目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

民主政治としての品格

何でだらう?2

 

 

 

立民代表選、早くも混戦模様「共産党切り捨て」は? 大串氏、馬淵氏…絶対的な後継候補存在せず 年内にも実施 (msn.com)

立憲民主党もさうして右寄りになって仕舞えばもはやお仕舞いです。

 

公明党“18歳以下に10万円”自民党との協議本格化へ (msn.com)

さても其の子供に何で壱人当たり拾万も与えるのですか?

 

公明党も子育て、教育を唱えるより先にまずは貧乏人に廿萬ずつを配るべきなのではなからうか。

だから子等に拾萬与えれば其れこそゲームをやったりスマフォをやったりでもうロクなことにはならないでせう。

 

またおそらくはエロ動画なども視るやうになりますぞ。

折角の宗教政党がそんなでは此の國の精神はもはや死んで居ます。

 

此のやうにかの國日本の政治状況はもはや絶望的だ。

 

 

危険なほど劣化した自民党を「見る目」──政治の正論を一度読んでおこう|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

其の政治の劣化は前回述べましたやうに我が國での民主制導入の失敗の部分にこそ最大の因があります。

 

つまり其れはまさに今に始まったことでは無く日本と云う封建國家の近代化に関する問題なのだ。

要するにむしろ黑船が来た頃からの壱種宿命的な問題なのだ。

 

だから其れは立憲民主党がまた日本共産党がさうして自由民主党が悪いと云うことでは無く日本と云う國自體が悪いつまりは問題なのだ。

 

ですので、其のことはもはや誰にも直せません。

人間では治せずしかも👽は決して我我を助けては呉れない。

 

勿論其の宇宙人を皆が必死に念力にて呼び「救い」を求めるやり方が無い訳では無い。

ですが👽は僕等程低能では無く要するにより理性的ですので元よりそんなバカを相手になどしては呉れません。

 

 

ー党の執行部が政治家を指名し選んでいることになります。自民党総裁=首相ですから、これは官邸(首相、官房長官)の意向と重なり合います。

政治家は有権者を見ているのではなく、公認許諾権を行使する権力者のほうを見て、その意向を窺い、忖度するようになっています。さらに政治家(権力者)は自らの統治・行政を正当化する道具として“議席数という民意”を持ち出し利用するようになりました。議席数と民意とは必ずしもイコールではありません。

この小選挙区比例代表並立制を最大限利用し、さらに“民意”というツールを利用し権力基盤を強化した始まりは小泉政権下での郵政民営化選挙でした。ー危険なほど劣化した自民党を「見る目」──政治の正論を一度読んでおこう|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)より

 

其の小泉政権より以降顕著に日本の全てが破壊されて行きました。

即ち新自由主義全盛時代となりかっては存して居た日本の良識までもが破壊されるに至った訳だった。

 

で、其のコイズミの何処が支持されたかと申しますと其の変なヘヤ―スタイルとアノバカみたいなパフォーマンスだけだったのです。

即ちまさに其処からバカがバカを支持すると云うまさにおぞましい政治状況が繰り広げられて行ったのでした。

 

 

 

ーこの郵政選挙は今に続く“劇場型選挙”の始まりにもなりました。演説や答弁などで政治家がキャッチフレーズのような一言を多用するワンフレーズポリティックスもここから始まりました。これは明快というよりも単純化によって、聞く方に思考停止をもたらしたのです。

純化でいえば敵・味方という二分法、選挙の流行語になった“刺客”という言葉もそうです。抵抗勢力というレッテル貼りと刺客、これほど権力者の立場から色分けしたものはありません。

自民党政治家に劣化をもたらした党執行部追従態勢、それは権力者へのイエスマンを増やし続けています。魔の二回生議員云々も執行部依存で当選した弊害のあらわれです。ー危険なほど劣化した自民党を「見る目」──政治の正論を一度読んでおこう|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)より

 

何度も申しますが頭がオカシイと云うことは「悩まなく」なることであり「悩む」ことではありません。

また「批判」はむしろ近代的な体制を健全に維持する為には不可欠なことです。

 

逆に「批判」されぬ体制とはまさに君主制であり其れは民主主義とは根本的に異なるものでせう。

今世紀に入って以降、其れも自民党政治の総括とはまさに其の君主制の確立の為だけに費やされた年月でした。

 

故に暴君は是非倒さねばなりません。

だから其れがまさに自民党だと適菜氏も堤氏もまた藤原先生もさらに我もかうして口を酸っぱくしつつさう述べて来たのです。

 

 

ー今の日本では行政権力の肥大化が目立ちます。解釈改憲閣議決定重視は国会軽視に繋がります。国会の重要な役割である行政権力のチェック・監視が十分果たされているとはいえません。ー危険なほど劣化した自民党を「見る目」──政治の正論を一度読んでおこう|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)より

 

其のチェック・監視も何もありません。

さうしてウンコを垂れ流ししかも寝小便にて床と體がべとべとですのにもはや誰も其のことを気にして居ません。

 

ですが教師や弁護士や医師などのお利口な人々は皆怒って居る筈です。

或は宗教家などもこれはイカンとさう感じられて居るのやもしれぬ。

 

 

ー1.現実を直視せず、希望的観測で現実を認識したような自己欺瞞に陥る。

2.既成事実への屈服。事ここに至っては後戻りできないとあきらめ、誤った政策をズルズルと続ける。

3.権限の逃避。誤った政策が事態を悪化させることを認識しても、自分にはそれを是正する力はないと、自らの立場・役割を限定した上でそれに閉じこもり、政策決定の議論から逃避する。ー危険なほど劣化した自民党を「見る目」──政治の正論を一度読んでおこう|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)より

 

で、逆に自分等は偉くて利口だとさう威張って居る始末です。

ですがほんたうは自分等が偏差値が37に落ちしかもお漏らし政党になって居るにも関わらずです。

 

なので少なくとも良識のあるインテリさん達は皆怒ることでせう。

ですから政治家はそんなふしだらな人間達ではとても務まりません。

 

 

尚本日は『国家と教養』を読み進め結局日本の章のところを読んでみました。

其処でかっての日本には確かに其の教養があったことを改めて思い知らされました。

 

 

藤原正彦 『国家と教養』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)

 

――本書の中で藤原さんは「教養の四本柱」を挙げています。独特なのは、「人文的教養」「社会教養」「科学教養」につづいて、「大衆文化教養」を挙げている点です。
藤原 最初の三つは、いわば現代社会を生きるために必要な知識の話。でも、本当に大事なのは、この「大衆文化教養」という最後の部分なのです。
 どうして日本の教養層はひ弱だったのか。戦中にはあっさりと軍部にだまされ、戦後はGHQに洗脳され、現在は新自由主義イデオロギーの虜になってしまうのか。それは、西欧崇拝に基づいた「教養」が上滑りのもので、本当に身についていないからです。日本人にとっては、日本人の情緒や形と一緒になった知識でないと、本当には身体にしみこまない。つまり、ホンモノの教養とは言えないのです。
『国家と教養』の中でも書きましたが、戦中は体制支持派だったのに戦後はあっさりと戦前戦中批判に転じ、戦争協力者を糾弾して地位を得ようとした知識人には事欠きません。「私はだまされていた」と語った武者小路実篤だけでなく、教養主義のチャンピオンとも言うべきドイツ文学者の中にも、リルケヘルマン・ヘッセの翻訳者でありながら戦時中はナチス支持で戦後はどこ吹く風、などというケースがたくさんあります。ー本当の教養人だったら、こんな本は書かなかった 藤原正彦より

 

其の「教養」の上滑りと云う現象は然しほんたうにあることなのではなからうか。

第壱日本人は論理的人間では無く明らかに情緒型の人間でせう。

 

ですがわたくしはさう云うのはそもオカシイのだと思う。

何故なら情緒でもって近代と云う闘争世界を生き抜くことには無理があると考えるからだ。

 

其の情緒優先主義はある意味で女性的であり優しい社會を構成して行くことだらう。

だから勿論其れは良いところです。

 

なのですがさうしてコロコロと主義や主張を変えて居ては節操が無くなりほんたうの意味での思想形成は成らなくなる。

だがまさにお前がさうであらう?

 

さうでした、どうも御免なさい。

結局は僕もまたさうしてフラフラの人でした、どうもどうも御免なさいまし。

 

 

だから僕は壱面では此の自分の中の優しさに対し批判しても来たつもりだ。

其れといまひとつ言えることは日本人は壱度失敗すると其れがダメだと感じて仕舞い易い民族だと云うことです。

 

ですがわたくしはたとえ何度失敗しても良いとさう考えて居る。

最終的には大負けを繰り返しボロボロになり死んだにせよ其れは其れで立派な其の人自身の實存的価値なのだと思う。

 

だからさう云う實存としての価値こそが偏差値や経済の上での競争原理からは導き出せぬ大きな価値でせう。

なので社會の圧力に屈する形でもってわたくしは自分の考えを変えたりはしない人間です。

 

 

まあ場合により現世利益にも走ることでせうが其れは社會から強制されさうすることではまるで無い。

 

で、逆に言えばさうした自我の強固なタイプは日本人には非常に珍しい訳だ。

だからさうした人に限り批判力がある訳なのだがほとんどの日本人には其の批判力が欠けて居り逆に皆が良しとした価値に対しみんなでもって突き進むのが大得意です。

 

 

ー また、大学1年の時に中学の同級生の友人が、「(旧制高校の三大教養書である)阿部次郎の『三太郎の日記』、西田幾多郎の『善の研究』、倉田百三の『愛と認識との出発』を読まないと大人になれない」というのを聞いて手に取ってみたら、あまりにもつまらなくてどれも20頁くらいで投げ出してしまった。
 私にとって数学は難しくても面白いものでした。読めば読むほど視界が広がっていくのが分かる。しかし、これら「旧制高校の教養書」は面白くもなかったし、視界が広がる感じもしなかった。ー本当の教養人だったら、こんな本は書かなかった 藤原正彦より

 

其の『愛と認識との出発』は若い頃に読んだ覚えがありますが實は善の研究』をまだ読めて居ません。

但し本は持って居るだけで大きな援軍になります。

 

其れを読む時が何時か来るやうにもまた思われる。

「教養」は矢張り読書により培われる。

 

また其れは文系、理系の別無くさうなのでせう。

 

 

 

ー西洋由来の教養を積み重ねることより、日本の大衆文化にふれて日本人としての情緒や形を刷り込むことの方が現代においてもずっと大事だということを確信しました。『国家の品格』で論理より情緒と唱えましたが、教養に関しては第一、第二、第三の柱が論理で、第四の柱が情緒です。すなわち『国家と教養』は『国家の品格』を補完するものとも言えます。ー本当の教養人だったら、こんな本は書かなかった 藤原正彦より

 

かうして情緒無き論理は冷た過ぎ、論理無き情緒は逆にぬるま湯に過ぎる訳だ。

私は今日本が抱える精神的課題とは論理無き情緒の蔓延にあると考えます。

 

其の情緒的でもって優しいのは良いのですが、其れを政治の場や観念の場にまで持ち込むのは如何なものかと思われる。

要するにあくまで観念的に優しくお人よしなだけではかのミスタースポックのやうな論理的人間にはまさかなれません。

 

なので藤原先生が仰るところでの其の第参の柱までが論理で最後の柱が情緒であると云うのはとても良いバランスなのではないでせうか。

 

 

西洋音楽で育ち、世界中の文化を見聞してきた文化人類学者のレヴィ=ストロースも、日本の歌だけには「もののあわれ」があり、感動したと言っています。ー本当の教養人だったら、こんな本は書かなかった 藤原正彦より

 

尚わたくしはかって其のレヴィ=ストロースを自己流でではありますが研究して居りました。

其のクロード・レヴィ=ストロース - Wikipediaに於ける所謂西欧中心主義の打破は廿世紀の思想界にとっての最大の出来事だったのやもしれません。

 

 

ー国民が教養層と非教養層に二分されたことは、第一次、第二次大戦の一因でしたし、そもそも国民一人ひとりが教養に基づく大局観を持っていないと、民主主義はポピュリズムに成り果てます。この本によって「教養」にあらたな息吹が吹き込まれる事を願っています。ー本当の教養人だったら、こんな本は書かなかった 藤原正彦より

 

まずは其の大局観と云うもの自體が理性を磨くこと即ち読書し御勉強することからこそ磨かれる訳です。

ではマンガを読んだりゲームをすることで其れが磨かれ得るのかと言えばまあ難しいことでせう。

 

マンガはわたくしもかっては色々と読んでは来ましたがマンガを読むことにより本を読まなくなるやうであればむしろ読まない方が良いとわたくしは思います。

対してゲームは漫画とはまた違い百害あって壱利無しとさう考えて居ます。

 

即ち教養と云うことと趣味やヒマつぶしの類は違うものです。

また宗教などもまた其の趣味やヒマつぶしの類ではまさか無い。

 

マンガの良い作品は文學以上のものもある位で無論のこと其れをわたくしは否定しない。

ですが純文學や思想書、また宗教上の教理の解釈、さらにマンガまで其の全てを読まねば教養の涵養には繋がらぬ筈だ。

 

さて問題は教養層と非教養層の弐元対立、即ち知識人と大衆、さらに言えば利口と馬鹿の分離に於けることなのですがあくまで其れは人間の根の部分での問題なのでそも変えやうの無いことだと個人的には捉えて来て居る。

 

但し其処には大きな勘違い即ち誤りがあることをむしろわたくしは指摘して来て居るのです。

其れはズバリ其の知識層の中には實際には御勉強もせずに自分は知識人でありよって僕の考えこそが正しいとさう思い込んで御座る似非知識人が實は少なからず含まれて居る。

 

 

其れはまさにお前のことだな?

ち、ちゃうわい。

僕のはまるでちゃうのだぞよ。

 

だって僕は毎回かうして反省して居るではないか!

所詮僕は偏差値が37でしたと社會科が零点でしたとさう心底から思い皆に土下座しかうして謝って居るではないか!

 

すると其の「無知の知」に生きる者こそが眞の意味での知識人なのですね?

其れは是非かのソークラテースにでも聞いてみて下され。

 

 

結局わたくしが述べて置きたいこととは其の御勉強に対する心構えのことです。

ならば其の御勉強は何の為にするのか?

 

ああ其れは壱流企業へ行く為にでは無くまた社會つまり他人に評価される為にでもありません。

其れは自分自身の知性、自分自身の心のあり方を磨く為にこそある。

 

ならば其れを何時やるのか?

今でしょ?

 

 

いや其の今に拘るな。

今やれないことの方が實は多いではないか。

 

第壱其の林の言葉は合理主義に過ぎる。

なので御勉強はな、やれる時に纏めてやれば良い。

 

だから其の時にかうして以前に買って置いた本が役に立つのだ。

 

第壱時間は今ばかりでは無い。

過去もあればまた未来もまたある。

 

むしろそちらの方が人間にとっての大事な時間だ。

何故なら動物共は「今」だけを生きる。

 

 

ところが理性から見ると其れはむしろ「過去」の堆積なのだ。

故に理性が無いとそも其の「過去」が見えては来ない。

 

また「未来」を思い描くのも理性の働きだ。

即ち其の理性的認識自體は人間としてどうにも変えられぬ部分なのだ。

 

 

さうして其の「教養」と云うのはむしろ「過去」を掘り起こすことだ。

其の「過去」を顧みることこそが「教養」の正體なのだ。

 

さうして常に後ろ向きに見ること、其れが無ければ眞の意味での教養など身に付きはしない。

だが自民党はむしろ「今」だけに拘り過ぎて居る。

 

だから奴等は所詮ドーブツであり結局「人間では無い」のである。

 

なので其の「人間では無い」ものに付和雷同したりして居てはならない。

まさに其れでは社會科が零点だ!

 

まさに理性として偏差値が37しか無い。

たとえ偏差値が37でも何処かの大學へは潜りこめるのですか?

 

…イケることでせう。

まあたとえ偏差値が37でも本さえ読んでしかも常に自己を反省してさえ居ればお利口さんになれることでせう。

 

ところで創価學會の偏差値は如何ほどでせう?

ですので其の宗教に於ける偏差値は心の偏差値の方なのでEQのことでせう。

 

僕は其のEQの値の決め方を知らないのでまるで分かりませんねえ。

 

 

さて其の衆愚政治であること以前にそも民主制が日本國では確立されて居ないとわたくしは見て来て居ます。

民主制が確立されず此の侭壱党支配ー公明党は除外してーが続くやうですとまさに其れが全体主義だとも言える訳だ。

 

即ち政治上今日本は危機的状況を迎えて居るのだと言える。

だからこそ藤原先生は今こそ「教養」を身に付ける必要があるとさう仰られた訳だ。

 

即ち教養に欠けた愚民による政治をかうして成立させて居ては決してならない訳だ。