目覚めよ!

文明批判と心の探求と

社会の罪は免れ得ぬ


ヒエロニムス・ボスの『七つの大罪と四終』(Table of the Mortal Sins / The Seven Deadly Sins and the Four Last Things)。1485年



キリスト教文化圏で中世の頃には二つの審判の概念があり其れは個としての死の際の審判と世の終わりに際しての所謂最後の審判のことである。

無論のこと其処で最後の審判として人類即ちホモ・サピエンスとしての社会への裁きが下され地獄へ堕ちる者と天国へ昇る者との区別が生ずるのだ。



まず其のやうに社会の罪は免れ得ない。

其処での社会の罪はより大きひものだとも云えやう。

誤った思想にて推進される社会程大地獄へと真っ逆さまに堕ちていくものと相場が決まって居らう。

ゆえに現代社会は正しひ、全然大丈夫だ、などと脳天気に思ってなどして居てはならぬ。

社会こそがまずは襟を正し愚かな大衆へのお手本を示すことこそが肝要であらう。



無論のこと其のやうな誤った社会のままでは神の御怒りに触れ其れこそ全てが原子レヴェルにまで細切れにされ破壊され尽くすであらうことが必定だ。

神の御怒りを軽んじ其のやうな淫蕩な生の様を日々演じて居る事自体がまさに悪魔の所業であらう。



即ち淫蕩なる大衆共が日々淫乱な行ひに明け暮れかつ飲みたひだけ飲み食ひたいだけ食って後は遊んで暮らして御座る。

其のやうな神をも畏れぬ所業、其の悪辣振りは本来ならば決して赦されぬことだ。




滅びよ、さらば救われん。




此の際是非一度滅びてから神またはキリストに救って頂く他御座らぬ。

人間共の罪深ひ行ひこそが悪を野放しにし世界を破壊に至らしめやう。




であるからして目覚めよ!されば救われん。




其の子宮思考と生殖器の結託の様こそがそも悪魔の行ひそのものじゃ。



悪魔はまず何が好きか?何を欲していやうぞ。

悪魔はまず「憤怒」する。

さうして「大食」し「怠惰」である。

其の上さらに「邪淫」である。

「邪淫」とは罪を自覚することなく女に触れるか或は女を淫らな眼差しで見ることである。

其の邪淫の罪程罪深いものは無い。




「虚栄」「嫉妬」「貪欲」とはおおまさに子宮の欲望そのもののことじゃ。

まさにまさに嫉妬深く虚栄を張りどこまでも淫欲でお買い物欲を追求して止まぬ女共の本質的罪障、其の腐った子宮の欲望そのもののことじゃ。





降魔よ即刻退散せよ!


喝!「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」





現代文明よ、おまへの望むところなどもはや全てお見通しだ。

おまへは地球を食いものにししかも人間を合理主義に染め上げ全てをブチ壊す御積もりか。





画の四隅には四大終事としての「死」「最後の審判」「天国」「地獄」の様が描かれて御座る。

尤も死は何度も言って居るやうに一大事では無い。

確かに一大事だが精神的にはむしろ一大事では無いのである。


重要なことは生がそして性が罪かまたは煩悩にて形成されることである。

従って裁きの日は必ずややって来やう。

其はある、まさに無いでは済まされぬ。



人間共の罪深い肉の交わりより其が自然に生じせしめて居やうぞ。



けだし仏教は裁かぬ。

何も裁かぬが実は自分に裁かれて御座る。

煩悩を断たねばやがてほんたうの地獄へと真っ逆さまに堕ちる。

いや、ほんたうの地獄とはまさに此の瞬間である今のことだ。



此処は地獄なのだ、そも此処こそは地獄だ。

第一遊んで居ては誰も金など呉れぬ。

だから思想統制されて会社へいくほかはなし。

文明思想にしかと洗脳され車だスマフォだともはややりたひ放題じゃ。





しかも女共が色香を振り撒きそこいらを徘徊して御座る。

かやうに女を見るなと言われると余計に女の方へ摺り寄っていくのが俗としての人情じゃ。



其のやうに「死」は女が用意するのだ。

要するにアノ女の股の間に何かへばりつひて居るものがあり其れが生と死だ。

だから生きることこそが死で死こそが即生きることだ。




「死」は個へ下される罰である。

無論のこと其は生きたと云うことへの罰だ。


だが社会はまた其れとは別の罰を受ける。

社会の罪はより大きくより救ひ難ひ。



人間は組織化されるに至る程よりバカになりより好色となる。

お茶くみの姉ちゃんや営業の姉ちゃんにつひ飛びつきたくなるのは其のやうな卑猥なカラクリによるものだ。

事務系の制服または営業の制服は尼僧または修道女の衣とはまた違った意味で極めて淫蕩だ。




其のやうな罪深い社会はもう止めて下さらぬか。


資本主義も社会主義も全くのところ邪淫そのものでお話にならない。

此の詩人の静かな心とはまるで違いタダウルサイばかりである。





最後の審判」により合理主義文明の罪深さは裁かれ其処に永遠の地獄行きとしての罰が下されやうぞ。

一方個のたましひは「天国」「地獄」または極楽浄土と地獄に割り振られ最終的には生に悩んだ善人は天国または極楽浄土へ行き、さうではなく生に於いて性を愉しみ海外旅行を好んで行いさらに遊び歩いて18時までに家に帰らぬふしだらな男女は皆地獄へと堕ち其処で永遠の苦しみを、業火に焼かれ舌を引き抜かれそればかりか生殖器を抉り出されおおまさに地獄の苦しみよ、地獄の責め苦こそがたった今我と我が身を苛むのだ。



さうして愈々天使等が喇叭を吹きならす中、聖母や洗礼者ヨハネを随えてキリストが再降臨し、蘇生した民人を審判するのだ。


嗚呼、其処では祝福されし者達が天国に迎えられて居やうぞ。


嗚呼、天国、天国とは何か理想の人間社会のことなのか。




いいや、違うぞよ。

天国つまり極楽浄土とはまさにまさに理想の心のことじゃ。

さうだ、心で行く世界こそが天国なんだ。




即ち天国とは唯物論には非ず。

天国とは祝福されし神の園の意なり。

其こそは心中に生じ心中を離れては存せぬものなり。




天国へ行く人はたとへば女をジロジロと好色な眼で眺めない。

然しそも女が子を産まぬとつまり好色に扱わぬと人間社会は滅んで仕舞うが其れでも良いのだらうか。



無論のこと其れで良い。




キリスト教もまた浄土真宗も天国かまたは極楽だけが大事なのだ。

其処では天国かまたは極楽へ行く人だけを救うのだ。


より正確に言えばキリスト教では神を信ずる善人と回心した悪人だけが天国へ行け他の人々ー異教徒を含むーのことは其れがそも悪魔崇拝だらうが何でも良いのだ。

浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで善人もましてや悪人も皆極楽往生することが出来やう。



しかしながら浄土真宗でもキリスト教のことなど元々考えてなどは居らぬ。

まあ似たやうなものなので同じやうに救われやうがとは云えコチラは極楽へ行く前に裁かれる訳ではない。






キリスト教の教義の根幹には罪と其れと対になる形での罰と云う概念が存して居やう。

其の罰と云うのは本質的には仏教に存するものではない。

ただし便宜的に佛罰と云う云われ方がなされる場合はあらう。




佛は裁くものではなく裁くとすればあくまで自らが裁くのだ。

仏教は本来個としての心理的内容を問題とする宗教であり、従って宗教活動のやうな仏教としての組織性を重視するものではない。

つまり社会的なレヴェルでの実践ではむしろ無く、個として持たざるを得ない煩悩ー罪にも近いーを自力にて制御していくことこそが仏教としての本来の意義だ。


其処で結果的に自己を律せられないのであれば矢張り結果的に自己が裁かれ地獄へ堕ちる=地獄の世界へと自らを縛り付けて仕舞う、のである。

なので仏教徒としては此の順序を違えてはならない。

仏教徒であることは組織に属さずとも可能であり、いやむしろ組織に属さずともタダ潔癖に性欲や物欲を抑えて居るのであれば其こそが余程純粋な意味での仏弟子なのだ。








八つの枢要罪は厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢

七つの大罪は「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憤怒」、「怠惰」、「傲慢」、「嫉妬」以上より引用



ちなみにかってわたくしは「七つの大罪」につき述べて居ります。

最近の七つの大罪[編集]

2008年3月、ローマ教皇庁は新たな七つの大罪を発表した。それは、遺伝子改造人体実験環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒である。遺伝子改造などは、胚性幹細胞への牽制とみられる[7]

七つの社会的罪[編集]

マハトマ・ガンディー1925年10月22日に雑誌『Young India』(英語版)にて、「七つの社会的罪」(Seven Social Sins)として次の七つを指摘した[8]
  • 理念なき政治(Politics without Principle)
  • 労働なき富(Wealth without Work)
  • 良心なき快楽(Pleasure without Conscience)
  • 人格なき学識(Knowledge without Character)
  • 道徳なき商業(Commerce without Morality)
  • 人間性なき科学(Science without Humanity)
  • 献身なき信仰(Worship without Sacrifice)
「七つの社会的罪」はインドラージ・ガートにあるガンディーの慰霊碑の外壁にも刻まれている。 以上より引用




此のやうにキリスト教では社会化された事象が問題として捉えられて居るやうだが仏教に限り社会問題などまるで蚊帳の外であるかのやうだ。

仏教の内面至上主義は科学的、または経済的な罪に対して実効力かまたは規定力を持ち得ない。

逆に言えば現代はあくまで唯物領域に関する社会的な罪が蓄積していく時代である。


従ってかやうにキリスト教が科学技術による罪を罪として規定するに及んだことの意義は極めて大きい。

仏教は何一つ言えずにこのままただ押し黙り地球が破壊されていく様を見届ける御積もりなのか。

其処で原理主義仏教集団を是非つくり科学技術反対!SEX反対!スマフォ反対!高齢犯罪者ドライバーの野放し反対!資本主義反対!子宮思考=大衆思考大反対!左翼反対!とでも是非やるべきじゃ。


さうして実はわたくしはやりたひ、其れのみを是非やりたひ。






ただし必ずしも性欲自体を全面否定するものではなく、たとえばカトリック教会七つの大罪の一つとする色欲は、婚姻関係の外にあるものや、生殖から切り離されそれ自体の快楽を追求するもののことであると説明される。性欲もまた神の創造の一部とされ、適切な充足は罪とはされないことが一般的である。グノーシス主義のひとつであるカタリ派ではこの点が逆転し、生殖は人間を創造したサタンの意図として忌まれ、生殖を目的としない性欲の方が罪が少ないとされた。
仏教では煩悩の一つとされ、不邪淫戒という戒律も存在する。ただし不邪淫戒は、妻以外の女性と性交渉をしてはならない、という戒である。釈迦の従弟である孫陀羅難陀が、出家後でも妻に惹かれてなかなか悟りを開けなかったエピソードなどがある。このように多くの宗教では、性欲とは女性の容姿に男性が惑乱させられて起こるものと考えられている。以上より引用



性欲は人間にとっての根本欲であり絶対矛盾とでも呼べる領域のことそのもので同時に我我の関知し得る現実そのものなのだとも申せましょう。


逆に理性化、観念化=非現実化すればする程性欲は何か厭わしいものとして感ぜられたりするものだ。

ただし「死んで生きる」ことでのみ性欲は可成の部分まで抑え込むことが可能だ。

だが性欲を抑えると同時に確実に死の領域が近づいても来やう。


尤も生殖を目的としない性欲の方が罪が少ないのであれば結局男色はありだと云う事だ。

また子を産めない女への好色は可である。




カタリ派は流石により潔癖だ。カタリ派


カタリ派思想の根本は、神により創造された精神が、悪により創造された肉体・物質に囚われているという思想である。この思考法はグノーシス主義などに類似するものであり、歴史の中で繰り返しあらわれている。カタリ派ボゴミル派からこの思想を受容したと可能性がある。グノーシス主義が世界はデミウルゴスによって創造されたと考えていたのと異なり、カタリ派は世界を創造したのはサタンであると考えていた。
カタリ派グノーシス主義と同じように、物質世界に捉えられた魂はこの世を逃れることで非物質世界である天国に到達できると考えた。そしてこの世から逃れるための唯一の方法が、汚れた世俗と関係を断ち切って禁欲生活を送ることであった。このような完全な禁欲生活を送る聖職者のごとき特別な信徒が「完徳者」(ペルフェクティ(Perfecti))とよばれていた。完徳者には世の人々の罪を取り除き、物質世界とのつながりを断ち切る力があると信じられ、死後はすみやかに天国に行くと考えられていた。完徳者たちが送る完全な禁欲生活は、当時の教会の聖職者たちの堕落した生活とは対照的なものであった。 以上より引用



物質としての肉体が悪魔的なものであるとさう考えるのはどう考えても其れは理性の働きによるものだ。

自律的な理性が冥落して居るかまたは弱い動植物界に於いてはむしろ肉体は即神である。


と云う事は人間だからむしろ肉体が汚らわしく感ぜられる訳だ。

其れも理性的規定が強まる程にさう感ぜられても来やう。

平たく言えば学歴の無い女は旨い肉のカタマリで学歴のある女程食えぬ肉のカタマリであらう。


食えるのが良いか其れとも食えぬのが良いかと云う此の一点につき深く考えてみなければなるまい。

尤も個人的には単なる肉のカタマリである方がより望ましひと思ふのだが。




そも其の禁欲により、エロを完全に遮断することで果たして極楽浄土へ行けるのであらうか。

物質世界に捉えられた魂はこの世を逃れることで非物質世界である天国へと到達し得るのであらうや。


ただ、極楽や天国はむしろ此の世のものではないかとわたくしは常に考え続けて来て居る。

無論其れに対置する形での地獄も此の世のものそのもののことだ。

つまるところあの世などはなく今此処にあること以外に現象する由縁など何処にもない。

其の現象自体が錯誤でありよって精神も肉体も皆錯誤であり誤謬である。


ただし禁欲は其処で他の面に於ける目を開いても呉れやう。

禁欲は女つまり生=現実を価値とみる思考から離れかの浪漫地獄へとアナタを誘うことであらう唯一の価値だ。



カタリ派グノーシス主義と同じように、物質世界に捉えられた魂はこの世を逃れることで非物質世界である天国に到達できると考えた。そしてこの世から逃れるための唯一の方法が、汚れた世俗と関係を断ち切って禁欲生活を送ることであった。このような完全な禁欲生活を送る聖職者のごとき特別な信徒が「完徳者」(ペルフェクティ(Perfecti))とよばれていた。完徳者には世の人々の罪を取り除き、物質世界とのつながりを断ち切る力があると信じられ、死後はすみやかに天国に行くと考えられていた。完徳者たちが送る完全な禁欲生活は、当時の教会の聖職者たちの堕落した生活とは対照的なものであった。
カタリ派は完徳者に対しては、様々な禁忌を課していた。生殖を目的とする性行為も認めず、さらに肉食を禁止し、菜食のみを認めた。肉は生殖の結果であるとされたからであり、生殖の結果である他の食品(卵、チーズ、バター)の摂取も禁じられていた。野菜や果物以外にも魚や海産物はなんでも食べてよかった。なぜ魚がよかったのかというと、当時の人々は魚や海の生き物は生殖行動をせず、海のどこからともなく発生していると考えていたからである。一方、飲酒に関しては制約が少なく、葡萄酒以外の飲用や一般のキリスト教ではタブーとされた酩酊する行為も許されていた。
ただし、一般信徒に対してはこのような禁忌はなく、生殖も肉食も許されていた。

カタリ派や(同様に異端とされた)ワルドー派はもともとはキリスト教を改革しようという民衆運動に端を発したものでフランシスコ会などの托鉢修道会と同じルーツにもとづいたものであった[要出典]カタリ派信徒の中には托鉢修道会に合流したものもあったという[要出典]。以上より引用



「物質世界に捉えられた魂はこの世を逃れることで非物質世界である天国に到達できる」や否や。

たましひはそして肉体は共に矛盾的罪障である。

たましひと肉体とに分かれては居るが本来其れは分かれるべきではない何ものかである。

其の分かたれると云う事自体が罪であり苦である。

何故分かたれるのかと云えばたとへばつひ其処で女の豊満な肉体に目が眩んだから。

即ちつひ女に飛びついて仕舞った。



つひ御飯を五度もおかわりして仕舞った。

つひ神戸牛ステーキを八百gも食って仕舞った。

つひブガッティのスポーツカーでもってして高速を時速三百キロで走って仕舞った。



此のつひが積み重なり分かたれる。

つひパンツを捲って仕舞ひましたがひょっとして其れは罪でせうか。



罪です。

パンツを捲った君はもはや永遠に救われません。

左様に生殖の結果であるものは悉くが罪です。


ゆえに魚を食っても罪でましてや酒など飲めば即地獄行きとのことじゃ。