【話題作】「知ってはいけない金持ち悪の法則」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】 - YouTube
まさに其の悪が此の世には居ります。
其れは我が物顔にて利己的に振る舞い神佛をさえないがしろにして居ります。
むしろ滅びなけばならぬのがまさに其の悪である。
其のやうに悪とは常に己の外部にあるものだ。
其れは佛法が説くが如くに内面でだけの問題なのでは無い。
いや佛法は最終的に其の外部をも己の心が生み出す幻影なのだとさう述べる。
確かに其れは正しい認識でありよって最終的には此の顛倒せし認識を生み出して居るのが他ならぬ我なのだ。
だが其の迷いと常に対立する明確な悪がまた存する。
其の悪を意志する人間が此の世には確かに居る。
其れ等の勢力と闘うことこそが眞の意味での理性による闘争なのだ。
ああ良いだらう、是非闘ってやるわ、お前達悪との最終戦争を。
またイキナリ善悪弐元論の世界観ですがもしやまた気でも狂いましたので?
いやまるで狂ってなど無い。
但し問題は、「悪者には悪を知る力は無い」と云うことだ。
逆に善人は人壱倍其の悪を感じ取る力には長けて居らう。
アア、だから善人はより苦しまねばならんのですね。
第壱悪人は悪の何たるかも知らぬ訳ですので其の悪を苦しむことなどハナから無い訳だ。
さうだ、善人はな、さうして其の悪人の悪をも抱え込みかうして悶え苦しむこととなるのだ。
だが其れこそが實は聖なる道だ。
かのキリストや佛陀や他の教祖、宗祖達は皆其の悪との闘いの道を歩み其の悪を退けた、即ち其れこそが聖としての道ぞ。
でも其の聖としての道は我我庶民には直接関係無い世界のことだ。
ソコはまさに御尤もで…。
でもお前等はさうして心が盲目だからこそ其の聖の道など所詮縁が無いのだ。
第壱お前等の👪主義には絶対に限界があるのだぞよ。
だからそんな👪主義など指向せず独りでもって生の目的にまっしぐらなのがキリスト者や佛教者としての生き方なのだ。
するとキリスト者や佛教者は限界をむしろ定めぬ者なのか?
さうさな、とりあえずは彼等の居る心のあり方としての位置が高い。
そんな高いところから見詰めるとな、人間などタダのどーぶつにしか見えなくなるのだ。
じゃあ人間を皆殺しにしても良くなる訳か、かのオウム教のやうに。
いやさうでは無い。
聖は生命を殺しにはかからぬものだ。
只冷ややかに其れを見詰めて居るだけだ。
とは言え其処で愛だの慈悲だのと一応言っては居らうが其れは方便で宗教の目的とは人間の破壊活動を抑制することにこそある。
でもイスラム原理派はああして此れ迄破壊して来たではないか?
いや其れはキリスト教圏をちょっとやっつけただけの話であり世界其のものを滅ぼさうとして居る訳では金輪際無い。
では自然科学が壱番の悪玉なのか?
かうして自然環境を破壊しもう拾月も半ばだと云うのに部屋の気温が参拾度もあるのは其れは如何にも破壊の態だらう!
まあ自然科学には元より大きく責任があらう。
でも自然科学者は其の破壊の責任に関してはまるで知らんぷりなのだ。
すると誰が悪いのだらう?
此の世に生まれて来たお前等がそも悪いのだ。
だがキリスト教はそんなことまるで言って無いぞ。
第壱神が創った此の世を何で馬鹿詩人のお前がさうして否定出来ると云うのだ?
いやわたくしの人生はかうして闘争的なものであり要するに其の善悪弐元論として何処までも社會とやり合って行くものです。
ならば其れは佛教では無いだらう。
いえ佛教です。
佛教ですが👿の出て来るタイプです。
そも其の悪の蔓延する世界で幸福になどなれる筈が無いのだ。
おい、でも其れではついに作家止まりだぞ。
芥川だの太宰だの三島だのそんなところ止まりだ。
でも作家でも瀬戸内 寂聴 - Wikipediaだの家田 荘子 - Wikipediaだのはちゃんと尼僧となって居るではないか。
まあ其の姿形だけは一応。
だが奴等がほんたうの尼さんかどうかはまるで知りませんのですがね。
まともな人ほどぼっち(孤独)である説。仏教の視点から検証する - YouTube
さて此の人が語る佛法的な話が面白いので最近良く視ても居ますが此の人が所属する親鸞會なるものが良く分かりません。
仏教を語る仏教系ユーチューバー?菊谷隆太(きくたにりゅうた)さん | 思考の治療院 (sikoutiryou.com)
親鸞会講師、きくたんこと菊谷隆太氏の情けない言い訳: さよなら親鸞会 (txt-nifty.com)
かうして賛否両論あるがカルト宗教だとされてもまた居るやうです。
『創価学会』と『親鸞会』、どちらが危険ですか。 - 双方とも、折伏という... - Yahoo!知恵袋
其の創価學會もまた批判されることが多く特に日蓮宗から離れてからは私もまたダメだと思っては居ますが其れでも与党の壱角を担う力もまた持って居ます。
尤も本質的には我は佛教だけが正しいとは思って居ない。
また實は宗教だけが正しいとも思って居ません。
さらに自然科学だけが悪いとも思って居らずまた其れが良いとも實は思って居ない。
但し宗教は無い方が良いと云う説には反対で逆に自然科学は無い方が良い可能性の方が高いことだらう。
また文學などもあった方が良いと思われ逆に高度な数学や物理学の理論などは無くても困らないやうにも思う。
要するに人文學の方をより重視して居り其れは何故かと申しますと心理的に試練に耐える力があると思われるからだ。
其の意味ではキリスト教もまたまさに其の神が与えし試練に耐える宗教なので其の考え方自體は間違っては居ないと我は捉えて居る。
でもって日蓮宗や浄土教の方にも其の艱難辛苦に耐える力があると思われ故に佛法としては或は不純なのやもしれぬのだが大乗の教えとしてはあくまで否定しない積もりです。
其の艱難辛苦に耐える力は貧乏人つまりは庶民に取りどうしても必要なものです。
何故なら前回から引き続き述べましたやうに其の悪の力が此の世にはしかとあり其れはウソ偽りなどでは無いのです。
つまるところ残念ながら悪人は此の世の中にむしろ満ちても居りませう。
だから要するに其れはさうして社會の悪をしかと形成して居るのです。
ですが其れを創価學會に入らないのが悪人ですだとかまた親鸞會に入らぬと悪人ですとかさうしたことでは無くもっと根本的な社會が齎す悪に対し常に闘いを挑んで行かねばなりません。
ですので私の宗教とは釈迦とキリストの思想其れ以外には無いものであり其の他何処の教祖が出て来ようが其れは私の宗教とはまるで別ものなのだ。
だから禅宗でさえ可成に疑いの眼でもって見て居ります。
禅宗で完璧に解脱出来るなどとはむしろ考えて居らずと云うことはわたくし自身が物凄く疑い深い人間である訳でまた其れは自然科学や學問に対してさえ實はさうなのだ。
むしろ其の理性的な疑いの果てに出て来る境地と釈迦とキリストの思想を融合させたく常にもがいておる訳で従って事實上カルト宗教などを相手にして居る暇などまるで無い。
尚其の「疑う」力即ち批判力は近代的自我にとってはむしろ必須の要件なのです。
逆に疑いませんとまさに人の好い立憲君主國として米國や中國から甘く見られやりたい放題され結局はどちらかの奴隷にされて行くより他に道は御座りません。
そんな絶體絶命の日本のこれからですが子孫が居ないわたくしはそんなことはむしろどーでも良く要するに今を目一杯に生き愉しく石と万年筆でもって遊びたいだけのことだ。
何て低次元な野郎だ…。
じゃあ高次元に環境破壊だ宇宙破壊だとそんなことばかりに勤しみおまけに大金を儲け豪邸を建て美女を其処に侍らせ酒池肉林の暮らしをしたとして其れが壱體何になるのだ?
また其れが出来ぬにせよ妻や子を大事にしかうして此の悪い世に子孫をバラマキ其れが壱體何になるのだ?
つまりは有るより無い方が良い?
つまりは有るより無い方が良い。
其れは究極の消極的な価値の追求なのか?
其れは究極としての消極的な価値の追求だ。
つまるところ余計なことはやらぬ方が良い。
すると宗教もやらぬ方が良い?
もしも其れが概念的に消化出来るのであれば。
尤も人間は弱いので其れをイザ強くしやうとするとニーチェやナチスのやうに壊れて仕舞う訳だ。
また大日本帝國もまた其の轍を踏んで居やう。
要するに其れ等は皆やり過ぎだ、やり過ぎ。
また現代の文明もまたやり過ぎ以外のなにものでも無い。
だから其処にむしろ宗教の意義が出て来る。
但し現代には邪教が蔓延り易い社會構造がすでに成って仕舞って居る。
なので宗教から學ぶ場合には逆に高度な理性的選択が必然として必要とならう。
つまるところ我は理性的に達成されることだらう宗教的境地をこそむしろ目指して来て居る。
理性的に達成される宗教的境地は迷信や独善や狂信や個人崇拝からはむしろ離れて行くものだ。
故にわたくしはどんな教祖の言説も信じない。
其れも釈尊とキリストによる直接の教え以外のことを。
其の釈尊及びキリストによる直接の教えであることを其処に証明し得るのか?
まあソコを余り厳密に追求するとまるで分からなくもならうから其れは大體のことで良い訳だ。
ところでお前は浄土教をさうして馬鹿にして居るな?
ですからバカになどして居りません。
阿弥陀経も法華経も大捏造でもってまるでウソの塊だなどとは壱言も述べては居ない。
いや今つい述べて仕舞ったが…。
こりゃお前の如き謗法者は地獄に堕ちるぞよー。
いやまるで堕ちませんので大丈夫です。
だって僕はこれから禅の御勉強を是非進めて行かねばなりません、そんな重要な使命が我にはしかと御座ります。
さて其の禅に於ける問題は人間の相対分別に於ける其の善悪対立の根本的な命題です。
可能性としては禅が述べるやうに善悪対立があって相対分別が生じるのでは無く相対分別するから善悪対立が生ずるものと思われる。
ですがまさに其処をキリスト教の場合は善悪対立があって相対分別が生じると見て居るのだと思う。
どだい其の神とは人間の外部存在としての實體のことです。
佛もまた實體なのですが其れは人間の内部存在としての實體のことでせう。
いずれにせよ壱神教はさうして人間を他力救済へと導き其の点では浄土教もまた明らかに壱神教的です。
他方で禅宗は所謂不立文字ですので要するに壱種の概念否定、分別否定を行う訳だ。
其の概念否定、分別否定と云う意味では禅宗は確かに概念的に潔癖でありより釈迦の説いた教説には近いこととなる。
ですが其の潔癖な分より理解し難い教えとなることもまた止むを得ないことです。
要するに極樂浄土ー天國ーへ行ったりはせずまた其処にて阿弥陀佛なる神?に救って貰う訳でも無いので禅宗は明らかに無神論です。
逆に申せば他の佛教各宗派は多かれ少なかれキリスト教化ー壱神教化ーして来て居る訳だ。
でも禅宗は所謂即非の論理的な見方でもって論理学などとはまた別の見方をしますので其れが科学的だとは必ずしも言えぬ部分がありつまりは其れは論理的ではあっても自然科学的に理解される論理其のものなのでは無い。
施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第六章「即非の論理について」 (oujyouin.com)
其の川口 英俊師は私が観念の師として私淑させて頂いて居る大阪市六萬寺の副住職の方です。
往生院六萬寺 川口英俊 「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 | DIALOGUE TEMPLE
かうして法学部を出て居られ何とかっては政治活動をされ且つ弁護士を目指されて居たとのことだ。
そんな川口 英俊師が佛法の内容を論理的、概念的に上手く纏められ書かれたのが 施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」である。
施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」・第一章「はじめに」 (oujyouin.com)
主に臨済禅の立場からの理論的な佛法解釈が此処には述べられて居り佛教関係のものではネット上で最も為になったと申しますか兎に角参考となりましたところです。
私の佛法解釈はかうして理論をも重視するものです。
其の論理を突き詰めた上で其れを放棄するのは良いが勉強もせずに最初から論理を放棄して居るのは其れはタダの頭としての怠け癖のことだらう。
なのでむしろトコトン論理を學び其処にて大いに苦しみ悩まされるべきである。
文學の場合もまたさうなのだけれどさうしてトコトン本を読み苦しみ悩み悶え死の直前まで是非行くべきだ。
其れをやらぬからこそむしろ現代人の頭が壊れて来て居るのです。
だからまるでかっての旧制高校生の如くにインテリ共はトコトン御勉強をするしか無いのだ。
だが其れをやらぬからかうしていつの間にかバカになるだけのことだよ。
鈴木大拙の即非の論理 | 中野禅塾 (nakano-zenjuku.com)
こちらは元名古屋大學教授の方がして居られる禅の塾としての場です。
常常こちらも参考にさせて頂いて居りますが御免なさい、ふと気付くと最近はずっと御無沙汰でした。
此処では其の「即非の論理」こそが重要だと述べられて居る。
私もまた其の鈴木 大拙による「即非の論理」や西田 幾多郎による「絶対矛盾的自己同一」と云う概念こそが最重要だとさう考えて来て居る。
我⇔非我
其の「我」と云う意識ー意識と云う概念ーは「我に非ず」と云う意識ー意識と云う概念ーに分立ー分離ーされる形にて概念形成されざるを得ない。
つまりは我を設定したと同時に非我の方も設定されざるを得ない。
なので其のやうに言語による概念規定がそも分離ー分裂ーの形を取らざるを得ぬものなので単壱=単独=絶対的規定のものとは呼べないのであります。
言語の限界とはつまりはさうしたことであり、またつまりは其れが概念的規定の限界をも指し示して居ります。
つまるところ我はそも我単独では現象出来ぬものなので其れを逆に申せばむしろ非我であることにより仮に我であることは決まり、また非我であることを離れて我は現象し得ないと云うことなのでもまたある。
また此の現象世界での所謂弐項対立概念は皆そんな「絶対矛盾的自己同一」的な論理に彩られて居るものなのだ。
例えば、
男⇔女
などもさうで、
また、
人類⇔自然
だの、
さらに、
佛教⇔キリスト教
小乗佛教⇔大乗佛教
などもまたさうなのでせう。
また、
利口⇔馬鹿
との分別規定もまた其の論理から齎されて居ることだらう可能性が高くありよって僕は利口です、とさう述べることは他面で、僕は馬鹿です、とさう述べて居ることと同じでもある訳だ。
僕は美男です。⇔僕こそが醜男です。
僕は上品です。⇔僕こそが下品です。
僕はウンコなど垂れません⇔僕こそがウンコ垂れだ。
とのことです。
重要なことは言葉による分別=言葉により規定される認識には其のやうに逆方向への拡がりが常にありまずはソコを見て置かないと其の認識の形式によるリスクがまた見えて来ないと云う話なのだ。
また自然科学なども所詮は其の種の分裂的価値を有して居り故に其処には常にリスクが大きくある訳だ。
色即是空、空即是色。
色(物質)=空ー無(非)自性ー
即ち物質は其の無自性であることを離れて其処に現象するのでは無いので要するに其れは非實在としての現象であるに過ぎぬものだ。
實在=無=有自性⇔現象=有=無(非)自性
此処からしても此の現象界では實在するものはむしろ現れず仮象としての現象があたかも其処にあるものであるかのやうに感ぜられ現れて居る可能性が高くある。
だけど妻は今此処に居てしかも子はそろそろ塾から帰る頃だが…。
だから其れは君の認識上の形式がさう見て居るだけのことで其れがまるでほんたうのことだとはまさか証明出来ぬことなのだ。
でもイザそんなことを言い始めたら何もかも信じられなくなるではないか。
仰る通りで…。
だから考え過ぎるのもまたなんですねえ、實際まあ其の哲學フェチもまた困ったもんです。
なのですがあくまで「即非の論理」としてはそんなことになるのだと思う。
つまり君はじぶんが👩であることを抜きにして自分の👨らしさを語ることなど出来ぬ訳だ。
なんじゃーそりゃあ。
其れはあくまで特殊な心理的性質としてのお前のことであり我我常識人とソコを混ぜこぜにして貰っては困る。
分かりました、全ては此のわたくしめが悪う御座りました。
御免なさい、御免なさい、御免なさい、どうも御免なさいまし。
君⇔僕
君は僕であることで初めて君でありまた僕は君であることで初めて僕なのだ。
うわあー、何だ、気持ちが悪い。
そもそんなくっつくな。
いや好んでくっついては居ませんのですが何故かさうなって此の世に出て来て仕舞うのです。
其れも此れももしや「迷い」なのですかな?
さう迷いに迷ってたった今かうして此処へと出て来て居ります。
但し其れは皆様もまたまるで同じことなので御座ります。