真理そのものを得ようともがくのではなく真理にはほど遠くなりし社会文明の様を嘆くのがわたくしの文學そのものですのでわたくしはむしろ真理と「闘ふ」のであります。
真理と「闘ふ」バカは聖人には居られませんので其のバカは即ち阿修羅、かの宮澤 賢治の如くに我もまた自らを「修羅」として捉へて来て居るのであります。
ただし宮澤 賢治も其の晩年には其の「修羅」としての生き方を悔ひて居たことさへもがあった。
然し客観的現実的には彼の生き方とはまさに菩薩道の実践であった。
其の「修羅」の部分とはものが良く見え過ぎ分かり過ぎても居るのでさうした自らの性質への戒めとしてむしろさう述べて居たことだらう。
即ち其れ以前に其の空の思想即ち竜樹から世親、無著へと流れるところでの虚無の思想そのものがまずは癖の強ひ虚なる思弁の流れです。
其の空観にせよ所謂即非の論理にせよ我我現代の凡夫にとりまことに分かりにくくつまりは論理としての難度が高く我我にとっての生に於ける実感とはかけ離れた内容のものばかりです。
わたくしは此処にこそ大乗仏教の基本構造が立ち現れて居るものとさう捉へる。
即ち原始仏教や部派仏教に比しより大きく二元化されて仕舞って居ります。
高度な論理的体系と実践的内容との両極に二分化されて居るのです。
大乗仏教が救済する人間の心の対象は修行者としての個から修行しない大衆へとまさに其の意味に於いては「社会化」されるに及んだ。
ところが「空」及び「唯識」と云う概念に於いてむしろ其れは思ひ切り非大衆化=非常識化して行って居るのです。
ただし理論としてはまさに其れは素晴らしひものです。
釈迦滅後数百年を経て現れた天才達により其れが整備されていく。
でもハッキリ言えば可成に理窟っぽいです。
中論にせよ唯識にせよ分析的かつ論理的ー論理的に非論理的?-でこれらを理解するには決まって往生致します。
ですがわたくしは其れ等の幅の広さを今は否定しない訳です。
何故否定しないのかと云えば其れ等の教義がより現実的なものともなり得るからです。
より現実に即したものになりさうした意味に限ればより分かり易くー元々人間は悪魔的存在なので其れにも近づくーなるのであります。
なのですが、唯識論はまた別の次元での哲學的要素を有して居ます。
ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。以上より引用
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。
唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派の「空(くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。
この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識と唯心論はこの点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。 以上より引用
即ち一面では畢竟全ては認識上の立場の違ひー階梯ーに還元され得る問題なのやもしれないと云う事です。
本質として人間の持ち得る課題は苦ー仏教に於ける問題ーまたは罪ーキリスト教に於ける問題ーの解消ですのでコレを解決すれば人間そのものが解決される訳です。
個人的な悩みとか社会的な悩みとかさういう次元を超えたところでの人間そのものの問題の解決を宗教は常に担って来た。
ところが実はそれこそが最も難しひ。
自然とは異なり人間は考へる=悩む存在ですのであれこれ思ひ悩むうちにまるでこんがらがって仕舞ひもう訳が分からんやうにもなって参ります。
さうかうするうちに観念地獄へも堕ちたりでもはやコレではどうにもならぬ、こんなややこしい人間なんて嫌ひだからもう一人にさせてお呉れ。
さう思ふのもまさにごもっともです。
其れで生きていけるのであればむしろ其の方がまともです。
何故なら本質として社会は悪ひものだからです。
どだい大乗仏教なんて大抵皆がこんがらがり訳の分からんやうになっていかざるを得なくなる。
わたくしにしてからもが勿論さうです。
兎に角間口が広いのでこんがらがりもうまるで訳が分からんです。
ただし諸存在が空であるにせよ認識のみは其処に生じて居るのであります。
人間は考へる葦であり我が思ふゆえに我はあるので認識は其処にあるのでせう。
然し其の認識自体も虚ー空ーだと捉えるのが仏法に於ける基本認識なのです。
其の認識自体が分別智に基づく虚妄の領域のものだから相対矛盾に陥り結果苦が生ずる。
即ち絶対の自分や絶対の社会、或いは永遠の命や自己の永続または社会の永続を乞ひ願ふからこそ其の地獄=思うにならぬ地獄=思うままには得られない地獄の中に置き去りにされて仕舞ふ。
対して自然はどうでせう。
自然に於ける苦は其の考へるタイプの苦ではありません。
ズバリ考へない苦のことです。
謂わば腹が減り死ぬのが苦しひ苦であり闘って負け死ぬのが苦しひ苦ですので考へてなどまるでいない。
さういうのは然し一種の美しひ苦の形です。
余分に考へたり蓄えたりせず自然の摂理に沿った形でバリバリ食ひかつメスを追いかけ闘ひ老ひて死ぬのである。
其の美しひのは自らのそんな生を嗚呼、美しひ、などとは思わないからこそ美しひのです。
要するに頭が悪ひので分別智を生じさせて居ないから逆に悟って居り其の生自体が美しひのです。=無知の知
逆に人間の生は醜ひ。
まあ人間の性も醜ひが。
藝術とはそんなピュアーな美を直観すること。
生まれつきピュアーな感覚の持ち主が其処で自然に美を直観するのです。
詩とか絵と云うのはさういうもので創り上げる=構築するものではむしろない。
確かに構築なんですが、そんな直観に基づく構築なので社会の構築とはまるで違ふものです。
むしろ逆構築=脱構築なのであり其れぞ個にのみ還元され得る作業のことです。
其の認識自体の誤りがむしろ頭の良ひことでさう引き起こされて仕舞ふ。
水面に映る自分の姿を美しひ、と思った途端逆に醜ひ奴になるのです。
相対分別の世界は虚構の世界なのでそんな虚構の価値観にばかり固執し所謂真、善、美としての価値観からは自然と遠ざかっていく。
さういうのこそが煩悩に捉われた無明の世界だと仏法は説く。
要するに良し悪しで言へば悪ひのです。
悪ひのですでに地獄です。
特に社会はより悪ひのでより地獄的です。
ところが其の観念地獄を脱する方法はある。
其れも二種がある。
ひとつは仏法に従ひ相対地獄を脱け出す=分別智病を治すことです。
もうひとつは神に帰依することで罪深き現世としての地獄の様より救われることです。
其の観念地獄を最もピュアーに規定するのが唯識無境だ。
唯識無境 = ただ識だけがあって外界は存在しない
境識倶泯 = 外界も識も消えてしまう
ただし問題は其の識だけはとりあえず有るとする点です。
であれば、唯識とは空性の徹底に於ける反省から生じた思想でもまたある訳だ。
全部が無いか又は虚であると実は社会が規定出来なくなる。
然し実際には社会はあります。
STAP細胞はあります。-小保方氏ー
それでも地球は回っている。-ガリレオ・ガリレイ-
それでも社会はあります。-自称詩人ー
なので唯識はわたくしにとりむしろ分かり易い思想なのです。
わたくしにとって竜樹の『中論』はむしろ理解し難く世親の『倶舎論』の方が理解し易いのである。阿毘達磨倶舎論
何故なら説一切有部の教義に対してわたくしは常に理解を示して来て居るからだ。
又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。 唯識より引用
人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを薫習(くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。
また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。 唯識より引用
即ち集合的な無意識の領域=社会的領域が其処に重要な役割を果たす。
此の阿頼耶識縁起をば実は社会生活、特に会社生活=アホなサラリーマン生活に於いてイヤと云う程其処に実感することなども可能だ。
即ちバカ部下の愚かな行為をバカとして常に蔑んで居たりすると逆に自分の立場が会社から攻撃され危うくもなりかねないからまさに此の点につき管理職は常に気を付けていかねばならない。
されど其のバカなのはほんたうのことでまさに真実だが今の狂った社会ではそんな真実は通らず往々にして正論でもってして真面目に注意した奴は皆馬鹿をみることともならう。
するともはや注意する人が居ないのでもうバカ共はやりたい放題である。
おおまさに居眠りはするわ女の尻ばかりを追いかけるわ仏法のブの字も知らぬわでまさにまさに人間以下、元々人間ではないのであるからして謙虚さなど其処に望むべくもなくおまけにいつも態度がでかい。
さらにスマフォだタブレットだと訳の分からぬ端末をいつも持ち歩きしかも歩きながら其れを視て居るので死亡事故が年間に千件位は多分発生しておる。
しかも夜も十二時だと云うのにコツコツコツと若ひ姉ちゃんが暗ひ夜道を平気で一人歩きしたりして御座る。さうして皆バカー無知ーの癖につまりは態度がデカい。
だからわたくしは「平等」と云うこと、さらには「無分別」と云うことを再考すべきだと考へて居り逆に仏法にもコレを拡張せしめて組み込もうかとさへ思っておる。
なので今後はわたくしの哲學と仏法との融合を目指して参る所存です。
つまりはまた其処で新興仏教が出来る。
其れは社会的視点を盛り込んだ新たなる仏法の幕開けだ。
阿頼耶識、勿論其れはあくまで自己が生み出す社会的領域であるに過ぎない。
然し其れはあくまで旧来の仏法、即ち大乗の教説、つまりは縁起空に基づく諸の思想からまさに仮に生み出されて居る教説であるに過ぎない。
無論のことわたくしは仏法にケチを付けて居る訳ではない。
其れは歴史的にはあくまで正しひ。
然し時代は変わった。
事実アンドロイド観音まで出て来て仕舞った。
しかもアンドロイド観音の説法は分かり易く或は御坊様以上に聞き取り易ひことかとも思われる。
然し此れでは人間はAIに負けるぞ。
其れでも良いのか。
其れ以前に仏法を機械化しても良いのだらうか。
御坊様の苦しみをそのままストレートに打ち出すことの方が或は我々に伝わる何よりの説法となるのではないか。
謂わば其の仏法の将来に対する不安を一言だけ、苦しひよ、とさう述べて頂いた方が我我は何故か嬉しひ。
「種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる。」
主客分別を生ずる認識の主体としての自我が此の蔵識までをも生み出しさらに外界から影響を受けた種子が種子として蔵識に薫習される。
かように思考とは一種の悪循環の様式でありスパイラルに認識地獄へ堕ちていくまさに🐜地獄なのだとも申せませう。
思考即ち分別すること自体がさうした認識地獄-観念地獄ーを生み出すこととなるのです。
ですので、此処からも人間とは救ひ難ひ現象であることが見て取れる。
しかしながら其処から脱することもまた不可能ではない。
だが蜘蛛の糸が垂れて来るのを待つよりもまずは自分で自分の認識上の悪循環を断つことが肝要かと存じます。
などとつひ偉そうなことを申しますがわたくしの場合も決して此の🐜地獄から逃れ出でて来て居る訳ではない。
むしろより早くしかも深く此のスパイラルな認識地獄に堕ちつつあるのだとも申せませう。
が、むしろ其れは覚悟の上でさうして居るので御座ります。
謂わば観念と心中する、観念に殉ずるとさう覚悟を持った上で此の二、三十年を過ごして参りました。
言葉による分別の構築の世界をあへて泳ぎ切り何処かへ辿り着くが其れは仏法の説くが如くに彼岸などではなく所詮は此岸としての地獄である。
ただし其処であへてもがき苦しみ悩んだこと其れのみは此の世に残るとさうも思へるのです。
芥川が観念地獄としての苦を通じて遺したものとはまさに永遠の価値を持つ藝術作品でした。
また宮澤 賢治が修羅としての苦を通じて遺したものとは矢張り永遠の価値を持つ藝術作品でした。
其のやうに地獄にもまた価値が有るので御座ひませう。
地獄がいけないと云うのは実は宗教だけなので御座ります。
藝術にとりさうして煩悩にまみれし凡夫の境涯にとっては必ずしも地獄は地獄のことばかりでもない。
地獄を見つつも生きて行く、と云う其の生活者としての草魂や藝術家の藝術への信仰、其の作品に込められし藝術家魂を宗教と雖も否定することなど出来なひ。
かってかのトルストイが精神的な苦闘の果てに到達した境地が其処にこそありはしないか。
宗教は善人振り其処に胡坐をかいて仕舞ふことすらある。
確かにわたくしは宗教マニアですが同時に人文の徒でありあらゆるものの批判者=修羅、なのです。
だから宗教ですら容赦はしなひつもりだ。
されど真理はまた別に確かに在る。
むしろ真理だけが存在して居る。
其の真理を噛み砕いた形で我我に示すことが出来るのもまた宗教のみだ。