目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

地獄と極楽 ー唯識無境 無意識と云う不思議ー


実は釈迦が教説として述べて居るのは認識する主体自体の有無ではなく認識する主体を実体として規定せざるを得ない分別智に於ける虚妄としての非我のことなのでせう。

つまり我が無いのではなく眞の我に非ず、とさう述べられたのであります。

なので全部が空、何て哲理は元元可成におかしひ訳です。

ですが龍樹は大乗救済思想の為にあへてさうした説を生み出したのです。


だから我はあります。あるのです。

STAP細胞はあります。-小保方氏ー
それでも地球は回っている。-ガリレオ・ガリレイ
それでも我はあります。-自称詩人ー



其の相対的非我と対になるのが絶対的真我なのだとして、其れではどうすれば其の真我に至ることが出来るのですか?

其の前に何故其の非我へのコダワリのみではダメなのですか?

其れでは結局どーぶつの世界を形成して仕舞ふよりほかないから。


どーぶつの世界とは歴史であり社会であり人間そのもののこと。

人間とは所詮どーぶつであり他の何者でもない。



何故そんなに人間をコキ下ろすのですか?

人間には理性があり事実こんなに合理化して来た筈ではないか。


そんなもんはもうまるで非理性=本能の領域であるに過ぎぬ。

即ち酒池肉林の世界だ。

まさしくさうじゃ。


原始退行化した欲望そのものの世界のことじゃ。


地獄だ、地獄、まるでもう地獄変だ、或いは羅生門だ、蜘蛛の糸だ。




真我に至ることが出来得れば人間は此の苦しみより開放されませうや?

され得る。

されど其処ではもう人間ではなくなる。


即ちもはや女の腹からポコッと出て来たりはしなくならう。


だから逆に何も無くなる。


其れこそが無の意味だ。



無とは生まれないと云う事だ。


そも生まれぬゆえ相対分別はなく対概念は悉く消え去る。


だがすでにほとんど死んでおる。



死とはそんな有り難ひ領域の別名でもある。


事実アナタが寝て居る時はどんな喜びも陶酔も無いと云うのに至極幸せだ。



何も無いのが実は一番幸せだった。


だから涅槃とは永遠の眠りに入ることだ。



何故かういうことが言えるやうになったかと云うと一心不乱に三十年余に亘り仏法を研究して来たからだ。

母方の祖父の遺志を継ぎまさにさうして来た。

ー母方の祖父は在家の仏教研究者だった。当時祖父の書斎には本職の僧侶が決まって驚く程の蔵書があった。ー



ただし余り真面目にはやって居ない。

其のうちの十五年程は万年筆研究家だったから其の三十年と云うのは明らかにウソだ。




我は有る、が、其れは真の我には非ず。

其れが非我なので現象して仕舞ふ。


現象=苦ー悪ーなので止めた方が良ひ。

ところが釈迦級の心の天才でないと其れを止められない。

アノショーペンハウアーにしてからもが其の後現象を止められたかどうかは分からない。



つまり誰もが悟れる訳ではなかった。

でも其れでは仏教にならなひ。


仏教にならないと決して金は儲からぬ。

其れでもって仏教にして仕舞った。


特に大乗理論がさうしたのであらう。

社会化し多くの寺でもって貧乏人からも少しづつ金を集める。




すると意識とは相対分別のことなのですか?


さうじゃ。

無意識もまたさうなんですか?

さうじゃ。

だが無意識の方がよりタチの悪ひ分別智だ。



其れは我ですか?


我には非ず、即ち非我じゃ。


なのではあるが其れは有に通じて居らう。



無に通じるのではなく有でもってして常にウルサイ。


其のウルサイのが母ちゃんの腹の中身だ。




其のウルサイのはどうしたら治りませうや?


治らぬ。


また決して変わらぬものでもある。



すると不変のものか?

永遠不変=常住のものなのでは?


其の通り。

生とは其の不変の欲望の坩堝のこと。



つまりはさういう性質だと云う事だな。

さういう性質の中でも静けさを好む者も居れば逆にウルサイのが苦にならない者も居る。


其れと前頭葉の働き方の強弱により理知的かさうでないかと云うことの差が出来る。



わたくしの場合は勿論前頭葉の働き方が極めて強力だ。

だから直観も働くのだ。所謂ピーンと来る割合が多ひのだ。






事実意識的である理性的な部分と無意識的である本能的な部分は相関し合って居りどちらか一つに分けることが出来なひ。

其の理性的な部分と本能的な部分のバランスこそが有情としての種別を生み出し其れこそどーぶつ的であるかさうでないかの規準ともなって居るのだ。


では理性的な部分と本能的な部分はどちらがより高級だと言ひ得るのだらう。


ー理性が有ることにより本能が有ることが規定され得逆に理性が無いことにより本能が無いことが規定され得やうから理性と本能の優劣とは相対的にしか規定され得ず其処で理性が有るー理性が無いー其のものと本能が有るー本能が無いー其のものに分離は出来ないから理性と本能の優劣が有るとは言ひ得ずしかも理性と本能の優劣が無いとも言ひ得ない。


ただし現実的には理性は本能よりも高級な機能だと見做され易ひ。

ところが理性的なものは逆に打たれ弱くつまりは壊され易い。

逆に本能的なものは打たれ強く少々のことではへこたれない強さを持つ。


本能的な部分が多分にある女性よりも理性的な男性がへこたれ易いのはかうした部分にこそある。


なのでむしろ生命力としては理性的ではない方がより逞しひのであらう。


さて先の部分に戻ると非我としての分別智=相対分別力をより強固に持ち易ひのが人間の男性である。


ところが其の分別智の内容には先に述べたやうに蔵識=無意識としてのイメージに充ちた女性の腹の中=子宮さえもが含まれる訳だ。


謂わば其の母ちゃんの腹の中身は対概念としての男性の分析力=論理的構築力に支えられて居る訳だ。

勿論逆に論理的構築力は母ちゃんの腹の中の本能力にこそ支えられて居る訳だ。


二元世界ではかうして全てがバランスで成り立って居やう。

即ち一極だけで何かが成り立つと云うことがない。


しかもどちらがより高級で上だと規定し得るものでもない。

其の意味で本来平等でバランスされて居る訳だ。


ところが其のバランス自体が実は差別するー相対分別するーことから成り立って居る。


以前に述べた如くに其の心理的な本質が男性ではないゆえに男性となり女性ではないゆえに女性となる。

又は其の心理的な本質が人間ではないゆえに人間となりどーぶつではないゆえにどーぶつとなる。




其のバランス自体がむしろ分別智から成り立つと云う事実。

其の男女自体、人間か動物かと云う区別自体がむしろ分別智から成り立つと云う事実。


実は其処が大事だ。


要するに共に相対認識の限界を指し示すものだ。


最終的に其処に置いて矛盾して仕舞ふと云うことなのだ。


此処からも相対認識の本質とは其の矛盾にこそある。


かの矛盾こそが苦を生じまたは罪を生じ此の世を地獄となす元凶のことだ。



だからあくまで潔癖に論理を追求すれば相対認識そのものを滅していかずば苦または罪から逃れる術は無い。


でもそも誰もが相対認識そのものを滅していくことなど出来ぬ。


だって人間ですもの。



ならばと云う事でとりあえず大乗理論は相対認識そのものを絶対化して仕舞ふ。


即ち仏性と云う形で其れを行ふ。


ところが其の一方で空とも云ふ。


なので其れもまた両義性そのものなのさ。


また蔵識も生み出した。


蔵識即ち母ちゃんの腹の中身のこと。



勿論其れも絶対化である。


非本質的に絶対化することで結果的に本質的な相対性を打ち消す訳だ。





唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。」以上より引用


かように迷ひと悟りとが相即して居る訳である。

蔵識ー母ちゃんの腹の中身ーが全てを生み出すが其の蔵識自体の本質は規定することが出来なひ。

何故なら矛盾に陥らうからだ。



謂わば其のイノチの母としての蔵識から生が開闢して居るのだが其れを生むのはむしろ分別智であり其処からしても相対分別が得意なのはむしろ父ちゃんである。

父ちゃんが酒飲んで酔っ払い母ちゃんにつひタネを撒ひた。

確かに其れは十月十日前のことじゃった。


するとポコッと生まれ出しものがありまさに其れが我であり理性でありどーぶつであり本能である。


然し蔵識と云う母ちゃんは矛盾其のものゆえあらゆる論理的規定が通用しない、つまりは跳ね返される。


父ちゃんの理性など全く通用しなひ。

決まって父ちゃんが理性を失った時にのみ一緒になれる。♡


わたくしの場合はさう解釈する。



即ち非本質的に絶対化することで結果的に本質的な相対性を打ち消すことこそが謂わば大乗仏教の奥の手なのだ。



無意識、其れは我我に残されし最後のフロンティアだ。


其の無意識は常に個を規定していく。


無意識と云う全体が個を包括せしめかつ個が無意識を生じさせて居る。


つまりはこちらでも相即的矛盾領域が生み出されて居る。


此の相即的矛盾領域こそがまさに生を駆動させることだらうエンジンのやうなものだ。


其の相即的矛盾領域のことをショーペンハウアー流に言うと表象としての盲目的な意志と云う事とならう。






ユング心理学においては、外的世界の物質の運動を主として規定する「因果性」と共に、因果性とは独立して、「意味」や「イメージ」の「類似性・類比性」によって、外的世界の事物や事象、個人の精神内部の事象等が互いに同時的な相関性を持つ「共時性シンクロニシティ)」が存在するとされる。 ー分析心理学より引用  ー


不可思議なことにある時期に「類似性・類比性」によって、外的世界の事物や事象、個人の精神内部の事象等が互いに同時的な相関性を持つ「共時性」が確かに引き起こされたりもする。


まるで小説か何かでもあるかのやうに余りにも良く出来た類似性は何故か屡経験するものだ。