目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

地獄と極楽ー唯識無境 死んだらどうなる? 中道の論理からー


「こころの時代」




「中道」というのは、釈尊が「初転法輪(しよてんぼうりん)」といって、初めて五人の弟子に説いた中で言われた「非常非断(ひじようひだん)」常に非ず断ずるに非ず。人間一番考えることは、死んだらずっとあり続けますか、存在を続けますってことは「常」なわけですね。死んだら虚無になりますかっていったら「断」なのね。そういう質問に対して、「非常非断」というふうに答えられたわけですね。「常」というのが、あり続けるということで「有」と言い直されるし、断ずるというのはなくなるから「無」とね。それで「非常非断」というのを「非有非無」というふうに言いかえていいんじゃないかと思うわけです。

ここに「自分」と「時間」と「空間」と「概念」というね、この一二三四個を使って、我々は死後のことを考えるわけですよね。自分が死んだら、死んだあとはと、時間を設定しますね。地獄か極楽かって、空間を設定しますね。有か無か、あるかないか、生き続けるか、全く虚無になるかというね。これ全部心の中で言葉がつくり上げたものにしかすぎないわけですよ。死後の世界というのは、自分の中で言葉でもって創作し、考えたものにしかすぎないということを、我々はこの図から学び取り、この図を自分の心の中にもう一度再現してみると、死後の世界に対するいろんな態度が違ってくるんではないかと思います。すなわち「死後の世界は〝非有非無〟である」と。あるんでもない、ないんでもない。これで使って言うならばね、死後の世界はあるに非ず、ないに非ず。

中。非有非無というのは中道だからね。だから死後の世界は中なんだ。 唯識に生きる③唯識を〝体得〟するより抜粋して引用



このシリーズは分かり易く説かれた唯識の啓蒙番組でもってわたくし自身も全てを視てなかなか為になりましたので此処に貼り付けておきます。


で、一番勉強になりました部分を以上に抜粋し引用して居ります。

つまりは死んだらどうなるか?と云う問ひに対する答への部分です。

おそらくは此のやうな解釈が正しひのではないかとわたくしも思ふ。

所謂中道の論理での解釈です。

其れもあくまで論理としての中道で捉へればと云うことではありましょうが。

其の中道と云うのもあへて分別的な概念を方便として釈迦が説ひて居られる可能性すらあります。

言語による戯論を何よりお嫌ひになられて居た釈尊心理的な潔癖さから鑑みる限り死後の世界に就き論理としての中道を用いることが妥当かどうか分かりません。

むしろ怒られるのかもしれません。

ひょとすれば謗法なのかもしれない。


でもあくまで分かり易いのです。

つまりは死んだら無、なのですか?

と云う問ひに対して完璧に答えられて居るのが上記の引用部なのだと思われる。


即ち其の「非常非断」と云うのは釈迦の思想の根本概念です。

曰く、常見に非ずして断見に非ず。
つまりは常住のものであるのか断滅するものであるのかと云う其の世界の根本の性質の違ひに就いて述べられた部分です。


中道
執着を離れ,正しい判断をし,行動すること。釈尊以来,仏教の伝統的スローガン。 (1) 苦と楽いずれにも偏しない実践法である八正道 (はっしょうどう) のこと。 (2) 断滅論と常見論を離れた非断非常の理法のこと。 (3) 中観派でいう空の理法のこと。この理法は縁起 (えんぎ) であり,相対的に対立している諸概念のうちのいずれか一方に執着しないことを意味する。 (4) 法相宗では有と空に偏しないこと。 (5) 天台宗では諸法実相のこと。 (6) 華厳宗では法界 (ほっかい) のことをいう。以上より引用


なる程。

改めて気付きましたが其の概念的な執着を離れることが仏法に於ける根本義なのですね。

だとすれば矢張りと言うべきか法華経だけに拘ったり念仏だけに拘るのは謗法である可能性が高ひ。

ですが浄土教はあへてキリスト教化した仏法ですので正式な仏法とはまた違ふ阿弥陀仏への帰依が説かれて居り其れでもってどうしても念仏が必要となるのやもしれなひ。


また重要なことは唯識の立場では有と空に偏しないことと書かれて居る部分です。

なので本来ならば全部が空、では勿論ないのであります。

全部が空ではなく同時に全部が有でもないのであります。

また上にもありますやうに有と無と云う対概念で捉へるならば全部が有ではなくかつ全部が無でもないのです。

つまり有るのではなく無いのではない。


即ち非有非無と云う事であり其れこそが概念的に規定するところでの釈迦による論理内容であると云ふ事です。



ならばほんたうは空、空と連呼して居るだけではいけないんです。

まさに空ばかりでは本来の釈迦の教説からは離れていって仕舞ひます。

事実空としての龍樹の思想は釈迦の教説を結果的に離れて行って仕舞ふ。

釈迦の教説をむしろ完全に整備する為の法の改革であったものがまるで龍樹其の人の思想の如くになっていく。

其れでもって唯識思想は有と空に偏するなとしたことでもありませう。

ところが大乗仏教は全体としてどうも空、空と連呼して居るだけのやうな気も致します。


だから本来ならば空ばかりに固執して、まあ其のやうにアンドロイドの観音様も兎に角空、空、空と頻りと連呼して居るだけのやうな気も致しますが其れではむしろ偏して居るのではないか。

特に利口な奴は元々空なんぞ初めから分かって居ります。

そんな利口は兎に角空虚と云う虚無に深く捉へられて居りもうご飯も喉に通らぬわ女の尻も追えぬわでまさに其のままでは現実が成り立たなくなるゆえそんな御仁には兎に角逆を説けとお釈迦様はさう判断なされたのでした。


だから空ではなくむしろ實だ。

無ではなくむしろ有だ。

禁欲ではなくむしろ酒池肉林だ。

けだし最終的に其れはあくまで非有非無の中、即ち中道の段階へと持っていかれたひのであります。



死とは普通死んだ後のことを相対概念者が思慮分別し其れはまさに有るとか無いとか考へたものであるに過ぎなひ訳ですのでまるで無用のもので其れはまさに「無記」に値する虚妄の思慮であるに過ぎない。

「死後の世界は〝非有非無〟である」即ち有るのでもない、無いのでもない。

もしも概念的規定を為すのであればかうした言い方になると云うことなのだと思われる。


だから人にもし「死んだらどうなりますか?」と問われたならばまずはかう答へる。

知らん。ー無視の立場ー

でもあへて言へば中だ、中。



さうして「死後の世界は〝非有非無〟である」。

即ち「有るのでもない、無いのでもない」。


いずれにせよ相対分別はどうしても矛盾化致します。

では矛盾化しない言葉は無いのか、とつひ考へて仕舞ひますが所詮は其れも概念的分別の檻の中の堂々巡りまたはスパイラル地獄に陥ることなのでまるで悟れません。


まるで悟れない、其れどころか観念地獄に陥って居るのですから其処でギャー、とかグオーとか始終叫んで居るよりほかない。

まさに其れがウルサイと詩人は述べて居るのです。

尤も自分自身もまた飛び切りにウルサイ訳です。


さうではなく逆に静謐な何かを書けと言われるならば事実其の通りにも致しませうが基本としては常にギャー、とかグオーですので其れを正直に述べて居るだけのことだ。

尚此の「中道」としてのー方便としてのー論理規定こそは常に大事なものなのだらうと個人的には思ふ。



「有るのでもない、無いのでもない」

有ることにより無いことが規定され得逆に無いことにより有ることが規定され得やうから有無とは相対的にしか規定され得ず其処で有る其のものと無い其のものに分離は出来ないから有るとは言ひ得ずしかも無いとも言ひ得ない。

有るともし言って仕舞へば其れは矛盾であるしまた無いともし言って仕舞へば其れは矛盾である。

元来分けられぬものを分けるから矛盾が生ずる訳で其の矛盾を生ずる原因を探れば其れが相対分別にこそある。


ーでは相対分別其れ自体は有るのかと云えば其れも同じ理屈にて、

相対分別其れ自体が有ることにより相対分別其れ自体が無いことが規定され得逆に相対分別其れ自体が無いことにより相対分別其れ自体が有ることが規定され得やうから相対分別其れ自体の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で相対分別其れ自体が有る其のものと相対分別其れ自体が無い其のものに分離は出来ないから相対分別其れ自体が有るとは言ひ得ずしかも相対分別其れ自体が無いとも言ひ得ない。


ーさらに物質界は有るのかと云えば其れも同じ理屈にて、

物質界が有ることにより物質界が無いことが規定され得逆に物質界が無いことにより物質界が有ることが規定され得やうから物質界の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で物質界が有る其のものと物質界が無い其のものに分離は出来ないから物質界が有るとは言ひ得ずしかも物質界が無いとも言ひ得ない。


ーまた精神界は有るのかと云えば其れも同じ理屈にて、
   
精神界が有ることにより精神界が無いことが規定され得逆に精神界が無いことにより精神界が有ることが規定され得やうから精神界の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で精神界が有る其のものと精神界が無い其のものに分離は出来ないから精神界が有るとは言ひ得ずしかも精神界が無いとも言ひ得ない。

ーでは輪廻転生は有るのかと云えば其れも同じ理屈にて、

輪廻転生が有ることにより輪廻転生が無いことが規定され得逆に輪廻転生が無いことにより輪廻転生が有ることが規定され得やうから輪廻転生の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で輪廻転生が有る其のものと輪廻転生が無い其のものに分離は出来ないから輪廻転生が有るとは言ひ得ずしかも輪廻転生が無いとも言ひ得ない。

ーならば男女差は有るのかと云えば其れも同じ理屈にて、

男が居ることにより女が居ることが規定され得逆に女が居ることにより男が居ることが規定され得やうから男女の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で男女差が有ること其のものと男女差が無いこと其のものに分離出来ず従って男女差が有るとは言ひ得ずしかも男女差が無いとも言ひ得ない。


ーズバリ死後の世界は有るのか其れとも無いのか?

死後の世界が有ることにより死後の世界が無いことが規定され得逆に死後の世界が無いことにより死後の世界が有ることが規定され得やうから死後の世界の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で死後の世界が有る其のものと死後の世界が無い其のものに分離は出来ないから死後の世界が有るとは言ひ得ずしかも死後の世界が無いとも言ひ得ない。

ータマシヒの有無は?

タマシヒが有ることによりタマシヒが無いことが規定され得逆にタマシヒが無いことによりタマシヒが有ることが規定され得やうからタマシヒの有無とは相対的にしか規定され得ず其処でタマシヒが有る其のものとタマシヒが無い其のものに分離は出来ないからタマシヒが有るとは言ひ得ずしかもタマシヒが無いとも言ひ得ない。



ー宇宙に果ては有るのか無いのか?

宇宙の果てが有ることにより宇宙の果てが無いことが規定され得逆に宇宙の果てが無いことにより宇宙の果てが有ることが規定され得やうから宇宙の果ての有無とは相対的にしか規定され得ず其処で宇宙の果てが有る其のものと宇宙の果てが無い其のものに分離は出来ないから宇宙の果てが有るとは言ひ得ずしかも宇宙の果てが無いとも言ひ得ない。

ー利口と馬鹿はどちらが偉ひのか。

利口が居ることにより馬鹿が居ることが規定され得逆に馬鹿が居ることにより利口が居ることが規定され得やうから利口と馬鹿の偉さとは相対的にしか規定され得ず其処で利口の偉さ其のものと馬鹿の偉さ其のものとに分離出来ず従って利口か馬鹿の偉さ其のものが有るとは言ひ得ずしかも利口か馬鹿の偉さ其のものが無いとも言ひ得ない。

ー「今」は有るか無いか。

「今」が有ることにより「過去と未来」が無いことが規定され得逆に「今」が無いことにより「過去と未来」が有ることが規定され得やうから「今」の有無とは相対的にしか規定され得ず其処で「今」が有る其のものと「今」が無い其のものに分離は出来ないから「今」が有るとは言ひ得ずしかも「今」が無いとも言ひ得ない。



なる程。正しひかどうかは分からぬがどうやら分かり申した。


「追加」分

ー正しひか其れとも誤りか

何かが正しひと思ふことにより誤りが規定され得逆に何かが誤りだと思はれるので正しさが規定され得やうから正誤は相対的にしか規定され得ず其処で正しさ其のものと誤り其のものとに分離出来ず従って正誤其のものが有るとは言ひ得ずしかも正誤其のものが無いとも言ひ得ない。

ー善か悪か

何かを善と思ふことにより悪が規定され得逆に何かが悪と思はれるので善が規定され得やうから善悪は相対的にしか規定され得ず其処で善其のものと悪其のものとに分離出来ず従って善悪の区別其のものが有るとは言ひ得ずしかも善悪の区別其のものが無いとも言ひ得ない。