目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

正月早早歴史を御勉強し此処にて論を張る我

 

無論のこと其のおせちは我が参段重を三つとも食ったのでは無く弐つは母方の親戚の方へと回したのである。

但し其処にはアワビの貝殻が入って居るので其れをすでに回収済みである。

 

我は左様に美に対する感度が尋常では無いが故に美しいものを何処までも拾い集めると云うある意味での徹底した趣味性にこそ生きておる。

 

其のアワビの貝殻!

 

其れが毎年増えて行くので部屋の中が其の貝の景色に彩られまるで竜宮城の如くである。

おお、まるで美の巣窟の如くに其れが積み重なって行くぞ!

 

尚其のおせちなのだが京都らしく古今和歌集の和歌などが書かれし和紙が添えられて居たりもしまさに其処がまことに雅である。

であるが、其れとは違うことをあえて此の際述べて置かねばなるまい。

 

 

其れは今年に入り我に取り壱番美味かったものが其のおせちの残りなのでは無く昨日スギ薬局にて買い求めたところでのタダの百円🍙だったと云う話のオチである。

つまり其の感覚的な欲望とは多分に相対的なものであるに過ぎぬ。

 

即ち金持ち共が幾ら拾萬、弐拾萬の高級おせちを今食ったにせよ、結局は其れに食い飽き只の🍙だの漬物だの、また味噌汁だのそんなものをやがては欲するやうになると云うそんな御話である。

さうしてもしも死ぬる前に何が食いたいですかともしもさう問われるのであれば、我は迷わず其の🍙だの漬物だの、また味噌汁だのそんなものを選ぶことであらう。

 

或は梅干し、むしろコレに限るのやもしれぬ。

 

さうして美食のし放題、道樂の追求の果てに残るのは至極ベーシックな何かであると云うことをこそ我は皆様に是非お伝えして置きたい。

 

尚其のことは物質的レヴェルでは何でも同じことだ。

但し其処で是非注意して置かねばならぬのは、例えば親の形見のオメガとトップカメラなどで買って来た現行品のオメガとでは其の価値はまるで異なる訳だ。

 

即ち親の形見のオメガは例え動かずとも大層貴重な品でありトップカメラなどで買って来た現行品のオメガは幾らでも代わりの効くまさにオンリーワンでは無いオメガなのだ。

つまり機能よりも思い出の方が其れに勝る場合もあるのである。

 

 

従って幾らでも代わりの効く👩と唯壱無弐のアンタのカアチャンー母や妻ーとでは其の価値がまるで違うと云うことにまず貴方方は気付かねばなるまい。

實存的価値とはまさにさうしたことであり要するに其れは他に代わりやうの無い価値のことだ。

 

其の意味での自己とはまた無論のこと其の實存的価値のことだ。

しかしながら、其の實存的な価値ーオンリーワンとしての価値ーに拘り過ぎてはならぬ。

 

まさに其処こそが難しい塩梅なのだ。

即ち其の価値さえをも相対化して見ねばならぬことを實は忘れてはならぬ。

 

其の絶対的な価値の相対化は社會レヴェルに於いてほぼ不可能なものとなり易い。

従って理性がある者は其の社會的価値をあえて相対化することによりあえて自己の比重を高めて行く訳だ。

 

 

然しまさに其のことこそが紙壱重での荒業なのだ。

其処で壱歩誤ればまさに精神の奈落の底へと彼は落ちて行かざるを得ぬ。

 

即ち其のレヴェルに於いては正気を保つことや生き続けることが極めて難しくなっても来やう。

其処をあえて踏み止まりヘラヘラと笑いながら生きて行くのは彼の馬鹿としてのクソ力ー生活力ーのことだ。

 

 

即ち元々利口と生まれし者はむしろ死んで当たり前なのだ。

だが其処に馬鹿も仕込まれて居るとさうして死なずとも済むのである。

 

利口とは偏差値は余り関係無くよって何処にでも其の利口が居りまた何処にでも其の馬鹿も居る。

だから元々利口と生まれし者はなるべくヘラヘラと笑いながら是非今を生きて行くべし。

 

インテリさん方、アナタ方こそがまさにヘラヘラと笑いながら生きて行かれるが宜しからう。

 

 

アアー、其のアワビの貝殻!

 

確かに皆様は其のことを逆に嗤うことであらう。

だが僕にとっては其こそが眞實なのだ。

 

確かに僕の美への耽溺振りこそは異常の域にあります。

其れに屡山から石をくすねて来たりも致します。

 

が、トラックで突っ込み宝石店を破壊し其処から弐千萬相当の高級腕時計や💎類を盗み出した訳では金輪際御座りませぬ。

つまるところ我が欲は常に限定されて居り小さい。

 

其れもかっては決してさうでは無く大金をはたいて美を追い求めても居りましたが最近はもう全部が千円、弐千円での世界です。

又はさうして零円での美の世界の饗宴です。

 

 

 

大河ドラマ「青天を衝け」|NHKオンライン

さて本日は此の大河ドラマの総集編を全て視たことから其れに就き述べる。

 

まずはドラマの出来ですが結局は良く出来て居ました。

だからNHKは価値があるのだと思いますね。

少なくともNHKを否定したらうと云うアノ政党の価値には逆に可成に疑問を感じます。

 

しかしながら、NHKは視聴料を強制的に徴収するのですから良い番組を創るのは其れは責務なのでありむしろ当たり前のことだ。

故に今後のNHKが環境問題や哲學的な課題など民放には出来ぬことをあえてやると云うのは其れも当たり前のことです。

尤も其の馬鹿民放も稀に利口になることがあり、またNHKもまたおバカ番組を垂れ流すことがあるが故にまさに其処でも両義的に捉えて置かねばなりません。

 

さて此の総集編で気になったセリフを以下に列挙してみませう。

 

1.拝金主義が「開けてはならぬ扉を開いた」ー三井組の番頭の台詞としての

2.人間に取り「欲望は道徳や倫理よりも強くある」ー徳川 慶喜の台詞としての

3.「快なり 快なり 快なり」ー徳川 慶喜の台詞としての

4.「政治経済を道徳と壱致せしめる」ー渋澤 榮一の台詞としての

 

1.拝金主義とは合理化の壱形態のことでせう。

近代化とは合理化の過程のことであり、其の合理化の矛盾により主體と客體への同時破壊が生じせしめると云うのがわたくしの哲學的見解です。

其の合理化の過程は、

1.社會的にはより壱層の合理化

2.個の範囲としてはむしろ非合理化

 

することであえて抑えることが可能なのではないかと云うことこそがまたわたくしの哲學的回答です。

 

2.「欲望は道徳や倫理よりも強くある」

まさに衝撃的な論理でせう。

最終的に「世界」とは其の欲望の発露の場であること以外の何ものでも無い。

 

「世界」とはまさに其の多様な欲望の発露の場です。

但し其の「欲望」其れ自體が相対的なものです。

 

其れは「國」を富ます為の欲望と「個」を富まさんが為の欲望は本質的には同じであることをも指し示して居る。

逆に申せば「國」を富ます為の欲望と「個」を富まさんが為の欲望に優劣など元より無いと云うことだ。

 

ですが、問題は其の欲望自體にあるのでは無く、概ね世間の人々が、其処に(「國」を富ます為の欲望=社會的欲望>「個」を富まさんが為の欲望)と云う倒錯の価値観を組み上げて居ることこそにある。

また同時に、デカい欲>小さな欲、などとも實は皆が考えて居る。

 

まずは其の認識上の誤謬をこそ正さねばなりません。

何故ならさうした価値観こそがまさに「欲望は道徳や倫理よりも強くある」価値観を堅固に組み上げて行くからなのだ。

 

つまりは事の大小の関係性、其の捉え方がまずは逆転して居りつまりは倒錯して居ります。

逆に「道徳や倫理により欲望が規定される」世界を組み上げることこそが人間の理性にとっての最終的な課題です。

 

 

3.わたくしは徳川 慶喜公の其の趣味人生を大いに評価し且つ尊敬さえして居る者です。

慶喜公は究極の放棄をして居り此れもまたドラマの中に出て来る台詞ですがまさに彼は「國を捨てた」人間です。

 

其処で普通は徳川政権への固執を捨てつまりは武士の世の中を捨てまた「國をも捨てた」慶喜公はまさに政治上の馬鹿政治家の壱人にさえ数えられるのやもしれぬのだがわたくしにはむしろ最大の偉人であるやうにさえ感ぜられる。

さう彼徳川 慶喜はさうして後半生を趣味に生き生涯を全うした偉人以外の何者でもありません。青天を衝け:草なぎ剛名演“史上最高の慶喜”ここに完結 最期は「快なり!」締め 視聴者「いい笑顔」 - MANTANWEB(まんたんウェブ) (mantan-web.jp)

 

 

「國」を富ます為の欲望=社會的欲望<「個」を富まさんが為の欲望

デカい欲<小さな欲

 

つまりはかうした逆転の価値観を實際に生きた稀有な人です。

 

で、幕末から近代明治の頃にかけてはまさに多くの志士、政治家の人々が社會と奮闘した上に若くして死んで居ります。

其の死を讃えるのが右の馬鹿的な考えですが僕の場合も昔はむしろさうだったのですが最近は其れに対し可成に懐疑的です。

 

其れ等が無駄死にだったなどとは無論のこと言えぬ訳ですが其処で「死んだのでは樂しくは無い」と云うのが今のわたくしの論理なのです。

 

即ち、

「實存としての命を大切にしやう」

「デカいことには命を懸けるな」

とのことですね。

 

ですから、かの三島先生による自決特攻に関してもまた「出来れば生きてずっと世を批判して頂きたかった」とさういつも思うのであります。

 

が、芥川の場合は仕方の無い部分もまたあるのやもしれません。

芥川の場合はあれ以上生きて居たらまずは間違い無く発狂して居たのだと思う。

 

 

アソコで慶喜公が政権を投げ出したのはむしろ「大いなる理性的成就の為の逃げ」であった訳で其れはあくまでバカ殿の放蕩とはまるで違う意味での立派な殿様の行いでした。

だから國だの會社だの共同體だの👪の為に歯を食いしばり滅私奉公して其れを守ると云う価値観其れ自體をわたくしの場合はすでに放棄して来て居ります。

 

でもってさうして責任放棄をして遊び呆けて来たのだな?

いやむしろ其処にて眞理探究に勤しんで参りましたのです。

 

何故なら眞理探究は其の放棄によってこそ成し遂げられることだからなのだ。

つまるところは価値観の逆ヒエラルキーであり其の価値ヒエラルキーの解体からこそ眞理探究への方途がまた拓けるのである。

 

4.渋澤翁が眞の意味での偉人であったことを今回初めて知った。

渋澤 榮一は三菱と競争ばかりして居た資本主義馬鹿だとばかり思い込んで居りましたが最終的に彼は「資本主義の限定」にこそ思いを馳せて居たことだったらう。

其の「資本主義の限定」こそが所謂修正資本主義と云うことですが結局は其れもなかなかに難しく逆に現代社會は廿世紀末より新自由主義体制へと移行し其処にて労働と自然の破壊が顕著に進められて行った訳だ。

 

要するに資本主義による欲望のあり方がより顕在化し其れが「破壊」の域にまで踏み込むこととなって仕舞う。

ですがかのケインズにせよまた渋澤翁にせよ其れを防ぐ為の方策をしかと考えて居たと云うことでせう。

 

だが慶喜公やお前はまさに其の資本による果實に群がりじぶんの趣味にばかり生きるまるで螽斯の如き道樂者ではないか。

其の無責任體質こそがな、まさに世を滅ぼすのだぞよ!

 

 

いえ道樂ー快樂の追求ーでは無く放棄です、放棄。

第壱お釈迦様もまた御自分の國を放棄され結局かの國は其の後滅んだのですから…。

 

おい、螽斯詩人!

へい、さても壱體何で御座りませうか。

 

 

お前はさうして新年早早信長公の名を語り此の正月にNHKばかりを視てさうして遊んで居るな。

いや遊んでなど居らずかうして死ぬ気でもって勉強して居ります。

 

さうか、其れは偉い。

まあさうして正月早早歴史を御勉強し此処にて論を張って居る事だけは認めてもやらう。

 

だが如何にもお前は食い過ぎだ。

どう見てもお前は色んなものを食い過ぎて居らう。

 

ですが食わぬと死ぬので食わねばならない。

其処では志も精神も何も無く生きることとは食うことばかりなのでせう?

 

 

さても其の道徳的、倫理的に生きることこそが實は現代社會に対し突き付けられて居るであらう究極としての課題なのだらう。

同時に個としてもまた常にさうなのだらうが實は社會に対し突き付けられて居る課題であるのだとわたくしは前前から感じて居るのだ。

 

其れに今や環境倫理などと云うことが屡語られる社會となって居る。

 

【環境倫理学とは】自然環境保護の思想と代表的議論をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)

 

其れをわたくし流に言えば「周囲により流されぬ眞の意味での自己の価値観の確立」のことなのだ。

だが大方の人間の認識ー価値観ーはむしろ周りが欲する価値観に従って居る。

 

さうした自律性無き価値観こそがまさに👿の囁きであり赤信号をみんなでもって渡ると云うことなのだ。

だから社會に於ける価値観が絶対であって良い筈などは無いのだ。

 

ところがみんなはさうしてみんなで御遊戯をしたがるばかりである。

だが我は半世紀以上も前に幼稚園ー其れも曹洞宗の寺院が経営する幼稚園ーでもって其の御遊戯を嫌がり独り体育倉庫で寝て居たのであった。

 

 

環境問題や自然保護の観点より遥か以前にそんなわたくしがまず問題として認識して居るのがさうして人類がみんなでやるー社會的に成り立たせるー行為としての悪の履行のことなのだ。

さうした意味でわたくしは人類が抱える課題とは須らく認識論に於ける誤謬の問題であるとさう捉えて来て居る。

 

即ちお釈迦様が今から二千五百年も前に指摘された「四顛倒 - WikiArc (wikidharma.org)」の法理に於ける人間の認識上の根本での誤謬である。

 

我は今年其れを何とか正して行きたいとさう強く願って居る。

また其れは先哲が述べた哲理の方を引き合いにすることで為し遂げられることだとさうも考えて居る。

 

従ってとりあえずはテキストを「ショーペンハウアーの幸福論」に絞り其のことを是非為して行きたい。

いや其れだけでは無く佛陀の教えの漫画版のムック本の方からも参考となる部分を抜き出し其れに就き是非語ってみたい。

だが余り眞面目に取り組み過ぎるとわたくし自身の精神が危うくもならう。

 

だから抽象性にばかり偏らず具象的にも息を抜きつつ語って行ければまさしく其れが幸いなのであらう。