所詮世界とは認識上の産物である可能性が高くよって事実上は各人の認識の質によりまた違ふものが見えて居るのでありませう。
男女差また知能や心的傾向により皆がバラバラに違ふ世界ー宇宙ーが感じられて居る可能性が高ひ。
たとへば其の地獄と云うのもあくまで個としての見方なのですが他方で最近は何やら近代社会自体が地獄化していって居るやうな気がどうしてもしてならぬ。
さういう社会地獄と云うものは矢張り有るものと思われる。
文明の末期では必然としてそんな地獄の様が現出することにもなって居る為あながち其れはわたくし個人の妄想と云うことでもなくまさに事実としてそんな傾向になって居ることでせう。
尚わたくしは人間の抱える問題はむしろ社会的な悪に限ると見て居る訳で其処からすると仏法の説く真理とは基本的に相性がよろしくなくむしろ社会性のある救済を説くキリスト教の方が入って行き易くなって居る訳です。
世界をどう認識するかと云う事は其の人間の価値観を其処に確認することでもある。
ただしわたくしの場合には其の認識にバランスが取れて居るとは思われません。
わたくしの場合には基本的に生活者としての諸の認識に時間を取られること自体が鬱陶しい訳です。
其れでもって論の構築だの批判だのやらせればかように喜々として其れをやる訳ですがたとへば掃除せよと言われたってそんなものはやりたくないことの筆頭なのでやりたくないものはやれないと云う事になります。
勿論其の逆に現実的なことが得意な人も結構居られる。
こんな風に人間の価値観はまことに千差万別でまさにピンからキリまで、或る事象に関し大きく幅のある価値観が乱立して居るのです。
で、元々さういう価値観の違ひを普遍的に収斂させることなど出来なひ。
なので対立が生ぜぬやう限定しておきませうと云うのが近代の価値観とは正反対なわたくしの価値観です。
其の限定と云うのは価値観を絞るのではなく価値観の及ぶ範囲を狭めやうと云う事です。
其処からすると矢張りどうしても東洋思想的であり逆にキリスト教に於ける信仰拡張主義とは相容れない部分が其処に見て取れやう。
また解脱と天国または極楽への救済と云う点で捉へればむしろ無神論的方向つまりは解脱方向の方がより近いのだとも申せませう。
尚価値観を高低で分けることは事実上認識上の立場の高低を規定することにも繋がります。
相対認識の世界ではさうした方法でしか世界の成り立ちを解釈することが出来ない。
結局世界はおそらく認識上のものなのでせうから其の人にとっての世界であり価値観であることにしかなりません。
と云う事は其処での社会と云う事はまた何なのでせう。
主観と客観に分別を自分でして居るのだとしてー仮の自分が仮に分けて居るー其の社会とは全部自分の創り物で自分とはまるで無関係なものではあり得ないのでせうか。
ほんたうは其処で分別的次元を肯定することは否定され同時に無分別的次元を肯定することをも否定されていかねばならない。
だとすると社会とは全部が全部虚妄の類のものであるのや否や。
勿論真理は社会の実在を否定することでせう。
ですがあくまで其れは継続して現象して居る筈です。
わたくしはむしろそちらの社会的癖のやうなものの方がより気になります。
社会の本質が悪であることをかって直観したゆえに社会をまともに取り上げやうとしないー本質的議論ではないと見るー仏教各派はむしろ其の非社会性ゆえにモロに社会的合理化の波を受け滅びるのではないか。
元より社会と個は違ふもので個は地球や宇宙を破壊することは出来なひが社会は特に近代以降の社会は往往にして屡破壊を繰り返し行って来て居る。
なので社会悪こそが事実上の地獄でもまたあるのです。
かっての戦乱の世であるとか明治以降の近代化とも絡む世界大戦であるとか、或いは現在のまさに不必要なまでの情報化社会、かうした社会的な状況を仏教が説く真理はあへて問題にしておりません。
其の社会悪に関しては或いは唯識論の方に集合的な無意識と云う形での記述があるのやもしれない。
でも現実には分別智化された社会とはまさに社会化された世界なのです。
さういうのは社会的な事象であり内面的即ち認識論の方へ簡単に割り振ることなど出来ない。
さて先に述べましたが如くに諸法は非我ですので其処には仮の我があるだけで真の自己が顕現して居る訳ではない。
また諸法は非常ですのでまさに常には非ず。
全ては移り変わりまるで変化こそが其の本質のやうです。
なのですが其処で常に気を付けておく必要があります。
諸法非我の主張に対しては其れが否定され諸法真我が説かれる。
諸法非常の主張に対しては其れが否定され諸法常住が説かれる。
と云うのがまさに釈尊の中道の論理なのです。
なので諸法は非我でしかも諸法は非常ですと一面的に拘っても実はダメなのです。
どちらかと云うとインテリは諸法は非我でしかも諸法は非常です、とつひ理性的に判断し矢張り俺は利口だなあ、などと威張って居たりも致しますが其の結論に拘る限り其の認識は誤りです。
むしろ其の場合にこそ其の思想的立場への固執が否定され諸法常住だ、などとも其処に説かれるのであります。
なので相対分別には実は余り細かく拘る必要などなくところが我我のなし得る言語領域での概念上の活動は全てを其の相対分別に頼り切って居るゆえ余計に厄介な状況に陥り俺が絶対に正しひなどとも思ひ込んで仕舞ひますがまずそんなことはなく実は何を述べても仮のお話にしかならないのでほんたうのところを相対知にて示すことなど出来ずまるでウソ、もうまるでおバカ丸出しのことに過ぎぬとさう考へておくべきなのです。
さて地獄のひとつに其のインテリが堕ち易い分別地獄=相対矛盾地獄がありませう。
「人生は地獄よりも地獄的である」 芥川 龍之介
芥川 龍之介は矢張りと言うべきか其の地獄に堕ちて居た可能性がまた高くあります。
ただ芥川 龍之介は愛妻家で優しい人だったのだと思う。
高校生の頃に好んで全集を読んだのですが特に書簡集のところに其の彼の優しさが見いだされ感動した覚えがあります。
芥川は遺伝的な狂気の発現に怯えて居たのかもしれません。
が、其れとは別に何処やらに妻とは別に彼女が居てなどと云う話を何処かで聞いた覚えもある。
いずれにせよ相対矛盾地獄ほど人間的な、余りに人間的な地獄の様もまたないのであります。
作家や詩人は其の相対矛盾地獄で苦しんだ人々もまた多かったことだらう。
ところで突然ですが有無とは何でせうか。
有無とは相対分別知によるあくまで仮としての分離概念ですので其の本質への訴求性はむしろ初めから阻却されて居ると見ていい。
まさに其の分別そのものが虚妄であることにより生じて居る幻のやうな分け方のことです。
其のやうに二元対立とは本来ならばどちらの側にも立てないものであるにも関わらず主客の分裂設定により二元対立の迷妄に陥り相対矛盾に苦しむことを言う。
我我が相対知による価値基準でもって認識して居る以上は二元対立の迷妄に陥り相対矛盾に悩み苦しむこととなる。
有無は其の相対知による仮の規準ですので其れは元来有るとも無いとも言えぬもののこと。
「非有非無の中道」などとも云われ有るに非ざると同時に無いに非ざることからまさに虚妄としての相対分別を越えていくのである。
尚相対矛盾地獄はむしろ真面目で尚且つ頭の良い人が陥るのでありませう。
なので其れは一種の観念地獄でさへある。
わたくしももう長く此の地獄を行き来つして参りましたが最近はもはや開き直ったのかもはやなるやうにしかならんわな、今のうちにやりたひことやって美味いものでも食べておかう。
などとも思ひ事実さう行動して居るが現在はまた胃が痛み始めステーキガストへ行きたくても行けないのが辛ひと云えば辛ひところだ。
兎に角此の種の観念地獄ならば何とかなるので絶望したりしない方が良い。
今は三十代、四十代の大卒の御坊様などがネット説法もされて居るゆえ観念地獄でもって苦しひ場合などは其処を覗いてお勉強すればまず助けて頂けること請け合いである。
さういうのはほんたうに蜘蛛の糸のやうに希望の光でもあるのだ。
利口過ぎて考へ過ぎ苦しんで居るアナタ方にはまさにおススメのところがチラホラあるのですよ。