目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

地獄と極楽ー何か分からぬものとしての母ちゃんの腹の中=大乗仏法ー


合理的であることが正しいことであるかどうかと云えば必ずしも其れはさうだとは言へずさりとて非合理領域はどうかと問われればまた必ずしも其れは正しひとは言へずでむしろ考へれば考へる程に余計に訳が分からなくなるのが此の世の実相であり本質なのだとさうも言ひ得るのであります。

さうした何か分からぬものが我我をして常に悩ませ其処に苦を生じさせても居やう。
然し其れは逆に分からぬものであった方が我我はこのまま此の世界に生きて居られる訳です。

分かった=悟ったとしても其れは所謂中そのものなので我我には認識出来ずしかも我我が目指すべきところでもない。

などと云う限定の仏法を実は考へて来て居ります。

どう云うことかと云うと大乗仏法の反対をむしろ考へて来て居るのです。

どだい誰もが仏陀になれる、とさういつの間にかして仕舞った仏法が果たして正しひのでせうか?

さうではなくむしろ悟れぬのが人間である証。

人間はさうしてバカでアホでマヌケなのでむしろとても幸せなんだ。

バカでアホでマヌケなので利口で高貴でつまり清く正しく美しひ。

だからわたくしは其の二元を拡大しつつむしろ限定していくのです。


逆に二元があるからこそ限定なのです。

コレが無辺際、にでもなれば或はタマシヒの永遠、などにでもなればもうエラいことでっせ、其れは。

第一脳なんてのはまさに得体の知れぬ限定そのものです。

さらに体はまさに得体の知れぬ限定そのものです。

ゆえに常に苦しひのですが、苦しひと云う其の限定もまた煩悩即菩提であり非合理的合理であり何か分からぬものとしての今の集積です。

だから其の苦しひのと悩むのが我我が限定されて居ることの証拠です。


なので逆仏法。

或いは逆救済。

つまり其処には変化させる必要のあるものは何もない。


でも環境の破壊者である人間は元よりダメでせう?

好きで自滅するのだから其れで良ひじゃ御座ひませぬか。

其れでは悪魔主義だ。


うーむ、確かに悪魔主義だ。

でも悪魔が居るので神仏もまたおわすのだ。


ただし巨大化するな。

常に小さくしておけ。=善なる悪者ではなく悪なる善者として生きるのだ。

まさに其れこそ限定の上での省エネであり小欲知足であり自給自足の左翼生活なのだ。


つまるところわたくしは一元化することをむしろ其処に望まない。

二元的限定、むしろコレで行くことこそが人間の本義であらう。


尚其の限定には不倫やら合理化論や過剰に消費する資本主義並びに過剰に平等な近代主義または共産主義やらが含まれては居ない。

では一体何でもっていくのだ。

勿論がらんどうの其の限定でいくのだ。


限定とは宗教か?其れとも思想なのか?

いや人間そのもののことだ。

人間には本来ならば理性がある。

其れも心の中にこそ理性がある。


だから其れを発動させたまでのことだ。

故に全部を限定するのだ。

食欲も限定、寿命も限定、金回りも限定、愛も限定、宗教すらをも限定。


かの老子の考へのやうなものか?

まるでちゃうわい。

でもまあ似てるのかも。


どうもアンタが言ってることは難しひ。

いや難しくは無いよ。

むしろカンタンなことだ。

さうしてグオーでもってギャオーだ。


さても其れは動物だと云ふことか?

つひに気がふれて動物にでも成り下がったのか。

いや、元々人間は動物だ。

人間は動物でもって常に問題行動が目立つゆえ限定せよ、とさう述べて居るまでのことだ。


即ち超ヒモ理論に於ける其のヒモの長さこそが限定だ。サルでもわかる「超ひも理論」の基本だけ

尚其の限定とはわたくしの直観知である。

だが結果的に物理学上の最新の研究課題と関わって居たやうだ。

従って宗教もまずは限定していきたひ。

ではまず大乗仏教に於ける問題点を考へてみやう。

まずはわたくしの考へでは、


1.仏性主義
2.論理的脱論理化
3.脱論理的論理化
4.文字離れ

とりあへずはこれだけ出て来た。

1.大乗の歴史の中で仏性は拡張し続けられて来たのだと言える。さうして仕舞ひには天台本覚としての集大成を果たす。されど其の仏性拡張主義にはあくまで疑問が残る。むしろ仏性こそは限定されていくべきだ。
2.大乗の教説に於ける大言壮語的なところ=一種空想的なところは元より非論理的領域であるが其れがいつの間にか疑似的論理にすり替えられていった。
3.禅宗に対して。所謂公案なるものは其の脱論理的論理化の典型例であらう。
4.禅宗に対して。文字を立てぬと云う脱論理にて生の全てを修行と化したがでは智慧の方は一体どうなりましたのですか。

まだまだ幾らでも出て来さうですがキリがないので此処までにしときます。



全く仰る通りで。
(1)(2)輪廻は全否定されて居ますか?アノ浄土教でも?調べてみないと。
(3)確かにサンガは無いのです。それに戒律が無いのはほんたうのことです。
(4)確かに護国仏教なのかもしれない。法華経阿弥陀経も実はくどひ程に社会的なのだった。
(5)日本の仏教は現金ですから現世利益、実はコレこそが大事なんです。其れもまあ寺が滅ばぬやうにさうなってるのかも。
(6)確かに全面的、包括的に仏教を理解しないと何も分かりません。だからこそわたくしはまさに其れをして居ります。此のご意見にこそまさに賛同致します。



東大を出られた元々理系の方が現在は仏教を研究されて居られかうして様々に書かれて居るやうです。
ハッキリ言って可成の大乗擁護論者でもって「はあ?」と思ふやうなところも御座いますが流石は高度な知性をお持ちの方だけあり様々な視点から分かり易く仏法の内容が説かれかつ実生活上実に為になる内容です。
特に浄土教に対しては好意的であるやうです。

正直批判したひ部分もまた御座ひますが兎に角勉強になりましたのであへて其れは止めておきます。




仏教内部において部派仏教の側から、大乗仏教とは「経典捏造による謗法」や「仏教教義からの逸脱」であるとして、大乗仏教出現以来、現在に至るまで展開されている論説である。
  • インドでは、大乗思想は発生当初より、説一切有部などの部派から批判され、大乗側からは『大乗荘厳経論』「成宗品」のように大乗非仏説に対する反論も展開された。
  • 中国では、仏教の初伝以来、数世紀にわたり断続的に仏典の請来と翻訳が続いたが、作成年代が異なる経典間に大きな相違がある事実から、仏典群の整理分析にあたっては、いずれの経典に釈尊の真意が存在するか、という方向がとられた。中国の内外に大きな影響を与えた説としては、天台大師智顗による五時八教教相判釈があり、歴史上の釈尊の段階的時期に配置し、その中で『法華経』を最高に位置付けた。智顗の説は、日本の天台宗や、日蓮系の諸宗派にも採用されている。
  • チベットでは、8世紀末から9世紀にかけ、国家事業として仏教の導入に取り組み、この時期にインドで行われた仏教の諸潮流のすべてを、短期間で一挙に導入した。仏典の翻訳にあたっても、サンスクリット語を正確に対訳するためのチベット語の語彙や文法の整備を行った上で取り組んだため、ある経典に対する単一の翻訳、諸経典を通じての、同一概念に対する同一の訳語など、チベットの仏教界は、漢訳仏典と比してきわめて整然とした大蔵経を有することができた。そのため、チベット仏教においては、部分的に矛盾する言説を有する経典群を、いかに合理的に、一つの体系とするか、という観点から仏典研究が取り組まれた。
これらインド外の両仏典圏の伝統教団では、経典が釈迦の直説であることは自明の伝統とされ、疑問や否定の対象とはされてこなかった[注釈 1]。以上より引用


だから宗教と雖も此の世の物事は全てギャオー、グオーの闘争世界ですので喧嘩即ち宗論上の貶しあいやら誹謗中傷やら蔑みやら憎しみやらもう何でも噴出して来てまっせ。

特に説一切有部と大乗理論との相性は極めて悪ひものであったやうです。
尚個人的には此の説一切有部と大乗理論との罵り合ひの様を描いた本を是非入手してみたいとも思って居ります。
まさに其処でどんなに相手を罵倒し足蹴にして居ることやら。

つまりは日本と韓国の仲が悪ひのと同じことです。
むしろ似た奴との意見の違ひの方がより頭に来るんです。

しかしながら「インド外の両仏典圏の伝統教団では、経典が釈迦の直説であることは自明の伝統とされ、疑問や否定の対象とはされてこなかった。」ことこそはまさに不可思議な話です。
此の傾向は此処日本に於いてもさうで実は日本の御坊様方は大乗仏教の経典に対して疑問を抱いたり否定したりと云う事はまずされて居ないやうに見受けられる。
其れも遥か昔からさうだったのですが考へてみれば其れも当然のことで日本に伝わった仏法は中国経由のものなので中国の御坊様方が批判や否定をして居ない以上其れに従うのがスジと云うものです。


さて愛して居る人が裏切ったりするとむしろ余計に憎しみが深くなり此の野郎、もう離婚だぞ、もうこんなんでは永遠に許せない、即刻離縁だ。

などとつひ酷いことを言ったり考へたりして仕舞ふものです。

さらに厄介なことに組織上の対立はまた余計に憎しみが深くいざそうなれば個に於ける対立以上に関係を修復するのが困難です。

やがてはドカーンとぶつかりあい一方が沈没する。

其れも矢張り其の時々で新しい派閥ー革新の側ーの方が大抵は旧体制を更新していくことになる。

それにつけても「経典捏造による謗法」だの「仏教教義からの逸脱」だのまさに可成の剣幕で当時から部派仏教と大乗仏教の間で罵り合ひがなされて居たものと思っても良ひことでせう。

まあ然し其れもある意味では的を射た批判です。

何故なら経典捏造は事実法華経に置いて為されて居たことです。

また仏教教義からの逸脱と云う点でも、其処は確かにヒンズー教化したりキリスト教化した仏法が正当なものであるとはなかなか言ひ難ひ。

最終的には一番マズい点、即ち法と性との融合と云う後期密教に於ける謂わば大謗法が仏法の息の根を止めたとも言ひ得ることでせう。


然し其の秘密の教へを皆様は見てみたひと思ひませんか?

どんなプレイでもって教えが説かれて居たものやらまさに其の点をアナタ方は知りたひ筈だ。

いやわたくしも確かに知りたひ。

まさに其の秘密の花園を是非覗ひてみたいのだ。

故にまさに此の食欲と性欲ばかりは抑へられぬ煩悩です。


然し日本の寺の御坊様方は肉食妻帯してー勿論全部がさうではないーわたくしなどよりは余程に欲の解消に置いて恵まれて居られ其処はまさに羨ましひ限りで御座ります。


大乗経典は四部または五部に分類される経典のどこにも場所を持たなかったと考えられるのである。
文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
江戸時代には富永仲基が、経典の全てが釈迦一代において説かれたのではなく、歴史的進展に伴って興った異なる思想や学説が、それ以前のものの上に付加されていった(異部加上)と主張し、釈迦の金口直説と思われるものは原始経典(阿含経)の一部であるとした[1]。その影響を受けた儒学者の服部天游も、同様の観点から大乗非仏説を唱えた[1]。以上より引用
    

大乗経典が釈迦の教説を加工して創り上げたことだらう新規の教説であることはまた確かなことです。
ただし其れは悪意があってさうされたのではなかった。

あくまで生きる為生き残る為にさう為されて居たことでせう。
さうして生き残る為の懸命の努力を一体誰が否定し得ると云うのでせう?

ですのであくまで潔癖に調べ上げれば大乗思想は非仏説である部分に留まらず謗法である可能性すら有して居り甚だ信用ならぬものでも一面ではある。
されど其の価値は常にあります。
むしろ永遠にあります。

何故なら大乗思想はお母さんの腹の中身と同じものなのです。
誰しもお母さんの腹の中身が矛盾に充ちたものであり其れをおかしいぞとか気持ち悪ひものだとか其のやうには絶対に思へない。
若しお母さんではなく彼女かまたは会社の女若しくはタダの通りすがりの女と云う事になれば単に其れは気持ち悪ひものなのやもしれぬ。

然しお母さんの腹の中身はたとへ矛盾に充ちたものであれたったひとつのアナタにとっての母胎そのものです。
そんなものに疑問など抱けずまたさらに否定など出来る筈もないではありませんか。

と云う具合にわたくしは結論致しました。
つまり理論ではなくまさに情緒的に結審して居ります。

が、わたくしの場合には抑へ切れぬ理性が大乗の教説に対しての様々な疑問を保ちつつもあります。
つまるところ否定はあへてせぬが実は疑問だらけだ、と云ったところでせう。


それにつけても母ちゃん、迷へる我を是非御救ひ下され。
と日々願わずには居られぬ。

何故なら余りにも全てがグォーでギャオーなので。

ただし昨年の後半辺りから其の母ちゃんが何故かマリヤ様になって仕舞って居た事実が御座ひます故是非其処を修正していかないといけません。


明治以降、ヨーロッパの近代的な学問研究方法が日本に取り入れられ、原典研究も盛んになるに従って、改めて大乗非仏説の論が起こり、姉崎正治が『仏教聖典史論』を、村上専精が『仏教統一論』や『大乗仏説論批判』を、前田慧雲が『大乗仏教史論』を著した[1]。前田は大乗の教理が原始仏教の中にすでに胚胎しているとし、原始仏教または根本仏教に帰れとの声がそこから高まったが、原始経典に戻っても釈迦の直説を探り出すことは困難であり、原始経典もゴータマ・ブッダの没後に編集されたことなどから、大乗非仏説の主張や論争は現在では下火となっているという[1]
学会などでは大乗仏教が前1世紀以降から作成されたものであるとの結論から、大乗非仏説は近代的学問から裏付けられているとされている。もっとも、文献学的には、大乗仏教の仏典のみならずパーリ経典の大部分も釈迦の死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている。最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため、近代の文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない。 以上より引用


「原始経典もゴータマ・ブッダの没後に編集されたこと」は確かに事実であり原始経典が原始経典として正しひものであるかどうかは実は疑問視されても居ります。

然し原始経典とされて居るものは其の内容が至ってシンプルでまさに仏法としてスッキリして居ります。
少なくとも大乗経典の如くにあちこちへ話が飛びおまけに論理的にはむしろ難度が高く分かりにくいものではない。

ですが其れを言えばまさにアノ説一切有部の教義こそは実に煩雑ですので其れを否定することに傾ひて仕舞ふ。
だから仏法を學ぶ時にはくれぐれも其処で考へ過ぎてはならなひ。

結局其れは母ちゃんの腹だが其の腹の中身はドロドロでもってして理解し難ひところでの何かである。
其の神秘のはらわたをこそ我我は今此処で生きておる。


本質としては非理性的でもってされど其れでこそ逆に慈愛に満たされし何かにつき動かされ我我は現象しておる。
たとへ母ちゃんの腹の中から生まれしものが常にギャーでグオーでもっておまけに邪なのだとしても。