目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

其の社會科學は果たして體に良いのか?ー+きみがいるからー

其の社會科學は果たして體に良いのか?ー+きみがいるからー

 

 

 

藤井聡・中野剛志:『日本破滅論』 – 京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室 (kyoto-u.ac.jp)

 

丁度此の本を中古にて手に入れ半分以上読んだところですが其の内容は矢張りと云うべきかなかなか為になるものです。

但し其のことに就き具體的にはまた後日に述べさせて頂かうかと思う。

 

【中野剛志×藤井聡】グローバリズムからの脱却!【独自の視点を交えて要点まとめ!】 | 語る者ではなく、語られる話こそ (y-psychoanalysis.com)

 

此処に「保守思想の大家・西部邁の流れを組む二人の世界認識」とありますがまさに其のことであり自分が其の藤井先生なり中野先生の御書きになるものを読むやうになりましたのは元元其の「西部 邁」先生の思想のあり方に共感乃至は共鳴したからなのだ。

 

其の西部邁 - Wikipedia先生は然し所謂全共闘世代のバリバリの左翼活動家でしたが後に保守派へと転じられて行く訳です。

其れも最終的には「自決」された訳ですが其のことをどう評価するかと云うこと其れ自體が實は相当に難しいことです。

 

でもって現状では其れを「肯定」もまた「否定」もしないと云うのが自分自身の立場である。

尤も「肯定」もまた「否定」もいまだ出来ずに居ると申した方が良いのかもしれません。

 

だが「西部 邁」先生のことをわたくしはずっと尊敬して居ります。

其れは「理性とは何かと問えば其れは闘わんが為にある」と云うことを其の思想より教えられた気がして居るからです。

 

さう「理性」とは自分を安全地帯に囲い込み其処にてぬくぬくと生きて行くことの為にあるのでは無くあくまで「生の矛盾と格闘」せんが為にあるのです。

ですが現實的には理性が「生の矛盾と闘争」せんが為に使われる機會は案外少ない。

 

例えば學者にせよまた何にせよ大抵はまず「自らの保身」の為にこそ其の理性を使うものです。

ですので最終的には其の理性の使い方其のものが「利己的」なものとならざるを得ない。

 

 

新型コロナがあぶり出した「狂った学者と言論人」【中野剛志×佐藤健志×適菜収:第1回】 |BEST TiMES(ベストタイムズ) (kk-bestsellers.com)

 

丁度こちらでの対談などもまた其の「利己的な理性」に對する批判が展開された部分かと個人的には思われます。

また其の批判の対象者として何と京大の藤井先生が登場する訳だ。

 

ー中野剛志と佐藤健志と適菜収が藤井聡とつまらないことで喧嘩しているー以上より

 

其のやうに學者もまた喧嘩するのである。

さて問題は保守派に多い其の「事の過小評価」の部分である。

 

逆に左派は其れこそ針小棒大に事を捉える癖があるのだともまた言える。

しかれども結論的には結局どちらも「間違い」なのだ。

 

要するに保守派は「今を守り過ぎるが余りに何も変えてはいけない」=事勿れ主義のバイアスが強いのであり左派は「今を変えたいが余りに針小棒大に事を穿る」=変革を煽る訳だ。

でもって其の學者級の知性ですら其の部分の對立によりどうしても喧嘩したりもまたするのである。

 

 

況や其の學者級以下の知性では喧嘩も勘違いもまた日常茶飯事である。

故に自分はまず「自分が正しい」とする思い込みのやうなものはイカンとさう思うのだ。

 

だがと云うことは其処に「思想」の根拠が失われ立ち上がれなくなって仕舞いがちである。

よって其処でもってより正確には「自分が正しからうが間違いだらうが兎に角思想的に立つ」との自己本位性がむしろ必要なのではないか。

 

だけれども其処で「思想なんぞは要らん」とさう思いまた違う世界へ行くのもまさに「思想的」に壱つの立派な立場である。

 

 

尚適菜氏の御意見にもまた我は大きく影響を受けて來て居る。

なのではあれ別に適菜氏の思考を英雄視し其の通りに信奉する積もりなどは無いのである。

 

思想とは其のやうに最終的には自己の判断に委ねるべきものでありどんな哲學者や宗教家の御意見にせよ其処から學び自らに取り入れるだけの御話であり別に其れを崇拝せんが為に學ぶのでは無いのだ。

 

だけれどもさうして思想をやり理性として悩み傷つくことはむしろ此の世に於ける「聖なる闘い」なのではないか。

まさに其れが其れこそが此の世に生まれし「理性」の宿命でなくて何であらう?

 

其の思想を語る程に頭が良く此の世に生まれし者はむしろ万難を排して其れに取り組まねばダメだ。

つまり此の世には其の「精神的闘争」と「肉體的闘争」の闘争としての区別がある。

 

 

中野 剛志 | 著者ページ | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

其の中野先生は兎に角頭が良くしかもバランス感覚を御持ちの方のやうである。

中野先生の御意見は大抵の場合は正しいのだらうがでも其の正しさ其のものもまさに人間なのだから「絶對の正しさ」にはよもやならぬ訳だ。

 

「絶對の正しさ」とは例えば壱神教に於ける価値観が其れに当たらうが對して佛教の場合は「相對論」なのであくまで其れとは違う。

だけれども自分は壱神教が「絶對の絶對」では無く「相對の絶対」若しくは「絶對の相對」とでも言うべき言わば「不完全性」をも有する宗教だと思うのである。

 

逆に「佛としての絶對性」の部分を放棄せんが為の佛教各派の努力たるやまさに凄まじいものがあらう。

またつまりは「正しい」認識はまず現存在には無理だとさう思って置くのがむしろ「正しい認識」なのだらう。

 

なので大抵の場合は其の佛教の理解にせよバイアスがかかりまくりでの「何か違う認識」を皆はして居り其れはまず「眞理」などでは無い可能性の方が高くあらう。

確かに「信仰」とは可能性の高さなどでは無いがむしろ其の辺りまで踏み込み「信仰としての正しさ」を疑う位でないと要するに邪教などに捕まり洗脳されて仕舞うのである。

 

じゃあ何が「概念的に正しいのか?」と改めて問えば其れもむしろ「概念を捨て去ることこそが正しい」と云う位での酷い御話となる訳で要するに概念分別だけで其の「正しさ」を出さうと云うのは元來無理筋なのである。

 

此の辺りのところを今僕は本質的論議にて説明して居る訳であり其れは信じる、信じないの御話では無くまさに「眞理」とは何か?との御話をして居る迄のことなのだ。

 

ポピュリストとエスタブリッシュメントの対立は、新しい階級闘争である。アメリカをはじめとする先進諸国は、大都市で働く高学歴の管理者や専門技術者から構成される少数派の上流階級と、土着の国民と移民とに分裂した多数派の労働者階級との間に分裂した。そして、権力は、管理者と専門技術者といった上流階級のエリートたちに集中し、労働者階級は、政治・経済・文化のいずれの領域においても、発言する場を失った。上流階級が体制のインサイダーとなり、労働者階級はアウトサイダーとなったのである。

この分裂は、かつてのイデオロギー上の右派と左派とは関係がない。問題は、右と左の対立ではなく、階級の上と下の対立である。たとえば、アメリカでは、共和党民主党とを問わず、イギリスでも保守党と労働党とを問わず、エスタブリッシュメント新自由主義を推し進めていた。

 

其の「上下」の對立こそが現代社會を本質的に分断するヒエラルキー化の流れのことだらう。

 

偉い⇔偉く無い

とさう社會はあくまで其の分断としての思想を押し通さうとする。

 

搾取する側⇔搾取される側=勝ち組⇔負け組

 

との至極単純な構図が所謂新自由主義の名の元にもう長く行われて來た。

其れは結局力が有るか無いかとの社會的な力学関係に換言される。

 

力が無いと生涯其の搾取構造より抜け出せぬ訳なので其の社會の枠内に居る限り負け組とならざるを得ない。

ところが人間の實存的価値とはそんな勝ち負けにより決定されては困ることなのである。

 

其れはさうだらう。

何故なら我我現存在は皆たった壱つの實存的価値を生きる者であるのだから。

 

ところが其の「たった壱つの實存的価値」をあらうことかまさに其の社會が分断するに及ぶ訳だ。

其れも何故さうするかと言えばそんなヒエラルキー社會をこそ築きたいからである。

 

要するに「勝ち組としての上級人間」が過分なる欲望の世界を其処に成就せんが為に「負け組としての下等人間」は毎日笑顔で其の腐り切った搾取體制を生きて行かざるを得なくなる。

 

ではあるが其処にて余りにも搾取が酷ければ最終的に此の世は破滅するに至る。

其れ即ち其の「勝ち組としての上級人間」が過分なる欲望を此の世に振り撒くが故に此の世はトコトン破壊されるに至る訳だ。

 

 

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其の社會科学関連での御勉強が何故必要かと言えばまさに其の大搾取を野放しにさせぬ為にこそ其れが要るのである。

また先にも述べたやうに其の「大搾取」は何党が惡いだの右が惡い左が惡いだのと云うイデオロギー對立の部分をすでに超越し行われるに至るむしろ「全體主義」的な人類社会に於ける宿業的な観念的對立の様なのだ。

 

さうまさに其のことは政治のまた行政の問題では無くむしろ哲學や宗教、さらに認知科学の分野にまで踏み込むであらう人類社會としての宿痾のやうなものである。

其の大元での社會の惡い癖の如きものが蔓延して行く訳でよって根本的に社會は良くなりやうが無くつまりは様様なものが壊れて行く方向へと其れは進むことであらう。

 

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さて其の神谷宗幣 - Wikipedia氏はやる気のある政治家のやうに見え語って居ることもまたおかしなことは言って居ないやうだ。

右の人だらうがだけれども自分はもはや右では無くまた左なのでも無い。

 

要するに右の思想に對してもまた同時に左の思想に對しても充分に懐疑的である。

だけれども「大搾取」を阻止せんが為には所謂「社會主義革命」が必要なのかともまた思う。

 

つまり最近はまた左に寄りつつある。

ではあれ日頃自分が考えて居ることはもっともっと哲學や宗教、さらに藝術の方に寄った問題なのであり政党のどれが正しいかと云う話とはまるで違う。

 

極論を言えば政党は其のいずれもが正しくは無い。

またアナキズムならば正しいかと言えばなかなかさうも言えない。

 

要するに其の「社會」自體に問題があるので政治的、行政的には解決されぬのではなからうか。

其れでもやる気のある政治家は確かに見て居るだけで気分が良くなる。

 

少なくとも自由民主党による政治の腐敗振りよりはずっとまともであらう。

 

 

さて「勝ち組としての上級人間」の中にも心ある人が居られ「負け組としての下等人間」の中にもまた心ある人が居られることだらう。

でも同時にどちらにも心の腐ったやうな輩がまずは居るものと考えねばなるまい。

 

また其れは「勝ち組としての上級人間」の中におそらくはより多く居るのである。

であるからこそ此の社會は変わりやうが無いのである。

 

また変わったにせよソヴィエト型、または中華思想型の覇権主義國家となりまた別の革新國である米國と其処で大對立をする。

其れはどうも其の「勝ち組としての上級人間」の中に心根が惡い奴等が多いからなのではなからうか。

 

じゃあ「負け組としての下等人間」が政権を奪取すればもしやこんな社會も良くなるの?

いや「負け組としての下等人間」の方でもまた頭の惡い奴が多いのでたとえ心が清くても上手く行くとは限らないことだらう。

 

でもって「勝ち組としての上級人間」の壱人である高市早苗 - Wikipedia氏が今火だるま状態である。

自分はかって彼女のことー我と同年代ーをボロクソに批判して居たのだったが其の主張に就きウィキの部分を読んでみると部分的にはとても良いことを言って居られる。

 

特に煙草税増税を止めよと云う部分などは愛煙家としてはまるで神様のやうな発言ではないか。

だけれどもアノアベの腰巾着なのだから所詮は此の女もまたバカなんだらう。

 

 

【東京ホンマもん教室】“次”の巨大地震で日本は滅ぶ 〜東日本大震災から12年〜(3月11日 放送) - YouTube

 

さて自分の社會科学に於ける視点は政党政治云云と云うことでは無く此の種の「文明の危機」に対処せんが為の政権運営であり行政策定である部分に頭の中が移り変わって來て居る。

「文明の危機」に対処せんが為には政府はある方が良いのか其れともむしろ無い方が良いのかと云うやうなこともまた屡考える。

 

つまりは共同體的なアナキズムの方がより理想的に此の種の被害を抑えられ復興も迅速に進むことであらう。

だが其れはあくまで理想論でありつまりは観念論である。

 

だけれども事實上文明はすでに其の「どう生き残るか」との瀬戸際の部分に入り込んで居るのやもしれない。

でもって「どう生き残るか」との話になればもはや其れは「どう儲けるか」であるとか「どう己を主張するか」とか云う所謂利己主義的な欲望の部分に振り回されて居る場合ではよもや無いのである。

 

さて此処「目覚めよ!」での文明論や社會科學関連での御話は常に其の種の切羽詰まった精神的段階より論じられて來しものだ。

また其れはわたくし自身がまさに其の「目覚め」の力が強い訳で其のことにより文明の危機の部分がずっと長く感じられて居たが故に成り立ったことなのでもまたある。

 

尤も其の文明論や社會科學関連での御話は今後また違う方向性から論ぜられて行くこととなる。

と言うのも他のむしろ「個人的で且つつまらないが前向きなこと」に就き書いて行きたい気が強くして居るからなのである。

 

例えば還暦を過ぎると體調の維持程大切なことは無くなるのである。

さうして誰しも體調が崩れれば精神的にもまた辛くなる。

 

 

きみがいるから | NHK みんなのうた

最近此の歌に嵌まりました。

きみがいるから 谷山浩子 みんなのうた ピアノ ソロ 歌詞 pf - YouTube

此の歌詞こそが重要です。

 

つまりは體に對する「感謝の念」を歌ったもので滅多に無い歌です。

「滅多に無い歌」=「藝術的」な歌なのだともまた言えさうです。

 

自分は此の辺りでのまさに「根源的普遍性」のやうなものが好きでむしろ其の種の精神の方向性のことにこそ興味があり尚且つ価値を感ずる。

其の部分が「小学生へと戻る詩人」としての面目躍如たるところで要するに政治や行政に於ける現實的な手練手管の部分にはもはやほぼ興味が無いのである。

 

兎に角其の「根源的普遍性」の方にこそ歩み寄りたい訳です。

「感謝」し且つ「共に喜ぶ」やうなものと「悩み」「共に苦しむ」やうなものとでは明らかに前者の方が體には宜しい。