目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『遺言。』より


尚『遺言。』はすでに何度も読み返して居りますが感想としてはまさに一種哲学的な素晴らしい著作でした。



ものごとを「意識」=頭で考えすぎ、目に見えるデータにとらわれるあまり、「感覚」でとらえるべきものまで見失っているのではないか。
養老さんは解剖学者として、かねてから医療の現場でも感じていました。


(『遺言』より)
感覚を復元する。
目も耳も触覚も、じつは外界を把握するために存在している。


「からだに訊け!」以上より引用




―なぜ意識は別々の物を「同じ」にまとめようとするのでしょうか。
これはね、脳がそうしようと思ったわけではなく、先に「同じにする」という能力ができちゃった。その典型が「言葉」です。我々は、目で文字を見ても、耳で言葉を聞いても、同じ日本語として理解できるでしょう。まったく異なる「視覚」と「聴覚」を同じものとして繋げたから、言語ができたのです。
機能的な説明をすると、人間の脳の視覚と聴覚の領域はかなり離れていて、その間の「連合野」という部分で、言語が発生する。ところが、チンパンジーなどの霊長類はこの連合野が狭いので、視覚と聴覚のそれぞれの独立性が高い。音と光をはっきり「別のもの」として分けるから、知覚への依存が大きくなるのです。一見、視覚と聴覚の領域が近いほうがくっつきそうな気がするけど、違う。そこが、情報系の面白いところです。

もともとお金には、それで買える物と同じ価値がなければなりませんでした。Aという肉とBという魚に「同じ」価値があり、交換できる。だから、その肉や魚と同じ価値の金貨や銀貨が作られたわけです。しかし、考えてみればお金そのものに、価値を持たせる必要なんてない。

意識は自然をどう扱っていいか分からないので、改変しようとする。

私が「遺言」として言っておきたいのは、意識が排除してきた動物や自然に、もっと関心を持ってほしい、ということです。我々の目も、耳も、外界を把握するためにあるのですから。以上より引用



結局意識とは合理化過程なんでせう。
何故なら動物にとって合理化は出来ない相談です。

ですが鳥が自分の巣を掃除するのも軽度の合理化ですのであくまで其れは程度問題と云うことにもなる。
でも確かに動物は常に感覚で生きて居ます。

違ひつまり変化を認識することで生き抜いて居る。
其処で同じにすることー等質性ーを求めたりはして居ない。

でも等質性を求めること=普遍化するのは合理領域です。
たとへば藝術は特殊から普遍を導いて居る。

また宗教はむしろ内面からの普遍化を目指す。
まあ人間ですもの所詮は大きひところで普遍性を求めるのですが其の方法論は大きく二元化して居ます。

人文主義と合理主義が二元化されて居ると云う事です。
人文主義は合理主義のやうに普遍化一本槍ではありません。

人文主義は屈折して居り人間の苦悩や特殊性からむしろ一元化を図るのだ。
でも合理主義にはそも悩みなどなく謂わば感情の無い部分でタダ冷徹に一元化されていくのみです。

其の一元化と云うのは意味化と云うことであり余剰の排除と云うことですので反自然=観念化の流れと云う事になる。
須らくが意識的な流れだと云うことです。

なので人間は常に意識を生きて居る。
仏法で言えば我を生きる訳です。

虚妄分別して非我としての領域を生きる。

では自然は何を求めて居るのだ?
常に本能のみを求めて居ります。

なので意味化することはない。
意味なきものを抹消していく訳でもない。

尤も不必要なものを巣から取り除いたりはする。


人間と自然の差異は本来質的なものではないが近代以降其の差異としてのバランスが崩れつつある。

まさに其の差異が質的に拡大しつつあるのが近代以降の価値観の追求によるものだ。

即ち意識の内側をのみ生きるやうになったのが近現代人なのだ。


さうした傾向に対して養老先生は警鐘を鳴らして居られ其処に人間の感覚の復元を提唱されて居る。

でもわたくしの場合は少し考へが違ふ。

現代人の感覚の復元などもはや難しひと思ふ。

ではどうするかと言えば合理主義を止めよ、とさう述べて居る。

さらなる合理化は余りにも危なひから一刻も早く会社中心主義並びにレデーファーストの思想を止めよとさう述べて居るばかり。

其れから金を止めよ。


金を無くせ。

少なくとも金が示す範囲を限定していくべきだ。

養老先生が述べられて居るやうに金=経済こそが等質化の方向性=抽象化と普遍化の根本の原理なのだ。

資本主義はあらうことか其の金を中心に回す社会システムなので最終的には拝金主義に陥り機能を停止せざるを得なくなる。


ところで意識と自然とは対置されるべきものなのだらうか。

勿論無意識的には人間も自然と連なって居ることだらう。

其の集合的無意識とは歴史としての進化の過程でもまたあることだらう。

ところが近代以降の意識は其の無意識としての自然を切り離して仕舞って居る。


かうして我我は好んで都会に住み極度の合理化を進めつつある。

何故か?

田舎には決まって金が無いからだ。

山あり川あり、空気は綺麗で人間も素朴。

なのに金が無いので生活など出来ぬ。


逆に田舎の人は兎に角田舎が嫌ひだ。

もう兎に角都会の全てがキラキラだ―。

でもなあ、我なんぞは常に都会に住みしかも関東圏や関西の文物とも交流が深かったがもはや都会の全てがドロドロだー。

もう兎に角逃げたひ。


其処からしてもほんたうのキラキラは都会になんぞ無い。

都会人は逆に合理化に嫌気がさしもう兎に角逃げていきたひのだ、おおまさに其のキラキラの大自然の中へと。


―なぜ意識は別々の物を「同じ」にまとめようとするのでしょうか。
これはね、脳がそうしようと思ったわけではなく、先に「同じにする」という能力ができちゃった。その典型が「言葉」です。我々は、目で文字を見ても、耳で言葉を聞いても、同じ日本語として理解できるでしょう。まったく異なる「視覚」と「聴覚」を同じものとして繋げたから、言語ができたのです。
機能的な説明をすると、人間の脳の視覚と聴覚の領域はかなり離れていて、その間の「連合野」という部分で、言語が発生する。ところが、チンパンジーなどの霊長類はこの連合野が狭いので、視覚と聴覚のそれぞれの独立性が高い。音と光をはっきり「別のもの」として分けるから、知覚への依存が大きくなるのです。一見、視覚と聴覚の領域が近いほうがくっつきそうな気がするけど、違う。そこが、情報系の面白いところです。以上より引用


なる程。
言語は概念を差別化するのではなくむしろ等質化していくものと捉へられる。

さらに抽象化であり普遍化でもまたある訳だ。

ところが其れは感覚の領域での等質化なのでもある。

霊長類にせよ視覚と聴覚の分離が為されて居れば知覚への依存度が高くなる。


ただし其の知覚への回帰は現代人にとり必要なことなのだろうか?

根本的には勿論必要だ。

だが一般に現代社会は其のやうな回帰を認めては居ないのだ。

現代社会にとり重要なのは常に社会的構築物の維持である。

つまるところ其れが望ましいものであるか其れともさうではないかと云った部分は汲み取られてなど居ない。


丁度其れは戦争がさうして進歩が人間にとりほんたうに否定すべきものなのかどうかと云う命題にも繋がることだらう問ひの部分だ。

事実戦争をしつつ戦争が嫌だと言う人は居らずかつまた進歩しつつ進歩が嫌だと言う人は居なひと云うことでもまたある。


このやうに動物は感覚による所与を現実として受け止め謂わば畜生道を日々邁進していく。

対して人間は前近代までは何とか此の感覚を保って居られたが現在は其の退化の過程にあると見て良いのだらう。


尚「視覚」と「聴覚」を同じものとして繋げる能力とはまさに共感覚的なものではないか。
つまるところ共感覚者は元々言語とは相性が良いのやもしれぬ。

「人間の脳の視覚と聴覚の領域はかなり離れているゆえ連合野という部分で、言語が発生する。
チンパンジーなどの霊長類はこの連合野が狭いので、視覚と聴覚のそれぞれの独立性が高い。音と光をはっきり「別のもの」として分けるから、知覚への依存が大きくなる」

視覚と聴覚のそれぞれの独立性が高いと音と光をはっきり「別のもの」として分けるから、知覚への依存が大きくなる。

他方で視覚と聴覚の領域はかなり離れているので連合野という部分で言語が発生する。

勿論人間にだって知覚への依存を復活させられるのかもしれない。

されど元々人間は言語に依存するところでの生き物である。

かように同じものとして違う何かと違う何かを纏め上げる能力が我我にはある。

結局其れは一元化能力があると言うことなのであらう。

然し其の観念的一元化能力は動物の持つ二元的感覚よりも高級だとは言い難ひ。

二元的限定とは二元的分離を保ったままで其の対立関係を縮小していくことだ。