目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

地獄と極楽ー唯識無境 仏法としてのギリギリの闘いー


心とは何か、畢竟其れが此の世界の成り立ちの全てではないかと考へる仏教哲理の一派こそが唯識学派であったことでせう。
即ち心の本質を追求し此の世界が心的に組み合わされた現象世界であることを其処に示した。

ただし其の分析及び理論的構築はあくまで解脱すると云う仏教としての目的の為のもの。
なので唯識が影響を与へたとされる例のユング集合的無意識の理論とはまた別に宗教としての目的を持つ。

解脱することが果たして人間の行為または意志に於ける最善の策であるのかどうかと云うことに関してはまた一度じっくりと考へてみなければならない。

事実宗教学者の中には今後に於いて宗教はますます形骸化していくことだらう旨を述べて居る人も居られる。
其れに実際もはや誰もが解脱しやうなどとは思って居ない。

勿論僧侶ですらさうなのだ。
寺の維持や保身の方が常に解脱よりは大事だ。

尤も作家や詩人でも勿論さうだ。
今はまさに金の有無や保身の方が常に真実を語ることよりも大事だ。

確かにそちらの方がより現金な見方なのだが其れでは必然的に滅びへのルートに乗っていかざるを得ない。
さうした意味での二項対立はむしろ乗り越えやうがない。

現象とはさうした意味での哀しさを有して居りわたくしは此のかなしみにつきかうしてこれまで長々と書いて来て居る。



グプタ王朝成立前後の頃から、これまでとは異なる新しい主題を持つ大乗経典が出現しはじめた。
それは、『般若経』の空観に基づきながらも、人間の主体としての心の本質を究明しようとするものであり、心の機能を分析し、輪廻の主体を追求する唯識説、および心を仏と共通するものとしてみる如来蔵説として展開した。

大乗仏教教団が形成される以前から、ブッダの教え(法)を理論的に究明することよりも、禅観の実践に重きを置く修行者の一群があった。
これらの人々は瑜伽師と呼ばれる実践主義者たちであり、このうちで大乗の空観を取り入れた人々が、唯識観と呼ばれる独自の実践・理論体系を作りあげた。
これらの実践家たちの唯識観の理論的根拠として作られたのが『解深密経』であり、その実践の体系を組織付けたのが『瑜伽師地論』である。

解深密経』は従前の大乗・小乗の教義を総合しあらたな大乗教義を確立しようとするものであり、自分自身の主張を『完成された最終の教え』と呼んだ。
この経典の新しい主張のうち、唯識説(観)・アーラヤ識説・三性説がもっとも重要で、この三つの教説は以後の唯識思想の基礎理論とされた。

唯識観は、禅定に入っている間に現れる種々の影像(映像)は心の現れたもの(所現)であるという体験に基づき、日常的に経験する諸相はすべて心(識:対象を識別するはたらきをするもの)の作り出した像(識別されたもの)と観じ、さらに進んで、見られる外的な対象が実在するものではないのであるから、このように見る心(識)もまた実在しないと体得する観法である。

このことを「唯識性(すべてのものが識別されたもの・表象としてのみあるということ)に入るといい、このことの体得は主観と対象が一体となった悟りの境地に通ずると主張する。

アーラヤ識(阿頼耶識)といううちのアーラヤとは、執着・結合・住処・基底などの意味で、一般にアーラヤ識は、すべての存在を「種子」と呼ばれる可能態としてそのうちに内蔵している識ということから、「蔵識」(貯蔵処としての識)と訳される。

種子とは植物の種子から芽が生じるように、心のなかに一切の存在を出現させる可能力(業)が貯蔵されているとみて、それを種子と名付けたのであり、この意味からアーラヤ識を「一切種子識」ともいう。
また、個人存在の中心にあって、心身・環境世界を維持(執持)するはたらきをする識ということから、阿陀那識(執持識)とも呼ばれる。

無我説はブッダ以来の仏教の基本的な思想であるが、永遠不変のアートマン(我)がないのに、何がどのようにして業の主体となって輪廻するのかという問題は、古くから仏教がかかえていた難問であり、部派仏教の諸派は業・輪廻の主体としてさまざまな原理を主張した。
しかし、いずれの説もこの問題を解決するには至らなかった。
そこで、唯識派は、一種の潜在意識であるアーラヤ識が、刹那刹那に業の種子を変えて新しい映像を作り出していくのであり、この作用によって人間も現象世界も存続するのであると主張した。

つまり、業・輪廻の主体となるものを、通常の眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥底にあって不断に持続している潜在意識に求め、それをアーラヤ識と呼んだのである。

解深密経』の提起したもう一つの重要な学説は、三性三無性説である。
三性とは、偏計所執性(分別性)・依他起性・円成実性の三つのことで、三無性とは三性のそれぞれに対応して、相無自性・生無自性・勝義無自性の三つの無自性をいう。

偏計所執性とは「あまねく分別されたもの・仮構(分別)された在り方」という意味で、我々の概念作用(虚妄分別)によって実在視された諸相をいう。しかし、真実には概念によって規定されたもの(相)には、なんら実在物も想定されないのであるから、この意味で「相無自性」である。

依他起性とは「他に依存するもの」という意味で、諸存在が因と縁とによって生起しているという縁起の在り方をいい、諸存在はすべて縁起していて、独立のものとして生起していないから、依他起性は「生無自性」であるという。

円成実性は「完成された在り方」という意味で、主客一体となった真の智慧(無分別智)で見られた存在の真実の姿(真如・法性)のことである。
それは、中観派が空性と表現するものであり、絶対なる意味(勝義)で無自性であるから「勝義無自性」という。

このような『解深密経』の思想に基づいて唯識説を大成したのがアサンガとヴァスヴバンドゥである(中略)

とくに無我の立場に立つ仏教において、一種の潜在意識とみられるアーラヤ識が刹那ごとの印象を蓄えて存続していくという理論は、「識の転変」としてヴァスバンドゥによって確立されたものである。」

菅沼晃/渡辺章悟 監修「ブッダを知る事典」より抜粋して引用



以上の如くに唯識派は一種の潜在意識であるアーラヤ識が刹那刹那に業の種子を変えて新しい映像を作り出していくのであり、この作用によって人間も現象世界も存続するのであると主張しかつ業・輪廻の主体となるものを通常の眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥底にあって不断に持続している潜在意識に求めそれをアーラヤ識ー蔵識ーと呼んだ訳だ。

尚個人的には蔵識が現象して居ることはほぼ間違ひないことかと思ふ。
人間の潜在意識はあり、さういうのは所謂場の雰囲気、または空気感のやうなものを事実上生み出して居る。

或いは時代の雰囲気、文明のあり方、などと云う社会の動向に於いても其れが作用して居りまさに一定の純度にて我我自身と云う現象を支配して居るのであらう。
なのでかってわたくしは所謂孤独なんてあり得ないと述べて居た筈です。

そも心的現象は個としては切り取れない性質のものなのでさうして元々繋がって居り其れはむしろ自然界の営為とも確りと連なって居ることだらう。

其の切り取り=分離=限定こそが現象の本質的あり方である。

現象とは限定であり限定とは実体からの離脱過程である。

実体=本質的存在なのでまさに我我は亡霊そのもので、嗚呼まさに此のバーチャルな相対世界に迷ひ出て来て居る。

また限定=欲望なので現象から煩悩を滅却することなど基本的には出来ぬ。
煩悩を滅却するのではなくバランスを求めるつまり欲望の小型化=限定をこそ釈迦は目指したのではなかったか。

また文明も全てがバランスだ。
欲望を限定せずばつまりはバランスのぶち壊しに至ることは必定。


とのことでまさに蔵識こそが社会悪の根源にあたる。

では何故此の世界はさうも悪ひものばかりなのか?

第一ほんたうに悪ひのだらうか。

其れも全ては主客の分離でもってさう見えて居るに過ぎないのではないか。

さうだ逆に主客合一でもって虚妄としての分別智の働きを抑へ少なくとも直観知に基づき行動しバーチャルな相対世界の領域=迷ひの世界または罪の世界をなるべく早く去らう。


でも直観知と言ったってまずは飯を食わねば働きませんがな。

そいでもって全ては人間関係なのでまずはコチラへ頭を下げさらに嫁の顔色を窺ひ出来の悪ひ子の成績を慮りさらに金を稼ぐ。

どだい坊主と言ったってまずは飯を食わねば体が動きませんがな。

どうも其の根本の矛盾は解消されて居ないやうですな、大は国家から個に至るまで。

さらに仏法に至るまで矛盾は解消されて居ないのであります。


ああー、嫌だ。

嫌で嫌でたまらぬわ。

だが其処に於いてこそ達観せよ。

生とはまさにさうしたものなのだ。

達観したが其れでもイヤだ。

ではさうして書いて居れ。

でもヤフーブログもどうやら今年で終わりらしいぞ。


即ち大乗仏教こそが社会を見詰めた仏教であったことだらう。
だが其の社会化の故に不純化して行かざるを得なくなった。

まさに何でもありとなりゴチャゴチャでもって謂わば矛盾の巣窟ともなっていくのだ。
だが其の矛盾のさ中にこそ大乗の教説の持つ意義がある。

ヒンズー教化した大乗仏教、またはキリスト教化した大乗仏教の不純な様ゴタゴタとして節操の無い様。

即ち本質としては邪でメス的な様。

おお、まさに女か。

さうだ、大乗仏教こそが女だったんだ。

女、女、ところで其の女はお好きですか?

まあどちらかと言えばわたくしは釈迦の御嫁さんー後妻さんーになりたひ方なのですけれども。

あくまで心理的にはね。


うーむ、然しどうも社会化すると仏教は決まって滅ぶのですね。

其の習気としての蔵である蔵識は共有されて居り個には分けられぬが其れを何故か分けて居る個としての我執が此の認識世界ー分別の世界ーを生じさせ挙句は諸の苦を生じさせて居る。

或いは生じさせざるを得ない。


ただし其れはあくまで大乗としての教説なのです。

確かに素晴らしい心理学ですがあくまで大乗としての教説なのです。

引用部にもありますやうに輪廻の主体を追求することこそが唯識思想の本義でした。

徹底されし空観により虚無の堆積となりし合理空間?に非合理領域を再構築すること=社会化=大衆化の為にさうしていくよりなかった。


では輪廻はしますか、ズバリするのですか?


ー輪廻転生が有ることにより輪廻転生が無いことが規定され得逆に輪廻転生が無いことにより輪廻転生が有ることが規定され得やうから輪廻転生の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で輪廻転生が有る其のものと輪廻転生が無い其のものに分離は出来ないから輪廻転生が有るとは言ひ得ずしかも輪廻転生が無いとも言ひ得ない。ー

のであるから概念的規定とすれば矢張り「するのでもなくしなひのでもない。」のであります。

ただし事実上しているのではないか。

どうも個としては現象は無く、むしろ種ー社会ーや歴史ー社会ーとして現象は引き起こされて居る気がしてならない。

ところが其の現象其れ自体を引き起こして居るのは誰あらう、まさに我我個としての一人一人なのである。ー我執によりー

謂わば個が虚としての世界を開闢させわざわざ社会と云う悪ー客観領域ーを形成して居るやうに思へてならぬ。

だから其れは謂わば善なる悪者としての意志なのであり其れがつまりは相対分別のことなのであらう。

其の相対分別を去れと仏法が説くのはわたくしの説で云えば「悪なる善者」になれと云うまさにさうしたことなのだ。


なので本質としての個ー部分ーは本質的に無いがむしろ社会ー全体ーは本源的に現象して居る。

がコレはむしろ逆の結論となる可能性もあり今後はかの西田哲學との擦り合わせを是非していかねばならなひことだらう。



阿頼耶識の内側に阿摩羅識が内包されているのが法界であり阿頼耶識は染法であり九界の衆生であり、阿摩羅識は浄法であり仏である。此の染浄・生仏が不二なのが宇宙の真の姿である。

などともされて居るが此の阿摩羅識とは一体何であらうや?



天台宗以下、日蓮宗やその各派でもこの九識論に依り、これを九識心王真如の都と呼んでいる。日蓮は日向記で「究竟即(くきょうそく)とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり」、「此の九識法性とは、如何なる所の法界を指すや。法界とは十界なり。十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出するなり。さて終に本の九識に引入する。それを法華経とは云うなり」、また日女御前返事でも「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」と述べている。 以上より引用


法華経を学んで居た頃に此の阿摩羅識に就いて学んだ覚えがある。
兎に角法華経は九識論に基づき展開されて居やう。

阿摩羅識とは阿頼耶識縁起と如来蔵思想との兼ね合いから生じる矛盾を解消する為の概念であったことだらう。

阿頼耶識は染法であり九界の衆生である。」

其れはまさにさうでグオー、ギャオーだ。

「阿摩羅識は浄法であり仏である。」

其れはまさにさうで、其処ではあれ何故か妙に静かです。

「此の染浄・生仏が不二なのが宇宙の真の姿」

対概念が其処で不二になるのが大乗の論理なので其処ではむしろ二元論が大きく前提とされて居る訳です。


然し其の二元化からの一元化はある意味では危なひ綱渡りなのでもある。

まさに独自の解釈により曲解ーとしての謗法ーや誤解を生じ易くもならう。

然しやるしかない訳です。

今まさにやるしかないのでやってもうたがふと気付くと何やら複雑化して訳が分からんやうにもなりつつあるのかな?


すべては阿頼耶識より縁起するとし、主に迷いの世界であるが悟り阿頼耶識より生じるとする。 一方、心は本来清浄であるとする如来蔵思想があった。以上より引用

相対認識によるバーチャル世界ー虚妄世界ーとはまさに迷ひー迷ひ出る亡霊としてのーの世界でありませうが確かに其の一方の面も其処に蔵されて居るべき。
さうして其れこそがまさに如来蔵思想のことだった。



仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。以上より引用

ただし此の仏性なる概念はあくまで大乗仏教に特有のものです。

其のままでは悟り難ひ衆生をして成仏への機縁を持たせる為にさうして拡張解釈して行ったのです。
何でそんなことをしたのかと言えば勿論仏法をして社会化する為にです。

社会化すれば即不純化しませうがさうでもしなければすぐに仏法は滅んで仕舞ふことだらう。
ですが逆に純粋化して少数精鋭の信徒並びに教義を残すと云う手もまたあった筈。

ところが其れではかくの如しに我が国に仏法が根付くことなどまた無かったことでせう。

当時は何よりさうした切迫した現実上の圧力があり仏法は変わって行かざるを得なかった。

要するに生き残る為の必死の闘ひを繰り広げて居た。


いや、でもそんなんではケモノの世界とむしろ変わらないじゃ御座いませんか。
其れも真理への道の世界だと云うのにそんな弱肉強食でもいいんですかねえ?


左様此の世は全部がむしろケモノだ。
所詮はどーぶつだ、おおまさにグオー、ギャオーだ。
さうしてメスを追いかけスキあらば子を孕ませるのだ。

兎に角決まってそんな風にどーぶつだ。
だから此の世では動物力の強い奴が勝ちかつ生き残る。
さうしてまず食ふ。

食ふことが此の世の空の基本だ。

なので宗教もまずは食わねばなるまひ。

御坊さんだってまず食わないと修行なんぞとても出来なひぞ。


唯識とは然しあくまで社会的な仏法である。
無意識と云う潜在的な心の領域へと踏み込むことにより此の世界の成り立ちを説明し其の錯誤としての世界からどう脱出するかを説ひた真面目な教へである。

尚個人的には生きて居る限り蔵識の支配からは逃れられないとさう思ふ。
だって社会からは逃れられないでせう、とても。

何故なら作家や詩人だって戦時中は戦争賛美に回ったのだし誰もがデカい家に住みたく美人の嫁を其処に置いておきたくさらに出来の良い子と立派な墓が欲しいのでありませう。

そんなものは要らんと急にかのトルストイは家出して野垂れ死んだがひょっとして其れは社会から逃れたと云う事だったのだらうか。


或いは仙人は社会からは明らかに逃げて居ますねえ。

ところで仙人は世を捨て人を捨て一体どうやって食って居たのでせうか。


ここからすると仙人は実際に何かを飲み食ひして居た可能性もあり所謂カスミを食べて生きて居ると云う状態は単なる比喩表現ではないのやもしれぬ。

矢張りと言うべきか生きることとは食べることだ。

きっと食べることこそが生を維持する為の根本の欲求なのだらう。


其のやうに仏教はかって他のどーぶつー他宗教ーとの死闘を繰り広げとりあえずは少しだけ生き延びたが母国印度に於いては滅んだ。
とりあえずはさうして滅んだが、まさに阿摩羅識と仏性のお蔭で生き延びることが出来其れが北伝仏教として亜細亜にバラ撒かれることと相成る。

なる程。
では大乗仏教を今まさにお認めになられて居るのですか、かの自称詩人様は?

其は知らん。
だがあへて言えば、

ーある意味では不純なー大乗仏教があることによりーより純粋なー其れ以前の仏教があることが規定され得逆に其れ以前の仏教があることにより大乗仏教があることが規定され得やうからと大乗仏教の価値とは相対的にしか規定され得ず其処で大乗仏教の価値其のものと其れ以前の仏教の価値其のものとに分離出来ず従って大乗仏教の価値其のものが有るとは言ひ得ずしかも大乗仏教の価値其のものが無いとも言ひ得ぬ。ー