風邪が治らずで相変わらず免疫力の弱い自称の詩人ですがそんな中藝術に対する思ひばかりは純粋で久々の美術鑑賞に行って参りました。
元より詩人と云うからには
古今東西の文化的要素につき悉く精通しておかねばならなひ。
わたくしは
象徴主義の絵画が大好きで其の本山とも目されるべき
岐阜県美術館を屡訪れて居ます。
ではあるがたとへば伊藤
若冲のやうな
日本画も嫌ひではない。
もっと地味なものの方に興味があるのです。
もっと限定されて居て奥深いもの、そんなものにこそ興味があります。
また其れはローカルでなくてはならない。
文明的文化=謂わば文化の為の文化ではなくして生活または居住地に根差す文化、実はコレこそが文化的限定であり實の文化なのであります。
要するに文化的限定こそが血肉の通った文化であらうとさう結論付けて来て居ります。
また食文化などもさうです。
たとへば江戸の人は江戸の食文化を大事にすべきであるし関西の方々は上方としての食文化を重視し中部は中部でまたそれぞれの食文化があるので其れを最大限に持ち上げ同時にトコトン味わふと云うことのみ。
文化とは本来ならばさうしたものなのです。
そんなグローバルにどうのこうのなどと云う事は如何にもはしたない。
下品です、下品。
現代の文化の底流に此の下品さのある限り新しひ文化文物に何か新たな価値が生まれて来ると云う事は考へにくい。
要するにもはや文明の構築する新たな価値と云ったものには興味が無い訳です。
其処でタダひたすらに古ひものばかりを追い求めて来て居ります。
其の古ひものの中にも近代的要素が多く入るものが
ありさうしたものには余り興味が湧かなくなりつつあるとさう申して居ります。
尚文化的洗練度に関しては其れが都会の文物だから優れて居て田舎の文物だから劣って居ると云う事は当てはまらない。
勿論藝術のレヴェルではさうだと云う事です。
ですが服の流行や新しひ思想などに関しては所謂垢抜けた都会のものの方が恰好良く見えるのかもしれない。
なのではあってもさうした流動的な価値に踊らされて居るやうでは本質の部分は見えて居ないと云う事も往往にして言えるのでせう。
だからもうさういう下品は要らないので本物だけを見詰めつつ余生を送っていきたい。
などと老人のやうなことばかり言って居りますが見た目は45歳ですので外見に限りわたくしは若い。
ところが精神年齢が九十歳なんですね、其れももうほんたうに九十歳なんです。
特別展 画僧 月僊
尚月僊と云う画僧のことはわたくし自身をも含め周りでは誰も知りませんでした。
藝術には詳しひ筈の七十五才の叔父も全く知らなかったそうです。
知恩院に住した浄土宗の僧とのことで、其処は何故か最近のわたくしの主張とも関係して居る訳です。
即ち浄土思想こそはまるで死ねと言われて居るが如くに虐げられし大衆=貧民、病人、文盲をして此の世の地獄から救ひ出し極楽=天国へと迎へ入れる至上の教へである。
禅や
密教では此の多数の苦しみを救ふことなど出来ぬ。
さうではなくイ
エス様の説く切支丹か又は浄土系の思想こそが真に苦しんでおる足蹴にされし者どもを、其の社会に圧迫され殺されかかっておる弱者を救ふことの出来るのは此の救済の宗教のみ。
さうだ社会は無慈悲にも弱者をいたぶり精神崩壊、身売り、自殺へと追い込んでいく。
かように社会が悪ひので人間の底辺層は決して幸せにはなれぬ。
では其れを改めませうと云うが今度は女子供や障碍者ばかりが持ち上げられ何故か高齢独身男性が窮地に追い込まれることとあいなった!
其の高齢独身男性をも救ふ思想はもはや救済宗教しかない!
ゆえに浄土宗は正しひ。
また切支丹も認める。
なんとなれば兎に角社会が救われぬ程に悪ひ。
まさしく其は悪魔ぞ。
社会は認められぬものなのでいっそのこと社会は捨て天国=極楽へ出向かう。
尚かの徳川 家康と浄土思想との因縁はかって深いものがあったとされて居る。
厭離穢土
「厭離穢土欣求浄土」は戦国時代、徳川家康の馬印に用いられたことで知られる。
松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。
すなわち、戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味であった。 ー以上より引用ー
この娑婆世界を「穢れた国土」(穢国)として、それを厭い離れるという意味であり、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味。
語源は、源信の『往生要集』冒頭の章名に由来するが、その内容は「欣求浄土(ごんぐじょうど)」とともに、浄土教思想の基本的特質を表している。 ー以上より引用ー
わたくしが一番分からないのは、即ち
現代社会は何故全ての人間に極楽浄土としての世界を用意出来ないのかと云う事です。
文明の進歩と云うものはそも其の為にあった訳ですがこと幸福度に限り実は江戸時代とほとんど変わって居らずそればかりか其れこそ
弥生時代と比してもちっとも変わりは御座ひません。
逆に悪くなって居るのではないか。
つまるところ社会の悪さは、其れだけはどう文明が進もうが治りませぬ。
其の悪ひ社会から逃げて極楽浄土=天国へ行きたいと思ふのは人間としては至極当たり前の感情です。
事実安倍政権はおかしいわ、
共産党や
日教組の言っておることなどもっとおかしいわでキチンと理性を備へるまともな人間など此の世には一人も居なひではないか。
其の中では我などまだまともな方だ。
だからもう全てを捨てて極楽へ出向くべきだ。
むしろこちらから出向かねばならなひ。
さうして穢れ切った
現代社会を見限り早う天国へと昇っていかう。
では何故
現代社会はそんな搾取文明にしかならないんですか?
近代以降は全部が其の搾取文明だからだ。
さう全部が搾取だ。
左様に富は搾取と貧困とに分かたれる。
ゆえに
マルクスは常に正しひが今問題なのは科学者や技術者が搾取側に回って居ることだ。
兎に角文明は弱者から搾り取る。
然し現在の弱者とは女性や性的マイノリティ並びに
障碍者なのではなく未婚の高齢独身男性のことだ。
高齢とは五十歳以上の男性のことを云う。
尚女は高齢者にはならない。
何せしぶとく生き続けるので七十にならうが八十にならうがたとへ殺しても死にゃあしなひ。
未婚の高齢独身男性への
ベーシックインカムの制度の早期実現、もはやコレのみを我は切望してやまぬ。
だが其れが実現しなひので此の際死んでから昇天することだけを希望に生きて行くべきだとさう訴へて居るのだ。
其の為には本腰を入れ浄土宗のことを学んでみる必要がある。
また五木 寛之先生の作品に就いても読み返してみなければなるまい。
とそんな訳で月僊のことを論じる積もりがつひまた社会批判になってしもうた。
どだい何故世の中はこうもチグハグなのか。
また何故欲に目の眩んだ悪が此の世では罷り通るのか?
其の部分を何とかせぬ限り万人にとっての幸福など訪れ得ぬ。
が、どうにもならないものはどうにもならぬ。
なので天国へいく。
誰だ、念仏は謗法で地獄へ堕ちる教へだなどとふれ回って居るのは?
地獄へ堕ちやうがどうしやうが此の現世地獄に我慢がならぬので何とかして逃げたひばかりのことだ。
其のやうな現世からの忌避、遁走は仏教では悪ひことだとはされて居ない。
釈迦の仏法は現世を否定せず尚且つ肯定もしなひものだが結果的には其れを否定するものであることを忘れてはならなひ。
ゆえに現世利益を求めるあらゆる仏教宗派こそが謗法でありまさに地獄へ堕ちる為の謗法の教へである。
現世利益を求めてはならずまた
生殖器の制御を甘くしてもならぬ。
ただし、釈迦はおそらく浄土思想を御認めにはならぬことであらう。
だから浄土思想はむしろ海外向けの思想なんだ。
天国の代わりに極楽があることを伝へることこそが大乗浄土思想繁栄の為の唯一の方策であらう。
然し現実的には浄土宗系の仏教は海外では人気が無いのだそうだ。
何故か?
即ち
キリスト教仏教には魅力が無いと言うことに尽きておる。
海外で人気のあるのは瞑想即ち座禅だ。
其れで大金持ちの現代の資本家などが皆こぞって座禅し精神の世界へ入っていこうとする。
ところが大金持ちは天国や浄土には入れぬ。
金が無く苦しひ者のみが天国や浄土に入って
いけやう。
性差や善人か悪人であるかそんなことには関わりなく苦しひ者のみが浄土の門を潜るのだ。
ゆえに苦しみに喘ぐ者共、汝等は幸ひである。
然し搾取に搾取を重ねることだらう社会の上部構造を構成する者共には其の天への門は閉ざされておる。
逆に死後に地獄への門こそが開かれておる。
うーわー、ドンドン堕ちる。
欲深い者共が全部堕ちる。
助けてー、もう搾取しませんからどうか命ばかりは取らないで。
ダメだ、地獄へ堕ちてこそ君等の欲深さは消滅するのだ。
其の罪を贖へ、其処で這いつくばって永久に贖へ。
社会の上部構造にとりかように天国や極楽への道は閉ざされておる。
金持ちや社会的に偉ひ人など此の世で思ふがままに良い思ひをした人は悪とされ逆に地獄へ堕ちる。
どうも構造的には至極気に入った。
されど問題が一つあり、其れは死んでからでないと救われないとされて居る部分である。
然しいずれにせよ此の世では救われないと云う認識は基本的に正しひ。
此の世には何も遺せずどんな希望さへもが無い。
そのままでは無い。
此の世以外の領域で救って頂く。
其れの何処が悪ひのだ?
実際もはや其れしかないではないか。
其れ程までに社会は混乱し尚且つ性根が腐って居る。
つまりは社会が悪ひ。
だから社会を捨てあの世で救われるのだ。
いやー、もはやコレは究極の厭世思想なのではなかろうか。
大秦景教流行中国碑
明治末に来日したアジア研究家の英国人であるE・A・ゴードン夫人は、真言宗と景教の関連性を確信し、高野山に中国・西安(長安)にあった景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカを建立した。この記念碑は、今も高野山に現存している(夫人の墓もその隣りにある)。空海は中国で景教についても学んだとされる[8]。
浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、景教の聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である『世尊布施論』が所蔵されており、この事実を以て、親鸞が景教に学んだとする説を唱える者もいる[9]。
いずれにせよ洋の東西を問わずして社会は太古から悪ひものでロクなものではない。
どんな社会的な理想も其処では実現せず逆に矛盾化しつつ社会は滅んでいく。
故に現代の文明も滅ぶ。
然したとへ世が滅んだにせよ天国=浄土が滅びることはない。
天国=浄土は其れを信ずる者には永遠に存在し続ける。