元より全ての仏教宗派と其れに類する新宗教の各派による仏法の保持ほど有り難いものはない。
此の世の諸価値の中で最高の価値であるものこそが仏法と其れに基づき得られることだらう信仰である。
仏教徒にとってはあくまでさうだ。
何故なら其れはまさに真理への御導きであり覚醒への土台となるものだからだ。
哀しいかな凡夫は自らの力で悟ることは適わぬ。
無明でしかも無信心なので悟りへの機縁を持つことすら難しい。
そして浄土思想とはまさに其の凡夫の為に考へ出された仏教宗派である。浄土
凡夫即ち金ない、地位ない、女房が不細工、子供の出来が悪ひ、おまけに足は臭いわ禿げてるわ、でもう良いところがひとつも無い。
なのに何で生きて居るのか。
もう死んだ方がずっとマシだ。
との苦しみ、此の現世の塗炭の苦しみに対して其れでも何とかしやう、何とか生き抜いてお呉れ、君の苦しみは君だけの苦しみには非ず。
其は社会が何より悪ひが為の苦しみなのだ。
さうだ社会体制も組織も全てが悪ひ。
故に其の社会を恨んで生きるのだ。
クソ社会、バカ社会、嗚呼まさにアホンダラの巣窟。
此のバカを殲滅せしめる為にはあの世で救われる他はない。
だから宗教を飛び越えイエス様は認めて下さるのである。
確かに異端ながら今此処で確かにお認めになられた。
百億も金を持って居るクソ野郎共には此の気持ちだけは絶対に分からぬ。
なので観念には非ず。
まさに怨念である、恨みのこと。
社会を恨み運命を呪ひさうしてあの世での光明を目指す。
いいや其の希望だけを信じ今を、嗚呼此の地獄の今を生きていく。
よりによって女房が男に走った、子供がテストで十点しか取れない、カネが無い、其れも明日二十万払わないといけないと云うのに今二十円しかない。
そんなクソ社会をこそ呪へ!
君が悪ひのではない、全ては社会が、此の悪魔が操縦して御座る社会が悪ひのだ。
いや社会全部が悪ひのではない。
社会の上層部が悪ひのだ。
文化など決して悪くはない。
其れに対置されるシンポ思想が悪ひのだ。
人間の歴史の全てが悪ひのではなく近代の歴史こそがおかしひ。
女の全てがふしだらなのではなく近代以降の女の欲望こそがふしだらだ。
こんな社会は即刻革命せよ!
然し共産主義自体がすでに矛盾の檻の中に取り込まれた。
平等の名の元に地球を破壊し豊かさと云う罪を謳歌するに至った。
即ち社会はまるで良くなって居ない。
昔の方がまだしも良かった。
人の心も温かく、まだ地球も壊れてなど居なかった。
だがもはや地球は壊れつつある!
しかも悪魔の欲望が炸裂して仕舞った!
パンドーラ―の箱がカパッと割れ女の欲望が地を充たすに至った!
嗚呼、怖ろしや。
かくの如し世界はマジで滅ぶぞよ。
さうだもはや時間がない。
もはや滅びの時は近いぞ。
早う悔ひ改めよ!
あくまで合理的に捉へた場合には末法思想はむしろ理論的根拠を欠く内容を持つ。
然し現実的には意外と真実味のある思想である。
尚コレはキリスト教に於ける終末観の変形なのだとも考へられる。
個人的には法滅はないことだらうと見て居る。
其処は竜樹の説く法の不生不滅論に近いものを考えて居る。
ただ末法と云うことはあくまで現実である。
観念ではなく事実としてさうなりつつある。
「第三階の人は、末法の濁世に生きる凡夫であるがゆえに、三階教が『大方広十輪経』や『大集経』を所依の経典として独自に説いた、普仏・普法・普敬によらなければ救われないと説いた。すなわち、あらゆる仏、あらゆる経典、あらゆる僧侶に帰依することを求めたのである。その実践は、乞食行であった。ただ、その主張は、如来蔵・仏性思想に基づくもので、それ自体は、大乗仏教の思想の延長線上にあるものである。三階教の教義は、仏教が本来もつ汎神論性を更に一歩推し進めたものとも受け取れる。」以上より引用
其の普仏・普法・普敬をもっと推し進めると宗教の垣根を越えた信仰と云う領域へと入っていく。
汎神論が究極的に進めば全部が神であり佛なので其処に究極の平等世界が現出しやうがさういうのはほんたうのところでは無理だ。
また寛容な宗教なんてのもほんたうはおかしひ。
宗教とは本来限定であり限定であるからこそ純粋なものでもあり得る。
然し限定と云うことは他を否定することではない。
他の宗教、また他の宗派は其れは其れで尊重しなければならない。
が、そんなものは我の宗教でもなく理解しなければならなひものでも元々ない。
どだい文化や歴史が異なれば宗教ももうまるで違ふ。
其れを一緒にしやうと云うのがまずは問題だ。
即ち其の普遍化こそが大問題だ。
そんなものは限定された枠内でコソコソとやって居れば宜しひものでありそんな大々的にうるさくやって居るものではない。
また小乗仏教からは終末思想が生じて来なひ。
浄土思想とは究極としての仏法の世俗化過程である。
ただし其処は実は正しひ。
しかも肉は喰らうわ、妻帯するわ、酒は飲み放題だわ妾はつくるわ。
また幼い男の子を性奴隷として寺に置くなどして要するに仏教はだらしがなくなり世俗化し謗法の限りを尽くして来た。
とする潔癖なご意見こそが実は正しひ。
が、其の潔癖では生き抜いて来られなかったのだ。
元より此の世はさうした穢れたところ。
美しひ人間など何処にも居らず皆本音を曝け出せば淫蕩でもって邪でもっておまけに泥棒でもって要するに罪深ひ。
人間のさうした穢れの部分を、わたくしの場合は特に鋭敏に嗅ぎ取る性質があり其れでもって五歳位からこのかたずっと人間嫌ひなのである。
其の中でそんな不純はイヤだ、まさに呪文を唱へたり火を焚いたり称名念仏したり唱題したりとそんな変な仏教はあり得ないのだし明らかに其れは謗法だ。
なので瞑想だけをしやう、として座禅ばかり組んで居たのがまさに禅宗である。
でも禅宗が純粋だとはなかなか言えぬ。
なんとなれば禅宗は全部を修行にして仕舞ふので謂わば遊びが無い、遊びが。
ばかりではなく実は一休さんはなかなかのインテリ僧でもあった。
だからほんたうに純粋なのは釈迦のみ。
釈迦こそは特別。
特別なので解脱した。
後はもう全部俗。
禅宗は利口な癖にあへて利口であることを捨て修行に走ろうとするが其の割に誰も解脱などして居ない。
畢竟禅もまた其の大乗不純化=世俗化過程のひとつに過ぎぬのだろうか。
彼が個人的には好みの僧である。
特定の御坊様が好き♡だと云う、此の実にマニアックな趣味から早く脱け出せたら良いなとは思ひつつそれでも尚善導が好き♡なのだ。
尚最近のわたくしの仏法の捉へ方は兎に角限定と云うことを基準に据へて来て居る。
むしろ三階教的な世界観とは逆方向なのだが其れでも結果的には他宗教を否定しないと云う意味で汎神論的である。
ただし仏はあくまで釈迦佛御一人だと思ふ。
でも其れは象徴として可である。
また信仰には実存としての生命が抱える特殊性が否応なく関わりー因縁としてのー事実としてさう規定されていくのである。
なのであるからして誰が其の信仰を貶したり出来るのであらう。
元より其の信仰は限定である。
限定と云う特殊性である。
故に其の特殊性を普遍化することなど出来ぬ。
じゃあ君はオウム教やイスラム原理主義を是認するのか?
別にいいんじゃないでせうか。
ただしさういうのは社会に悪さをするものであり信仰の問題とはまた別のところにある。
信仰とはあくまで社会的なものではなく実存的なものだと言うておるのだ。
だから社会なんてもうどうでもいいんだ。
事実社会が悪ひから浄土宗なんて云う其れこそ古臭ひ教へを再考していかねばならなひのだ。
そんなものは一人も居やあしないんだ。
そんな爺婆、いや最近の爺婆でもなんまいだーなんまいだ―などと言って居る人はもう何処にも居ないって。
ですが其れが実は天国への階段であった。
イエス様、または切支丹の世界観に近づく為の唯一の方策であった。
此処からしても教会は浄土宗のことを何か特別に認めなければならぬ。
其の圧倒的多数の信徒が実は切支丹であった。
などと云う恐るべき事実をなーぜ皆様は見て見ぬふりをして居る即ち不問に付して居るのだらう。
いやもはや此の際切支丹かさうでないかと云うことは問題にはならぬ。
問題は今後仏法は大丈夫なのかと云う事だ。
其処はあくまで近代化=合理化と関連づけて考へていかねばなるまひ。
一面で合理化は信仰を加速させることであらう。
元より人間は物質的充足の上に幸福を見いだせるものではない。
精神的充足が何より大事なのだ。
其の精神的充足を戦後担って来たのが経済的発展であった。
然し其れは所詮唯物論の範疇を出ないものであった。
合理化が進み精神的充足の自由さへもが脅かされるやうになると逆に人々は精神のありかを求め生きていかうとする。
オウム教の事件とはまさにさうした精神の自由への希求が齎したものである。
ゆえに信仰そのものが滅ぶと云うことは考へにくい。
人間が半分位アンドロイド化されるまではさうだ。
然し危惧されることは、仏法は明らかにキリスト教の教義よりも潔癖だと云う事なのだ。
其れは釈尊御自身が兎に角潔癖な方だったことと無関係ではない。
なのでより生きにくい訳である。
此の悪魔に支配されし悪ひ社会では生き抜いていきにくい。
嗚呼、そうかだからこそ今大乗仏教が其処に求められておるのだ。
此処ニッポンで求められて居るのは其の大乗仏教ぞ。
さうして一番不純な仏教とは何だ?
まさに浄土教だらう。
まあ密教も大した不純さをお持ちですが浄土宗は何せ天国ー極楽ーへ行く教へですのである意味では其れ以上に不純です。
さうか、これから発展するのは此の浄土門のことだ。
これからはロボット僧侶とかが全自動で「仏説阿弥陀経」など唱へて呉れやうぞ。
即ち不純な仏教のみが生き残るのです、これからは。
だから禅宗の御坊様などはもう必死です。
さう生き残る為に必死だ。
ZENとか何とかもうそんなことは言っていられない。
ところで禅宗は果たして潔癖だと言い切れるものなのだらうか。
一休みたひなあんな破戒坊主が出る宗派はおかしひんじゃないか、何処かが。
其は知らぬ。
だからむしろ観念苦を滅する為の教へが禅宗だ。
浄土宗はね、本来ならば文盲の人々や虐げられし人、または貧しひ人々の為の教へだった。
だが時代は浄土門をこそ要請して居ると言って良いことだらう。
終末論だの地獄だの極楽だのが必然として出て来る浄土思想はおどろおどろしくて嫌ひではない。
何やら怖くてしかもワクワクする。
まさに化け物屋敷浄土宗、浄土真宗、てな感じで地獄と極楽の絵巻物を同時に見るが如しだ。