目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

カルトな旅ー壱 我が内面のカルト振りー

河村市長に名古屋市民「マジ無理」。過去のあきれた行動に、たけしも迷惑 (msn.com)

 さう言えば昨年此の金シャチが県体育館の横へとまずは降ろされたのです。

まさに其の降ろされた日に其の金シャチを私は見て居ます。ー其処を通り帰宅して居たのでー

 

其の金シャチを何と河村氏は齧ったのでした。

實際に齧ったのか齧る真似をしたのか其の点につきもはや覚えが御座りませんが兎に角さうしたことがありましたがまあ地元でのことですので何だか知らぬうちに其の話は立ち消えとなり其の後は人々の話題にものぼらなかった。

 

河村氏はむしろインテリの方なのだが實社會へ出てからは仕事上良からぬ輩と付き合っていた為か結局「下品」になって仕舞ったのでせう。

 

尚、かく言う私も實は「下品」です。

其の「下品」なのを売りにする凄い知性派なのです。

 

其の「下品」も「知性」も皆様にはしかと伝わって居ることかとは思う。

 

 

さて正直私の生活、いや趣味自体がカルト的過ぎるのです。

何故私はこんなにおカルトな人間なのでせうか?

 

もしや其れは教師が盗撮とかで警察に捕まるやうな意味でのカルトさと云うことなのか?

いやむしろ其の逆ですね。

 

おそらくは眞理に対し眞面目過ぎると云う意味でのカルト人間なのでせう。

でもアナタはどうも普通ですね。

 

だって酒池肉林には決して浸るな、ゲームはするな動くな止まってろといつも其ればかりを言って居られる。

だからアナタはヤッパリ其の辺の教師とまるで同じですね。

 

 

では此れを機にひとつだけ言わせて頂きます。

たとえばみんなは退屈を感じることがあることでせう。

 

たとえば此処でも私が難しいことは述べずに筆記具のことだの氷の出来栄えだのに就き延々と語る場合が御座ります。

 

おそらく君等は其れを「退屈だ」と感じたことであらう。

だが其れは明らかな間違いだ。

 

其れに實はな、其の退屈な日常こそがまさに藝術の発露であり眞理の化身なのだ。

だからな、其れをこそまるで希望の灯であるかの如くに有難く拝し且つ何遍も繰り返し味わって置かねばならぬのだ。

 

 

何だかまた訳の分からぬことを言い始めたな。

壱体何が言いたいのだ?

 

まさに其の価値の逆ヒエラルキーのことに就き述べて居るのだ。

近代的価値を自発的に解体し自然的自我に基づく価値体系を回復すれば其のやうにつまらぬもの、価値無きものの中にこそ眞の意味での価値を発見することが出来ると云うことをこそ述べて居るのだ。

 

また急に難しい話となるので其れではまるでもってみんながついては行けぬ。

 

 

でも逆に申せば其の逆ヒエラルキーを堅固に築けば其れこそ近代思想の履行の如くに、「障碍者や女性はまさに神のやうなものなので何としても其の人権を守り抜かねばならぬ」と云う一種倒錯の域での価値観へと至って仕舞い、其れでもって兄ちゃんは派遣社員化されるわ、また父ちゃんはCMでのやうに🐕化されまるで犬畜生の代表の如くに扱われ、其れでもって🚹の権威は地に落ちだからそんな世の中にはガマンがならずさうして盗撮したり列車内で人を刺したりするのではないかいな。

 

まあさうしたこともまたあるのだらうがほんたうのところでは理性的な人はむしろトロトロに優しいのだ。

だから盗撮もしないのだしまた刃物を人殺しに使ったりも金輪際せぬ。

 

たとえば我などはさうしてかっては只の凡人ー凡夫的世界観の持ち主ーだったのだが次第次第に知性力が蓄積されついには仙人化し、或は其処で頭が浄化されたのか以前の考えとはまるで違う理性の場を歩くやうになって仕舞った。

だから人の見て居ないところに限り妙に潔癖なのだ。

 

もしや其れはかのベートーヴェンが珈琲の豆の数に異常に拘ったと云う意味での其の拘りなのか?

 

 

確かにそんな部分があるのやもしれぬ。

こうでなければならぬ、と云う部分は確かにある。

 

でも意外と其れには社會性の部分が組み込まれて居らぬ。

だから世間がどうあらうと基本的には関係無いと云う感じなのだ。

 

其処ではまさに内的に其のやうな逆ヒエラルキーによる価値を組み上げて仕舞って居る訳だ。

然し其の逆ヒエラルキーと云うのは實は危ない精神の領域の価値なのでもまたある。

 

だから壱歩間違うと奈落の底に落ちるか全部が非常識化して最終的には自己としての生命すらをも危うくしかねぬ。

或はかっての作家なり詩人なりの自決とはかうした部分から齎されたものだったのではないか。

 

 

さうか、ゲージツ家はヤッパリ大変なんだ。

ゲージツ家とはもしや其の日常と格闘する人々のことなのですか?

 

まあ其処では常にさうして極度の二元対立が引き起こされて居るのだと言えやう。

でも藝術家ではなくともたとえば天才級に頭の良い人などもまたさうなり易いものだ。

 

たとえば東大級、また京大級の知性でもおそらくはさうなって居るものと思われる。

だから利口過ぎてキチ外になる虞がまた多分にある訳だ。

 

あー、そんな恐ろしい世界に入って居なくて良かった!

かうして僕は凡人だから気が狂わなくても良いのですね。

 

 

いや凡人は然し元々可成に気が狂ってるぞ。

 

壱體何処が?

まさに其の「退屈」なものを愛せぬ部分こそが。

 

 

退屈なものってたとえば何ですか?

 

たとえば今此処に🐜が行列を作り行進して居る。

其れを壱時間の間見詰めてみなさい。

 

仰る通りにやってみました。

ですが死ぬ程に退屈です。

 

其れみよ、まさに其れが凡人の認識としての限界だな。

 

すると其の逆ヒエラルキーを築き上げた方々は🐜の行列を壱時間に亘り観察したとしても至極愉しく過ごせるのですか?

さうだ、其れは常に愉しい。

 

要するに根本のところでの価値認識の形式其れ自体がシフトして仕舞って居るので其の「退屈」なことが決して「退屈」では無く逆にみんなが集いワイワイガヤガヤと熱狂するやうなことこそが退屈でたまらぬ訳なのだ。

 

エッ?では資本主義が齎す諸の果實もまた恋愛も結婚も子供も孫も親戚も會社も共同体も國家も全部が其の🐜の行列よりもつまらぬことなのですか?

 

 

まあな、其の通りにつまらぬことだ。

でもそんなもん異常者の心の世界のことじゃないですか、だって🐜の行列を只眺めつつエクスタシーを感じて居るのは其れはどう見ても頭がオカシイ人のことだ。

 

だから君には其の境地が逆立ちしたって分からぬだけのことだ。

うーん、何やらバカにされて居るやうでイヤな気分だなあ。

 

 

いやでも僕は君を尊敬して居るのだ。

君がさうして馬鹿であること程私にとって羨ましいことは無い。

 

其の言葉は然し褒めてるのか、其れとも馬鹿にし貶しまくって居るのか其れがまるで分からない。

いや兎に角君は幸せだ、とっても幸せな其の幸せ馬鹿なんだよ、其れも此の世で壱番幸せなのはズバリ申して君其のものだ!

 

うわあー、たった今其の表現にてボクの心が奈落の底へと突き落とされた。

 

 

アナタは結局冷たい人だ。

昔👩などからももしやさう言われませんでしたか?

 

 

うーん、其の冷たいだの温かいだのさう云うのも余り関係無いかなあ。

結局問題は其の理性を内側に引き込んで来て居るかどうかなのだ。

 

其の理性が世間に操作された状態でものを見るから須らくを正の価値ヒエラルキ-に基づく価値観にて捉えて仕舞う訳だ。

其の正の価値ヒエラルキ-に基づく価値観のみで価値判断する、即ち認識したとすると其処にはまさに絶望的な未来しか拡がって居ない訳だ。

 

ですが自称詩人のやうに多面的視野から或は負の価値ヒエラルキー側から其れを捉えたとなると其れはむしろ逆回転された良い価値として見えて来るのです。

 

 

アナタはもしや何処ぞの新興宗教の教祖様なのですか?

いや其の新興宗教の教祖様方はしかしながら俗物の方が多いやうにも正直感じられる。

 

 

其の負の価値ヒエラルキーに縛られ過ぎてもまたイケナイ訳で、だからお釈迦様やまたキリスト様が説かれて居る事もまた価値観のバランスを自ら取るか其れとも神様に価値観を丸投げして仕舞うことなのだとさう思われる。

 

なる程、するとゲージツ家の方々はさうして分裂が過ぎて精神が崩壊し易いので常に其処を気を付け適当に気晴らしをして置くに限るとさう云うことなのですね。

でも其の気晴らしを酒池肉林にて行ってはならずむしろ🐜の行列を確りと眺めまた自民党をウンコ垂れだと罵ったりさらにたまには「赤旗」でも読んで「世界革命」を夢想して居たりすることで気が紛れますと云うさうした御話だったのですね。

 

まあ大體そんなところです。

だからゲージツ家は「カルト」趣味に埋没して居てもまた良いのですが、まさに君のやうな「常識人」の方々、其れこそ世間の洗脳を受けた馬鹿野郎共の悪臭芬芬たる価値観の方をこそむしろ大事に扱い其れに対し抱擁するつまりは愛する、おおまさに此の「愛」の立場でもって接するのだ。

 

 

だから僕は君を何処までも尊敬し且つ愛する。

うーん何だか気持ちが悪い。

 

ところでひとつお尋ね申し上げます。

ズバリ人類滅亡までは後何年程でせうか?

 

 

ハイ、ではお答え致します。

まず其の未来での「人類滅亡」其のものは私には分からぬことです。

 

何故なら此の弐、参拾年の間には其れは起こり得ぬことだらうから。

すると人類はさうして文明は持ち堪えることが出来るのですね?

 

いや所詮其れは無理でせう。

 

なので五拾年後にはまさに危ないことでせう。

ですが弐、参拾年後にはおそらくより根本的な社會的制限が現實化して来ることだらう。

 

 

たとえばオリムピックや経済成長も事實上不可能となって来る筈だ。

だから其の折には別の価値観を持った人々が注目され始めるのやもしれぬ。

 

其れは負のヒエラルキーによる価値と正のヒエラルキーとしての価値を同時に眺めることが出来るやうなまさに「眞の自己に目覚めた」人々のことだ。

 

佛法で言われるところでの所謂「眞我」=「佛性」とは所謂さうした意味でのことなのだと思われる。

但し其れは所詮其れ相応の努力により発現するに至るものです。

 

 

まさに精神的に半分死んじゃう位の負荷と申しますか苦悩と申しますか其れを耐え抜くことから醸成されて来るものなのだ。

 

もしや其れは僕のやうにブラックな會社でもって我慢して勤め上げまた不細工でしかも頭の悪い妻や出来が悪くいつもテストの結果が最下位の子供、其れも男と女が壱人ずつでもって、そんな艱難辛苦に耐え抜きかうして手取りで壱五万の給料を兎に角死守し其れを全て家計へと捧げる其のボクの清い志、もしや其の志にこそ捧げられるものなのではありますまいか。

 

いや全然其れとは違うやうですね。

でも個人的に詩人は其の志をこそ尊重致します。

 

 

だから言ったでせう。

「凡人が壱番シアワセ、普通が壱番シアワセ。」

なのだと。

 

但し、

「凡人が壱番馬鹿で、普通が壱番馬鹿。」

 

と云うこともまた言えぬ訳では無いので其処でなるべく馬鹿を根絶せしめて行くことこそが大事だ。

 

さうか、さうだったのか。

すると詩人さんは僕等の其の馬鹿をさうして愛の高みから抱き締めて下さって居たのですね!

 

ハイ、さうして愛でもって君の全てを抱き締めつつ出来れば首を絞めたらうかとさうも思って居りますのです。

 

 

ところで詩人さん、

たとえば大阪に世界壱のスポーツカーがあることを御存じでしたか?

 

エッ?其れはまるで存じませんが。

 

其れがまさにコレです。 大阪発世界最速カー「アウル」は3億6700万円! デリバリーは2021年内にもスタートか!?

 

おわあー、またカルトの極みでの話題ですね!

 

詩人さんはもし4億の金を持って居たら此れを買いますか?

 

 

まあ余り興味は無いですね。

スーパーカーならもう少し信頼の置けるモデルを選びたいです。

 

出来ればロータスだとかマクラーレンだとかの英國車に壱度は乗ってはみたいです。街乗りもできるレーシングカー! マクラーレン「720Sスパイダー」ってどんなクルマ? (msn.com)

ーちなみに私は高度なドライヴィング・テクニックを持つまさに並では無い運転者であるー

 

ですがほんたうは自転車の方がより好みです。

 

自転車は小回りが効き道草が出来るので其れが何より愉しい。

特に御花の香りを嗅ぐことには自転車こそが最適です。

 

うわあー、また實に乙女チックな御心の持ち主だこと。

 

だから言っただらう、

詩人の心はな、君等のガサツな心とは違い謂わば強烈に優しいのだ。

 

其の優しさとは全い意味での理性から醸し出されて来るものである。

 

 

最後に詩人さん、またひとつご質問を。

 

例えば美女とスーパーカーとではさてもどちらをお選びになりますか?

 

はっはっは、どちらも選びません、まあさう云うことだな。

 

 

じゃあ🐜の行列やら筆記具の方が本心としては文明より大事なのだな、サアどうだ?此の異常者めが!

 

ハイ、僕にとっては🐜さんの群れや筆記具や石と戯れて居ることだけが愉しいのです。

 

だから所詮はさう云うことなのだ、つまり君には僕の此の境地が永遠に分からんと云うことなのさ、ヘッヘッヘッのへー。