いざ相対分別の認識に陥れば其処にはどんな幸福も無ひ。
あくまで本質的には。
事実此の世で得られる幸せ♡=価値には限りがあります。
でも逆に限りがある価値であるからこそ其れがひと時の充足でもあり得るのだ。
ひと時の充足は劣化しやがて消え去るものだ。
其れでも尚欲望だけは消え去りはしなひ。
其のことをわたくしは「有る」と言って居るのです。
其れはあくまで「無ひ」のではなく有る。
何故有るのかと言へば其処で相対分離されて仕舞って居るからだ。
なので勿論本質的には此の世も無く眼も無く耳も無く語るべき言葉さへもが無ひ。
むしろ無ひ、のが真理であり此の世の実相なのです。
其の実相を見詰め相対分離を今すぐに止めれば衆生はほんたうに救われませう。
なんだけれども、まさにほんたうにそんな風に悟る必要などあるのですか?
我我はこんな風に悟れず相対分別による価値ヒエラルキーを無限に増殖させる他無ひバカです。
そんな風にいつも母ちゃんの胎の中から出て来る他は無ひバカ其のものです。
ですから、理性は、確かに何処までも合目的的に其の相対分別と闘っていくことすら出来ませう。
なんですが、どうも其の理性其のものが矛盾化して居り逆に価値ヒエラルキー構築の手先になって仕舞っておる訳だ。
全くもう馬鹿ばかりで困ったものだ。
其の相対分別による相対分離に就ひて。
今、アナタが見て居られる世界其のものが其の相対分別による相対分離の世界なのさ。
だから其れは神かまたは佛を信じないと救われぬ世界なのだ。
相対分別による相対分離の世界はさうして無限に価値ヒエラルキーを増殖させやう。
即ち「今」を∞の価値として捉へていくのだ。
だが所詮其れは有限化されし虚の価値であるに過ぎぬ。
即ち我我の眼に映ずる価値は本質として虚であり劣化なのだ。
ただし、其の虚の価値は有り続けるとさうわたくしは捉へるに至った。
何故か?
まるでかのルドンのやうに今わたくしには俗なる価値こそが永遠なる価値として認められるからなのだ。
即ち大衆の持つ其の下卑たエネルギー。
性欲、食欲に旺盛でもってしておまけに疑ふことを知らず即ち従順でもってかつ素直、確かに脳味噌の詰まり具合には欠けて居やうがまた感性が下品過ぎまるで藝術のことなどは解さぬのだが。
考へて居ることと言へばほとんどが女の裸とマンゴーとうな丼のことのみ。
だがわたくしにはむしろ其れだけがキラキラと輝ひて見へる。
其の大衆の下品さ並びに打たれ強さとは一体何なのだ?
わたくしのやうに全てがガラス製の詩人では實は目の前に拡がる一分、一秒でさえもが危うひ。
洗練され過ぎたる感性と豊か過ぎる教養、つまりは鋭ひ感覚と利口過ぎる様とにより實は観念地獄に閉じ込められて居りもはや何処にも救ひを見出すことなど出来ずこれじゃかの太宰 治や芥川 龍之介とまるで同じではなひか。
其処で自分自身を救ふ為に考へ出さざるを得なくなったのが窮余の一策としての二元的分裂法であった。
即ちまずは両極を見詰めよ。
すると此の世界の成り立ちが根本として矛盾するものであることが分からう。
だが其の「矛盾」とは、實は観念的に認識される矛盾なのだ。
即ちヒエラルキーとしての精神の高みに於ひてのみ気付かれる矛盾なのだ。
では其処で逆を見てみやう。
即ち精神に緊張度の少なひ大衆の頭の中身に於ひて、果たして其の大問題は認識されて居るのであらうや?
其れが實は認識などされておらなんだのだ。
大衆はさうして決まって精神には偏らず逆に常に屁などこきつつ生きて居り、しかも女だ食ひものだ、ギャンブルだ、カネだー!で生まれてから死ぬまでの其のあらゆる時間をさう規定されても居らう。
が、わたくしはむしろ其の様にこそ感動した!
其の大衆のくさーい屁としての生活の底力、其がまるで後光が射すが如くにやうに感ぜられて来、嗚呼、さうか、さうだったんだ、わたくしに無ひものとは其の下品の力、無知の力其のものであった!
だからもう難しひことを言ふのはよさう。
其れに博識をひけらかすのはもはや意味のあることでは無ひ。
仏法はあくまで現在は幻だと宣ふ。
より正確には虚實の境目、其の境界層をどうも我我自身が現象させて居るのだ。
幻であると同時に幻では無く、色であると同時に色ではなく、男であると同時に男ではなく、女であると同時に女では無ひ其の境界線を。
だから其の境目にこそ苦の原因があらう筈で、無論のこと本質的には其の境目をこそ消し去れば此の∞の価値ヒエラルキーを抹消することは可能で實は仏教に於ける修行とはタダ其れだけのことに尽きて居らう。
なんだけれども、我等人間ですもの。
人間なのですものそんな聖人様のやうなそんな離れ技のそんな無謀なまるで奇跡のやうなことが行へやう筈もなひ。
我我に出来ることは飲んで食って寝て女を触わり屁をこひて適当に死んじまふだけのことだ。
いや、其の様をバカになどは金輪際して居らぬぞよ。
まさにさうして皆様は日々俗世間を生きて居られやう。
其れもまさにまさに肥溜めだらけの俗世間をさうして逞しくも生きて居られやう。
まさにわたくしは其の様こそが羨ましひ。
さうして汚物にまみれつつ、だが其れはほんたうの汚物なのではなく清き清き蓮のお花のお話なのやもしれぬぞよ。
だがさうして此の世で得られる幸せ♡=価値には限りがあらう。
でも逆に限りがある価値であるからこそ其れがひと時の充足でもあり得るのだ。
ひと時の充足は劣化しやがて消え去るものだ。
其れでも尚欲望だけは消え去りはしなひ。
欲望だけが此の世界を根本から支へ得るまさに肥溜めのことぞ。
そんな訳で我は今其の欲望を見詰め続けておる。
即ち何かを食ひたい。
其れも二時間置き位に食ひたい。
さらに結婚したひ。
あの娘は一体今どうして居るのだらうか。
でも万年筆はもうやり切った。
さらにゴルフももうやり切った。
でも石の方はまだまだこれからだが。
かうしてそも直観することさへ稀な大衆の下卑た欲望。
でも皆さん決まって頑張っても居られやう。
そんなクソ暑ひ中華料理店で油にまみれつつ必死に生活の糧を稼いで居られやう。
そんなネクタイに首を絞められつつ一体何のノルマだ、其れもこんなクソ暑ひ中を全くのところ会社は狂ってるが給料が出ないと生活はままならぬ。
また年寄りになって病気がドンドン出て来た。
たとへ病気がドンドン出て来ても生活は待っては呉れずまた年金もちょろりとしか出ず。
其れに嗚呼、宗教の人たちも大変だな。
此のクソ暑ひ時に限りあちこち走り回り稼がねばならぬ御坊様方も。
またエホバの人なども此のクソ暑ひのに来て居たのでつひスイカを一切れあげたよ。
此のやうに聖俗入り乱れて皆生きることだけが大変なのさ。
だから其の実存的価値を否定することなどは誰も出来ぬ。
たとへ本質として世界が虚妄なのだとしてもだ、其の実存的展開を一体誰が嗤ふことなど出来やう?
其のやうに二元相即、二元は相剋しつつ相即し其は本質としては虚の歴史=劣化の過程ながらむしろ欲望のみは永続していくのだ。
すると、欲望こそが実体なので?
さうむしろ欲望こそが実体なのだ。
実体即ち盲目的なる生への意志であり物自体のことだ。
より正確には欲望を実体化するに足る心的領域にのみ我我は住まふことが出来る。
其の欲望は賛美することは出来ずつまりは肯定することなど出来ぬ。
なんとなれば欲望とは劣化なのだ。
平たく言へば欲望に突き動かされ進む文明は短期間で滅びる。
またどんな仕事上の成果もやがて失われやう。
どんな愛の成就もやがて滅する他は無ひ。
諸行無常、其れは此の世界を刺し貫く根本の性質でありまさに其れはマイナスの原理にこそ支配されて居やう。
究極的には物質と精神の関係性其れすらをも其の劣化の原理が根こそぎに壊していかう。
壊していく?
世界の本質とは破壊なのですか?
さうじゃ、其の破壊じゃ。
所詮は破壊だが、實は破壊だけなのでは無ひ。
破壊は創造と相剋し且つ相即する。
劣化は構築と相剋し且つ相即する。
人間存在の実存的価値はまさにさうした両極に於ひてこそ安定し実在する。
其の両極の分離に於ひてこそ規定され得、且つ真理からは永遠に遠ざかって居るものこそが人間其のものなのだ。
だって人間ですもの。
宗教は其の分離を一元化しやうとする試みのこと。
対して我は二元的分離をむしろ其のままに見詰めることとしてみた。
即ち煩悩即菩提であり、所謂梵我一如の境地へ至る鍵とはむしろ大衆の癖ー心理的負債、誤謬、暗愚ーにこそありはしなひか。
即ち凡夫にとり成仏などは元より不可能。
其の大衆の屁コキの様こそがまるで仏のやうなものぞ。
其の二元的分離は徹底しつつ其れを見詰めよ。
大衆の屁コキの様と釈迦の説法をむしろ同時に理解しなければならぬ。
まさしく其が観念的矛盾を其処に引き受ける、受け容れると云ふことなのだ。
故に其処に於ひて観念的矛盾はもはや意味を成さなくならう。
其はまさに禅宗の如き意味不構築での流れのことぞ。
いや、禅宗では無くあくまでゲージツとしての或は人文の理性としての二元的闘ひのことぞ。
闘ひ?
其処ではまだ闘って居るのですか?
さうじゃ闘っておる。
其処で禅宗は其の闘ひをも捨て去る。
されどわたくしはまだ闘って居たひ。
マンゴーのさうしてウナギのまたスイカの値段が高ひのと是非闘わねばならぬ。
ひょっとして相対地獄を天国又は浄土へと変へて仕舞われる御積もりなのでは?
いーや、違ふ。
地獄即天国、地獄即浄土、でもあることだらう俗なるものへの愛♡を語っておるだけのこと。
其のやうに概念的分別の限界、理性的解釈の限度を今ココに指し示して居るだけのこと。
愛♡?
仏法に於ひて其の愛♡は否定されては居りませぬか?
だから我はキリスト教と佛教をくっつけやうとして居るのだ、實は。
キリスト教と佛教がくっつひたら一体どうなるのか?
まあ浄土宗のやうなものなのだらうが、でも意外なことに海外では浄土教は人気が無ひのださうな。
何が人気があるかと言へば無論のこと其れは禅宗だ。
禅宗は今や外人さんに一番求められて居る仏教でもある。
より原理主義と云ふか、より古ひ仏教の形なので多分求められて居るのだらう。
ところで何故浄土教は海外で理解されにくひのか?
無論其れがキリスト教と同じ救済構造を持って居るからだ。
但し神は居らず其れが阿弥陀仏に替わっておる。
其の阿弥陀仏にあへて救済されずとも、彼等には元々神の救済があらう。
要するに似過ぎて居てしかも神は消されて居るので余計に我慢がならぬ。
むしろより純粋な形で釈迦による法または部派による法に則した生活を営もうとする古き善き仏教としてのあり方のことだ。
何故か?
其れは此の世の基本構造がむしろ不純、だからなのだ。
特に釈迦による説法はまさに簡潔かつ純粋でもって美しひ。
其れは大乗各派が説くまちまちでもって雑多な法の形とは似て非なるものだ。
さう美しひのだ、其れは、何より美しひ。
だが美しひものは、「永遠なるルドン」とある意味で似て居りまさに屁コキつつ生き抜いてゆくパワーには欠けておる。
美しひものはこんな夏のさ中にヒラヒラと舞ひ飛ぶばかりで決まってすぐに落ちて死んじゃう。
つまり其の蝶の美しさは幻のやうなもの。
即ち其は真理だけれども屁コキ虫=凡夫には非ず。
左様に凡夫はタダ屁をコキつつ生きていくのじゃ。
マンゴーをしこたま喰らひウナギを蒲焼にし氷菓を喰らひ文明がやった温暖化から身を守り今を生き抜いていくのみ。
しかも女ーの胎ーにも手を出す。
ただし十八時以降はわたくしが町内の見回りをしておる。
一週間程前には其の夜間町内見廻り隊の一員として一時間程も町内を見廻って来たのだ。
無論のこと其れは不純なる異性交遊の芽を摘み、さらにシンナーの吸引、薬物の摂取などによる非行の防止、破壊活動防止の為の組長さんとしての役目なのだ。
其の屁コキ虫共にも必ずや仏法は理解出来やう。
なんとならばわたくしの仏法は二元を見詰めると云ふ、タダ其れだけのことなのだ。
ただし二元の違ひに耽溺して居るやうではダメだ。
其のやうな幅広き視点から仏法を見詰める。
すると二元屁コキ虫ー相対分別者、無明者ー共にこそ実存的価値がおお其れもまるで高級品の如き価値が存して居ることさへもがしかと見へて来た。
其のやうに価値は相剋しさらに相即する。
だから人間は威張ってなど居てはならぬ。
社長だとか學者だとか作家だとか、そんなもの位ではそも威張りやうが無ひぞよ。
むしろ屁コキ虫共のやうに逞しく世渡りをし、其の実存的価値を何処までも高めていかうではないか!
いや、其れは元々皆皆様の普通の価値であった。
だがわたくしに限り其れが欠けて居たのでようやく今其れを凝視して居るに過ぎぬのだが。