目覚めよ!

文明批判と心の探求と

悩めさうして死んでから理智の園へ入ろう


偉ひ。流石は宗教団体としての各派だ。




逆に悩みがあるからこそ救われて居り、救われた者は死んでから良いところへ行けるのだ。
確かに生きて居るうちに其処へ行けば良いやうなものだが、アノ「二十一世紀の資本」ではないが資本主義がまずどうにもならぬので皆生きて居るうちには救われぬ。


いや、原始仏教禅宗へ行くか其れとも即身仏とでもなればもしや解脱出来るのかもしれない。


が、あくまで其れは…かもしれない、とのお話でまるで宝くじに当たるやうな次元での話とならざるを得ない。


なのでむしろ其のままに悩んで居て良いのだ。


悩むやうな社会をつくって置いて悩まずに居れと云う空気をつくって居ること自体が誤りなのだ。


社会が間違って居るのに悩まずに居れと云うのであれば其れはキチ外人間を量産するキチ外社会のことなのであり其処で悩む善良な民の心が悪ひ訳では無く其れぞまさしく狂った社会こそが悪ひのだ。



だからさういう狂った社会はいずれにせよ長くは続かぬ。


おそらくは百年ももたない。


或いは五十年位かもしれない。



でも其のやうな時に悩んで居てどうする?


是非開き直って宗教家になることだけを目指そう。


または藝術家になればいい。



余りにもバカバカしい世間での欲の追求に背を向けてそんな風に聖人になる道に進むのだ。


だが悩みだけは容易に消え去りはしない。


悩みを消せと決まって宗教は云うがむしろ悩みが増すばかり。



だから其れが現実の姿だ。


此の腐った現実としての偽らざる姿だ。



そんなものを悩まずに見て居られやうか。
まさか聖人様でもなかろうに。


腐ったものはあくまで腐ったもので、そんなものは幾ら美辞麗句で飾り立てたにせよ本質的には腐り切って居り其はまさに地獄へ堕ちる本質なのでもうまるで正視するに耐えぬ。



そんなものは何千年も前から正視するに耐えず、従って幾ら美辞麗句で飾り立てたにせよ事実として社会は悪く人の心も邪で悪魔はそこいらにウジャウジャとおる。


さうしてむしろ善良な人々にこそ其の悪の姿が見える。



さう実は悪ひ奴には悩みなど生じない。


奴等は兎に角欲深く邪で自らを反省すると云うことがない。



其の善良な人々は法華経信徒だらうが念仏者だらうが切支丹だらうが何だらうが変わりがなく反省力が強いと来てる。


だから何教と云う事ではなくまた何宗と云うことでもなく理性の存する人は悩みさうして苦を味わひ謂わば艱難辛苦のうちに今を生きておる。


抜き差しならぬ此の苦痛のうちに人としての生を成立させておる。



おおまさに其の姿こそが菩薩であり神または極楽へ通ずる唯一の道である。


即ち其の苦悩は恐れるに足りず。


むしろ苦こそが理性としての証明だ。



姜 尚中も漱石ウェーバーも悩んだからこそ正しひのだ。


正しひものは悩むのだ。


悩んで悩んで、もう悩み過ぎて御飯が喉に通らない。


無論のこと其処まで悩む必要はないが腐ったものの諸の為に悩むことはむしろ当たり前のことで逆に胸を張って居るべきことだ。



そんな悩みなど要らないぞ、と云うのは近代的な合理思想がさう人間の脳味噌を洗脳しておる訳でむしろ其れに従ひ全てを喜んで眺めて居りましたところはや二十年後に地獄へ堕ちました。


と云う事に往往にしてならう。


左様地獄へ堕ちるのはさうした悪人であり此の現世の矛盾に突き当たり悩んだ人間は皆善人とされそれぞれに良いところへ生まれなおしていくことになっておる。



無論のことかの太宰 治も芥川 龍之介も皆其の良いところへ生まれなおしておる。


其れは所謂極楽ではなく悩み苦しんだ理性のみが入れる理智の園のことだ。


勿論天国ともまた其れは違ふ。


其れは神仏を信じなくても行けるところなのだ。



さて前回わたくしは信仰による救済のことを述べた。
信仰による救済は必ずしも理性の力を必要としていない。



ですが理性の力と云うものが現実的にはある。


特に利口なアナタ方の場合はもう嫌という程本を読みまたは大學でお勉強して来たことであらう。


其処までお勉強しても所詮何も分からぬではないか!


分からないけれども利口は利口なりに利口の悩みを悩み切って来た筈だ。


まあ其処は何となく我にも分からぬでもない。



ほんたうにもう、世の中馬鹿が多ひのでうわー、もう、と癇癪を起したくなる気持ちだけはよーく分かる。


だからわたくしは其のインテリの悩みにつき今日は考へて居るのだ。



インテリは成仏出来ないと古くから仏教では言われたりもして来て居るが元々仏教の僧はほとんどがインテリで特に日本の御坊様方は皆其の超インテリばかりであった。




そして釈迦はまたとんでもないインテリである。


知能指数がおそらく三百程はあったことだらう。




釈迦のほんたうの悩み



超利口なお釈迦様にとっては生の本質的側面こそが悩みの対象だったのであり、ゆえにどう一族にとっての国を存続させていくかとか妻子のこととか墓のこととか宗教のこととかそんなことはむしろどうでもよろしいことなのであり兎に角人間の限定性、其の有限としての人間の不完全さと自意識との矛盾相克のあり方、対立する二元性の展開としての生をどう理性的に克服していくかと云うことのみが彼にとっての問題であった。


ところがお釈迦様は利口だからこそあれこれと其の本質問題に悩まれたのである。


本質問題にいつも突き当たり悩みかつ自省的であることはまさしくお利口さんの特徴であり逆に言えばおバカさんはそんな風に本質で悩んだりせずかつそんなに自省的である筈もない。



だから利口には利口の悩みの領分がある。
ただ其れが馬鹿にある馬鹿の悩みと比べていつも優れて居るとかさうは言えないのかもしれないのだが。



が、結果的に観念苦は真理への端緒となることもある。


禅宗などは物凄く観念的な癖に観念を滅してもまたいく訳ですが個人的には観念をナメてはいかんと前々からさう思ふのである。


何故なら宗教自体が謂わば非常に観念的な分野なのだから。



宗教こそが観念を対象とするものでもまたあるからなのだ。


と云う事は自然界には観念が無いのでまた宗教も無いと云う事になるだらう。



さうして其れこそが其の「悩む力」なのだ。
「悩む力」には理性が要ると云う事なのだ。


ところが「悩まない力」には必ずしも理性が必要とされて居る訳ではない。


成人式でもって酒飲んで暴れて会場で暴走を繰り返しました。


矢張りコイツラには理性など望めやしない。



でもほんたうにヤバいのも理性なのだ。


暴走野郎は別に深くは悩まぬので皆同じ程度の女と早めに家庭を築き安定した生活を営んだりもするものだ。


然し理性の持ち主に限りヤバい。



女を触らず潔癖に生き社会批判や宗教と云った観念的領域でいつまでも文句タラタラなのでずっとタチが悪ひ。


即ち思想犯になる可能性が非常に高ひ。



おまけに女性批判を屡する傾向がある。


ショーペンハウアー先生が其の典型例であるが実は釈迦だって初めはして居られたやうだ。


此のやうに理性的になればなる程批判力が強くなり自己中心的にはなり易い。



が、わたくしは理性的な闘争を否定などして居ない。
むしろ理性的な闘争を経た上で初めて得られる境地があるものとさう考へる。


其れが全てではないにせよ「悩む力」の持つ意義は大きひとさう捉へて居るのだ。


「悩む力」と云うのは人間に特有な力のことで、或いは其れが社会や宗教と云った個を超えた領域にまで繋がるものなのではないか。


自然に「悩む力」が要らないのは理性による自己規定がそも彼等には必要ないからなのだ。


でも逆に人間には其の力がどうしても必要なのである。



悩んで居る、か或は理性に於いて闘って居ることは醜ひことではなくむしろ人間をしてそれなりに輝かせることなのではないか。


かようにイエス様のやうに悪魔と闘ひ内省をなし、且つ又お釈迦様のやうに生の本質的問題に突き当たり悩むこと。


むしろ其れこそが幸か不幸か理性に捉えられし人間の運命を担い滞りなく罪を贖っていくことではないのか。



悩まなくなった現代人。


いや、悩むことを損だと思い始めた即物的な現代人。


唯物思想に毒されて悩むことの真の意義を忘れ悩み自体を放棄しつつある現代人に此のお二方の様こそがお手本であらう。


考へる、ゆえに人間である。


悩む、だからこそ人間である。


悩まないと云う事は良いことのやうに見えて良いことではない。



悩むからこそ拓ける世界もまたある。

たとへどんなに辛くても其の世界の意義を疑ってはならない。