「知の領域で持つ、推論など論理操作を差し挾まない直接的かつ即時的な認識の形式
直観は本能とは異なっている。本能は必ずしも経験的な要素を必要としない。直観的な基礎による見解を持つ人間は、その見解に至った理由を即座に完全には説明できないかもしれない。しかしながら、人間は時間をかければ、その直観が有効である理由をより組織化して説明するべく論理の繋がりを構築することで、直観を合理的に説明できることもある。
日本語の直観(ちょっかん)は、仏教用語のप्रज्ञा(プラジュニャー、般若)の訳語の一つである直観智に由来する。直観智は分析的な理解である分別智に対する直接的かつ本質的な理解を指し、無分別智とも呼ばれる。」以上より引用
尚此の直観力と云うのは、まさに特別な能力であるとさう結論付けるより他は無ひ。
ちなみにわたくしは此の直観力が強く働く方です。
其れでもって其の直観によりすわ五十年後に人類は滅ぶぞよ!とか何とか言って居る訳です。
勿論其処では其の直観力を駆使して居ります。
尚上には直観を合理的に説明することが出来ることもある、などとも書かれて居ますが其れが得意な人の実感としてはそんなものとは違ひむしろ天から下りて来る啓示のやうなものだとさう捉へられるのです。
さうですね、まさに詩のやうなもので合理的に説明することが出来るものでは無ひことでせう。
第一詩と云うものは瞬間的にピッと浮かぶ言葉の羅列であり多分に其れは感覚的なものでもある。
ところが言葉=論理でもありますので確かに其の部分での経験的論理の蓄積がないと詩を詩として成立させることなど出来ない。
だから天才だとか云われつつ五歳児などが何かを感得しても其の天才的な詩の内容は言葉=論理として成立するべくも無ひ。
なのでほんたうの天才と云うのは其の直観と経験的論理のバランス感覚に優れて居る人のことを言ひます。
尚直観と直感は全然違ふやうで居て実は似た部分もあります。
だから女の勘、女の直感が強く働く貴女、其の貴女こそが実は凡俗の感覚を超越しスーパーウーマンになれる可能性をお持ちなのだ。
何せわたくしは半分位女性的で且つ直感人間でもある。
これだけ観念的な癖に反面意外と観念的ではなく感情的かつ感覚的ですから其処は皆様はおそらく理解が出来なひことかと思はれる。
けれどもそんな直感人間でもあるわたくしの言説をバカにしていてはいけませんよ。
ズバリとアナタの浮気心を指摘するそんな能力にも実は長けて居るのでアナタの女好き位はすでにもう全部分かって居ります。
ところで般若とはどうも其の直観智のことですね。
おそらくわたくしは生まれつきさうした方面に開かれて居たのでせう。
其れも還暦にして赤子の頭を持つ、とでも言ふべきなのか。
嗚呼、気持ち悪ひ、などと思ってはなりませぬ。
詩人とはだからこそ詩人なんだ。
まるでもう寒山や拾得のやうに赤子なんだ。
赤子だが知識はすでに老成してもおる。
はあー、もうほとんど仙人でせう。
でも其の仙人であることこそがイヤなんです。
出来得るものならごく普通に所帯を持たせて下され。
即ち唐突にピッと来る。
おお、今御託宣が下りた。
わたくしの直観智はいつもそんな具合に何処からか下りて来ます。
尚男性はむしろ女を触るとかうした能力が失はれていくのです。
女に触らうとしなかったかの宮澤 賢治などは勿論わたくし以上に強い直観能力の持ち主だったやうです。
つまり社会や常識に飼ひ慣らされていく分此の原初的な男性の観念能力は減退していくのであります。
だから普通に家庭を築き普通に仕事をこなして来たアナタ、貴方には其の直観智の世界はもはや無理だ。
前回述べた「AはAに非ず、よってAなり」と云う非論理的な命題は其の直観智を表したものである可能性がまた高い。
言葉ー論理ーで言へばまさにさうなんですが、さうした命題を考へること以前に実は何となくわたくしには分かって居たことでもあります。
謂わば此の世では欠けたものが逆に顕現して居るのです。
反対のものが其処に現れて居るのだと見てもいい。
さういう実に天邪鬼な世界こそがおそらくは此の世の実相でせう。
だから女は菩薩のやうな顔をして居る割に其の本質は欲深く穢れて居るのです。
肉食動物は強ひやうで居て実は繊細で弱く逆にゾウとかキリンなんて物凄く強くて場合によりライオンを踏み潰したりもするのです。
また御坊様なども中にはとても欲深ひ人が居り逮捕される場合などが往往にしてあり得ませう。
なのでなかなか此の世の実相を見抜くことは難しひ。
詩人も直観智が確かにあるなどとかうして申しては居りますが其れも話半分位に聞いておく方が良ひのやもしれません。
其れ其のものではないので、其れ其のものである。
「生死は生死に非ず、よって生死なり。」
「仏は仏に非ず、よって仏なり。」
「即非の論理」とは其の直観智を元に組み立てられたものではなひかと我は思ふ。
「一即多、多即一」華厳経より
(「一」という極小のなかに「多」、即ち無限大、一切が含まれ、無限大、一切である「多」のなかに「一」という極小が遍満している。)
ーこれを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。ー以上より引用
尚華厳経の一種の宇宙的世界観に就ひては以前にも述べて居ます。
然し兎に角此の「即」と云うのが曲者です。
其の「即」とは無論「色即是空、空即是色」の即でもある。
まさに論理否定による直観智の構築であり謂はば全体論としての真理の捉へ方でせう。
華厳教学の縁起思想では対立するように見える二つの事象・事物が実は一体不離であるともされて居る。
所謂「相即互具」又は「相即相入」と云われる考へ方のことだ。
また「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ので対象の区別もなく本来平等ー違ひが無ひーである。
との一元化へと最終的には持って行くのです。
が、其の前段階のところではむしろ思ひ切り二元化されておるのです。
なので違ひがある、なのでない、とのまた実にややこしい非論理にて大乗各派は「即非の論理」=直観智を構築して行きます。
けれど禅宗の場合はもっともっとぶっ飛んで行くのかもしれません。
兎に角禅宗は普通の仏教とは違ひ結構観念的には過激なのだから。
ところで其の「無縁の関係性(縁)」と云う部分こそが面白ひ。
つまりは無縁の縁と云うことですね。
わたくしにとり即ち読者であるアナタとの縁が無縁でしかなかったとさう云ふことなのでもある。
思へばわたくしにもかってはまるで女房のやうな女が居りましたが其れも所詮は即ち無縁の縁だったのではなひでせうか。
まあわたくしはちょっとばかし変わって居りますのでさうして👩が逃げて行くのをさう非難ばかりして居る訳では無ひ。
然し其れを言えば此の世での縁は須らく無縁の縁ですよ。
即ち理由なきまた意味なき縁の集積であるに過ぎぬ。
尤もそんなニヒリズムこそが逆に分別智の方に頼るからさう見えるだけなのでせうが。
「般若経典[編集]
龍樹[編集]
龍樹(ナーガールジュナ)は、説一切有部が諸法に固有の性質(自性)を認めたうえで縁起や因果を説明することを批判した[3]。龍樹は、諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、また縁起するから自性をもたず空であるとした[3]。
龍樹は、『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為(現象、被造物)も無為(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた[要出典]。
中村元によれば、中論の主張する縁起は、有部の縁起論とは著しく相違するが、後世中国の華厳宗の法界縁起の思想には非常に類似しているという[7]。法界縁起の説においては、有為法・無為法を通じて一切法が縁起していると説かれるが、その思想の先駆は中論に見いだされるという[7]。」以上より引用
ところで仏教の縁起説は因果関係を否定するのだろうか。
少なくとも無縁の関係性(縁)などとも言って居る大乗思想には其の因果律はまともに作用して居ないと考へるべきだらう。
無縁の関係性即ち縁がないから縁があると云うことなのであらうから其れは因果律を云々する以前の問題であらう。
ところが仏教の縁起説も各時代により方向性が大きく異なるやうなので其処は時間をかけ学んでみないと確たることは言へぬ。
今わたくしに興味のあるのは龍樹の中論を始めとする中観派の論説であり特に龍樹の思想をこそ徹底解剖してみたいところです。ー龍樹の相依性としての縁起、などに就ひても是非学んでみたいところだ。ー
尚わたくしがずっと大乗批判をなして居りましたのはかうしてむしろ非常に観念的でー難解でー少しく釈迦の教説とは別物である感がする部分があったが為にです。
が、其の無分別智としての構築の仕方は流石に見事です。
二つの対立していると思われる事象が本質的にはそのまま同一のものであるとする一元化への観念的力技こそが見事だと云う他御座ひません。
さうしてあくまで無いものが其のものとして出て来るのですから、多くの男性は実は女性であり多くの女性は実は男性の本質を有して居た!などと云うことにもなりませう。
また利口とは実は利口でないから=バカ?こそ其の利口になって居る可能性も高く従って僕は利口だと言って居る詩人程バカな存在は此の世には無ひことにもなりませう。