嗚呼、まさに世も末だぞよ。京都の僧侶らの会社 電力小売り事業に参入へ 檀家減少が背景に
即ち西本願寺がもはや飯を食ってはいけぬゆえ来年から電力供給会社を運営していくとのことだ。
これではもはや明らかに末法の世の到来である。
然し其処で最も危惧されるべきことは日本国民の規範意識の喪失の加速であらう。
あなおそろしや。
大乗仏教はもはや立ちゆかなくなるのかもしれない。
だからそんなんではダメだ、ダメなんだ。
コレぞまさしく法難じゃ。
だが結局は自業自得である。
全ては運命である。
縁起の理法が齎すところでの結果である。
左様にやがて仏教は滅び合理主義がかの国の精神を蝕んでいくことだらう。
第一お坊さんが電力を売るなんておかしひ。
まさか商人にでもおなりになる御積もりか。
だから商人になどなってはいけなひ。
まさに其れは究極の俗化のこと。
だから生殖器の制御がそも甘いから商人にもならないといけない。
僧侶は本来大衆を教化しておくべきであった。
生殖器の放埓な様が如何に此の世を地獄と化すかと云うことをちゃんと教へてあげなければならなかった。
其れも紙芝居などで分かり易く図解して其が如何に厄介なものであるかと云う事を是非示しておくべきだった。
其れが出来なければ五十年以内に大乗仏教は滅ぶとかってわたくしは予言して居ただらう。
だから寺が維持出来なければ金儲けに走ることも吝かではないが他方で仏法の本義は本義として常に大事にしておかねばならぬ。
此の際大乗各派は総力を結集して大乗原理派をつくり仏法の本義を社会へと展開していかねばならなひ。
ところが真面目なことを言えば言う程におそらく大衆からはソッポを向かれますます寺は貧困に陥りまさに食うや食わずの様ともならう。
だがまさに其れこそが修行だ。
むしろ喜んで其の苦行の内容を受け容れていかねばならぬ。
金が無いと云う其の苦しみを大乗各派は今しかと受け容れなければならぬ。
だからむしろ絶好の機会ではないか。
元より僧侶は糞掃衣を纏いまさに身ひとつでの無一物でもって乞食し其の日を生きるが為の糧となすのだ。
だから托鉢の鉢ひとつあれば其れで良いではないか。
そんな電力など売り商人になどなり下がるより其の方が余程に仏弟子としての本義を見詰めて居ることだらう。
托鉢の鉢に昨日の残り物の飯を恵んで貰ひまさに其れをガツガツと食ふのじゃ。
うえー、まずい、だがうまい。
とりあへず飢え死にするところでしたので此の際何でもうまい。
左様なところへ精神を追い込んでこそ人間は正しく仏弟子となれるのでじゃ。
然し金まみれ女まみれではどんなに立派な袈裟を纏おうとまたどんなに立派なことを言うておらうが所詮は謗法者で其処にまさに仏罰が下り組織自体、其の仏教界自体が滅ぶに至らうぞ。
だから清貧、さうして女にはまるで縁の無い生活、まさにコレこそが今大乗各派に求められて居らう仏法としての本義である。
なので良かったじゃないか。
むしろ幸せだ。
これから我が国の仏教界は皆がほんたうの御坊さんになることを目指して歩んでいけるのだ。
第一わたくしの心は揺れて居るぞ。
もしも美人の切支丹が目の前に現れたらすぐに飛びつくぞ。
そんな結末にならぬやう吾輩をして仏法へとしかと繋ぎ止めて置け。
勿論仏教にとっては其処で生が合理化され望ましきもの、善きものとされて仕舞ふと云ふ大問題を孕んで居ります。
仏教と云うのは元々生を善いものだとは捉へて居りません。
だからこそ其処からの解脱ー消滅ーを目指すのであり、もしも善きものであるのならば何でそんなことする必要がありませうか。
なので逆に善ければ其れでいい訳です。
ですが残念ながらとてもさうはいかぬ。
逆に世=社会は悪ひ。
また個としての人間も極めて罪深くして悪ひ。
其の罪深さはたとへムチ打ちの刑に処さるにせよ治りません。
其の生殖器のしつこひばかりの反応の良さなども絶対に治らない。
だから其れは動物だ、動物、動物そのものの姿だ。
さういうのを仏教では畜生道と云うのだ。
これまで君等は畜生道と云うのは動物が堕ちるもので人間様はそんなものには縁が無いと思って居たことだらうがそれこそがズバリ誤りだ。
むしろ人間こそが畜生道に堕ちる。
そんな訳で兎に角そも世=社会が悪ひので是非宗教が要る訳であります。
だからイスラム主義は左様な苦しみを与えぬやうまさにまさに細心の注意を払ひ女の全てを隠すのじゃ。
左様に合理主義こそが我我にとっての最大の敵じゃ。
合理主義こそが宗教=精神を破壊し我我をしてアンドロイド化せしむる悪魔の仕業そのものだ。
さてキリスト教のことを調べて居りますと憐れむ、と云う言葉に屡遭遇致します。
其の憐れみと云うことは神が肉のカタマリである我我に対してお持ちになられる聖なる感情のことでせう。
たとへばこちらはとても分かり易い、しかも内容のある優れた解説となって居る。
憐れみというのは、あくまで人間に対してであり人間=無価値な肉のカタマリなのではあるがさうではあっても神は等しく我等を憐れんで下さるのだ。
では神は何故憐れんで下さるのだらう。
我我こそがまさに憐れむべき存在だからなのだ。
我我は厳密には自分を反省など出来なひのだしそんな者を本来ならば誰も憐れんでは呉れぬ。
要するに放って置かれるだけだ。
誰も面倒など見ては呉れぬ。
自分で自分の尻拭ひすら出来ぬと云うのにそんな自分で自分を憐れむことなど出来やう筈も無い。
自分で自分の生殖器の制御もままならぬと云うのに自分で自分を憐れむことなど出来やう筈も無い。
だからこそ神が其処におわすのだ。
なので無神論と云うのは其れはあり得ない。
どだい科学如きに神の代わりなど務まらう筈がない。
神など居ませんよと言いながらまさに死んでから地獄の谷底へ転がり堕ちていく科学者共の断末魔の叫び声が今まさに此処に響き渡って居らうぞ。
かの罪深き者への、其の人間にとっての根源的な罪障への理解と共感をもってして今まさに神は憐れんで居られるのだ。
其れを何故信じないのだ?
信じぬ理由など何処にも無い。
君は何故其処まで頑ななのだ。
君の理性などたかが知れて居り其はまるで屁の如きものだ。
ただしわたくし自身も其の屁、もうまるで屁の如き理性の風船であるに過ぎぬ。
元より君の理性などかの天才の域には遥かに及んで居なひ。
なのに何故さう威張る?
まあ確かにわたくしもつひ威張りがちだ。
さうではあるがもう理性が限界ですのでバラバラになりさうです、どうかどうか御救ひ下さい。
とも正直に述べた。
其の求め、其の真実の心の叫びに対するひとつの返答こそがまさに憐れみなのだ。
だから憐れみと云うのは其の人間の心の叫びに対する回答なのだ。
其のやうに神は返事をして下さるからまだしも分かり易い。
慈悲
では仏教で云うところでの慈悲とは何か。
「慈悲」は(仏教用語として)一般に、「慈しみ」と「憐れみ」を区別せずに両方を含んだ意味で使われ、あまり厳密ではない。
抜苦与楽
- 抜苦(苦を抜く)とは、悲をあらわし、
- 与楽(楽を与える)とは、慈をあらわす。以上より引用
尚慈悲と云う概念は元々原始仏教にはほとんど出て来ない概念である。
即ち大乗仏教に於いてたとへば菩薩の慈悲、などと云うやうに使われるやうになったものだ。
ただし慈悲と云う言葉はとても良い響きを持つ。
ただし其の意味を取り違えぬやうに。
其の楽を与えると云うのは解脱して消滅することこそを楽と捉えて居るのだ。
だから此の世で楽しく暮らせるやうにすると云う訳ではない。
此の世で楽しく暮らせることが善なのであれば元より其れで良い訳だが、此の世で楽しく暮らすこと自体が実は悪ひことなので此の世からは消え去りませうと云うのが謂わばほんたうの意味での仏教の意義である。
だから世=社会は悪ひのである。
で、其の苦を抜くと云うのももしも此の世で楽しく暮らせるにせよ本質的には苦は決して抜き去りやうがないので此の世からは消え去りませうと云うのが其の苦を抜かうと云う事の真の意義だ。
だから仏教は根本的にキリスト教とは違うんだ。
左様に仏教とは一言で言うと此の世から消滅する為の教えである。
だから其処に墓も先祖供養も戒名も檀家制度も本来ならば何もない。
ただし大乗仏教になり仏教は社会化されるに及んだ。
其はあくまで縁起のよって齎すところでの必然としての流れである。
ただし個人的にはこの慈悲と云う言葉をこそ好む。
キリスト教に於いて神が応えて下さるのは其処で普遍的に神が遍在して居り尚且つ上からの社会関係で憐れみが下りて来るからだ。
つまり、仏教が社会化されるに及び其処に於いて初めて説かれるやうになった慈悲の概念とは要するにアガペーの変形としての概念なのである。
で、わたくしが何を信じるかと云う事だがわたくしはむしろ其の憐れむと云う上から下への社会的命令のやうなものの方がより理解し易い。
そして実は原始仏教に於いてもさうした意味でのみ慈悲と云う言葉が使われても居たのだ。
さう釈迦は明らかに衆生を憐れんで居なさった。
真理に対して常に無力な我我を上から目線で?憐れんで下さったのだ。
謂わば憐れみをかけられるほかない情けない存在が人間なのである。
ところが人間は誰しもバカにされたくはない。
特に利口でプライドの強い奴は絶対にバカになどされたくはない。
だが其の理性によるプライドにも常に限界がある。
其の限度を知る者こそはむしろ神仏により憐れんで頂きたひと決まってさう思ふ。
ただし釈迦の思想も晩年に至りより平等主義=社会化主義へと傾いていったのかもしれない。
大乗仏教ではさらに平等主義化=社会化され憐れみをかけると云う仕事自体が菩薩のものとなる。
でも平等って云うのは逆にキツいんだ。
神のやうに上からドーンと下りて来る方が実はより楽である。
なので個人的には神仏に大いに憐れんで頂きたひ。
まさに憐れんで頂くことでこそ愛または慈悲の意味を其処に窺い知ることが出来やう。
尚此の度西本願寺が企業化をはかり商人になると云う事は大問題である。
所詮其れは仏教の合理化と云う事へと帰結する。
即ち宗教の合理化と云う事だ。
宗教の合理化はおそらく必然としてニヒリズムを招くことであらう。
然しわたくしが最も理解し難いのはそんな宗教の堕落ではなく大衆の鈍感さである。
大衆は何故精神には興味を示さず便利なもの、新しいもの、美味いもの、Hなものばかりに群がらうとする?
故に非難されるべきは西本願寺をはじめとする大乗の僧侶ではなく大衆の仏法に対する無関心と無知さ加減にこそ其の全ての責があらう。
左様に凡なるものは一種哀しひねえ。
だが凡なるものに限り強くて長生きするよね。
わたくしの場合は凡なるもの以外のことは全てを理解して居るがまさに其の凡なるものだけが永遠に理解出来ぬ。