

いや、違った。

自然科学はそも意識と感覚のバランスを欠いたところに生ずる分析知ー分別智の極ーなので認められはせぬ。



自然科学を即刻止めリアカーを何処までも引いていくことの方がずっと有意義な話だらう。


第一モノまみれ会社まみれ女まみれでもってしてもうコレ以上そんなものは要りやしないぞ。



かう間違ひだと云われても社会の妄想は個に於ける其れよりも余程にタチが悪く治りゃあしなひ。


人間社会は根本の性質が悪だから決して治りゃあしなひのだ。


其れこそタイムマシンか多世界ワープの方法でかの社会的自我をスッ飛ばさぬ限り其れは治りゃあしなひ。



若し社会が治りたひのであればまずは貧乏になり車や飛行機を無くし其れこそスッと前近代の信仰の生活に戻る覚悟がなくてはならぬ。


さらにリヤカーをもっともっと活用せよ。


リヤカーには何でも乗るしおまけに人力移動するものだからまさに其れは最高に限定的な乗り物だ。



是非一家に一台はリヤカーを。


左様リヤカーさへ引いていけば必ずや文明は救われやうぞ。


さらにリヤカーは思ひ思ひにデコレーションすることさへもが可能だ。


つまりは個性化することも出来やう。キラキラのデコリヤカーとして。




さて文明とは意識的秩序による構築物であり無秩序=意味なきものを極限まで削ぎ落としていかうとする働きのことだ。

然し逆に言えば其れは自然にとっての無秩序つまりは自然破壊を生み出していくことでもある。


意識的価値観は有用か無用かで全てを計るから必然として其の意識の中に自らを閉じ込めて仕舞ふ。

現代の文明に解放や休息が欠けて居るのはそんな意識の自己牢獄化により常に何かに追いまくられて居るからだ。


ただし意識的なものに全く解放や休息が欠けて居る訳でもなく先に述べたところでの人文の知恵や藝術には必ずや半分位の解放や休息が含まれて居る。


さう自然の半分程の解放や休息が含まれて居やう。


意味あるものはむしろ意味なきものから生まれるものを意味あるものは意味あるものだとさう短絡してまるでどーぶつ思考を為して仕舞ふのが所謂還元主義の陥り易ひ点だ。


其処では考えられないと云うどーぶつ思考をバカにして居るのではなくどーぶつ思考を為す場合は必ずや動物である必要があり人間の場合は感覚音痴だから観念的屈折ー意識の直観化=般若の智慧の構築がどうしても必要となる。


観念的屈折が無いとバカ科学者ばかりとなり其処でホイホイとつひ有用なものばかり=意味あるものばかりを生み出していくこととなる。


其の挙句にまさにとんでもないものまで生み出して仕舞ふのだ。


全くもう原水爆だの加速器だのクローン技術だのAIだのと云う。


左様に使ふ理性にそも屈折が無いと要らぬものばかりがしかも大量に創られさらに環境汚染、環境破壊が加速され行われ其の意識の牢獄のさ中で人類は悶絶死する他はない。



だからまずは立ち止まり眞心でもって考へてみやう。

或いは屈折し意識的秩序から逃げ出してみやう。


動物は感覚でもって素早く変化を察知していやうからむしろ人間などよりも感覚的には優れて居る。


ところが常に観念的能力には欠けるので人間の悩みを解決する能力など元来持ち合わせて居ない。


其処はまことに良くしたもので意識的に構築されし人間の価値観の病を治すカギはむしろ人間にのみ与えられて居やう。


さう自分を救ふ能力は所詮人間自身にしか与へられて居ない。


無論のこと宗教は其の人間の自己矛盾を真正面から見詰め人間の苦悩を解決に導く為のひとつの道である。



宗教かまたは精神的な領域に於いて意識的なものは一神論的な傾向を帯び逆に感覚的なものは汎神論的である。

仏教は本来ならば神様とはまるで関係なく人間の自己矛盾を根本から根絶せしめる教へであるので謂わば其れは究極の無神論的な宗教のことだ。



意識と云うのはあらゆるものを意味があり尚且つ屈折しない何か=+での価値ヒエラルキーのものに染め上げていく。

すると全部が意味化されるので逆に意味が見失われ生の有難味さへもが希薄化されていかう。

また消臭、消臭とまた花粉、花粉と何でまたそんなに其処に拘り無意味化しやうとして居るのだらう。


さういうのが病そのものでありまさに意識し過ぎ病なのさ。


そんな花粉、花粉と云ったって我等三十から五十位まで始終山だの森だのをほっつき歩いて居たから花粉に対する免疫が出来て仕舞ひもはやほとんど反応しない。

逆に人混みの中での病原菌には耐性がなくまるで弱ひ。


なので花粉症とは其れ即ち文明病なのさ。

大抵は文明を疑わぬお目出度き人々に限り其れに罹るものと相場が決まって居やう。