目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

加島先生の「求めない」境地から學ぶこと

岸田新総裁誕生でも変われない自民「5つの大罪」 古賀茂明

 

まあそんな訳で自民党政権が此れ迄に犯して来た罪とはまさにそんなところであり即ち識者としての見るべき人が見ればそんなことは分かり切ったことなのだ。

だがわたくしの場合はさらに其れに加え是非弐つの罪を加えたいところだ。

 

即ち第六の罪としての「洗脳」罪と第七の罪としての「尻拭い」が出来ぬ罪のことだ。

 

つまりは國民の馬鹿ー其のむしろ多数派こそが馬鹿ーを利用しまさにウンコ垂れても責任を取らぬ政治を行って来たのである。

普通はウンコ垂れてパンツだのが汚れれば其れを御洗濯し綺麗にした上で何でもやるものながら此のアホ政党に限り余計に沢山の糞をさらに垂れ続けもう部屋中をウンコだらけにししかもじぶんは正しいなどと其の汚物の中にまみれヘラヘラと笑って御座る!!

 

こんな馬鹿政党と壱緒では君等も次第にウンコまみれになるぞよ、公明党よ!

さても公明党よ、目覚めよ!!

 

おお其の七つの大罪が!!!

其の大罪がまさに今日本を破壊せしめんとして居やう。

 

 

「サルの社会とそっくりだ」 ゴリラ研究者が見た菅政権の忖度政治 [2021衆院選]:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

おお🐵だ!!

其れ見よ、結局カンは🐒だったではないか。

 

 

さて公明党よ、君等は大百蓮華なるものを信奉して居た筈だ。

即ち泥の中から伸び清く咲き誇る百蓮華を佛法上の眞理の顕現として信じて居た筈だ。

 

其れに元々公明党は教師が創った組織だ。

教師は精神を常に潔癖に保つことこそが当たり前のことだ。

 

しかしながらまさに此の態ではまるで淫行教師ではないか。

淫行警察官や淫行自衛官と其れではまるで同じだぞ。

 

あなおそろしや。

いつの間にやら其の百蓮華がウンコまみれだぞよ。

 

 

だから何教から見られても其れではイカン。

其れも宗教云々では無く宗教以前での躾の問題ぞ。

 

即ち寝小便垂れを治すだのウンコタレを治すと云った教育以前でのまさに幼稚園児に対する躾の問題ぞ。

 

で、もはやわたくしは其の臭気には耐えられぬので「源氏物語」へと逃げて行くつもりである。

源氏物語」?

でも先に「源氏物語」など嫌いだとさう言って居たではないか!

 

まあ「源氏物語」よりは「人間失格」の方がより好きですがじぶんは意外と貴族的なので美しいものに限ればとても好きです、但し男女間の愛憎劇以外の部分での。

 

 

でもってとりあえずはわたくしが此処にて述べて来たことの正しさがかうして証明されつつあるやうなのでもはや何も言う事はありません。

 

尚早稲田出の岸田氏には是非経済の面だけ其の再配分のところだけを何とか変えて頂きたいものだ。

だが新しい資本主義は麻生だの安倍だのが黒幕に控えて居る限り其れは無理と云うものだ。

 

なれどコイツラはやがて死にませう。

特にアソーは🐊ですから人間よりも寿命が短い筈ですが其処はさてどうだったのかな?

 

ワニの平均寿命とワニの最高寿命 万物寿命事典 (lance4.net)

ゲエッ、生きる奴は何と八拾年以上も生きるやうだ。

 

 

またアベは何せ内臓の病気ですのでもう七十でもって必ずや死にませう。

 

さても詩人さんは大丈夫ですか?

いや大丈夫ではないです。

 

だからわたくしは今此処にかうして書き遺して置くのだ。

 

其のクソまみれで悲惨な日本のことを書き遺し世を去る御積もりなので?

いえさうでは無く實はもっと高尚なことを書きたかったのですが社會の下品に付き合ううちに次第にこんなんなりましたのです。

 

でも太宰や安吾並にはかうして社會と闘って来られたのではないでせうか。

 

まあ三島先生にまではとても及びませんのでしたが…。

何せ特攻して腹切って断頭ですのでね。

 

 

馬鹿詩人はかうして日々御花と戯れ且つペンと石とに癒されつつ日を送って来て居る。

其の實存としての高貴な生活をもはや誰も嗤うことなどは出来ぬ。

 

さうして教養を備え且つ自ら考え続ける詩人は「今」と云う時を慈しみつつ静かに享受する。

 

うわあー、其れはまるで何処かの偉い文人さんの如くですね。

でも結局詩人さんは無名の貧乏詩人さんなんですね。

 

ですからもはや高額万年筆など要らないとさう言ったでせう。

僕は此のAirmailでもって至って満足だ。

 

まさに其れを思想用語で「小欲知足」と言うのだ。

即ち智に長けること、理性が研ぎ澄まされて行くことでむしろ大金の飛び交う世界、デカい欲望が乱舞する様からは自然と離れて行くのだ。

 

 

うーん、まさに其処が僕等大衆には理解出来ぬところなのかなあ。

さうだ、おまえらウンコ垂れ好きにはついぞ分からぬところでもあらう。

 

ですから、其れは偏差値ヒエラルキーによる価値観の世界の話では無い。

まさに其の正の価値ヒエラルキーを離れることからこそ成り立って行く「負としての幸せ」の領域のことだ。

 

だから其のやうにさえなればむしろ「今の不足」や「今の不幸」また「今の孤独」を初めて前向きに愉しむことが可能となる。

 

だが其れは社會に洗脳されて居ては決して成らぬ心理的階梯なのだ。

またとどのつまり大衆に欠けて居る心性とは其のマイナスの領域を愉しむ心の広さであり余裕のことだ。

 

 

其の心の余裕はたとえ金持ちになっても出来ないと?

金持ちになると其の場其の場を金の力にて逃げられやうが最終的には死が彼を逃げられなくする。

 

だから金に拘泥しもっともっとと欲するのは誤りなのだ。

だが大衆にもまたひとつ大きな落とし穴がある。

 

其れは普通に近代的生活をやり平均的な現代人を👪主義でもってやれば其れが善なる人生だと勘違いして仕舞うことだ。

逆に申せばまさに其の大衆的価値の集積こそが社會の腐敗や自然の破壊を呼び込んでも居る。

 

さうか、すると此の世ではまさに何が正しいものか、其れがまるで分からないのですね。

 

分からぬからやっちゃえと云うのが資本の論理であり其れを少し抑えつつやるのが社會主義の意味であり人間其のものを信じず放棄するのが隠遁文人の生き方其のものだ。

其れではズバリ僕等は其の善なる👿なので?

 

 

いやだから其の悪だからこそ神を信じよとキリスト教が述べて居る訳だ。

また全部が煩悩だから佛を信じよとさう佛教は説くのである。

 

尤もより正確にはじぶんが神か又は佛を信じて居るから正しいなどとは思わぬ方が良い。

何故なら其れは君が信じた神か又は佛が正しいだけの話で君自身が正しい訳ではないからだ。

 

ところで適菜氏はニーチェの本を訳し「キリスト教邪教」だと言って居るやうですが其の点に関してはどう思われるのですか?

 

個人的にはニーチェは正しく自らの哲學を述べたが其れは思想としては矢張り間違って居たのだとさう思う。

つまりニーチェは近代に於ける合理化の過程を「神は死んだ」と云う壱言でもって言い表して居りました。

 

其れは基本的に正しい認識でせう。

なのですが同時に彼は「神は死んだ」と云う壱言でもって人類の半数以上の人々の希望を奪いました。

 

其れも我我東洋人にとりピンと来ない話ですがまさに其れが「佛は死んだ」と云うことなのでもまたありませう。

 

で、「佛は死んだ」と云う表現其れ自体は實は正しいのです。

特に日本の佛はすでに死んでいるのやもしれません。

 

 

なのですが、たとえ死んで居ても其れを信じざるを得ぬのが庶民の置かれた悲惨な立場でせう。

 

第壱TV局を始めとするマスメディアなども所詮は利己主義者であるに過ぎない。

ワイドショーなどでああしてしたり顔で世を論じて居るが彼等は高額な出演料をTV局から貰える訳だ。

 

でもって言いたいことを言いいつも適当に番組が終わり其の後は延々とクソみたいなCMばかりです。

だから其処でもって洗脳が酷いんです。

 

だから僕が言いたいのは、そんな洗脳には付き合わずにもっと自分の時間を大事にした方が良いと云うことです。

 

 

尚其の「キリスト教邪教」説は所謂保守的な佛法の求道者に取りひとつの魅力的な教義となり得るものだ。

要するに壱神教を悪者にして逆に多神教的な世界観を正しいとする動きが其処に込められて居ることだらう。

 

ですが其れも本質的には壱神教も多神教も無い訳だ。

あくまで其れは宗教の分類であり苦しみの分類でも何でも無い。

 

問題はあくまで此の世が生き抜くには常に苦しい場だと云うことだ。

 

其れを救うのに弐種のやり方があると云うだけのことなのだ。

ところがニーチェは神以上に超越的な自我を人間の生の目的として組み込んだ訳だ。

 

またマルクスによる共産社會の實現もまた其の種の人間による理想論です。

 

超人と共産制はしかしながらどちらも實現し難い。

何故なら過去を振り向かぬからです。

 

其れ等は理想的な観念論として今を合理化し過ぎて居るのです。

 

但しあくまで此の世は此の侭では次第に崩されて行きます。

其れは事實であり妄想の類などでは断じて無い。

 

 

よって堤氏が述べるやうに日本の諸価値は中國や米國の資本により次第に食い潰されて行くことでせう。

また適菜氏が述べるやうに國賊政治家によりかっての日本の良かった部分がグズグズに壊されても参ります。

 

で、其れを治すにはむしろ合理化しか手が無いのですが實は合理化其れ自体が破壊を生じたりもまた致します。

 

なのでほんたうはすでに八方塞がりなのだ。

其のやうに正しい認識をする限りはダメなのをヨシと信じ込まされた大衆的価値観がニヤニヤと笑いつつ地球を壊して行くばかりです。

 

まさに其処へ「超人」が求められて居るのですか?

其れともマルクス命主義の人々が世界革命を成し遂げるのですか?

 

 

いやもっと手っ取り早いやり方が御座りましてまさに其れがわたくしのやうに「逃げる」やり方です。

すると「逃避人間」であり「役立たず人間」が地球の破壊をストップさせるのですね?

 

まあさうでせう。

でも其の「逃避人間」であり「役立たず人間」とはつまるところインテリジェンスによる総括的帰結、結論のことですので所詮大衆レヴェルではまるで理解出来ぬことであらう。

 

僕の正直な気持ちとしては其の「超人」も「世界革命」も無いよりは在った方が良いやうに思うのだがさりとて其れでもって人類が根本的に救われるとは思えません。

 

ならば人類は矢張り宗教的にのみ救われるのですか?

宗教は別としても今のうちにより大きく齎される破壊への心理的な備えを個々の次元に於いて構築して置くことこそが肝要だ。

 

救いは勿論宗教としての仕事ですが、其の宗教以前の問題として我我は今後災害だの食料不足だのまた疫病の蔓延だのと云った負の価値と付き合っていかねばならない。

 

例えば今インフラの老朽化による破壊が問題となって居るが其の水道管の老朽化ひとつの問題をとっても簡単には解決出来ぬ大問題なのだ。

そんな時にリニヤ鉄道だ何だと浮かれて居て良い筈が無い。

 

だからリニヤなど要らんし其れ以前に新幹線も要らん。

高層ビルなどひとつも要らず都市高速道路などもまた要らぬ。

 

ロボットは要らん、スマフォも要らん、✈も🚢も何もかも要らん。

 

また極端な御話で…。

さうでした、少し言い過ぎました。

 

で、文明は馬鹿だから僕等隠遁文人は決まって其処から逃げて行くのだ。

ちなみにわたくしが私淑させて頂いて居た加島 祥造先生などは長野へ隠遁され其処で「求めない」多くの詩をものされた訳だった。

 

 

加島祥造 | NHK人物録 | NHKアーカイブス

 

46万部の詩集『求めない』を生んだ故・加島祥造氏の言葉|NEWSポストセブン (news-postseven.com)

 

〈求めない──するといまじゅうぶんに持っていると気づく
求めない──するといま持っているものがいきいきとしてくる
求めない──するとそれでも案外生きてゆけると知る
求めない──すると改めて人間は求めるものだと知る
求めない──するとキョロキョロしていた自分が可笑しくなる
求めない──するとちょっとはずかしくなるよあんなクダラヌものを求めていたのか、と〉

 

〈求めない──すると君に求めているひとは去ってゆく
求めない──すると君に求めないひとは君とともにいる〉以上より

 

 

元より人は沢山持ち過ぎて居ると持って居ること自體に慣れ無感覚になって行く。

故に「持って居る」と云うことは逆に「持って居ない」ことから生み出されやう。

 

さうして我我が今充分に持って居るもの、主に其れは過去から受け継いだ遺産である。

あえて持ち物を減らし其の過去の智恵の集積を感じることでこそむしろ心が豊かになり人間として生き生きとして来る筈だ。

 

それにさうして何時だって人間は生きて行ける。

リニアや新幹線が無くなって、また✈だの🚢が無くたって其の場限りでもって生きて行くことが可能なのだ。

 

さうして人間は「求める」者でしかも決まってダラケたものばかりを求め続ける。

だがいざ気付くとー洗脳から目覚めるとー其のキョロキョロした迷いの様こそが限りなく恥ずかしくもなる。

ー但し大衆に於いて壱番難しいのが其の所謂「常識」を恥ずかしく思う高い思想的立場からの価値観の醸成であるー

 

求められる自分で居るか其れとも求められない人になるか?

其処でも常識は「求められる」人になれと決まってさう言う。

 

まあ其れもある意味では正しい。

何故なら近代的価値とは強固に築き上げられた正の構造的ヒエラルキーによるものなのだから。

イザ其れを維持しやうとすれば「求められる」人がまさに求められやう。

 

でも文人の価値観はまた其れとは違うところにある。

文人はむしろ「求められぬ」人となりかえって其のことで「求めない」価値観へと連なって行く。

 


其処ではさうして「求めない」加島先生や役立たずの太宰などとまた繋がることが可能だ。

其の太宰は妻子がありながら好かれた👩と死ぬと云うまさに👨としては最低のことをして居るがイザ其の「逃げ」の姿勢に関しては壱級品だった。

 

三島先生もまた其のことは認めざるを得まい。

其の「逃げ」もまた結果的に「求めぬ」ことの壱形態なのだから。

 

 

 

「とにかく私は『追い求める』という言葉がべったりついてくるほど追い求める人間だったね。55歳の時には若い女性を求めて、自分の家を出たんだ。

 すばらしい人だったよ。求めると応えてくれるから有頂天になってますます求めていったら、2年して、私を放り出した。これから先、頼りにならないと思われたんだろうね。家族からは見放され、恋人も去って、私はかなり惨めな状態に落ちた。

その時初めて、『あまりに求めたから失敗したんだ。求めないことが人間の惨めさを避ける大きな方法なんだ』と身にしみたんだね」46万部の詩集『求めない』を生んだ故・加島祥造氏の言葉|NEWSポストセブン (news-postseven.com)より

 

「面白いことに、人間は、失うと入ってくるようにできている。老子が失うことを肯定しているのも、そういうことだよ。『なるたけ、あんた、自分を空っぽにしなさい。すると新しいものが入ってくるよ。持っているものを握りしめていると、新しいものは入ってこないよ』とね」46万部の詩集『求めない』を生んだ故・加島祥造氏の言葉|NEWSポストセブン (news-postseven.com)より

 

 

所謂モテる加島先生にしてからもが、さうして👩には結局逃げられるものだ。

👩は決まって子宮でもって出来て居り其の正體は∞の愛欲である即ち👿である。

 

でも其の👿との恋愛をわたくしは否定するものでは無い。

なんとなれば此の世其れ自體が其の👿なる子宮と観念たる神佛による創造物なのであらうから。

 

 

「求めたから失敗した」

まあさうしたことであらう。

 

だから👩はむしろ避けて置くべきだ。

其れも永遠にさうだ。

 

ところで外部の👩が消えると自らが次第に子宮化して来るものなのだ。

よもや皆様には其れは分からぬことだらうが其れはほんたうにさうなって居ます。

 

 

「なるたけ自分を空っぽにする」

 

イザさうして自分が空虚になるとむしろ新鮮な感覚にいつも充たされ要するに子供の頃の純粋な感覚のやうなものを取り戻すことが出来る。

また所謂世間體に煩わされなくなる。

 

世間はかうだが自分は自分、と云う心の芯のやうなものが次第次第に出来上がって来る。

 

まあさう云う境地に至った人が眞の意味での文人と云うことであり其れはプロー書いて金を貰う文筆家ーだとかアマー何を書いてもタダの自称の文人ーだとか云うことでは無い。

で、困ったな、事實としてわたくしはいつの間にかそんなんなっちまってる。

 

 

「持っているものを握り締めぬこと」

 

でも持ってれば普通其れを握り締めるものです。

どだいわたくしなんぞは寝床でも石だのペンだのを握り締めつつ寝るのである。

 

なのですがすでに社會に対しては何の期待も持ってません。

わたくしは此の文明はダメだと根っから思って居り其れは革命でもしなければ変わらぬものだとキッパリさう思って居る。

 

でも人間革命の方でなら其れは「超人」となるか其れとも「求めない」人になるかです。

尚少々話がややこしいのですが其れは宗教的に救われる道とはまた別の理性的選択のことだらう。

 

で、僕は「超人」となる程強くは無いので「求めない」人にならうかと思う。

いや求めてるのですが其の求めを👿からは切り離しまたなるべく社會からは逃げてつまりは👩と社會からは逃げて「求めない」眞我をこそ其処に形成するのだ。

 

 

尚佛法などに於いても言えることなのですが此の「捨て去る」価値観こそが實は重要な認識なのだと思う。

其の「捨て去る」価値観こそが欧米近代による近代的価値ヒエラルキー構築主義に対するまさにアンチテーゼでせう。

 

わたくしには次第に其のことの心地良さが分かりつつあるところです。

第壱わたくしはかうして持って無いのに何でも持って居てだから何でも言うことが出来る訳だ。

 

尤も社會からの圧迫のやうなものは常に感じて居ります。

どうも其の「圧迫」との戦闘こそが私の生涯の最後に横たわる試練のやうです。

ーでも私はまだ逃げ出しはしない。何故なら私の文學はむしろこれからなのだ。あーバカバカしい、かうして社會と関わったお蔭で我が計画が此れ迄壱ミリも進まなんだ。ー

 

 

さうして自己を空しくする、其れはむしろ眞の自己に気付く道のことだ。

イザ眞の自己に気付けば、其処に何を求めることがあらうか。

 

もはや求めるものは何も無いと気付くことこそが最大の求めなのだ。

小欲であること、また知が足りて居ることも其の眞の自己から必ずや導かれやう。