56.至極理性的な政治解釈ー「お前等はみんなケモノだー、早う檻へ入れ!でないと人類は滅びるぞよー。」ー
さうして我は現存在の自己矛盾に対し常に頭の中が支配されて居りつまりは其処で人間の不完全性のやうなものにいつも苛まれて来て居る。
さう云うのは其れこそ作家先生だのまた詩人様だののまさに頭の中のことで只飯食って屁でもコイて寝て居れば其れで良いみんなとは違いつまりは精神的に高度な問題に常に晒されて来て居る訳だ。
でも僕はもうさう云うのがイヤだ、だが實は同時に其の思考を心より愛して来ても居る。
何故ならもしも我が只只飯食って屁でもコイて寝る暮らしをしたのであるなら其処には僕がもう居なくなる虞が高い可能性が存して居るからなのだ。
だからかうして實存としての精神の悩みを壱手に引き受けかうして我は我が現在を常に生きて行かざるを得ない。
文學者とはさうして詩人とは常にさうした精神の高みを直に引き受け生きて行かざるを得ぬ者のことだ。
だから其の事自體に於いて有名であらうがまた無名であらうがまるで関係の無いことなのである。
アナタはさうして「詩人」として今を生きておいでになる?
いやまるで生きてません。
早う其処から逃げ山へ石採りに行きたいだけなのだ。
丁度世間の奴等が👩を触り子を育て家を買いローンを組むこと、また會社から給料を貰いどうだのあーだの、ありゃ株の値が上がったからパチンコでも行きキャバレーでもって飲んで来やう、ついでに御触りサロンへ寄りネエチャンの尻でも撫でて来やう、其れとも高いいい酒が飲みたいので是非其れを買おう、ついでに競馬と競艇でもってさらに儲けたい。
などと下品なことを考えて居ることとまるで同じことだ。
只違うのは元元我がかうして精神の貴族に生まれて居るのでみんなには永遠に分からぬことだらうかうした上品な趣味にだけ生きると云うことなのだ。
さて問題は、
1.組織的な対立は常に理性的なものとはならず=非理性的なものである
2.現存在はむしろそんな非理性的な領域に倒れる=滅びる
3.左派思想の矛盾性により其れが必ずしも理想としての思想的實現とはなり得ぬことー其れも🚺の権利の拡大、自由の拡張解釈などの範囲でー
4.保守思想の矛盾性は體制に固執するが余りに政治的腐敗や精神的堕落などを社會的にむしろ容認して行かざるを得なくなること
かやうにまあ現存在が抱える問題は幾らでも生み出してイケませう。
其れがつまりは人間が半分獣であることに尽きて居ます。
さうなんです、人間とはまさに其の半分獣でありもうどうしやうも無くケモノ臭い奴等だ。
だからまずは其の事實を直視し人間こそが其の獣共であることをしかと認識して行かねばなりますまい。
もう人間などそんな生きる値打ちの無いやうな馬鹿ばかりです。
しかも当の本人様方は自分は頭が良いとさう信じて御座るのだからもう其れはお笑い芸人の壱発芸よりももっと酷いオチでせう。
なのでまずは詩人様、其の政治的宗教詩人様の利口さに跪きちゃんと御意見を伺って置きませう。
尚其の政治的宗教詩人様が今世の中の価値をはかる尺度とは其処に「理性」が有るか其れとも無いかです。
でもって、上で述べた1.及び2.及び3.及び4.の問題点とは其の全てが其処で「理性」を欠いて居ると云うことである。
即ち現存在が抱える本質的命題とはまさに其の種の「自らの内なる獣と闘い負けました」と云うことです。
また組織が抱える自己矛盾の類もまたまさに其の獣の部分が出て引き起こして来て居ることだ。
ですので、例えば自転車に乗りながら、
「お前等はみんなケモノだー、早う檻へ入れ!でないと人類は滅びるぞよー。」
とすぐにでもさう叫ぶべきでせう。
でも其れをやったら最後牢屋に入れられるのはむしろ政治宗教詩人様、アナタ様のことでせう。
なる程、所詮其の頭が良いと云う事とはさう云うことなのか。
いや、アナタが仰ることは確かに理路整然として居りあくまで正しい。
ですが精神科の医者は結局アナタを正しいとはまさか言っては呉れぬことでせう。
さうか、ついに我もアノゴッホ並となって来たか。
いやあー、何だか心底嬉しくなってきちゃったなあー…。
…。
では果たしてどんなことが「理性」的なことなのですか?
まあ其れに関してはもう僕も長く其れに就き論じて参りました。
つまりは現存在がさうして理性を生きるやうで居て實は其の理性を生きられて居ない部分にこそ根本的な人間としての誤りの部分があるのです。
なので要するに其の理性を生きられて居ない部分とは逆のことをやればまた其の逆に理性其のものを生きられるやうになると云うそんなまさに幼稚園児でも分かりさうな論理こそが大事である。
なる程、すると所謂常識的価値の逆をあえて向くと云うことですね。
でも其れは昔の内ゲバ学生達が屡信奉して居たかの如き論理ですね?
いや内ゲバ学生達だけでは無く所謂バンカラ學生などもまたさうだったのではないかと思う。
なんですが、結局は彼等の論理を突き詰めて行ったにせよ此の日本と云う國家の精神的転換を迎えることは結局出来なんだ。
そも其れは何故ですか?
そも其の思想的価値は構築度を高める程に自己矛盾し逆に自己破壊する方向へと歩み出します。
故に思想的価値に於いてはアナキズムの如くに放棄型の思想の方が長持ちするのですし其れ以前に正しくもある。
従って3.及び4.の立場に於いても本来ならば部分的には逆方向を是非向いて置く必要がある。
其れはかの石破 茂氏が「赤旗」を講読されて居るやうなもので兎に角さうして常に逆方向の思想の流れを逐壱確認しつつ政治家は歩まねばなるまい。
尚繰り返し申して置きますが、其れも平たく申せば政治思想はどちらへ寄り過ぎても自己矛盾に陥ります。
ならばどちらからも距離を取らうとすると逆に政治思想其れ自體が曖昧模糊なものとなりがちだ。
うーん、おそらくは何でもさうなのでせうが政治でもってさうなると我我は困ります、其処でもって壱體どうすれば良いのでせうか?
即ち「保守」単独でもまた「変革」単独でも其れは幻想の立場としかなり得ぬものなので必然的に正しくは無い考え方=非理性的立場なのです。
また其処に無理矢理にでも理性的に正しい立場を組み上げるのであれば結局其れがアナキズムの形を取らざるを得なくならう。
ではそも政治思想其のものが理性的なものでは無く壱種の幻想のやうなまた盲信の類の如きものなのですか?
いいですか、其の政治思想に限らず概念其れ自體が分離であり分裂です、其れもあくまで本質的には。
なので其の概念の本質性が問われない時代に於いて政治思想は何とか機能はする筈ですが今はむしろ其の概念の本質性こそが問われて居る時代なのだらう。
故に所謂右だの左だのと云う形での政治的立場の固執は対立を生み出すばかりでのことで本質的にはどんな解決にもなり得ぬとさう云うことだ。
じゃあ、どーすれば良いんですか?
ま、思想を放棄し逃げるに限る。
まさかそんな無責任な!
いやさうじゃあ無い。
僕はかっての社會科の先生として責任を感じて居るからこそかうして逃げると言って居るのだ。
さうかなあ、お前には妻も子も孫も居ないからさうして逃げて居るだけのことだらう!
では政治的宗教詩人、お前の言う理性的立場とはひとえに其の「逃げる」ことなのか?
まあ逃げることでありまた「諦め」です。
なのではあれ、其の「諦め」の立場とはあくまで目壱杯に戦った上での放棄の様だ。
なのでまずは社會と戦ってみるべきでせう。
すると次第に社會と己の欲望の世界とがまさに瓜ひとつであることに気付くことでせう。
其れは要するに社會の価値観に己が価値観が何時の間にか洗脳されて居ると云うことなのでもまたある。
だから其の洗脳を解き逃げるのです。
其の逃げた場にて其れこそアナキズムだの「世界革命」を夢みたりして居さえすればまた将來何かの折に戦うことが出来るのやもしれません。
でも今戦えよ。
其れも自民党をやっつけるのではなかったか?
正直な話、僕が考えて居るのはもっともっと根本的且つ哲學的な政治的命題であり實は何党が良いだとか悪いだとかの話ではまるで無い。
でも確かに自民党による壱党支配は日本の政治を腐らせて来ても居ることだらう。
さらに最近はマス・メディアとしての洗脳的報道の内容などにも疑問を呈して来て居りよってなるべく其の種の政治的な討論番組などを視ないやうにして来て居る。
其処では識者がまた色んなことを言うが其の識者も凡そ半分程がおそらくは馬鹿であらう。
さて宗教者としてのネルケ師が『仏教の冷たさ キリスト教の危うさ』と云う著作の最後の方で触れられて居るのだが其の「左派」と「右派」と云う思想的判断のことに就いても述べられて居る。
其処で「壁をぶっ壊して、解放を目指すのが左派」で、「新たな壁を立てて、守られた空間をつくろうとしているのが右派」だと述べられて居るのだがまさに其の通りでのことなのだと思う。-『仏教の冷たさ キリスト教の危うさ』P.216より-
但し其処でもまた「今を守るか守らぬか」、「解放=自由か不自由か」などと云った大問題が幾らでもまた出て来る訳だ。
また其の守る守らぬにせよ、例えば戦後憲法を守る立場に回って居るのは今むしろ日本共産党なのである。
さらに米國の進歩的経済政策に同調し日本を其の進歩的経済政策國家に変えて仕舞ったのはあらうことかみんなが保守の牙城と考えて居た自民党其の人なのだ。
いずれにせよ政治的に出て来る課題のほぼ全てが自己矛盾的であり且つ非理性的な領域をさうして常に漂い続けて来て居る。
ではプーチン氏の其の自由主義體制批判、欧米圏による放埓な資本主義による収奪や破壊に対する否定的見解に対しアナタは同調するのですね?
同調すると言えば即みんなが怒ることでせうがまあどちらかと言えば分からぬことも無いと云った感じですかね。
でもお前は最初アノプーチンを👿だとさう罵って居たではないか!
まあ何せ「世界革命」に関しましては其れが無いよりも有った方が良いとさう考えて居りますのでね…。
全くもって困った奴だ。
誰が?
お前がだ、政治的宗教詩人。
政治的宗教詩人、お前、また何ぞ美味いものを食おうとさう思って居るな?
良くぞ分かったな!
オレが今食いたいものとはまさにコレだ!
サガミ テイクアウトメニュー2022_takeout_chyubu.pdf (sagami.co.jp)
どうだ、今此処に「大海老天重」なるものが載って居らう。
我は是非此れが食いたい。
つまりは其れが安くて美味さうだからだ。
然しお前はいつも其のやうな食い気ばかりで精神的な苦悩がむしろ何処にも感じられぬではないか。
そんな心掛けにて壱體なあにが「世界革命」なのだ?
いえもしも世界革命されましたならもうこんなもん食いはしません。
さうか、つまりは食い物もまた時と場合によると云うことであるか…。
日本が共産圏となりました其の暁にはわたくしはイモばかりを食います。
イモばかりかアワでもヒエでもスイトンでももう何でも喜んで食います。
さうか、其れは偉いぞ。
お前はもう立派な共産党員だ。
でも私は仰るやうな共産党員ではありません。
またどんな政治思想家でも御座りません。
ではお前は壱體何の人だ?
わたくしですか、わたくしはあくまでネルケ師の自称の弟子であり壱佛教徒です。
其のネルケ師は概ね日本流の佛教がむしろ良いとさう御考えだ。
でもわたくしは日本流の佛教はダメだと考えて居り其れは何でかと言えば其れが伽藍を守らんが為の佛教だからなのだ。
但し其の点に関してはネルケ師はまた「伝統を守らんが為の佛教」ではダメだともさうハッキリと述べても居られる。
また、
ー仏教は「自他を救う道」であり、日本のお寺に未來がないと言うのなら、それは僧侶が自他を救えなくなったからではないかー-『仏教の冷たさ キリスト教の危うさ』P.218より-
などとも述べられて居ます。
思うに日本の組織と云うものはまさに「伝統や慣習を守らんが為の組織」なのではなからうか。
即ち「不自由さに甘んじても今を守る」組織のあり方なのであらう。
ですが其の組織としての論理に従うばかりでは無論のこと個としては救われやうが無い訳である。
翻り今日本の社會が抱え込んで居る問題の多くが事に於いてむしろ其の組織としての論理が先行して仕舞い個としての権利の履行に支障を来たして居ることなのではないか。
例えば先進國で唯壱参拾年間にも及び給料が上がらない、いやむしろ實態としては貧乏化したことだらう庶民の暮らし振り。
さらに其の悲惨なる労働に対する抜本的搾取をヘラヘラと笑いつつやったアノコイズミのバカヘアーの様。
さらにアベがよりによりウソばかりをコイた。
また何だか知らぬが悪の🐊ーアソーーが怖い顔でもって弱い庶民の懐を平気でもって抉る。
そんなもんは我が國での佛教の存続以上に大問題だらう。
さうだ、決して許してはならぬ社會的大罪の集積だらう。
「不自由さに甘んじても今を守れ」ー我が今考えたところでの其のジミントーに於けるスローガンー
今ある不幸に とどまってはならない
まだ見ぬ幸せに 今跳び立つのだ
ーかってのフォークの神様による歌の歌詞ー
さても其の「不幸」を生み出したのは果たして誰だ?
其れ即ちジミントーによる政治だ。
くっそーう。
ついにやって呉れましたね。
さうしてみんなをイジメて美味い生き血をチュウチュウと吸ったな!!
ではお前達の生き血を今度は私達が吸う番だ。
チュウチュウチュウチュウチュウチュウチュウチュウチュウチュウのチュチュウのチュウ。
政治的宗教詩人さん、もしも「世界革命」が成ったら奴等の首を三条河原にでも晒すのですか?
いやさうでは無い。
奴等の首は他ならぬ此のわたくしめが是非所望致したい。
其処でまずは薄濃の盃を作り其れにてスジャータの林檎ジュースを飲み干すのだ。
そ、それはもしや髑髏の盃のことで御座りまするか?
さうじゃ、其のコイズミとアベとアソーの髑髏の盃なのじゃー。
注…こちらはあくまで空想的文學作品の場であり反體制を志し政治家を侮辱する場なのではありません。よって實際の政治家とコイズミとアベとアソーは別人格です。あくまで其れはジミントーと云う空想の島の中でもってかって活躍したところでの偉い島民さん方の名前のことです。
つまるところは政治思想に於ける理念的展開は其の矛盾性故に眞の意味での理性的展開とはならぬ可能性が我にはしかと見えて来たのであった。
なのであえて其処から離れ専ら今は哲學的思索の方を極めて来て居るのである。
また資本主義や自由主義と云った人間の権利のさらなる拡張、つまりは現存在の欲望を煽り続ける思想の場合にも其れが眞の意味での理性的展開とはならぬ可能性が我にはしかと見えて来たのであった。
要するに現存在は欲望に対し放埓であってはならず常に理性的制限を自らに課して行かねばならぬのである。
其の理性的制限を自らに課すと云う面では其れは所謂左翼思想ともまた異なる訳でありむしろ保守的な考え方にも連なる訳だ。
保守=限定的、革新=非限定的と云う視点にいざ立てば限定的思想の方である。
なんだけれども、其の限定的思想の方を変な風にやり過ぎるとおおまさにこんなんなっちゃいますー。
「不自由さに甘んじても今を守る」⇔「今ある不幸にとどまるな」
さてドッチがより正しいことでせうか?
わたくしは不幸とは隷属であり洗脳であると今さうして感じて居ります。
其れは貧乏と云うことでもまた不自由と云うことでも無い。
其の自分を奪われることこそがまさに理性ある人間に取り最大の屈辱でなくて壱體何でせうか?
他方で大衆はむしろ自分から洗脳されて行ったりもまたするものです。
其の例とすれば例えば小泉内閣とゼレンスキー政権が其の衆愚的政治の典型例なのだと申すことが出来やう。
でも皆様には自分の理性を信じ生きて行くことをこそ是非御勧め致します。
即ち人間には有って獣には絶対に無いものがまさに其の理性の働きなのだからこそ。