目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

円空佛との我が幽かな縁ー春の目覚め1ー

ー春の目覚め1ー

 

 

 

 

私に取りまた多くの人人に取り春の始まりは希望と期待の季節である。

おそらく其れは本能的にさう我我に感じられるのである。

 

其の本能としての春の目覚めのやうなものをまずは大事にして置きたい。

事實として私の周囲にもそんな気配が満ち満ちて居る。

 

だのに脱文明だの反戦だのと言った観念的価値に其の喜びを奪われて居て良いのだらうか?

まずはわたくしは其のことを強く思うのだ。

 

其処でもって理論を考える。

 

理性⇔感性

即ち、

観念性ー抽象性ー⇔具體性ー具象性ー

 

とのことで、

主に理性は其の抽象性の方に縛られ、また主に感性は具象性の方に縛られて居る。

 

故に其の脱文明だの反戦だのと言った価値はまさに抽象的なイデオロギーの方を玩ぶ状態なのだ。

されど其の抽象的なイデオロギーは常に弐元的に価値分離するが故に其処に正邪の区別を付けることなどは出来ぬ相談だ。

 

其れに似たものに宗教的な価値があり、即ち壱神教と無神論、また壱神教と多神教の優劣を論ずることなどもまた基本的に正邪の区別を付けることなどは出来ぬ相談だ。

何故なら其れは所詮フィクショナルな価値、観念としての価値に過ぎぬのだから。

 

故に問題は其の観念性に具體性が浸食されるやうな価値観に陥らぬことなのだらう。

 

 

つまりは其処に価値の中心を設定しないこと、だが同時に春の目覚めの喜びだけに生きて居るやうでもダメだ。

其のやうに本能其のものを生きずつまりは理性的に生き但し其の抽象的なイデオロギーに振り回されぬやうにせねばなるまい。

 

まあ難しい話である。

おそらくは誰も此処までは考え込んで居らぬことだらう。

 

だがかうした譬え話で言えば其れも分かる筈だ。

例えば今其の世界情勢のことばかりに振り回されて居ると其の春の目覚めの喜びに気付けなくなる。

 

よって人間に取り最大の不幸とはむしろ其の観念的価値が齎す生の具體性の喪失にこそある。

だが生の具體性ばかりに生きるつまりは春の目覚めの喜びだけに生きて居るとすぐに食い物や👩共に飛び付くこととなりまるで理性を欠いて仕舞いがちだ。

 

1.イデオロギーとは観念的分離が齎す価値であり最終的に正邪の区別が付かない。

2.ソーシャルメディアはみんなの正義を煽り全体主義を生み出す温床だ。

3.プーチン氏は露西亜に取っての正義を履行して居るだけのことだ。

 

其のプーチン氏による独裁體制は異常なものだが同様にみんなでやる全体主義の方も同様に異常なものだ。ー感情的に全面的にウクライナの方を支持して仕舞うことー

つまりは共に理性的な意思決定では無く感性方面へとなだれ込んで居るのである。

 

故にどちらの正義も至極危ないものとなって居る。

 

其処で理性は壱體何を考えるべきなのか。

其れは自分でもって自分をむしろ制限することだ。

 

即ち其のデカい抽象的価値から距離を置くべきだ。

其れも皆の頭の中が戦争壱色に染まる今だからこそ其の熱狂のやうなものから距離を置くのである。

 

理性の本質とは其のやうに至極冷静なものだ。

其れは価値の対立をむしろ其の侭に外側から見詰めるものだ。

 

 

故に其の対立其れ自體からはむしろ離れて居なければならぬ。

其の中であえて共に御遊戯したりはせぬものが其の冷静な理性としてのあり方だ。

 

そんなまた冷たい…。

だから其の冷たいのが理性だ。

だが冷た過ぎると春の目覚めの喜びさえをも否定したくなって来る。

 

だから逆にソチラをこそ向くのだ。

此の世にはさうして樂しいことが沢山ある。

 

其れを否定せずして樂しめ。

 

理性的態度とはまずそんな社會が齎す全体主義とは距離を取ることだ。

かって露西亜の文豪達は反體制ながらも其の理性を頑張った。

 

かのトルストイ然り、またソルジェニーツィン然り。

 

我我はかうして頭が良いやうで居て實は頭が悪い。

つまり自分の思考でもってなかなかものを考えられない。

 

逆に我の如くいつも自分の思考ばかりをして居ると世間離れして行かざるを得ぬ。

だがわたくしの思考とは少なくともデカい考えを押し付けられるやうなものでは無い。

 

 

我はずっと自分でもって考えて来たのであるし今後もさうして行くのである。

だが其の考えを貫くこと即ち理性的に生きることは並大抵のことでは無い。

 

何故なら理性は常に己を律して居なければならぬからなのだ。

其れは道徳でも無く倫理でも無く自律であり自立を保つと云うことなのだ。

 

尤も其の自律であり自立は例えば釈迦の教義にかってしかと述べられて居たことだった。

 

お釈迦様はさうして酒池肉林の世界を選ばず精神の自立性を尊ばれた。

だが世間は普通其の苦難の道を選ぼうとは決してせぬ。

 

 

世間はさうして最終的には酒池肉林へと走りたい。

其れもみんなでもって何かに飛び付きなるべくデカい場でもって御遊戯をしたい。

 

さうかうするうちにあれ、いつの間にかこんな文明をやっちゃった。

おいこら、其れは暴走だぞ、止めよ。

今すぐにお止め!

 

僕が壱文人として現代人に述べて置きたいのは社會の価値観に対し全的に信頼して居てはならないと云うことだけだ。

むしろ其処から距離を取り内省的に、また歴史的に俯瞰視しつつ解を探して行くべきだ。

 

京大大学院教授 プーチンは「非常に危険な状態」と警鐘! 「第2次世界大戦のような軍事的な侵攻を…」 (msn.com)

舛添要一氏 プーチン大統領の重病説に懐疑的「顔を見ただけで変だとか…話にならない」 (msn.com)

まあ色々と識者の御意見がおありのこととは存じますが我はあくまで文明世界はなるやうにしかならないとさう思って居ます。

 

個に取り重要なのはむしろ目に見える範囲での価値に絞る形で観念的構築に勤しむことです。

 

 

【中日】立浪竜、本拠地連勝でオープン戦3連勝!初回に先制し8回に加藤翔のソロで追加点 (msn.com)

例えば今年は中日ドラゴンズが何となく期待出来る形を築いて来て居る。

 

尤も僕はスポーツは馬鹿がやるものでダメなのじゃないかと特に最近はさう思って居ました。

ですがとあることがキッカケでむしろ今の我が失ったものが其の筋力への指向であり肉體としての強さなのだとさう思い知らされた。

 

中日ドラゴンズの若手のバッターに皆筋力があり球を遠くへ飛ばす力があるのでソコをアノシンジョー監督なども絶賛して居た訳です。

其のケモノとしての筋力は結局極めて現實的な変革の力です。

 

つまりは其のケモノとしての筋力を春の目覚めと結び付け我がボロボロの體に何とか組み入れやうとして居る訳だ。

要するにわたくしはもっと運動し何でもやった方が良い。

 

其れは分かって居たが寒くてまるで出来なんだ。

ですが春以降、特に夏には極めて強いのが例年のわたくしです。

 

元中日投手の三沢淳さん死去 69歳、元衆院議員 (msn.com)

カルトな話をすれば参月参日に亡くなった此の三沢投手がノーヒットノーランを逃した試合をわたくしは最期までナゴヤ球場で観て居りました。

1979年6月8日巨人戦(ナゴヤ)では9回2死から柳田真宏に安打を打たれてノーヒットノーランを逃したが、この時点では0-0であり、裏の攻撃で中日が1点取りサヨナラ勝ちした。ー三沢淳 - Wikipediaより

 

其れも何故か家の母や当時の親友の母と共に観て居りました。

何故さうなったのかはまるで分かりませんのですが…。

 

 

「ほほえみの秘密―円空とともに歩んで―」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

NHKオンデマンド | こころの時代~宗教・人生~ 「ほほえみの秘密―円空とともに歩んで―」 (nhk-ondemand.jp)

さて宗教的自我の方では昨日TVで視た此の番組が素晴らしかった。

其の「円空」のことをいつか是非書いてみたいものだとわたくしも常常思って居た。

 

と申しましても特に円空佛が好きな訳でも無く其れを観て来た訳でも無い。

が、岐阜羽島の出身者である円空は謂わば地元の僧です。円空 - Wikipedia

 

此処愛知県は元元寺院数が多くありある意味では信心深いところがある土地柄なのやもしれない。

ところが元元豊かな土地で東北や九州や北海道の壱部でのやうに経済的に困窮して居た訳では無い。

 

むしろさらなる現世利益を願う欲望が強いところだったのやもしれぬ。

其の欲望の強さが信長公、秀吉公、家康公による天下取りを支え要するに日本の統壱に大きく貢献した訳だ。

 

 

いや、今もまだ貢献しつつあり其れがイチローや浅田 真央であり世界壱の🚗メーカーであるTOYOTAなのです。

でも其の浅田 真央は田舎が好きなのださうです。

 

だがイチローTOYOTAは壱體何を考えて居るのかまるで分かりません。

多分金の力でもって其のうちに宇宙へと逃げて行くつもりなのだらう。

 

 

長谷川 公茂

1933年、愛知県に生まれる。円空学会顧問。愛知県文化財指導委員。江南市文化財保護審議会委員長。1971年に円空学会を設立し、81年から2013年まで同学会理事長を務める。円空研究の第一人者。全国で見つかっている円空のすべてを訪ね、調査研究している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ー『円空の生涯』より

 

此の方は元画家でかって賞などを取られたこともあったやうですが父親が教師でもって元元眞面目な方なのでせう、精神的な探究の方へと最終的には進まれ幼稚園や小学校でもって絵を教える傍ら円空の研究を進められついには第壱人者となられた方です。

要するに彼に取り此の世のあり方は立身出世や金儲けとは別次元での精神的な探究の場として成立するものでした。

 

まさに其のやうに生を受け取る其のあり方こそが眞面目な人の特徴であり其の点ではわたくしもまた其の眞面目な愛知県人の壱人です。

逆に申せば身売りだの飢餓だのと云う此の世の地獄の無い愛知ですが逆に精神的苦悩の方が色濃くある土地であるやうな気がしないでも無い。

 

まさにソコが谷川 俊太郎先生のやうな個性を生んだ部分でもまたあるのだらう。

 

 

円空仏はデザインが簡素化されており、ゴツゴツとした野性味に溢れながらも不可思議な微笑をたたえていることが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てている。ー円空 - Wikipediaより

円空 微笑みに出会う旅|ぎふの旅ガイド (kankou-gifu.jp)

 

父が教師を辞めて以降生じた借金の返済に苦しんだ若き日の長谷川氏は其の円空佛がたたえる微笑みにこそ救われたと云うことを番組中で述べられて居た。

だがわたくしにとり其の円空佛がたたえる微笑みこそがむしろ積年の謎でもあったのだった。

 

其れもあくまで私の論理では苦しい時はとても微笑んでは居られぬ訳であり其れをまるで吉本興業の如くに笑いをばかり取って居てはイケナイのである。

其れに佛像とはほんたうは造ってはならぬものなのだ。

あくまで釈迦の教えに拠れば其のやうな非理性的な物質に対し拝んだり願を掛けたりしたりしてはならない。

 

即ちわたくしは其の理性としての論理に関してはすでに見切っても居る。

だが現實は必ずしも其の理性としての論理に従い営まれるものでは無い。

 

 

我が後半生はむしろ其の非理性的なる生きる本能の力ーケモノの力ーとの闘争状態にあった。

其処でもって我は大きく傷付き正直フラフラとなりながら其の苛烈なる現實との闘争を生きて来たのだと言える。

 

生は畢竟其の非理性的なる生きる本能の力ーケモノの力ーを発揮せんが為の場である。

其れを類稀なる理性の力にて屈服させんとして来たが次第に其の闘い自體に圧し切られても来た。

 

わたくしの生の軌跡は其のやうに特殊なひとつの闘いとしての宇宙の場である。

其の永遠に続くかと思われる生其れ自體との観念的闘争の果てで円空佛は果たしてどんな役割を果たして呉れやうか。

 

 

仏像を生涯に12万体も彫ったといわれる円空とは。いかにしてその数を成し遂げたのかに迫る! | 和樂web 日本文化の入り口マガジン (intojapanwaraku.com)

 

荒子観音寺の円空仏は毎月第2土曜日の午後1時から4時まで公開されている。ー荒子観音 - Wikipediaより

 

荒子観音寺は名古屋市東部、南部をテリトリーとして居る我からすればまずは遠く行くのが面倒な寺である。

だがかやうに円空佛が公開されて居るのださうだ。

 

其の円空佛のこともあり以前から時間が出来たら是非訪れたかった寺である。

 

真言密教天台密教の違いは、東密大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊を久遠実成の釈迦如来としていることである。ー天台宗 - Wikipediaより

 

荒子観音寺は其の天台密教との関連が深い寺なのやもしれぬ。

其の本尊が何かと云うことも實は大事なことなのだが無論のことながら日本の大乗各派でもってお釈迦様其の人を本尊とする宗派は禅宗以外存在して居ない訳だ。

台密にせよあくまで法華経の説く久遠實成の釈迦如来なのであり其処はあくまで抽象度が高く設定されて居る。

 

大乗佛教はむしろ其のやうに観念的な意味での抽象度が高く設定されて行く。

其処をわたくしは壱神教化して行く過程だとさう捉えて居る訳だ。

 

なので大乗佛教は釈迦の佛法とはまた別物の新興宗教でもある訳だ。

ではあれ、其れがウソだとさう断じる限りは其の円空佛が湛える微笑みの意味もついぞ分からぬことであらう。

 

例えば禅宗に於いては所謂理性的分別を徹底して嫌うがまさに其れが我が述べるところでの理性としての論理のことである。

つまるところ我はさうして佛法とも喧嘩をしつつ自らの認識を成り立たせて来て居る。

 

其の罪深さと文明が齎す罪深さのどちらがより罪深いのかは今の我にはついぞ分からぬ。

いずれにせよ藝術家としての視点を保ちつつ円空佛の第壱人者となられた長谷川 公茂氏の生き様に此の度我は大きく感銘を受けた。

 

 

「円空」とはどんな人物?生涯や作品の特徴と「木喰」との違いも | TRANS.Biz (trans-suite.jp)

 

こちらには円空白山信仰の修行者だったとの記述がある。

 

所謂神佛習合の、まさに半分は修験道の行者さんのやうな人であった訳だ。

確かに天台密教にはそんな側面があるのであらう。

 

でも眞言密教にもまたそんな側面があるのであらう。

 

元より其の山にて修行する行者なり僧なりが我は嫌いでは無い。

何故ならわたくし自身が山で駆けずり回るのが至って好きな人間なのだから。

 

 

さて昔我が家には御嶽教 - Wikipediaの行者さんが定期的に来て祝詞だか呪文だかを唱えしゃしゃっと印か何かを切るのである。

其れを小学生の我もまた屡見て居た。

 

其の方はまさに顔つきが立派な感じの方であった。

宗教的次元に生きる人は何故ああも立派な相貌を持つことが出来るのか?

 

其れは観念的次元が達することの出来ぬ何かである。

また科学的次元が達することの出来ぬ何かである。

 

或は其処で観念的次元が達することの誤りを破断されて居たのやもしれなかった。

かっての日本にはさうした精神的次元が確かに存して居た。

 

其れは其の後我が体験した高等教育や學識の世界ではついぞ出遭うことの無かった何かでもある。