目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

理系のー過激なー學者は「人類の自滅」をどう捉えるのか?ー究極のカルト書『自滅する人類』よりー

科学10

 

 

 

 

弐、参年前より何故か結果的に理系の人が書いた壱般向けの本を読むことが多い。

其れも理系の人が書いた本は文學書などとはまた違いどうもストレートな結論が其処に述べられて居るやうに感ぜられる。

 

藝術ー文學を含むーだのまた宗教だのには人文分野特有の屈折度があるものだが理系の人が書いた本には其の屈折度がより少なく従って意外とわたくしのストレートな気性にも合って居る訳だ。

 

 

で、かねてよりわたくしは人類の未来を悲観的に見詰めて居り結局其れは至極危ないとさう考えても来ました。

何故さうなったのかと申せば其れはわたくしが悲観的な人間であるばかりではおそらくは無く技術開発を旨とする研究所に13年に亘り勤めて居たことがあったからでした。

 

但し其れは所謂下っ端での仕事で研究開発其れ自體に携わって居た訳では無い。

されど其処ではまた様々に壱般的には体験出来ぬやうなことを体験しても居ります。

 

大雑把に申せば其処には参拾代中頃から四拾代終わり頃まで居た訳だった。

特に参拾代の頃は理系の學問にもまた興味があったので其処へ通いつつ「古生物學」を独學にて學びつつあった。

 

 

要するに其れは絶滅生物にいたく興味があったからなのでした。

ですが其の興味もまた所詮は文系人間の興味ですのでまるで専門的な訳では無く要するに絶滅生物が描かれた図鑑などを視つつ其処に古代の浪漫を感じて居ることこそが単に趣味と申しますか樂しみだった訳だ。

 

特に夏場でのOFFの時は自分の部屋をエアコンにてガンガンに冷やし其処にて古代の海棲爬虫類のことなどに思いを馳せたりして居ることこそが大好きでした。

当時はナマモノである👩ともまだ付き合っては居たのでしたがほんたうのほんたうはむしろそちらの古代のナマモノの方にこそより興味が御座りました。

 

最強の海棲爬虫類モササウルス!その大きさや生態に迫る | ギベオン – 宇宙・地球・動物の不思議と謎 (gibe-on.info)

かうしてとても恐ろしいまさにモンスターのやうな巨大な生物がかっての海にはウヨウヨと居たのでした。

さうして余り其ればかりを見詰めて居りますといつしか彼等にバリバリと喰われてみたくもなるものなのです。(?)

 

で、絶滅の理論だのまた進化論の各種の理論の方などにも少しは首を突っ込みましたが結局文系人間はそんなことはすぐに全てを忘れて仕舞います。

 

 

ダンクルオステウスの頭骨 国立科学博物館の展示

まさにコイツなども兎に角好きでした。

此の破壊的に怖い顔が最高である訳です。

 

豊橋市自然史博物館 - 展示案内 (toyohaku.gr.jp)

 

其の参拾代後半の頃に豊橋市自然史博物館 - Wikipediaを訪れ恐竜展を見ました。

さうして其の壱部に其の海の怪物もまた展示されて居たやうに記憶して居る。

但し其の折に確か巨大恐竜の骨格標本ーレプリカか?ーが展示されて居た筈なのですが其れが所謂竜脚類の何であったのかと云う事をすでに忘れて仕舞って居ます。

 

 

さて其の生物、其れも巨大な絶滅生物に対する関心と生物種の絶滅への関心とはまた相反する要素なのでせう。

要するに其れは生命が栄えることと其れが滅びることへの関心其のものである訳だ。

 

尚生命現象其れ自體を客観視する自然科学はおそらくは生命現象の全てを解き明かすことにはむしろ適さないことでせう。

もしも生命現象其れ自體を俯瞰視したいのであればたとえば藝術や宗教などからのアプローチが必要不可欠なこととなりませう。

 

何故なら自然科学はある面で正確に其の生命の物理現象を記述するものですが、たとえば其れが美しいものであれ醜いものであれ其の美しさなり醜さなりを述べるものでは当然ながら無い。

 

また其の善悪を論ずるものでもまた無い。

 

むしろそちらの方がつまりは文學的な表現や詩の言葉の中にこそ其のことが生き生きと語られて居る場合が多いことかと存ずる。

また絵画の方であるとかそちらの方にこそ其の客観性を超越する要素が盛り込まれて居るのやもしれない。

 

但し其の生命現象を分類し系統的に示すのは無論のことながら自然科学としての大きな役割です。

 

 

さて其の坂口先生の『自滅する人類』と云う著作はまさに或種究極的に恐ろしく過激な内容の本です。

我は此の本を2016年に買い求め此れ迄に参度読み返し今回で四度目の再読となる。

 

 

mazon.co.jp:カスタマーレビュー: 自滅する人類-分子生物学者が警告する100年後の地球- (B&Tブックス)

さて此の本はかうして評価が概して高い本です。

 

但し余りにもほんたうのことを言い過ぎて居て「人類絶滅」に関する興味が無い人以外にはほぼ受け容れられぬ著作でもあることだらう。

 

此のレヴューのところでも「身も蓋も無さはNo.1で絶望したい人には御勧め」であるとか「産めよ殖やせよ地に満てよで破滅に向かっていることを自覚する書物」であるなどと評されむしろサイコーに絶望的にならざるを得ぬ未来を描くことだらう本です。

 

 

個人的にはまあ宗教書、まるで黙示録級の破滅の書の如くなのだと思いますが他方では科学者の坂口先生らしく技術的な破滅回避への方策もまたしかと提示されて居る本です。

 

其れと地球の環境汚染の部分に就き至極科学的に説明されて居る。

其の環境汚染はむしろ太古よりあったこととされる視点がまさに新鮮なものでした。

 

ですがなので人為的な環境汚染は何とかなると云う訳では無く余程のことをせぬ限り其の地球環境は回復しないとも述べられて居る。

 

 

但し其の部分に就きたとえ科学的には絶望するにせよ人文的に絶望する必要などは無いと思うのです。

要するに其の意味ではむしろ曖昧な藝術や宗教の方が科学の如くに厳密に絶望する必要などは無い筈です。

 

特に宗教などは其の絶望こそが出発点だとも言える訳で其の事實がダメだからダメだと云うのとは違う論理に生きる=信仰の世界で生きる訳ですのでむしろ其処を短絡的には捉えぬ方が良いのだと思う。

 

人文の分野はさうして壱種「負けながら」生きることの出来る分野ですので其処にこそ思い至り打たれ強い人間と是非なりませう。ー私などもかうして常に打たれ弱い訳ですがイエス様やお釈迦様の手前其れでもってヘコたれては居られない訳ですー

 

 

但し此のレヴューの中での樂観論は其れは違うかと思います。

 

即ち拾世紀も弐拾世紀もまだまだこれから文明が継続するとはなかなか考えられません。

個人的には可能性としてはあと五拾年と云うのも有り得るかとは思います。

と云うよりは現行の文明の継続期限がおそらくは其れ位なのでせう。

 

但し新文明が築かれればおそらくは其の余命は延びて行くことでせう。

無論のこと其の新文明で大事なこととは所謂持続可能性のことです。

 

 

さらに人口の抑制です。

ですが個人的にはさうした實質的変更以上に大切なのが価値観の変更なのだと思う。

 

其の価値観の変更はしかしながら社會レヴェルでは極めて難しいことだ。

ですのでまずは個として其の価値観の積極的転換を行うべきだとわたくしはさう述べて来ました。

 

で、また其のこともまたなかなか為し難いことなのですが其れはレヴェル的にはまさに神や佛を信ずることと同等のことではないかとさう存ずる。

従って其れは決して不可能なことなのではありません。

 

結局は其れが宗教的に目覚めると云うことでもあるやうにまた思われる。

であるからこそわたくしはかうして宗教に就いてもしつこく書き継いで来て居る。

 

 

で、最終的には新文明にて経済成長を抑え計画的に🏭生産の野菜や大豆を使った人造肉などで充分に美味しく腹も膨れ生き続けられる筈です。

其れでもって強欲な資本主義は是非止め配給制即ちベーシックインカムにて平等性をしかと担保しておきませう。

 

そんな限定的資本主義で結局良いのではないだらうか。

 

で、AIやらロボットに仕事をやらせ人間は知的能力にて選別し支給額や仕事を決める。

 

さうして、

1.まずは自民党の打倒と

2、物価の抑制と

3.國會及び國會議員の廃止、其れに伴うAI議会の立ち上げと直接民主制の立ち上げ

4、金持ち税を最大七十%とし、また資本家やAI議員へのベーシックインカムなどは無しとすること

 

兎に角そんな最高の新政府を創りみんなが好きな本を読めるだけの時間的且つ精神的な余裕を是非与えるべきだ。

 

 

 

さて此の坂口先生の『自滅する人類』は至極眞面目な本です。

私が此れ迄に見聞きした限りでは、宗教関係の方々ー末端の活動家ーでもって人類の滅亡を取り上げる人などは居ませんでした。

 

また自然科学者にせよ表向きには其れを取り上げる人など居ません。

然し本音を聞くと絶望的なことを言う方の方が實は多いやうです。

 

其のやうです、と云うのはあくまでわたくしが見聞きし確かめた訳では無いからです。

 

 

ですが、結局其の文明にとっての悲観的な未来は個の力でどうなると云うものなのでも無い。

また滅亡や絶望はもっと身近にもあるものなので本来ならばそちらの方こそがより切實な問題です。

 

なのですが、其れでも猶気にかかるのが此の社會の未来です。

ですが其の社會の未来の為に絶望したり心を貧しくして居るべきでは決して無い。

と云うのがまさにわたくしなりの結論なのです。

 

究極的には周りのことなど無視しまさに壱度だけの生であるのならやりたいことをやり生を終えるべきです。

但し酒池肉林以外のところで思う存分其の己としての最大限の追求を致しませう。

 

 

つまりまさに其れが己と社會との究極的な格闘です。

されど其の格闘にはよもや負けたくは無い。

 

また負けて世を去るにせよ報復することを是非忘れぬやうに。

勿論テロや犯罪と云うことでは無しに批判すると云う意味ででの。

 

即ちわたくしが世間を否定的に扱うのは結局其れには事實上未来が無いからです。

なのですが、其れを信仰の上から捉える限りは其のこと自體に対し絶望するには及ばぬと云うことです。

 

 

信仰とは結局はさうしたことです。

究極的には其れはたとえ社會が滅んでも我我だけが救われれば其れで良い訳です。

 

で、僕は常日頃よりそんな格闘を続けて来ましたので充分に生をやって来た其の實感だけはあります。

たとえ其れを人がどう見て居やうと。ーそんな闘争のことまで分かる人は實は身内にさえ居ませんのですが…ー

 

 

とのことで、其の「滅亡」の問題は最終的にはそんな内面的な問題にこそ関わって来ます。

然し其れとは別に今後文明は物理的に劣化して行かざるを得ません。

 

其の物理的劣化を食い止める責任があるのは社會の方であり其れを食い止める力が特に現状では社會には欠けて居ります。

ですので逆に技術を速やかに進歩させ是が非でも其れを食い止めねばならない。

 

だが結局は其れも全ては社會がやることだ。

ですが我我は其処まで文明の面倒は見切れませんのでキリの良いところで社會を捨て去り山の中で思いを馳せたりして居れば良いのです。

 

さうして何で人類は失敗したのかと云うことを。

また人類とは結局何者だったのかと云うことを。

 

 

 

「滅亡」という名のエンタテインメント | リンデンバウム~子どものいないあなたのためのスピリチュアルサロン (lindenbaum-jp.com)

 

其の「人類滅亡」は確かに其の「逃避」の道具としては大きく遊べるものでせう。

わたくしもまた滅亡マニアの壱人なのやもしれず、されど究極的に私は「人類を宗教へと導く」と云う役をなるべく演じて行きたい。

 

何故なら其の「人類滅亡」を前提とする限りに於いて初めて其処に堅固な信仰心が芽生えるだらうからなのだ。

 

果たして宗教を信じて人類が救われるのですか?

だって他に信じるものなど何処にも無いでせう。

 

 

尚佛教徒の間では屡語られる話ですが、佛教徒として信仰を持ったにせよ肉体の衰えや死から免れる訳では勿論無い訳です。

また敬虔なキリスト教徒にせよ肉体の衰えや死から免れる訳では無い。

 

まさに其れが事實規定であり物理的劣化の様です。

其の物理的劣化を認めるのがむしろ宗教的な立場でせう。

 

 

其れは物理的劣化をあえて受け容れると云うことなのだらう。

さうした精神の作用の中にこそ神や佛への眼差しや道が拓けて来る訳だ。

 

ですから「人類滅亡」もまさに其れと同様の話なのだ。

謂わば其れは其の「滅亡」其れ自體が問題なのでは無く其れを受け容れた上でどう生きるかと云う点こそがおそらくは大問題なのだ。

 

…でもほとんどの人が其れを受け容れられぬ筈ですが。

ですから其の心をどう変えられるかと云うことこそが「人類滅亡」よりも何よりも余程に大事なことなのです。

 

其れ即ち其の物理的劣化により人類が滅ぶのでは無く結局は心理的劣化により人類は眞の意味で滅ぶ他は無いのだらう。

 

Kengo Sakaguchi - YouTube

坂口先生のオモシロ授業 ~自滅する人類編 その 1~ - YouTube

自滅する人類 生物、環境汚染 ビジネス、化学 | 本・雑誌 日刊工業新聞 (nikkan.co.jp)