目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

日本人の信仰とは壱體何だらう

何でだらう?3

 

 

 

尚本日はEテレの視聴をして居たのだったがまた其処から大きく示唆を受けた。

 

 

其の櫻井 敦司と云うミュージシャンを我は知らぬのだが例のソロ・キャンプが好きな芸人のヒロシのことは知って居るので興味があり此の番組を視てみた。

BUCK-TICKの櫻井敦司 × 芸人のヒロシ Eテレ『SWITCHインタビュー 達人達』11月6日再放送 - amass

 

ちなみに此れは五拾代も半ばの櫻井氏と四拾代も後半のヒロシ氏との謂わば「大人」の対談である。

さうして重要なことは此の弐人が共に根暗即ち「内気な性格」をむしろ売りにして居ると云うことである。

 

即ち近代社會が強いる「やる気満々」の世相に対しむしろ反旗を翻して来て御座る。

但し其の反旗の内容はテロや闘争では無くあくまで反骨であり内省なのだ。

 

無論のこと其の反骨であり内省であることこそがあくまで藝術家としての社會との闘争のことだらう。

 

 

即ち藝術家は外面を闘うのでは無く常にさうして内面をこそ闘うのだ。

勿論我もまた其の種の闘争の履行者なのだ。

 

其の対談の内容はやがて人間関係が齎すストレスの話となる。

即ち其れが嫌いなのが其の「内向的」な=「暗い」人間なのだ。

 

ところが逆に「外交的」な人にとっては其れが苦にはならない。

だから近代其れ自體がそんな性質にむしろ寄り掛かり成立して来たのだとも言える。

 

曰く何でも「前向き」に捉え「改善」する即ち進歩する。

だが其の挙句に自然を大破壊して仕舞った。

 

 

と云うことは其れは誤った思想である。

などと根が暗い人はついさう言いたがる。

 

で、事實としてほんたうにさうだった。

 

特にコロナ禍以降は其の暗い人達が持つ価値観に注目が集められるやうにもなった。

なのでソロキャンプのことが屡語られ「ポツンと壱軒家」なる昔では考えられなかったやうな地味な番組が制作されて来ても居る。

 

まさに其れが近代と云うイケイケドンドン思想に対する反省の部分なのでありおそらくは此れ迄とは異なる価値を模索することへの端緒なのではないか。

 

 

其の時代による洗脳、また政局に於ける洗脳、其れはまた哲學者オルテガがかって述べたが如き大衆文化と密接に関わり合うであらうまさに破滅への道のことだ。

其の様を正確に見て取れる人間とは謂わば「やる気のある」人間では無く其れを放棄した方の側だらう。=やる気が無く役に立たぬ人間のこと

 

彼ヒロシは結局さうして自分は「逃げ」たのだと言う。

さうして櫻井もまた其の「逃げ」のことを良く理解して居た。

 

 

BUCK-TICK 「MOONLIGHT ESCAPE」MUSIC VIDEO - YouTube

第壱此れなどはもうほとんど宗教ソングでありしかも其の「逃げ」をテーマに据えた曲だらう。

 

曰く、

 

「悲しみの無い世界ーへーESCAPE」

 

さうして櫻井氏とヒロシ氏は逃げた方が良い場合もあるとそんなことを確認し合うのであった。

さて文學とは其れも純文學とは結局其の「逃げ」を書き著すもののことだらう。

 

さうしてかって芥川がまた太宰が三島が川端がしかと逃げたのだと思う。

其の「逃げ」は然し正当なもの、至極まっとうなものであったとわたくしは述べて来た訳だ。

 

ところが其に「逃げ」を多くの人がまた誤解して居る。

 

其れもマイナスの価値を選ぶことの方がむしろ正しい場合もあると言うのに。

其のやうに価値が壱元化して仕舞うこと、即ち壱方通行の頭になって仕舞うこと自體が近代による洗脳の内容であると言うのに。

 

だから藝術家は常に両極を見て置くことこそが其処に求められて居る。

生死、男女、美醜、自然と人間と云うやうに其れを同時に俯瞰視して置かねばならない。

 

 

で、凡庸な人には其の能力が欠けて居るのだともまた言えやう。

だが彼等櫻井氏とヒロシ氏はおそらく其の部分につきしかと気付いて居ることだらう。

 

 

 

こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

 

實は其の対談番組の前に、

遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」ー

と云う番組をやって居たので其れを視た。

 

しかしながら其の遠藤 周作をわたくしは読んで居ない。

まるで読んでは居ないがキリスト教作家としての遠藤の作品には大いに興味がある。

 

尚先日述べたやうに結局此処日本では「浄土信仰」として変容した天國観、所謂浄土観が受容されるに至ったのだと思う。

従ってキリスト教其のものは日本の風土や體制とはほぼ無関係なものだ。

 

さうして元元無関係なのではあっても結局日本は近代化されて居るのであるからほんたうは無関係なものでは無いのである。

また日本の宗教は所謂ゴタ混ぜでの宗教なので其の点からもキリスト教イスラム教のやうな壱神教だけが無関係なものだとは考えにくい。

 

 

例を示せば浄土教はさうした景教キリスト教ネストリウス派ーとの繋がりが濃密であったことだらう。

 

浄土真宗とキリスト教 (millnm.net)

さらにまた親鸞景教の繋がりが濃密であったことも指摘されて来て居る。

 

 

<コラム>日本の空海と中国に伝わったキリスト教「景教」の意外なつながり (recordchina.co.jp)

かやうに空海景教にも繋がりがあったことを論じられて居る方などもまた居ます。

ですが、矢張り密教ヒンズー教化した佛教なのだとさう思われます。

 

思うに現代社會の問題特に米國や此処日本でのやうに功利化された文明社會では精神的な課題がより多く大きく生じて来るのではなからうか。

即ち合理主義の實験國家としての米國と其の🐕の日本とでは最大の危険が其の精神の問題へと収斂されて行くのではないか。

 

其れに両國共科学技術に対する信仰の度合いが高くある。

逆に英國などではもっとずっと保守的なのでせうから其処では科学技術なんぞまるで信じては居ないのやもしれません。

 

 

だから日本人はむしろとても眞面目で利口でもあるのですがこと宗教や政治、さらに哲學の分野に関して概ね疎いので其の分野ではむしろ何が起こるものやら分からぬ不気味さがありませう。

さう僕は日本人の精神は此の侭ではマズいと正直思って居ります。

 

尤も僕自身の精神が完璧だともまさか思ってなど居ませんのですが…。

で、日本の政治はすでに危険領域を越えほとんど死ぬか生きるかと云う選択の状況へと突っ込みつつあるのではないでせうか。

 

いや、まるで大丈夫だ。

其れもアノ🐶キシダがちゃんとやって呉れやう。

 

さうかなあ。

何かドーブツ臭いのが気になって仕方がありませんのですがね…。

 

もしや奴もまた「🐕死に」するのではありませんのでせうか?

いやだから自民党が人間であるか否かの試金石として此処数年があるのだ。

 

で日本がもし沈没するやうなら其れは自民党其れ自體が「どーぶつ園」だったと云うだけのことだ。

 

うわあー、其れも怖いな。

そんな「どーぶつ園」と付き合う位なら僕はむしろ純文學の方へと逃げて行きます。

 

確かに其の方が良い。

何故なら結局「逃げるが勝ち」だからなのだ。

 

 

さても其の遠藤 周作こそが偉い作家なのですか?

まあ偉い作家なのだと思いますよ。

 

其れも読んでは居ないのでまるで分かりませんのですがとても偉いキリスト教作家なのでせう。

 

遠藤周作 『沈黙』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

 

沈黙(遠藤周作)のあらすじを短く&詳しく⦅2017映画 原作の世界⦆ | 笑いと文学的感性で起死回生を!@サイ象 (rhinoos.xyz)

沈黙(遠藤周作)で読書感想文を【2000字(5枚)の例文つき】 | 笑いと文学的感性で起死回生を!@サイ象 (rhinoos.xyz)

 

 

考察・感想・あらすじ『沈黙(小説)』(遠藤周作)ー日本人にとって宗教とは何かー | KEN書店 (houjouwomamorenakatta.com)

さて此処からはまさに考えさせられる部分が多く出て参ります。

 

父性原理社會⇔母性原理社會

 

先に日本の社會は母性的に優しい社會であると書きましたが問題は21世紀となった途端に自民党の政策が其れを百八拾度変え父性原理社會として仕舞いましたことです。

故に今の日本社會は必ずしも國民に取り優しい社會ではありません。

 

むしろ父性原理導入による血も涙も無い合理化社會が我我に対し突き付けられて来て居る訳だ。

だから選挙でもって自民党などを選んで居ては金輪際ならない。

…のについ選んで仕舞った。

 

あーあ、やっちゃったな、其れではどう考えても社會科が零点なのだがイザやっちゃったものはもう元には戻せません。

では再試験ですか?

 

いや再試験など何処にもありません。

アナタ方はもはや社會科の通知表は壱です。

 

まさか壱番ですか?

さう、まさにビリから壱番だ。

 

 

 

  •  日本のキリシタンたちが信じているのは、神ではない
  •  そもそも日本人には、人間を超えた「存在」を理解できない
  •  日本人は、キリスト教をまったく別物に変化させて理解している
  • 年末年始に神社にお参りに行き、受験合格や交通安全や無病息災を祈る。
  • 8月になれば、お寺へお参りに行き、お経をあげて先祖を供養する。
  • 12月になれば、家族でクリスマスを楽しむし、結婚式はチャペルであげるかもしれない。
  • そんな日本人の多くは、「宗教は何ですか?」と問われて、こう答える。
  • 無宗教です」

 

考察・感想・あらすじ『沈黙(小説)』(遠藤周作)ー日本人にとって宗教とは何かー | KEN書店 (houjouwomamorenakatta.com)より

 

私の場合其の日本人の宗教観は近代的なものにはなり切って居ないとさう考える。

但し日本人の心の中に所謂宗教心、信仰心と云うものはしかと宿っては居るのだらう。

 

また神や超自然的存在が理解出来ない訳でも無いことだらう。

何故なら日本人は未開の部族などでは無く東洋壱頭の良い民族なのだから。

 

さうして日本人は利発で受容力が高くあるのだが他面でお人よしでもって舶来物を尊重する気風があるので宗教をごちゃまぜに取り入れ過ぎ何が何やら訳が分からぬやうになって仕舞った可能性が高くあらう。

 

いまひとつには「現世利益主義」の弊害と云うことが挙げられやう。

何故ならー國家ー神道もまた大乗佛法もまさに其の「現世利益主義」の権化だからなのだ。

 

日本が中國から輸入した中國の大乗佛法には元々其の「現世利益主義」が多分に含まれて居た筈だ。

故にヒンズー教化したりまた景教化したりした佛法には世俗的な要素=「現世利益主義」が必然的に組み入れられて仕舞う。

 

だがだからこそ親しみ易くより多くの人に受け容れられる佛法となって行く訳だ。

でもそんな世俗化した佛法を拒絶し山の中で僧侶だけが厳しい修行をやりある面では本気で解脱しやうとしたのがまさに禅宗であった訳だ。

 

また天台宗日蓮宗さらに學會を悪く言う訳では無いのですが「法華経」其れ自體が後代の創作物である感が否めず要するに其れは純粋な意味での佛教経典では無いのである。

 

よって其の「現世利益主義」が自然増殖しやがて其れが蔓延すると日本人は必然的に佛教徒であることさえをも見失って行く。

でもたとえ其れを見失っても神道の方があるのでお正月位は樂に過ごせるのである。

 

 

第壱我等も屡神社へは行くのだしさても其の様や壱體何処が生粋の佛教徒なのであらう?

で、神社へ行くとどうしても現世利益を願掛けしたくなるので實は其れをなるべく避けたいのだが避け切れはせぬものだ。

 

何故なら土地の記憶、自身の身體の構成の記憶と其の氏神様とがほとんど壱體となって御座る訳だ。

だからまるで神道を否定し切れぬ訳だ。

第壱氏神詣でをすれば酒は飲めるわ餅やら何やらが貰えるわで樂しいこと此の上無いのである。

 

なのであくまで日本に於ける宗教とは須らく其の現世利益により選び取られる非精神的営為なのだと言っても良い。

だからむしろ其れは何でも良いのである。

 

従って其れはあくまで「無宗教」化して行かざるを得ない。

 

ではあっても、其の「無宗教」化による日本人への精神のダメージの大きさを鑑みた場合に当然のことながらまさに其れが長期的には命取りとなることなのやもしれずだから此れではイカン、是非何とかせねばならん、もはや何教でも良いからしかと宗教をやって行かねば日本人の精神はお仕舞いだ!

との壱心から信仰してみたら富士山の麓の施設の方へと入って仕舞いました。

 

ですので、まずは何教でも良いから「僕は佛教徒だ」とか「私はキリスト教徒です」と云う具合に自分で決められる位の宗教に関する御勉強位は最低限して置かねばダメだ。

 

で、わたくしが屡其処での注意点として挙げて来たのはまさに「日本に於ける信じる宗教の選択は其の内容がゴチャゴチャになり易く非常に難しい」と云う点である。

なのでむしろ何教は邪教だとかアレを信じたらお仕舞いだ!とかさうは思わない方がまさに身の為なのだ。

 

 

何故かと申しますと大乗佛法は元々可成に邪教である要素を多く含んだものでもあるのだから。

だから佛法を潔癖にやりたい方はむしろ東南亜細亜にてお坊さんになるか其れとも永平寺でもって半殺しにあうやうな厳しい修行を行い小賢しい観念を破壊するかのどちらかなのだ。

 

またキリスト教を突き詰めてやりたい方は是非カトリックの國へでも出向き其処にてなるべく純粋なキリスト教を學ぶべきなのではなからうか。

 

兎に角此の日本なる國こそが其の精神的には如何にも変な功利主義化した國家なのだと思う。

だが其れはプロテスタント信仰國としての米國とはまた全然違う精神的展開なのだと思う。

 

 

さて其の功利主義が抱える問題とは最終的にはまさに其の信仰の問題へと帰結するのである。

ちなみに「無宗教」であることと「無神論」であることとは違い「無神論」は合理主義の壱形態として思想的に成立するが「無宗教」と云うのは實は未開の部族に置いてさえオカシイ主張である。

 

つまりは其れが人間以下での立場を表明する立場なのだ。

 

尚日本の精神的領域をかうして訳の分からぬものとして来たのはあくまで政治が悪いのだとわたくしは考える。

左様に明治以降の日本の政治こそがむしろ最悪なのだ。

 

だから政治家はたった今もう全員辞めてお呉れ。

尚此の問題は日本の将来に取り非常に根深いものを孕んで居るので次回はさらに突っ込んだ形にて論じてみたいところではある。