目覚めよ!

文明批判と心の探求と

哲學の未来としての一輪の蓮の花


平原 卓氏は三十代前半の若手の哲学者の方で特に哲學に於ける啓蒙的なお仕事で活躍されて居るやうだ。



其処で考えてみる。今、危機にある哲学を救う


今何故哲學は危機に瀕して居るのだろうか?



折りしもかのオウム真理教に於ける犯罪の遂行者に対する死刑が執行された訳だが其の宗教に於ける危機と同じやうにして其れはある。


一言で言うと其れは考えることの放棄であり危機なのだと言えなくもない。



と云う事はもはや可成に以前から此の宗教や哲學の危機が叫ばれて居たのであった。


では何故考える必要がなくなったのだろうか?



謂わば考えて欲しくはない文化=合理主義文明が其の宗教や哲學の力を自然と削いでいくからそうなるのだ。


即ち合理主義の内側で永遠に我我を飼育して居たいのである。


そして自由であり平等である欲望の追求を最大限に加速させていきたい。



勿論そんなものは誰がどう考えても誤った考え方のことだ。


其の挙句に宗教や哲學が死すれば人間にはもはやいくばくかの良心でさえ残らない。



ところが文明にとってはあくまで其れが理想的な状態となる。


丁度共産党一党独裁の体制に於いてはいかなる民主化の動きも即危険な思想であるやうに合理主義にとっての反省の領域は即敵そのものでありあってはならない動きそのものだ。




平原氏は此処で価値の相対化による無力感と云うことを挙げて居られる。


諸価値の相対化、其れも真理領域の相対化は我我をしてニヒリズムへと深く引き摺り込んで仕舞う。



其のニヒリズムに於いて絶対の価値観を構築する根拠は失われ生の上でのあらゆる無意味さ、虚無の様が知らず知らずのうちに全てを充たし心の平安を脅かすに至る。


だからこそ其のニヒリズムに於ける人間の生のあり方は不幸である。


仕合せだなんてどう見ても言えないのでありただ其れは表面的に粉飾された幸せの形=数値の成就であるに過ぎない。



そんな数値に人間の幸福が還元し得る筈もなく我我はただ其の数値に寄り添い生まれてから死ぬまでを極めて合理的にーまるでかの🐜のやうにー管理されていくに過ぎない。


勿論其の際に自律的な思考は不要である。


元々自律的な思考が苦手な日本人は余計に其の🐜化された合理主義社会をただ流されつつ泳いでいくほかない。




言うまでもなく価値の相対化は確かに思考の無意味さと言葉の空しさを同時に齎す。


言葉の規則性であるところでのより整序されかつ潔癖なところが逆に攻撃を受けるに至るのだ。



より分かり易く述べれば其処で本能が理性を駆逐し始めるのだ。




尚わたくしは其の欲望に於ける合理的展開に対して甚だ懐疑的なのであるし其れこそが哲學ばかりか人間を此の世界から抹殺し得る地獄の様そのものだと捉えて来て居る。



真の地獄とは其のやうに現実に起こり得るものだ。



いや此の現実でこそ起こり得るやうに設定されて居る=運命化されて居るものだ。


地獄とは其のやうに現実そのもののことだ。



其れも其の地獄の中で最も苛烈な地獄の様が今後五十年程のうちに文明を蹂躙し続けていくことだらう。


そしておそらく其れは理性的展開が寸毫も許されなくなる地獄のことであらう。



飢餓や灼熱地獄、飲み水さえもこと欠くことであらう其の地獄の只中に於いて合理主義はもはやまるで無力化されやう。


其の折に於いて初めて合理主義は人類の歴史から消し去られる。


然し同時に人類の歴史そのものも其処に幕を閉じる。



何故そうなって仕舞うのかと云うに一言で言うと其れは文明の驕り、謙虚さを忘れし人間の傲慢さが其のやうな地獄に自らを叩き堕とすのだ。



或いは自らを其の地獄へ閉じ込めるのだと言っても良い。



謂わば自分で自分を地獄の中へ閉じ込める。



其のやうに哲學や宗教の危機が即人類にとっての精神の危機の内容であることを決して忘れてはならない。


そして其のことはむしろ地球温暖化による危機よりもより差し迫って居ることだらう大問題である。



結局人間は体の上で滅びる前に心の面より滅びる。






ところで真理とは何なのだらう?


良く云われるが如くに哲學とは真理を探るものなのだらうか。



だが概念は真理に対して元々親和的ではない。


真理とは言葉を離れて存在する其れ自体のことである。



意識による構築である言葉もまた感覚も此の絶対の領域を冒すことなど出来ない。


絶対は其の対概念としての相対ー分離ーの総和よりも次元的に大きい。


だから絶対を理性にて把握することは出来ない。



のみならず其れが在るか其れとも無いかと云うことさえ言葉では言えない。


されど理性を信じたならば其れは生じざるを得ず、合理主義に傾くならば逆に其れは死滅する。



言うまでもなく我我は相対者であるに過ぎず相対者の特質とは常に欲望に捉われて居ることだ。


其の欲望が次第に増長するが故に諸の破壊が引き起こされる。



ゆえに欲は常に理性により統御されるべきものだ。


其の欲の制御の仕方につきわたくしはこれまで多くの時間を割き此処で述べて来た。



其れも個々の問題ではなく文明規模の問題として捉え述べて来て居る。



何故なら個々の欲望は大きく破壊を齎すことがない。


しかるに文明の欲望は全てを破壊し尽くしのみならず心をも破壊し尽くすものだ。



おそらくは其の集団的な無意識としての人間の欲望がかうして現世を地獄の様へと変えていくのだ。


或いは善なる悪の徹底的な推進が現世を地獄の様へと変えていくのだ。




重要なことは理性は其の様をしかと見届ける義務を担うと云う事だ。


理性が自ら欲望の奴隷と化して諸の破壊を行う張本人でなどあってはならない。



理性の真の意義はマイナス即ち負の側面をしかと見詰められることにこそある。


其の両義性に於ける両端の価値を共に壊すことなく見届けることにこそある。



だが結局は本能は理性を駆逐していくことだらう。


文明が進めば進む程にむしろ其の本能領域のみが肥大化していく。


理性的なようでいて其の実は理性など何処にもない、そんな原始退行現象が引き起こされ人間はより即物化されより本能剥き出しの状態に投げ込まれる。


尚西欧近代が必然として抱える矛盾は其の大部分が限度を知らないことにこそ存する。

人間の欲望に限度を設けないことこそが其の破壊衝動を最大限に認めて仕舞うことの愚の根本因なのだ。



ただわたくしは其の様を見届けよと述べて居るのだ。


概念としての哲學の世界が生の破壊、生自体の破壊を食い止められなかったにせよ哲學としての歴史其れ自体には意味がある。



諸の破壊は変化を齎すことであらう。


其れも其処で否応なく変化を齎す。


動じない何かが否応なく動かされることが此の世に於ける本質である限り。



ゆえに人間の生自体の破壊が齎されることは実は悪いことであるとは決めつけられぬ。


そして破壊は再生を促す。

破壊は必然でありそしてある意味では贖罪でもあり得やう。

そして破壊は再生を必然として齎す。

死は大いなる破壊であると同時に大いなる再生の為の準備期間である。



ただし合理主義が齎す破壊が再生を可能とするものであるかどうかもはや分らない。

むしろ生態系から人間が外された方が地球はより元気にそして常に幸福で居られやう。



其の様に今人類は悪魔そのものと化して仕舞って居やう。

何も女だけが悪魔なのではなく人類がみな等しく善なる悪魔なのだ。


然し人間の其の悪魔振りを考えることこそに哲學としての意義があるのではないか。

破壊という破壊、其れも再生なき破壊に対してさへ理性の限度内に於いてしかと見届けていく其の姿勢にこそ意味がある。

其れは其れこそが諸の破壊の中でも流されることのない知性の方向性そのもののことだ。



尚仏法では屡語られることなのであるが、其処では真理と云うものはむしろ泥の中から生ずる蓮の花のやうなものだとの仰せである。

真理自体が相対化されニヒリズムに陥りし現代の知の領域に於いて待望されて居るのはまさに其の蓮の花のことではないか。


汚れなき其の一輪の蓮の花の様こそがおそらくは今後の哲學乃至は思想の方向性を指し示すものでもあることだらう。

ー其の一輪の蓮の花とはあくまで精神的な次元でもって咲く花のことだ-