目覚めよ!

文明批判と心の探求と

地獄と極楽ー唯識無境 弐ー



その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariṇāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは
  1. 異熟(いじゅく) - 行為の成熟
  2. 思量(しりょう) - 思考と呼ばれるもの
  3. 了別(りょうべつ) - 対象の識別
の3である。識の転変は構想である。それによって構想されるところのものは実在ではない。したがってこの世界全体はただ識別のみにすぎない。

第一能変[編集]

異熟というのは、阿頼耶識(根源的と呼ばれる識知)のことであり、あらゆる種子 (bīja)を内蔵している。感触・注意・感受・想念・意志をつねに随伴する。感受は不偏であり、かつそれは障害のない中性である。感触その他もまた、同様である。そして、根源的識知は激流のごとく活動している。「暴流の如し」

第二能変[編集]

末那識 (mano nāma vijñāna)は、阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする。末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する。我見(個人我についての妄信)、我痴(個人我についての迷い)、我慢(個人我についての慢心)、我愛(個人我への愛着)と呼ばれる。なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する。さらにその他に感触などを随伴する。
この末那識は自我意識と呼んでもよい。つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる。
この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される。

第三能変[編集]

了別とは、第三の転変であり、六種の対象を知覚することである。
六識は、それぞれ眼識が色(しき、rūpa)を、耳識が声を、鼻識が香を、舌識が味を、身識が触(触れられるもの)を、意識が法(考えられる対象、概念)を識知・識別する。そしてこの六識もまた阿頼耶識から生じたものである。そして末那識とこの六識とが「現勢的な識」であり、我々が意識の分野としているもので、阿頼耶識は無意識としているものである。
これまでの説明は、阿頼耶識から末那識および六識の生ずる流れ(種子生現行)だが、同時に後二者の活動の余習が阿頼耶識に還元されるという方向(現行薫種子)もある。それがアーラヤ(=蔵)という意味であり、相互に循環している。
識を含むどのような行為(業)も一刹那だけ現在して、過去に過ぎて行く。その際に、阿頼耶識に余習を残す。それが種子として阿頼耶識のなかに蓄積され、それが成熟して、「識の転変」を経て、再び諸識が生じ、再び行為が起ってくる。 以上より引用


遍計所執性とは、阿頼耶識・末那識・六識によってつくり出された対象に相当して、存在せず、空である。


依他起性とは相対的存在であり、構想ではあるが、物事はさまざまな機縁が集合して生起したもの(縁起)であるととらえることである。阿頼耶識をふくむ全ての識の構想ではあるけれども、すでにその識の対象が無であることが明らかとなれば、識が対象と依存関係にあるこの存在もまた空である。


円成実性は、仏の構想であり、絶対的存在とも呼べるものである。これは依他起性と別なものでもなく、別なものでもないのでもない。依他起性から、その前の遍計所執性をまったく消去してしまった状態が円成実性である。


相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。
三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。以上より引用



人間をどう認識するかと云う其の認識のあり方でこそ人間が含まれる世界のあり方が実は決まります。


悲観的に捉へるか其れとも楽観視するか、と云う観念上の二元論が常に我我に突き付けられて居る。


其れと云うのも、観念とは所詮二元論より逃れられないからです。


所謂あれか、これか、の選択しか行ふことが出来ない。


つまりは観念自体が二元的分別なのです。


概念=言葉による二元化、分裂化なのであり其れは其のままでは決して救われて居ない、救われて居るどころかむしろ二元としての地獄へ堕ちて仕舞って居る。


なので言葉を捨て去ることにより其の地獄からは救われませうが同時に其処で人間ではなくなって仕舞ふ訳だ。


たとへば高度の脳障害を患ったりすれば其の二元地獄からは救われませうが同時に其処で人間ではなくなって仕舞ふ訳だ。


ですので仏法とは実は其の人間が人間ではなくなる為ー中化ーの方法を説ひたものでありキリスト教の一元化救済への教義などとはまるで別のものです。



まあ可成の危険思想なのだと申せませうがーあくまで凡人の側からすればー其れもあくまで利口側ー釈迦級の心の利口の側ーからすれば全然そんなものは当たり前のことでどうってことはないものであるに過ぎない。


では其処で人間ではない方が良いのか、ならばアンドロイドの方がまたロボットの方がまだしも良いのか?


と云った疑問も其処に生じませうが結論的にはむしろソッチの方が良ひのです。


何せ苦がありませんものですから。



が、アンドロイドやロボットには今のところ心がありません。


心がないものは、動物や人間とはまた違ふものです。


心の無いものは苦を生ずることなど無いゆえ問題点はまた異なる次元での方に設定される。

アンドロイド乃至はロボットが将来暴走して地球を真の破壊へと至らしめる可能性はむしろ高い。

がアンドロイド乃至はロボットよりも人間の方が安全だと云う保証はまるでなくむしろ人間こそが世界の破壊者である可能性が大きく存していやう。



此処からしても心は大事だ。


されど其の心こそが厄介だ。


心の無いものの方が裏切りませんのですし御飯も食べないのですしある意味では論理的かつ純粋です。


だが其れでは面白くないのだ。


スネたり僻んだり怒ったりさうしてイチイチ反応する奴の方が見て居て楽しいぞ。


しかしながら詩人はもうさういうのがウルサクて仕方がない。



詩人は昔から静けさを好み実は幼稚園も家庭も会社も全部が嫌ひでした。


一刻も早く植物になりたひとさういつも願って参ったのです。


言葉の呪詛、と云ったって元々脳がはぐれて居るのですからもうまるで直観知ばかりで呪詛もへったくれもない。


悟って居るかと云えば悟っては居りませぬが兎に角はぐれて仕舞って居る。



宇宙はむしろいつも真近にあり地球なども地面から目詰めたことはなくいつも宇宙空間から眺めて来て居る。
コレはもう明らかに精神病質でありまともではない。


ですが詩人とは元々さういうものでつまりは其処で浪漫を求めて来て居るのです、おおまさに生と云う幻影の浪漫を。


ところが其の浪漫=美辞麗句と真理とは常に対立して居ります。


詩人は其処に言葉を求めずば成り立ちませぬが真理は決まって言葉を捨てよとさう申します。


要するに立場上逆方向を向ひて居るのであります。


だから普通は相性が悪ひのですがわたくしに限り半分は女っぽい心なのでつひ宗教ー頼る心ーの方へと振れて仕舞ひます。



そんな訳で心とは実は一番の厄介者であり曲者である。
中でも女心、コレこそがまさに宇宙一の謎であり嗚呼まさに理解し難ひまさにココロの闇だ。


まあ女心とはズバリ動物の心だ、とでも言っておけばまず間違ひないことでせう。

つまりは食ふ、寝る、住む、さうして繁殖することにのみ其の僅かな理性の全てを捧げて居りませう。


と云う差別的発言は真理に於いては赦されるものではない。



なんですが、社会的限定概念に於いて其れは確かにさうも言ひ得るのであります。



唯心論(spiritualism; idealism)とは観念論の一種で、物質的なものは実在ではないと考え、心的なものだけが実在であるとする哲学の立場。その反対が唯物論である。 以上より引用

デカルトが「方法的懐疑」で到達した「今私が考えているということ以外全て疑いうる」という極限の懐疑主義を出発点とし、ジョージ・バークリーの「存在するとは知覚されることである」という現象主義を経て発展した。


この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識唯心論はこの点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。 唯識より引用



其の存在、と云う概念の規定そのものが結構難しひのです。


有るか無いかと云う判断に従へばとりあへず此の世の全ては生じて居るやうに我我には見える。


でも其れが真に現象するものであるのかどうかを証明する術はありません。


何故なら相対概念にてものの有無を問ふ事自体が即矛盾を生じて仕舞ふことです。
しかしながらものの有無を問ふことは心理的には可能です。

されど其れもあくまで問ふことが可能なのであり最終的に概念的規定による有無の判断を待つ他ないのでありませうから要するに有無を規定する絶対的な尺度を我我は与へられては居ない。


まあ譬で云へば小学生の学力しかないのに高校入試を受けるやうなものでまさに分かりやうがないのであります。


ですがあへて其処を考へてみませう。


で以上の如くに先哲の皆様が考へて下さりました。


特にバークリーの独我論はわたくしにとり馴染深いものです。



と云うのも三十歳前後の頃、ふと思ひました。


わたくしが今かうして見詰める範囲での世界は有るー現象して居るーと一応捉へることも出来やうが見詰めて居ない範囲ー視力と云うか視野の及ばぬ範囲か又は知力の及ばぬ範囲ーのものは実は無いのではないか。


事実寝て居る時に世界など無いではないか。


確かに夢は在っても世界など無ひ。


ところがわたくしが急に後ろにのけぞります。


するとそちらの方向に世界が形成されます。


さうしてたとへば幽霊が見たひと強く思ひつつのけぞると或は其処に幽霊が出て居るのやもしれぬぞ。


なのでほんたうは全部が全部有る訳でなくむしろ無いのではないか。


或いは部分的ー限定的ーにしか現象して居ないのではないか。


つまり認識して初めて限定的に世界は生じて居るのだ。




しっかしバークリーの此の思想こそは過激だ。


「バークリーは物質を否定し、知覚する精神と神のみを実体と認めた。なお彼の言う「観念」とは知覚、思考、意思など経験されるもの全てを含んでいる。その観念を疑いえない実体と認めたのは、それが「現に経験されている」からである。この彼の哲学は認識論におけるコペルニクス的転回といえる。パルメニデス以来の哲学者は、生成変化する現象世界の「変化」という矛盾を解消するため、変化する感覚と不滅の実体を区別し、感覚は信頼できないものとしていたからだ。バークリーはその伝統的な認識論を覆したのである。

バークリーにとっては、自分の身体を含むあらゆる物、世界すらも「私が知覚する限りにおいて、私の心の中に存在する」。実体とは、このような観念の束(bandle or collection of ideas)であり、その観念の原因は神である。
バークリーは「心」は実体として存在し、有限と無限の二種があると考える。唯一の無限の心が存在し、それは神のことである。有限の心とは人間の魂のことである。それら二種は実在するとバークリーは考える。」以上より引用



何と物質を全て否定とな!
対して心こそは實体で無限の心が神で有限の心が人間のタマシヒだと。


其の実体としての心とは物自体としての表象としての意志と云うショーペンハウアーの考へ方にも一種近ひやうにも思へる。


「バークリーはこの思考法によって、「物質」なるものは観念の存在と生成に「不要」とみなし、またニュートンによって措定された「絶対空間」をも否定した。またイデアなど抽象観念の存在も「思考されない存在者(unthoughtexistent)」として否定した。抽象観念とは対応する観念が存在せず、言葉の連なりにすぎない。これは普遍論争における唯名論の立場である。彼にとって存在するものは全て、知覚される対象でなくてはならない。」 以上より引用


バークリーは聖職者らしく限定主義者なのですが其の限定主義の中に謂わば空性ー虚無性ーは入って居ない訳です。


虚無思想ではなくしてむしろ神を絶対化する究極の+としての観念論なのでせう。


知覚される対象こそが存在するのであれば知覚されて居ない時に矢張りと言うべきか世界は存在して居ない。

抽象概念も否定されるが故に神と云う概念は限りなく絶対化されていく。

ある意味ではキリスト教にとって究極的に都合の良い思想なのだと申せませう。

さても出来得ればバークリーに仏とは何ですか?と是非訊ひてみたいものです。



永井均独我論を二つに分ける。ひとつは「認識論的独我論」であり、これはある一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないとする考え方であり、普遍化できる独我論である。もうひとつは「存在論独我論」であり、これは世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均が「この私」なのかという問題であり、普遍化できない独我論である。独我論より引用


またコレは面白ひ論題です。


でも此の哲學者の言って居ることは可成に難解ですのでまた別の機会に取り上げてみることと致します。



ちなみにわたくしは現象をあくまで限定として捉へて居りよって個にとり感知される世界もまた限定で限定と云う事は長さが決まって居る=切り取られて居ると云う事で有限性そのものだと云う事になります。
其の有限性ー一面では非常性や空性のことでもあるーの中に無限の欲望を表出しつつあるのが人間と云う特異な存在で対する自然は有限の為の有限をグルグル回りつつ生きて居るだけなので煩悩も罪も其処には無い。=生きながらにして悟ってもおる。
よって問題が生じて居るのは広い大宇宙でも人間の其の認識のみ。


其れも真理が分からないことが問題なのではなく会社が必要以上に好きなこと=限りなく儲けたひ、や豊かに楽しく暮らしたひ=女の尻に敷かれドレイ化する、などの近代の犯罪に対して妙に抵抗感がありかつ常に違和感を持つ。


つまり社会的事象が持つ認識上の瑕疵乃至は負債のみを問題として捉へて居り個としての認識上の誤謬により相対分別と云う地獄が生じて居るなどとは実は考へてなど居ません。


其の社会的事象とは歴史的事象でもあり其のやうに空間的時間的に拡がりを持つ人間の営為にのみ逆に強固な相対分別が生じ易くつまりは道を誤り易ひ。


よって歴史上常に社会が間違って居りかのスパイラル地獄へ堕ちるのも其の社会的自我に限られ要するに資本主義社会もまた共産制も文明文化主義主張も全て其のままではまるで認められぬ。


相対分別の檻は社会化されることで初めて巨大化し人間を種として葬り去る方向へと突き進んでいくことだらう。

尚有限と云うことは其れ即ち枷であり檻ですので勿論良いことではありません。

良いことではないものを喜んで居たりは出来ない訳ですから詩人は幼少のみぎりより暗澹たる気分の中に沈み込んで来て居た。


でも其れはとても一般人には分かって貰へない思考でした。
言ってももしやキチガヒじゃないかとさう思われるだけなので。



とまあごく大雑把に述べるとさういうことなのですが兎に角カギは其の社会性=歴史性と云った部分です。


其の部分を特に大乗各派は認めやうとしないと云うかあくまで個からの相対分別の範囲に止めて仕舞って居るのである。


されど唯識だけはどうもさうではない。


其の蔵識と云う集合的な無意識の現象に少なくとも社会性を見て取れる訳だ。



よってわたくしが問題視するのはむしろ其の社会としての根源的な悪のみなのです。
其の意味でのスケールに限れば仏法は個から始まる悪への闘ひですがわたくしの考へでは個はむしろ捨て置いておき社会に蔓延る悪をばまずは教化していくべきだ。


事実社会の価値ヒエラルキーの解体若しくは変更が成らずば畢竟人類はなるがままに🐜地獄へと堕ちていくことでせう。


社会的な認識の誤りから虚妄分別を拡張させやがては社会的自我を根こそぎ断滅させるであらう破壊を生ずる、と云うのが基礎認識としてのわたくしの文明論です。


なのでわたくしの論は真理に関するものではなくまさに文明論であり社会に於ける認識論そのものなのだ。


其の認識の結果生ずる社会としての人間の歴史をのみ批判して居ることになります。


ただし個としての生の歴史を批判するものではない。



個はむしろ皆頑張って生きて来た。
安ひ月給にしがみつき焼肉も食へずに安売りのスーパーのハムでもって我慢して来た。


しかも綺麗な姉ちゃんとは縁が無くおひとりさま、ただただ独りでかうして歯を食いしばり生き抜いて来た。


そもそんなものの何処が悪ひか。


そんなものは全然悪くなく兎に角社会が悪ひだらう。


必ずや何処ぞに庶民の生き血を吸ひ肥へ太る悪ひ組織、悪ひ上部組織があるのだ。


さうだ、其れは有る、どうしても在る。


哲學など抜きにしても今まさに其処にあらう。




その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。
しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。それは心が無となり、感知が無となったのである。それは、世間を超越した認識であり、煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。 以上より引用


認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないから心が無となり、感知が無となった。

無論のこと其れは真理です。

成仏とはさうしたことなのであり、先に述べたやうに人間が人間ではなくなることなのです。

ですから其れは大多数の人にとってはまさに不可能なことです。


わたくしは元々そちらの世界の方を直観出来る人間として此の世に生を受けた。

かうした唯識の理論や般若の智慧などと云うものとは異なりますが様々に思索を巡らし人間が人間ではなくなることの必要性を夢想して来たりもした。

されど果たして人間は人間のままで救われることはないのか。

人間が人間のままで救われるのであればむしろ其れが一番のことではないか。


アンドロイドやロボットには救ひなど必要ではなくなんとなれば彼等には心がそも無いからなのだ。

心の瑕疵または負債乃至は罪の自覚につき全ての人間は責任を負って居るが其のことに誰も気付いて居ない。

かうして過去からそして未来から現在へとなだれ込んで来る膨大な負荷につき誰しもが耐え得ず。

心あるゆえに此処に生じそしてまた心あるゆえに此処に滅する。

其の此処とは今と云う此処であると同時に人間と云う拡がりなのだ。(=社会または歴史)