目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

画僧月僊-弐-

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梁の武帝仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契 景德傳燈録第三巻
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り     以上より引用

其処に曰く、
ーわたくしは皇帝として即位して以来仏教に対して多大な貢献をなして参りました。其処にどんな功徳がありまたどんな御利益が頂けるのでありませう?ー


功徳なんぞ無い。


ーなぜ無いんだ?そもこんなにやってきてるだろう。では何が功徳だというのだ、何が。ー

そんなもんはバカバカしひ人間界の小果に過ぎずもうまるで煩悩まみれでの行ひだ。

そんなもんはウソだ、ウソ。須らくが虚だ、虚。


ーでは真の功徳とは何だ?ー

即ち浄智は円相の如しだ。しかれども物質界は元々空虚だ。功徳など此の世に求められやう筈もない。


ーそも聖諦とは何だ?ー

即ちがらんどうにて聖でないことじゃ。

ー朕に対する者は誰ぞ?-
知らん。一切は空だからそんなもんそも認識など出来ぬ。



と云ったやうに禅僧と世俗の権力者との問答は大抵の場合世俗側が不満足な結果に終わり逆に禅僧の側は嗚呼、矢張りと云うべきか機は至っていなかったのだな、なるべく分かり易く述べやうとはしてみましたが矢張り分かりませんでしたかねえ、と云う結果=もの別れに終わるものなのだ。

即ち世俗の価値観はあくまで世俗のものなので謂わば観念的にブッ飛んで仕舞って居る仏教哲理としての価値観には全くついていけない訳である。
ブッ飛んで仕舞ふのは人間にとっての根源苦を対象に据えた上で僧侶はものを考へるからなのであり、世俗の者はどんなに高貴な身分であれ所謂現世利益を元にして観念を組み立てて居るのである。

其れも庶民ともなれば観念がもっと下劣となりつまりはより週刊誌的になる。
然し其れは其れで悪ひことではない。

兎に角価値ヒエラルキーが根本的に違ふので話が噛み合わないのである。
つまるところ価値観の違ふ女とはどうにもこうにも話が噛み合わずすぐに喧嘩別れになることと其れは同じだ。

だから精神的なレヴェルの高低と云うやうなものは常に存在する。
むしろ物質上の高低ではなく精神の上での高低のみが人間には存在して居るのだ。




東方朔が女仙西王母の管理する不老不死の仙桃を盗み出す様子が描かれて居る。


代の詩人李白は彼のことを「世人不識東方朔、大隠金門是謫仙」と褒め称えている。
また、滑稽な行為をすることでも知られ、中国では相声(中国式の漫才のようなもの)などのお笑いの神様として尊敬されている。
『答客難』、『神異経』などの著書がある。以上より引用


東方朔はどうやら変わった人であったらしい。しかしながらそもそも仙桃を盗み出す様子が描かれること自体が極めて面白い。実画を見てかなりに気に入ったもののひとつ。



人間の非業の永生を司る女神であった西王母であったが、「死生命を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。
六朝時代道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の女神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。以上より引用



「不老不死の力を与える神女または仙女」と云うよりはなまめかしい古代の中国の女を描く美人画と云う感じであった。
が、「東方朔図」と「西王母図」を並べて展示してあるのでより分かり易くかつ面白い訳だ。




佛が入滅される折には此れ此のやうに自然界の者共、また天界の者共、また魔の類などが自ずと集ひ悲しむ=弔意を表すことになって居る。
特に純粋なもの或は聖なるものが滅する時には此のやうに集合的無意識を通じて悲しみが伝わることだらう。

然し仏陀自身は一面では合理的哲人であったことを忘れてはならない。
まさに頭脳明晰でもってしてグダグダとした感情面に惑わされる方ではなく事実自身が死んだことに拘ってはならぬ、などとも遺言されて居たのだった。

だから其処で死んで余計に自身を神格化などしてはならずまた遺体即ち遺髪や遺骨などに拘ってはならないとも述べられて居たのだった。

しかしながら俗世間の価値観=弟子の価値観は聖なるお釈迦様とはまた別物であり、ゆえにその後仏像は出来るわ、仏舎利は安置されるわ、などと云うやうに所謂世俗化過程のみが膨らんでいくことと必然的になる。
其れもコレも全ては価値観の違ひ=観念のあり方の違ひに起因することだ。

聖なる者は俗情には惑わされずたとへば週刊誌や女の方などはまるで向いて居ない。
実はヒットラー天皇制などの方にもまるで向いておらず、たとへば空、さうして無常、さらに無、認識、実在、死と生、などと云うやうに物凄くデカい問題の方と常に格闘しておる。

だから暇が無い。

週刊誌や女の方を向く暇などまるでない。
さうしてお釈迦様は其の究極の精神の潔癖さを此の世でもってして貫かれたのだと言えやう。


月僊「巌上錦鶏図」

個人的にわたくしは人間よりも花鳥風月を描いた絵がとても好きで此の絵の場合も至極気に入り繰り返し観賞して来たものだった。

特に綺麗な鳥を描いたものがお気に入りだ。

鳥とは不思議なもので其れは意外と狡賢くしかも群れて行動しなかなか嫌らしひものだ。
でも綺麗な鳥はまさにこんな風に綺麗ですよ。




   

月僊は作画の代金を必ず請求し「お金に汚い」などと言われることもあったようだ。
ただし貯めた金は、お寺の復興や様々な社会福祉事業に使われたとされて居る。
信仰と弱者救済に生きた月僊の優しい眼差しは浄土宗と云う弱者の為の信仰の視点ともまさに一致して居る。




奔流に落ちてしまう盲人たちを描いた、京都・知恩院所蔵の「百盲図巻」も観ることが出来た。
尤もこの絵は無明の闇をさまよう信仰の無い者への警覚とのことである。
ここからしても其の月僊の優しい眼差しとは単なる障碍者保護とは異なる視点のものである。

重要なことは盲人だから救われるのではなくしてまさに信仰するから救われると云う点にある。
ゆえに逆に差別してはいけない訳である。

女性だから、老人だから、障碍者だから必ず救われる訳ではなくまたどんなに元気な人でも本質的に救われて居る訳ではないのだ。

其の人間の本質的な弱さの為に宗教即ち信仰の意義と云うものがある。
其処からしても此の世にほんたうの強者など居ない。

百億稼いだにせよ実際いつ死ぬか分からぬ。
が、今日食ひ物が無いことはまた今日暖房費が無いことは其れは確かに切実なる問題でまさに生きるか死ぬかの問題だ。

だから問題に等級など付けられぬ。
故に達磨への王の問ひでの問題と貧民の生死の話はどちらかより高等でより切迫した問題であるかと云う類での問題ではない。

だが概ね浄土宗は貧民の救済をまず考へておる。

矢張り其処は偉ひのだとも云えやう。



さて此の度我が家の近くの禅寺の前の御住職が亡くなられ其れでもって至急の連絡が入り香典を持っていかなくてはならぬ。

然し先日真宗の方の前の御住職が亡くなられた折には、跡継ぎの御住職が香典は一切要りませんとさう仰ったのだった。

其処からしても貧乏人から金を毟り取ることのない真宗こそは偉ひ!


いや、何も曹洞宗が悪ひと云うておるのではない。

其の大和尚様に我は一度教へを乞うており其の折に懇切丁寧に禅の教義の内容につき教へて頂いたのであるからー其れももう三十五年も前にー金を出すのはむしろ当たり前のことだ。

其の御恩を思へばもうそんなものでは済まぬ。

本来ならば百萬円相当のお布施をするべきだ。

が、其れは幾らなんでも無理なので出来れば一萬円でもってご勘弁願ひたい。


まあ然し寺も大変だぞ。

それにつけてもあれ皆世襲なんだな。

坊主も今や皆女房、子供があり嗚呼まさに世俗化して居るんだ。

でもいざ世俗化すると大変だぞよ。

欲に目が眩んで仏教としての本義を忘れることにもなりかねぬぞよ。




かの西行は頼朝より賜った銀製の猫を惜しげもなく子供等に呉れてやったのだと云う。
かように僧にとり価値のあるものは名誉でもなく地位でもなくかつ財宝でもない。

また実は寺の存続でもなければ後継者でもない。
ではあるが生き抜く為には謗法もまた覚悟でやらずばなるまひ。

ちなみに月僊にも此の画題のものがあり良い絵なのでわたくしは其れを何度も見直して来た。

然しネット上に画像が無い為代わりに此の絵を貼り付けておいた。