目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

現代に於けるキリスト教の危機に就いて

信仰1

 

 

 

 

大谷翔平の国民栄誉賞辞退に「大正解」と舛添要一さん 以前には「立ち小便もできなくなる」といって辞退した野球選手も (msn.com)

 

全くに同感です。

称賛に値する個人の能力と世間、國家との結び付きは是非断つべき。

 

其れと自治體や國と云った公としての統治機構と👪主義や温情主義ー私情ーとの結び付きがそもかの國を悪くして居ます。

其の統治機構こそがあくまで合理的に捉えられるべきものであるがあくまでさうなっては居ない。

 

其れと政治は其の國民栄誉賞のことなどよりもまずは國民の救済のことをこそ考えてみて下され。

 

 

ーこうした宗教構造が変化する背景には、世界人口の激増がある。世界の人口は、2015年の73億人から2060年の間に96億人にまで膨らむと予見されている。この人口増加傾向が高い地域と、イスラム教信仰圏とが重なるのだ。ー


ー教会がジリ貧になった結果、教会が売りに出され、替わってイスラム教のモスクが入るという事態になっている。ー


ーだが、欧米における仏教はまだまだマイナーな宗教であり、教会を離れた人々は「無宗教者」に転じるケースがほとんどだ。ー


ー現在、日本人の信仰は仏教徒が8500万人、神道が8900万人、キリスト教徒が190万人、諸宗が740万人だ(文化庁宗教年鑑 令和2年」)。ー「もうイエス様では救われないのか」信者急減キリスト教が有史以来の危機…世界的"宗教変動"の衝撃 (msn.com)より

 

 

まずは其の人口爆発こそが文明崩壊の主因となることだらう可能性が高くある。

其れを防ぐには人間を減らす他は無いが其の人間こそが人権にて守られたエライ人である。

 

との所謂近代主義により人間はエライのだから、そも簡単に其れを減らせはしない。

であるからしてむしろほんたうの地獄が始まるのはこれからなのだ。

 

で、今後はむしろ邪教が蔓延って行くことだらう可能性が高い。

なのでまさに末法であり世も末の世界となって行かざるを得ない。

 

だが究極的には信仰とは其れとはまた別の次元のものなのでもある。

要するに世の様がどうあらうが其の個としての信仰を保つことこそが信仰の本義である。

 

 

尚其の神佛ゴタ混ぜの信仰のあり方にはどうにも疑問が残るのだが事實上ある意味では其れにより我が國の宗教體制として安定化されて居ることもまた確かなことである。

 

但し寺や組織の維持管理に大金のかかる日本の佛教や神道のあり方は今本質的には危うい。

個人的にはむしろキリスト教以上に危ういのではないかと見て来ても居る。

 

しかしながら、より本質的に危ういのは其の宗教の減衰以上に現代人の心のあり方の方だらう。

 

何故なら今後人類はまさに未曽有の危機領域へと歩を進めて行かざるを得ない。

其れはまさに全的な破壊の實現ともなりかねぬものなのだ。

 

 

其の折に個にとり頼りになるのは👪でも會社でもましてや國家なのでも無い。

まさに其れは信仰であり信仰とは自身としては如何ともし難い現實に対しまさに藁をもすがる気持ちにて祈ることを言うのである。

 

其の折に無神論だとか又は無宗教だとか、さうした立場で壱體何処へと縋るのであらう?

いや僕は頼らずとも良い、かうしてずっと自分と其の所属だけで行くのだ。

 

君の其の考えは然し間違って居る。

即ちすでに君は宇宙空間に放り出されたも同じだ。

 

其の漆黑の闇の中でもはや君は精神としてもがき続けるより他は無い。

だが最終的には其れもまた個による選択の結果なのだ。

 

其の個人的に選択された結果に対しどうかう言うことなどは所詮無理だ。

 

 

但し信仰を持つ方々はどうか其の信仰を大事にして行かれるが良いことだらう。

何故なら其れはさらなる社會的合理化が宗教其れ自體を浸食し始める虞が高くあらうからだ。

 

要するに現世利益性が最大限に追求されることで人間の精神の領域までもが合理化され救いの対象其れ自體が消滅して行く訳だ。

即ち其れが眞の意味での宗教の死である。

 

ですが、實は其処でもって現世利益教だけが生き残る訳だ。

ところが其の現世利益教は人間を救う力には元々欠けて御座る。

 

だから我我は其の現世利益教と云う社會其のものの価値観と共に沈没して行かざるを得ぬ運命を担わされし悲劇の精神的實存なのだ。

 

ですがまた其処を離れる勇気のある者はまた其れとは異なる道を歩むのである。

よって基本的にわたくしは宗教や信仰のあり方などに問題があるのでは無く宗教自體や信仰自體がさうなって行かざるを得ない現代社會の側にこそ大きく問題があるとさう考える。

 

 

故に社會の提供する価値便益をなるべく限定し其の範囲から信仰を模索し逆に堅固に築き上げて置くべきだ。

但し其れもあくまで非社會的な意味に於いて是非さうして行くべきものであらう。

 

其処をさらに言えば宗教は元々世俗ー社會ーの価値観とはあえて別の道を歩むものなので個人的には其の分離がハッキリした宗教をあえて選択し是非其れに救われたいものだと正直に思う。

其の意味から申せば神道イスラム教などのむしろ世俗としての価値観から発して居る宗教なり慣習だのを我は選び取ることが出来ない。

 

で、逆に其のキリスト教や佛教が今後次第に旗色が悪くなって行くのであれ其れをも認め信じて行きたいとさう思うばかりである。

するともしやキリスト教と佛教の同時信仰なのですか?

 

まあ結果的にはさうした塩梅にも次第次第になって来申した。

 

でもそも其れは変でせう?

いや君の方が余程変だ。

 

 

さうして宗教を學ばず考えずしかも👪と會社と國家ばかりを信じて生きて御座ることこそがむしろ壱番変だ。

 

そんな壱種過激な宗教観でもって…。

いや君の奉ずる其の現世利益教こそが変なのだ。

 

何故なら我我は常に個として宇宙へ放り出される虞のあるひとつの弱弱しい實存であるに過ぎない。

其の可能性をつまりはリスクを考えること無くさうして今の利益だけを生きて居る君の無宗教性こそが精神ー理性ーにとっての最大の難敵なのだからして。

 

其れは事の實相を見られないからこそ危機に気付かぬのだ。

其の惧れとは理性の働きでありよって要するに君には其の理性こそが欠けて居らう。

 

 

そんな訳で其のキリスト教ー及び佛教ーが減退傾向にあるのはむしろ現代人の精神の劣化によるものだとの論理を述べさせて頂きました。

 

 

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「MAGI-天正遣欧少年使節」テーマはキリスト教ではなく青春の問い ダイジェストあらすじ| ブログ on デマンド (x-counter.com)

 

 

さて此処はかの信長や秀吉なども登場し大変面白い壱大歴史物語となって居る。

尤も其の「青春の問い」こそが「人間の問い」即ち「本質的問い」なのではなからうか。

 

逆に世間の価値観がダメなのは其の本質部分を反故にして置き其れでもって自己利益に勤しむ=利己主義化するからに他ならない。

其処からして言って置くが其の世間の価値観がダメなのは人類が滅亡するまで続く、即ち決して直りはせぬことだらう。

 

であるからこそ其処に宗教としての意味がまた生ずる。

 

 

いずれにせよかの信長がキリスト教の布教を許したことには大乗佛教としての我が國の佛教界の腐敗の問題が大きく絡んでも居たことだらう。

さらに昨今のキリスト教のあり方にもまた大きく問題があり、其処からしても宗教は社會化すればする程に腐敗し易くなるものと相場は決まって居る。

 

だが其のことと先に述べた所謂「無宗教」や「無信仰」のこととはまた別の問題である。

 

無神論」の場合は其れ即ち近代科学への信仰のことなのだから畢竟其れはひとつの信仰である。

ところが「無宗教」や「無信仰」とは現世利益への極端な形での崇拝であり信仰なのだ。

 

其の意味で「無神論」者以外の「無宗教」者や「無信仰」者である大衆の頭の中身では信仰すべきでは無い👪だの會社だの社會だのへの利己的信仰が蔓延して居るだらうこともまた確かなことだ。

だが其の崇拝乃至は信仰こそが眞の意味での「邪教」の崇拝である。

 

 

要するに其処では精神を使わずに現世利益信仰を利己的に成り立たせるのであるからまさに其れが邪教である。

だが「無神論」は邪教では無い。

 

むしろ宗教のことをまともに見詰められぬ程に現實化した功利性の蔓延こそが邪教なのだ。

 

 

其の邪教徒等は最終的に地獄へ堕ちる他無くならう。

だが何教を信じたから地獄へ堕ちるなどと言って居るのでは無いのだ。

 

さうでは無く其の功利的な現實主義の信仰により精神が壊れやがては地獄へと堕ちて行かざるを得なくならう。

 

では科学は其の功利的な現實主義では無いので?

科学もまた功利的な現實主義のことだがおそらくは其ればかりでも無いことだらう。

 

何故なら科学には何より浪漫がある。

其のマッドな科学浪漫には付き合えぬ筈ではなかったのか?

 

其の意味では科学もまた問題だが其れ以上に問題なのが其の大衆としての現世利益主義への信仰のことだ。

何故なら科学の場合は必ずしも現世利益主義なのだとは言えぬことだらう。

 

 

尤も其の現世利益主義は今多数派としての人間を壱種「宗教的」に成り立たせて来て居る。

 

でもだからこそダメなんだらう。

ダメなものはダメだが壱番困った部分が自らに其の自覚が無いのでキリスト様やお釈迦様の救いを其処に必要とさえして居ないことだ。

 

では人間として正しくは常に救いを求めて生きることが大事なのか?

だって其れが当たり前のことだらう?

 

所詮は自己救済出来ぬ人間がそんな👪や會社や國家に救って貰うとでも言うの?

正直申せば其れ等は皆「続かないもの」であり且つ「如何様にも変わり得る」ものです。

 

つまりは壊れるのが早いものだと云うことです。

 

 

ところが今や逆に其の壱種の宗教的ポピュリズムにより信仰其れ自體が世俗化して仕舞った。

従って逆に重要な信仰の部分で邪教への接近などが進んで行くのだとも言えやう。

 

そんな訳で世はまさに末法的な信仰の様相を呈しても居りますが逆に信仰を持ち且つ其れを貫いた上で滅びるのと其の「無宗教」者や「無信仰」者の壱人として地獄へ堕ちるのとは嗚呼まさに天と地、天界と地獄界程もの差がありませう。

ですので、其の信仰を貫くと云うことは天國へ行ったりすることでは無く地獄へ堕ちぬ為にすることなのです、少なくとも僕の場合には…。

 

いや別に天國へ行く為に信仰しても良いのです、少なくとも地獄へ堕ちぬ限りは。

 

 

でもお前の信仰は所詮「理性的信仰」に留まるものでは無いのか?

いやですから「理性的信仰」と「実践的ー實質的ー信仰」を両立させることこそがわたくしの夢なのだ。

 

但し「実践的ー實質的ー信仰」が功利的な現世利益主義に傾くやうでは其の信仰は結局失敗に終わることだらう。

要するに其れではまさに地獄へ堕ちる訳だ。

 

 

なので本日わたくしは其の「信仰」と「精神」の関係性に就き述べさせて頂きました。

即ち「精神」無き「信仰」こそが結局のところ「無宗教」者や「無信仰」者が寄って立つところでのものだ。

 

ですが其れでは救われやうが無いと云うことをも述べたつもりだ。

救われやうが無い=地獄へ堕ちる、と云うこととなりませう。

 

またさうはならない為にこそ宗教があり各宗派があり御寺があり教會がありお釈迦様が居てキリスト様が居ます。

ですので、まずは其のことに対し感謝の念を抱き其れに就きむしろ自ら進んで學んで行くべきだ。

 

其のやうに至極論理的に人間は地獄へ堕ちることをまずは知り逆に地獄へは堕ちぬやう不断の努力を重ねて行かねばなりません。