目覚めよ!

文明批判と心の探求と

自力救済と他力救済の本質的意義

生きて居る限り人間は其の獣であることからは免れ得ません。

其れは獣性に邪魔され理性的に生きることが難しいからです。

 

でも人間は獣のやうな分からず屋では決して無い筈だ。

さうだ人間は神や佛とも繋がって居る特別な存在なのだからこそ。

 

いやむしろ人間の其の認識にこそ問題がありはせぬのか?

むしろソコを問い詰めて行くことこそが眞の意味での理性の働きだらう。

 

 

だから宗教をやってればもう其れでもって確實にじぶんは善人だなどとよもや思うこと勿れ。

汝はむしろ邪教、まさに其れを信じ切って居るのやもしれぬぞよ。

 

其の理性は人間にとりまさに中途半端なものである即ち不完全な理性である。

であるからこそ人間はいつまで経っても完璧な社會を築くことが出来ぬ。

 

其の理性にはむしろ寄り掛からぬこと、其の不完全なる理性其のものを疑い自然へとなるべく回帰する方がむしろ完全に近い文明が築けると我はさう述べて居ります。

自然へとなるべく回帰する即ち自然との関係性を回復することこそが文明にとっての持続可能性の維持のことですがまずは其れがどうしたら達成されるのかと云う点に就き感性の面から洗脳を解いて行く必要が御座りませう。

 

尚都会に住んで居りますと多かれ少なかれ其の感度の破壊、感性の上での刷り込みを受けて居るものです。

其れも知らず知らずのうちに人間の感度が壊れて来ます。

 

ですが都会人の多くは其れが破壊であることをほぼ知りません。

其れはまさに感度がほとんど壊されて居るからこそもはや気付けぬ訳です。

 

 

ちなみに私は小学生の頃カブスカウトにて山野を駆け巡りましたものでしたが当時は都会が嫌いだと云う感覚はありませんでした。

また其処ではむしろそんなに自然が好きではありませんでした。

 

特に廿代の頃は百貨店が好きで其処にばかり通って文房具などを何時も買い込んで居ました。

つまりは強欲資本主義にもドップリと嵌って居たのであります。

 

ですが三十代の頃より再度山や森へ出掛けるやうになり特に其の清潔さのやうなものに心打たれるやうにもなった。

かうして感度が高くある私にとり此の頃より都会は汚れた場所である位にしか思えなくなって行く。

 

さうかうするうちに五十代を迎え文明での全部をやり尽くしたとさうも思えたので兎に角人間と申しますか社會其のものを批判したくなって来た。

 

其の汚されたものを汚されたものとして述べることこそが私にだけ可能な謂わば正論の振り翳しである。

こんなことは誰もやりやせぬのだから是非一遍やってみてはどうか?

 

元々教養はこんな具合にタップリあるので何をも懼れるものは無い。

第一僕は今人類全体を慈悲の眼差しでもって見詰めて居る。

 

 

さても其の慈悲とは一体何でせうか?

 

仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対してを与え、を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう[1]

これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない[1]。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである[1]

慈悲より

 

其れでもって我我世俗の者はなる程、慈悲とはつまりは愛のことなんだなとさう思う訳ですが釈迦が語る愛とはむしろ愛の否定其のもののことです。

 

また其の樂ですが、佛法に於ける本質的な意味での樂とはむしろ世俗の者にとっての苦のことです。

さらに佛法に於ける本質的な意味での苦とはむしろ世俗の者にとっての樂のことです。

 

左様に世俗の者は相当に修行して居られる方でもまさに其の価値観が顛倒して居ります。

即ちそも逆の価値観にて凡夫は物事を価値化し見て居る訳です。

 

cattāro'me bhikkhave saññāvipallāsā cittavipallāsā diṭṭhivipallāsā.Katame cattāro?
Anicce bhikkhave niccanti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso.
Dukkhe bhikkhave sukhanti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso.
Anattani bhikkhave attāti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso.
Asubhe bhikkhave subhanti saññāvipallāso cittavipallāso diṭṭhivipallāso.
Ime kho bhikkhave cattāro saññāvipallāsā cittavipallāsā diṭṭhivipallāsā.

比丘たちよ、この4つは顛倒した(saññā)、顛倒した(citta)、顛倒した(diṭṭhi, 見顚倒)である。
その4つは何か。
無常を常と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
無我を我と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
不浄を浄と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。
比丘たちよ、この4つが、想顚倒、心顚倒、見顚倒である。

Cattāro'me bhikkhave na saññāvipallāsā na cittavipallāsā na diṭṭhivipallāsā. Katame cattāro?
Anicce bhikkhave aniccanti na saññāvipallāso na cittavipallāso na diṭṭhivipallāso.
Dukkhe bhikkhave dukkhanti na saññāvipallāso na cittavipallāso na diṭṭhivipallāso.
Anattani bhikkhave anattāti na saññāvipallāso na cittavipallāso na diṭṭhivipallāso.
Asubhe bhikkhave asubhanti na saññāvipallāso na cittavipallāso na diṭṭhivipallāso.
Ime kho bhikkhave cattāro na saññāvipallāsā na cittavipallāsā na diṭṭhivipallāsāti.

(一方で)比丘たちよ、この4つは顛倒した想(saññā)、顛倒した心(citta)、顛倒した見(diṭṭhi, 見顚倒)ではないのだ。
その4つは何か。
無常を無常と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒ではない。
苦を苦と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒ではない。
無我を無我と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒ではない。
不浄を不浄と捉えるのは、想顚倒、心顚倒、見顚倒ではない。
比丘たちよ、この4つについては、想顚倒、心顚倒、見顚倒ではないのだ。

Anicce niccasaññino dukkhe ca sukhasaññino, Anattani ca attāti asubhe subhasaññino.
Micchādiṭṭhigatā sattā khittacittā visaññino, Te yogayuttā mārassa ayogakkhemino janā.

無常なものに常をいだき、苦であるものに楽をいだき、無我なものに我をいだき、不浄なものに浄をいだく。
衆生らは、邪見によって心乱され狂わせられる、マーラにとらわられた安楽なき人々である。

パーリ仏典, 増支部四集 5.赤馬品, 顚倒経, Sri Lanka Tripitaka Projectより

 

かって釈迦はまずは其の価値観の顛倒に就き指摘され且つ其の人間の心のあり方を正そうとなされました。

 

ですが現代の佛教、また佛教系の新興宗教でもって此の部分をあえて取り上げる組織などはまず無いのです。

だが私はむしろ此の価値観の顛倒こそが全ての問題を招いて居るとさう見て居るが故に此れ迄に何度も此の点に就き述べても参りました。

 

 

それにつけても顛倒経なるものがまたあった訳なのですね。

今回其れを初めて知りました。

 

其処では其の顛倒した想及び顛倒した心及び顛倒した見がある限り世の眞相と申しますか實相が我我に捉えられない旨に就き述べられて居る訳です。

つまるところ其れは認識上の間違い、か又は認識として取る形式としての誤りとでも申しますか所謂素朴な人間の認識としての其の認識の癖のタチの悪さに就き述べられて居るのだと思う。

 

 

でもって其の無常を常と捉えるのは今ほとんどの人々がやってることなのだらうと思います。

即ちみんなは現代の文明の継続を信じ文明は此の先もずっと続くとさう誰しも思って居ますね。

 

でも其の認識自体がそもオカシイ訳だ。

 

では一体どうしたら良いのかと申しますれば逆に無常を無常として認識すれば想顚倒、また心顚倒、さらに見顚倒には当たらぬとさう述べられて居ます。

確かに人生と云うか現象に対し非常に懐疑的な理性などはいつも其の無常を感じ且つ絶望などもして居る訳だ。

 

但し其れも相当に利口で無いと其の辺りの認識まではなかなか到達することなど出来ませぬ。

 

 

其れは理性として認識される人生は苦だから人生其れ自体が苦だらうと云うやうなことのやうだ。

でもイキナリかう言われても凡人には其の意味がまるで分からぬことでせう。

 

さらに無我だから無我で、不浄だから不浄だとまるで自己放棄者の如き考えを述べられて居ますが此の部分もまともな現代人にはまるで意味不明な価値観でせう。

 

ですが其れが分かって仕舞う人はさうして深く思い悩んで来て居るのです。

其の悩みはだから一般的に齎されるものでは無くむしろ価値の顛倒が「分かって仕舞う」と云った類での悩みなのです。

 

 

ですが其の「分かって仕舞う」のは直観力が強くあるのでさうなって居ることでせうが最終的に其れでもって悟れる訳では無く逆に迷妄の淵へと、其の余計に入り組んでややこしい観念のニヒリズムへとつい引き込まれて仕舞う訳でだから其れこそがインテリ層に突きつけられし悩みであり苦其のものの形なのだ。

 

さう云う人間のタイプは昔から居て例えば声聞や縁覚などと言われて居たやうですが幸か不幸か私はむしろソチラの系統での人間のやうです。

つまるところは理性派なのだらうか?

 

でも釈迦は凡夫ー大衆ーと声聞、縁覚ー心理的インテリ層ーの価値観をまた同時に否定しても居ります。

 

要するに凡夫方面に寄った認識作用とインテリ層方向に寄った認識作用が共に顛倒であるとさうも述べられて居るのです。

だとするともう此の世での人間の認識はそも全部が間違っており正しいものは其の佛による正覚だけだと云うこととなりませう。

 

だから要するに其処にて初めて此の世に於ける「正しい」認識が成就される訳ですが其れは他力救済に於ける二元対立概念ー相対分別ーでのやうに善悪の形にて示されるものでは無い。

善悪の対立は謂わば「有る」のですが其の善悪規定、又は正誤規定の分裂を放棄して行くところにこそ釈尊の眞意はある訳でよって其の本質的意義は謂わば「無い」と云うこととなりませう。

 

 

有⇔無

いや實は無い其のものなのでは無く、より正確には「有る」のでも無く「無い」のでも無いと云うまさに同時的な両極否定により此の有無としての概念対立其れ自体を滅して行く訳です。

 

其の概念対立は先に述べましたやうに馬鹿ー大衆的見地=多数派の認識ーでも利口ー理性的見地=少数派の認識ーでも共に救われません。

其の概念対立に拘って居る限り本質的には消去ー解脱ー出来ぬので永遠に苦からまた樂から逃れることなどは出来ぬ。

 

ですが、本質的に苦を去るとは佛の認識へと至る他無いのですから其れ即ち自力救済以外に人間が人間自身を救う方法などは無い訳です。

 

だが人間が人間を救うのでは無く人間では無いものが人間を救うのだとしたならば無論のこと其れが概念的に成立しない訳でもありません。

其れ即ち「人間以外の者」に人間を救って頂けるものなのであればとりあえずは人間が味わう現世としての苦からは救われるのではないか。

 

 

其の考えは善悪と云う相対価値の最上部に絶対性を構築するものですが重要なことは其れは現世利益主義では無いと云うことです。

いや確かに其の現世利益主義での価値二元論は大乗各宗派や神道などの得意とするところなのだとも思われる。

 

ですが基本的に私は現世利益主義の宗教を認めては居りません。

いや認めて居ないのでは無く其れでは救って頂けないのではないかとさうも考えて居ます。

 

「人間以外の者」に例えば神に救って頂けるやうな認識に至らんが為に現世での行動を改めて行くことは無論のこと悪からう筈も無いことです。

 

さて其の人間以外の神に丸投げするにせよ或は念仏や御題目を唱えるにせよ其れは其の本質的問題ー相対分別による苦受ーはとりあえず脇に置いた侭でまさに人間では無いものに救って頂くのですから解脱することに比し遥かにやり易いこととなりませう。

 

人間では無いものに救って頂くのとじぶんでもってじぶんを救うのは本来的に意味が異なることで謂わば現實的に救われるかー表面的、現象的に救われるかー其れとも本質的、實質的に救われるかの差なのでありますが事實上自力救済は人間には無理ですので他力救済を否定する根拠などは何処にも無いと云うことなのです。

 

人間がほんたうの救いを得るとむしろ消えて行くー此の世から解脱するー他無い訳ですので消えずに残る宗教の方が凡夫にとってはまだしも分かり易い訳だ。

分かり易い=とりあえずでの救いだと云うこととなりませうが其れが悪いと言って居るのでは無くむしろ人間にとっては必要なのです。

 

但し必要なものが正教であるなどとはまるで申しては居りません。

其の正しい宗教⇔正しく無い=誤った宗教と云う分別作用其のものが實は人間の苦の形成には大きく絡んで居りむしろ其処から脱して行くことこそが釈尊が説かれた初期の佛法のあり方なのでもある。

 

でも正しい、正しく無いと云う二元価値分裂に拘らぬ宗教は今や事實上地球上からは消え去って居ります。

 

要するに誰もがじぶんは正しいとさう考えて居ます。

宗教団体に限らずどんな組織でも必ずやさう考え「世を正そう」などとも考えて居ます。

 

まずはソコこそが間違って居るのですがね。

だから眞理レヴェルでは教祖様の偉さもまた組織上の偉さもまたノーベル賞なども価値としてはどーでも宜しいことなのだ。

 

要するに分別価値による価値構築其れ自体が正誤で言えば誤りであり善悪で言えば悪其のものなのですからじぶんでもって世を正そうと思うこと其れ自体がすでに妄想の如きものなのです。

 

 

さらに小難しいことをあえて述べますと、概念的に絶対者が成立するのであれば其処には相対概念がまた残って居ざるを得ない。

 

絶対=善⇔相対=悪

 

ともなり得、所謂善悪二元論の世界を形成する訳ですが實は神が居らねば👿は居らずまたー大乗のー佛が居らねば魔ーマーラーは居りません。

其の善悪ごちゃまぜでの世の姿こそが娑婆世界であると云う認識こそが他力救済に於ける認識世界なのだと考えられやう。

 

 

尤も其れを、

 

神の審判に委ねるか佛の認識に委ねるかと云う部分で云えば例えばキリスト教浄土教の違いが生じて参ります。

但し浄土教を始めとする大乗各宗派の佛とは釈迦のことではありません。

確かに釈迦が御本佛となる禅宗のやうな大乗佛教もまた御座りますが第一阿弥陀佛だの久遠實成の佛だのまた大日如来だのにせよほとんど神にも匹敵する程の抽象的な存在へと化して仕舞って居る訳だ。

 

だとすると大乗佛教は元々キリスト教に近い佛教でありむしろキリスト教化して云った佛教なのだとも一面では言えることでせう。

 

只ひとつだけ申して置きたいのは釈尊御自身による佛法は高度に理性的なものでありだからと言って合理領域に留まるものでは無く人間存在を心理的に救うー心理的な苦を抜くー為の方法を説いたものであることに他ならぬと云う部分です。

其れは現象とは左様に心理状態に左右され今此処に生じて居るものであり、無論のこと其れが眞のことであれば問題は無いのですが残念ながら其れは虚の出来事ー誤った価値観による認識ーなので其の逆に眞としての認識に至らねば生存の苦しみから解放されることなどはあり得ぬと云うことだ。

 

其の現象を消す為の認識であるのか、其れとも現象を続ける為の認識であるのか。

また現象とは迷い其のものなのか其れとも迷いを脱せんが為の聖なる道のことなのか。

 

分別概念は左様に虚としての妄想へと全て結び付けられるが故に自力でもって其処から脱することなどはそも不可能だ。

だからこそ他力救済にもまた一理あると云うことなのだと思う。

 

 

 

「無常なものに常をいだき、苦であるものに楽をいだき、無我なものに我をいだき、不浄なものに浄をいだく。
衆生らは、邪見によって心乱され狂わせられる、マーラにとらわられた安楽なき人々である。」—パーリ仏典, 増支部四集 5.赤馬品, 顚倒経, Sri Lanka Tripitaka Projectより

 

我我現代人は例えば文明の継続を信じるだの、またじぶんの👪の繁栄を乞い願うだの、また我では無い我としての価値観に惑わされつい会社で頑張ったりもする。

でも我我大衆はそんな現世利益にばかり捉われつまりは邪見を抱き心がもうボロボロにもされておる。

 

其の實相とはマーラつまり魔に捉われしお気楽な人々であることよ。

其の「安樂なる」とは本質的に安樂なと云うことですのであくまで我我が思い描くやうな所謂「樂」のことでは無いのです。

 

 

1.子が利口で嬉しい。まさに末は博士か大臣かだ。

2.かうして妻の愛に包まれとても幸せだ、死ぬまで一緒に居やう、きっとだきっとだよ、ね?

3.投資でもって金が百萬も儲かった。其の百萬でサイコーの遊びが出来る、即ち酒池肉林の宴が一箇月程も可能だ。

 

残念ながら其の全部が佛法にとっての「樂」ではまるで無いのです。

佛法にとっての「樂」とは苦からの脱出のことでありよってむしろ其の樂の追求の全部が逆に「苦」の継続其のもののことなのです。

 

厳密に申せばさうしたことですので世を儚んでインテリ層はすぐに滝から飛び降りようとしたりもする。

だからインテリ層には逆に、

 

4.此の世は永続ししかも樂しいところだぞ。

5.其の妻の愛に包まれ死ぬる瞬間まで幸せにならう、即ち此の際👩まみれとなってみよ。

6.壱遍位其の酒池肉林を一箇月程もやってみよ。

 

との価値観が説かれたりもするのである。

 

ですがあくまで其れはもしも死んだら成佛への機縁が無くなるのだから利口な奴は絶望してもなるべく死ぬなと云うことなのだと思う。

ー死ぬとむしろ成佛への機縁が無くなるが故に死んではならん、死ぬるのと消え去ることとは佛法上違うー

でもむしろ一番悪いのはまさに其の樂と苦の区別が顛倒して居る大衆ー衆生ーとしての価値観の方でせう。

 

 

苦からの脱出こそが佛法にとっての眞の意味での樂ですので所謂抜苦与楽とは成佛する、即ち二度と生まれては来ないやうな心的段階を成就させると云うことで要するに其れは人間の消去法其のもののことです。

 

佛法では人間=迷いとしての認識のことなので其の認識に基づくあらゆる努力もまた其の迷いを増大させるだけのこととなります。

但し本質的な意味ではさうなのであり大乗各派や新興の佛教的な宗教団体が今何を目指して居るかと云うこととはまた違う話ともなりませう。

 

さらにひとつだけ言って置かねばならぬこととは佛法の本質的意義は此の世で成功したり安心安全に暮らすこととはむしろ正反対の部分にこそあると云う眞理としての価値観のことです。

其のことはキリスト教に於いてさえさうしたことであり財は此の世に築き上げるものでは無く天ー神の世界ーにこそ築き上げるべきものなのでせう。

 

 

尤も其のキリスト教は自殺を認めませんが釈迦は自殺に対してさえ決して否定的ではありませんでした。

 

むしろ此の世の価値に迷いに迷い其れを貪ることなどー所謂イケイケドンドンの様ーよりも余程に其れに対し同情的に接せられて居ました。

ですが生命賛歌としての佛法がまた衆生の為の佛法が後世に創り出されまさに其れが大乗佛法として我が國へも移入されることとなった。

 

但し釈迦の佛法が生命を軽んじて居た訳では無論のこと無くむしろ其れを最大限に尊重して居たが故に「人間の消去」こそが苦の抹消である旨を述べられたまでのことでせう。

 

ー釈迦の佛法はさうして極限的に理性的なものだった。一面では合理化の極として捉えられぬでも無い。だが其れは人間の努力に対し届かぬ高みにあるものなのでもまたある。人間には出来ない余りにも高い壁であり究極としての目標でもある。其れが人間には出来ないのであれば、幾ら努力したにせよ其れが成らないのであればーさうして所詮はみんな獣なのでどうあがいたにせよ其処まで心のレヴェルを上げられないー他力救済にて何とかして行く他は無い。-

 

 

此処からも現代人が安樂だと思う事、其れはほぼ釈迦の佛法にとっての苦其のもののことだと思って置いた方が良い訳だ。

ですが我我現代人はすでに解脱を目指す為に生きて居るのでは無く何とかして破滅か又は終末へのソフトランディングを為す為にこそ生きて居るのではないか。

 

故に其の慈悲なる概念にもほんたうの意味合いが隠されて居るのです。

 

其の慈悲とは、解脱者か又は解脱に準ずる気付きを得た者から我我凡夫を見た場合に其処に認められるであらう倒錯の認識ー顛倒した価値観ーに対する慈しみの心のことなのです。

其れも蔑みなどでは無く我我の至らぬ認識ー迷いの心ーを哀れに思って下さる其の御心としての立場だと云うことです。

 

故に今朝僕は浮浪者さん達に慈悲の思いからおむすびを与えました、だの、イジメにあってる子をたった今社会の先生は救ってやったぞまさしくコレぞ慈悲の心だ、だの、慈悲の心にて池で溺れて居る🐵か又は猫などをたった今救ってやったぞ、などと云うこととはちょっと違いむしろ我我個としての迷いの認識ー非我としての認識ー其のものに対し与えられるべき憐憫としての心のあり方のことなのです。

 

 

要するにじぶんが間違って居るのに正しいとさう思い込んで居るのが凡夫かまたはインテリの連中だとさう佛陀は述べられて居たことでせう。

なので其処がそも分かって居ない凡夫は余計にタチが悪い訳ですが分かって居るか又は分かったとさう思い込んで居る知識層つまりは声聞、縁覚などもまた最終的には同じやうにタチが悪い訳だ。

 

但し大衆に対してのみ若干の理性としてのアドヴァンテージが其の分かった連中ー声聞、縁覚ーにはあるのやもしれません。

 

 

で、

これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない[1]。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである[1]慈悲より

 

などともありましたので少しくキリスト教のことも考えてみます。

キリスト教で言われる愛と云うものはでもそんなに浅いものでは無いと個人的には思います。

 

特に人間の苦と云うことに関し他力救済は他力救済でもって其の苦の隠滅即ち贖罪と云う意味に於いて其れが其処には語り尽くされて居るのだと思う。

故に釈迦の佛法とキリスト教の違いとは其の苦を自力救済するか他力救済するかと云う其の方法論の違いだけなのではなからうか。

 

逆に佛法は後に他力救済化して行くこととなりました。

何故なら釈迦の佛法を實現し得る力には誰しもが欠けて居たからです。

 

釈迦が目指した人間の本質的救済は残念ながら我我凡夫と知識層には共に無理なことでした。

 

何故なら佛陀と我我個は認識がそも違う訳なのですし、認識が違えば価値観が異なりだからどんな高僧でもなかなか解脱などは出来ずでも大乗各宗派の開祖様ともなれば大抵は解脱されたこととなっては居りますがー其れもあくまで体裁としてはーまずは無理なことだったらうと個人的にはさう思って居ります。

 

 

以上からもまずは何より釈迦の佛法と大乗佛教はまた別物なのです。

別ものではあれ、共に人間を救う為の教えであることに対し疑いを差し挟む余地などは無い。

 

さらにキリスト教と釈迦の佛法もまた別ものです。

別ものではあれ、共に人間を救う為の教えであることに対し疑いを差し挟む余地などは無い。

 

人間が一番困ったちゃんである部分とは、其の価値認識が常に眞理に対し逆様になって仕舞って居ることです。

なのでたとえ利口な人であれ大抵は其の価値観に於ける顛倒が引き起こされて居ます。

 

尤も佛陀とキリストは共に其の価値認識の誤りを指摘されて居ます。

 

だから其れは自力救済であれがまた他力救済であれ我我の認識が間違って居ること自体は同じなのです。

其の誤りを認め価値観の是正に勤しむことことこそが正しい宗教としての目的なのではないだらうか。

 

よって正教とは釈迦御自身による佛法及び其れに近い宗派とキリスト御自身が説かれた救済の思想のみでのことです。

 

ー尤も邪教が悪いなどとは言って居りません。相対認識と云う間違いをする手前人間其のものが謂わば邪なものですので其れに邪教が合わぬこととは言えずいやむしろ合う、合って仕舞うのだな其れがなんと。邪教をやるよりは宗教にはまるで興味が無い状態の方が遥かに問題があります。ー

 

ならオウムみたくサリンを撒き人殺しをしても良いのか?

勿論良くはありません。

でもオウムもまたイスラム原理派の方々も悩んで居ますね。

 

人間として悩むことは悩まぬことよりも正しい心のあり方へ通ずることなのだと個人的には考える。

また例えば純文學の作家はかって皆懊悩したものでした。

 

私は其れをこそ評価させて頂きたい。

人間は悩まなくなったらもう其処で心がお仕舞いです。

 

かやうに悩むことは悪いことでは無い。

悩まずに宇宙開発のことばかりを考えて居たりAIばかりを進歩させて居ることよりはさうして悩む純文學者の方がずっと心理的には上だらう。

 

尤も悩み=苦ですので、むしろ其の苦から脱出して行くことこそが宗教の目的でもまたあらう筈だ。