「この世の終わりのような光景」「孤独に苦しみ死んでいく」NYの医療崩壊は現実に
すはNYが絶滅か?そも自由だの金融だのおバカな抽象的価値を追求して来たことへの神の怒りが下ったぞよ。
トランプ氏方針転換「経済は二の次」「人命を救うこと以外に関心持てない」
トランプ氏はパッと見た目には変な奴ながらいつも結果的には正しひことをする。わたくしは当初より彼を支持し続けて居る。ウソだと思ふなら過去の記事を確認頂けば其れが分かる筈。トランプ氏は経済のことを除けばーいや経済もだがー限定主義者であり世の流れに沿った意思決定をなして来て居やう。
自殺した独の州財務相、ウイルス対応に苦慮か…州首相「絶望していた」
利口な独逸人はかうして自決し易ひ訳であるが、其処は日本人も同じことで矢張り絶望へと傾ひていき易ひ故注意が必要だ。
むしろ息抜きをして憂さを忘れることの方が大事だ。但し理性的な方に限りさうすべき。
馬鹿はむしろ此の際目一杯に苦しみ本を読むなり座禅を組むなどして少しでもおバカでは無ひ方向を見詰めて行かれるが宜しからう。
尚、馬鹿でも救はれ佛になれるのかと云へば實は其れが釈迦の佛法上は無理なのだ。
馬鹿は結局クルクルと輪廻の渦に巻き込まれ、其処であーでもなしかうでもなしとさう悩み苦しみつつ結局いつかは地獄の底へと堕ちて行かう。
どちらかと云ふと馬鹿でもチョンでもまた悪人でも救はれるのがキリスト教であり浄土教の方だ。
禅宗は兎に角修行は厳しひは、👩嫌ひだは観念的論議にも長けて居るはで要するに元々可成にインテリっぽくも出来て御座り學の無ひ庶民の為の佛教では無ひ。
密教もまた精緻な理論的体系を持ち其の反面俗的な現世利益主義なのでもまたあるのやもしれぬのだが兎に角全体としては宇宙哲學のやうなものでもまたあらうからどちらかと云へばインテリぽくもある。但しどうも👩好きのきらひが何故かあるな。
要するに馬鹿はまず救はれぬものなのでキリスト教か又は浄土教の方へ行き其処でもって救はれた方が良ひ。
対して利口に生まれて何かと悩む性質の方は理性がある訳なので七、八割程突き詰めて其れをやり周りのものが皆バカに見へ始めて来たら其れは確かに知識人への道を歩んで居るのではあるが其処でプッツリと其の努力を放棄せよ。
さうして世の馬鹿共と交はりあへて其の馬鹿共に頭を下げてみよ。
しかしながら実は其れ程苦しひ修行は實は他に御座らぬ。
實は其れが其れこそが酒を断ち👩を絶つ以上に苦しひ修行の内容である。
わたくしなどは過去五年程其れを何故かして来ねばらなかった。
周りの馬鹿は無論のこと眞實なのだが其れをどう諭しても治るものでは無く逆に眞理を語るこちらがバカにされたりもするのである。
だが其れは嗚呼まさに其れこそがわたくしが此の世で受けねばならぬ最も大事な試練であり修行の内容であった。
尚、其の馬鹿とインテリの違ひ、乃至は馬鹿と覚者の区別の仕方は可成に難しひものなので其処で良く良く気を付けても行かれたし。
インテリとは相対分別能力ー分別智ーが高くある者のことであり対して覚者とは其の逆に無分別智ー直観的認識に基づく分別智の解体能力ーに優れる者のことを言ふ。
なのだが、實は分別智と無分別智は相剋し相即する関係にもまたあるのだ。
だから分別智を全否定し無分別智へと全的に移行すれば覚者となれる訳では無ひだらうこととわたくしは見て居る。
どだひ分別智を構築することでさへ誰にでも出来ると云ふものでは無ひ。
我我還暦世代に於ひては四年生大學への進学率が男女を合はせ平均しまだ25パーセント程であった。
つまり四人に一人だけが大學にて御勉強することが可能であった。
尚大學とは論理的な思考能力を培ふ場のことだ。
一流大學の受験には悉く失敗したわたくしではあったがー實は文學ばかりをやって居て英語の勉強がまるで出来なかったー地元の大學では勿論トップクラスの理性を持ち合わせても居た訳だ。
なので大學ではほんたうに良く本を読み學んだ。
また試験の時は兎に角講義ノートの貸し出し係を一手に引き受けて居たものだった。
が、わたくしは其れ以降よりむしろ御勉強の速度を加速させもう四十年にも亘り其れをやって来て居るのが普通の利口とはまるで違ふのだ。
つまり大學を出た後からむしろ御勉強を加速させつつやって来たのだ。
で、わたくしの今の思考力は其の一流大出とも遜色無ひレヴェルに達しても居やう筈。
だから大卒はだな、基本的に社会に対して常に責任があるんだ。
高等な相対分別能力を我我は常に社会に対してお返しして行かねばならんのだ。
でも前回はもう兎に角遊べと言って居られましたが其処はどう捉へるべきなのでせう?
だからインテリはたとへ遊んでは居ても社会に対し何かやることがあるだらう。
屁理屈の捏ね回しだの批判だの何でもいいじゃないか、此の際。
要するに利口ならば利口なりに其の知性をより磨き込む努力が必要でありだから全ての抽象的思考能力が無意味だと言って居るのでは無ひ。
だが其の抽象的思考能力を金儲けだの👩たらしだの変なところには使ふべきでは無ひとさう言って居るのだ。
尚最初の話へと戻るが一般に高度な論理的能力=相対知=分別智を持つインテリ程打たれ弱くつまりは絶望して仕舞ひ易ひ。
また其れは理系にせよ文系にせよ同じことなのだ。
だから頭の良ひ👫は兎に角苦しひから常に気を付けて居なければダメだ。
ではキャバクラへでも出向き是非女の躰にでも触れて来てみてはどうか?
まさか今キャバクラへ行く奴など何処にも居らぬぞよ。
逆に自分のウヒルスをバラマキに行く奴は居たがソヒツなどはもう死んだ筈だ。
大酒を飲み理性を麻痺させ其の辺で立小便などしてみては如何か?
じゃあちょっとだけ飲んでみるか。
ああー、其れにしてもいい香りだなあ。
かうしてちょびちょびっと飲む。
旨ひ!
旨ひな、此の原料用アルコールは、度数が六十度もあるのに。
さても何処かにおつまみは無ひか?
あった!コレだ、昨日買って来た信州発の牛乳パンだ。
牛乳パンがおつまみ?
此の際もう何でも良ひではなひか。
どだひ今世の中は其れどころでは無ひ。
有難く牛乳パンを食し早う安倍政権を批判しなくてはならぬ。
ところで首相の女房はバカなのですか?
そりゃあ知りません。
いずれにせよ何かと対応が早かった米國ですら医療崩壊が引き起こされて居る訳だ。
兎に角対応が遅く後手後手へと回る事勿れ主義の日本政府+官僚機構の意思決定が破綻するだらうことはもはや確實だらう。
さて、ほんたうは近くの禅寺ー曹洞宗 宝蔵寺ーでの参禅へと是非出向きたかった。
でも最近は其れも行われて居なひやうなのだ。
尚實はわたくしは其の寺にとっての有名人なのだ。
何故か?
わたくしは若き頃より佛法を學んで居たのでーほぼ独學にてー禅宗のことで理解出来ぬところを御住職に尋ねに行ったりもして居たのだった。
其の頃はまだ廿台の前半の頃だった。
御住職は懇切丁寧に教へて下さり其の折に實はウヰスキーを持参したものだった。
酒と禅宗?
まあまあ、其処はさう固ひことは言はんでも。
佛陀は多分酒嫌ひだったことかと思ふのだが今や禅宗の僧侶でも妻帯はするのだし其処で別に酒を飲むことを禁止されて居る訳では無ひ。
但し浄土教と禅宗はまた全然違ふ大乗佛教で一般に曹洞禅の場合修行が極めて厳しひことで有名だ。
何だけれども其れもかの永平寺にて修行して居るうちは極めて厳しひと云ふことなのだらう。
さて其の御住職がやがて高齢となられ一年と少し前に他界された。
但し其の頃わたくしはとある病院にてひとつの現場を纏めるのに奮闘して居り其の葬儀に出る余裕さへ無かった。
代わりに母が出向ひたのだったが、其処でわたくしの話が出て居たことを後で知った。
其れによると御住職はことある毎に「昔頭の良ひ若ひ人が来て曹洞禅のことを細かく質問して呉れたものだった。」とさう皆様に仰って居たそうなのだ。
つまり其の印象が余りにも強く残って居たのであらう。
尚かの宝蔵寺は家から弐百メートル程しか離れて居なひ。
だから誰が其れを聞きに来たかと云ふこともすでにバレて居り要するに後を引き継がれた息子さんの御住職もまた其のご家族もアノ〇✖さんこそが「頭の良ひ若ひ人」だと言ふことを知って御座る。
宝蔵寺の若住職は何故か家へも時折来られ読経などして行かれるやうだ。
要するに家は其処の檀家では無ひのだが寺の境内にくっつひた八幡社への石垣の修復資金などをかって父母が寄付したりもして居る為さうなって居ることだらう。
其のやうに曹洞宗とは元々縁があった我ながら、其の後はむしろとある宗教団体と関わったりもし皮肉なことに禅宗とは縁が無くなって行った。
何しろ当時は法華経の信徒であり法華経こそが最高の教へであるとさうも信じ込み其の団体での教師の資格すらすでに取って居た。
だがまた其の後は趣味人と化し万年筆ライターをやって居たのであるから實はさうさう宗教一本槍なのでは無く世間の下賤なる欲望の世界はむしろ一般の人々より良く知っても居るのだ。
つまり真面目一本槍なのでは實は無ひ。
海外などへ出向き羽根を伸ばして来たことも實は昔あった。
なんだけれども、兎に角何故か理性派だ。
禅宗の教へが大事だと気付ひたのは五十を過ぎた辺りからだった。
其れが謂はば相対認識を般若智への妨げの問題として直観したことに由来するものなのだ。
かうしたことを述べると其れが所謂科学技術の世界とは違ひウソ臭く思はれるのかもしれぬが事實は逆である。
直観こそが眞實であり科学的記載による構築物はウソだとは言はぬがとても偏って居るものだ。
高く設定されし抽象性により観念的な世界観が其処に虚的に構築されて行く。
つまり其れはバランスを欠ひたものなのだ。
直観的認識は自然のもの其のものでは無く、自然は自然でもっていつも具象的な自然であり其処での抽象的領域は極めて限定されて居やう。
其処を理解するに足る直接的把握が直観と云ふことなのであり、従って直観すれば其れで自然に溶け込めるかと云へば勿論さうでは無く要するに人間は何をしたって人間の侭なのだ。
但し其れにより理解するか又は受け容れられるやうにはならう。
逆に釈迦の教説でのやうに人間としての欲望ー特に抽象的願望ーを抑へ込んで行けば行く程つまりは人間では無くなっていく程に人間は悟りの領域へと近づくことが可能なのだ。
釈迦の教説とは其のやうに徹底的に人間であることを抑へ込み其処で諸の欲望其れ自体を必要最小限なもののみ残し消し去って行くことなのだ。
とどのつまりはまさに其れこそが此の客体世界とのバランスを取り眞我を形成すると云ふことなのだ。
其のやうな認識上のバランスのことをわたくしは此処十年ばかり考へ続けて来て居りようやく其れが統合されて来たと云ふか全体として統一的に直観されるに及んだ訳だ。
だから此の種のことを述べさせればまさに何処までも述べ続けて行ける訳でもあるのだがさうかうするうちでの此の度のパンデミックである。
で、理性派は兎に角絶望もまたし易くもあり何度も言ふやうに気も狂ひ易ひ訳である。
但し今は逆に世間の方がさうした理性的な生き方と云ふか一種の観念性其れ自体を突きつけられて居るのやもしれぬ。
我我インテリはむしろずっとさうして生きて来て居るのだが其の分別智にせよバランスを欠ひて居ればまた其れも本来ならば使へず其れを無理に使って居れば必ずやかうしたことともなる。
要するに分別智にもまた文系と理系の差即ち経験知ー反省知ーと分析知ー前進知ーの双方があり其のバランスを欠くと文明其れ自体がバランスを失ひ転覆しかねぬのやもしれぬ。
尚、ところが無分別智のみでは文明などとても築けぬことはすぐにお分かり頂けることかとも思ふ。
何故なら無分別智には要するにやる気などは無ひ。
やる気の無ひ直観にて文明など築ける筈が無ひ。
嗚呼、わたくし?
まあ常にやる気などは無ひ。
でも仕方が無ひので禅宗やら猫やら庭やらに慰められつつ生きておるのが實情だ。
やる気が無ひのは文學などもまたやる気など無く、其れでもかうしてポコッと常に色んな作品が生まれて来るのは其のやる気の無さを世に知らしめたひばかりでのことなのだ。
要するにもの申したひばかりでの欲の垂れ流しこそが文學なのだ。
ところが科学技術だけはむしろやる気満々だ。
だったら其の科学技術にて兎に角此の災厄を何とかしてみよ。
其れがもし出来たらバランスを欠く分別智でも何とかイケると云ふこととならうがまあまずは無理でせう。
さても此の際其の直観と云ふ特殊能力を最大限に生かし世を救ふとか新教団を創るとか何かが出来るのではありませぬか?
いや、とてもできまへん。
もう生きてるのが精一杯です。
ああ、早く三河の山へでも行きたし。
と言ふのも山の中で瞑想でもして来たひのです。
いや其ればかりでは無く石も拾ひたひのだが。
かうして人間は否応なく限定されて行くことを強ひられて行く。
だがむしろ其れは望ましひことだ。
最終的には有難く此の状況を受け容れざるを得ぬことだらう。
そんなものとても受け容れられませんぞ。
いや、受け容れられぬところへと自分の心がさう追ひ込んだのだ。
きっと信じて居るもの其れ自体が誤って居たのだらう。
社会は特に信じられませんよ。
👩もまさか信じられませんよ。
選択は常に正しくさうして後ろ向きに。
エッ?前向きじゃなひの?
後ろ向きなのの良さをむしろ古今東西の文學から學び直して下され。
で、👩遊びはやるんですか、やらぬのですか?
ハッハッハッ、もはや事實上出来ぬではなひか。
まさにザマを見ろだ。
尚今やりたひことはお寺巡りと教会巡りです。
なのですが、實は今其れを行ふだけの心理的余裕が無ひ。
いやたとへパンデミックでも其れは可能です。
嗚呼さうだ、禅宗の寺でひとつ物凄く良ひところがあるのです。
しかも其処は何と本堂の中まで予約無しで見学可能なのですが果たして今はどうなって居ることやら。