初期の経典にはこのような男尊女卑とも受け取られかねない思想は早くに見られている。増一阿含経において釈迦は女人の九つの罪業について述べている。ただし別の経典には男女平等と思われる記述もある。例えばSaññoga Suttaで、「女性は女性として生きるのは煩悩、男性は男性として生きるのは煩悩」という教えが見える[1]。
釈尊滅後、女性は成仏するのが難しいという思想が広まった。例えば、大乗仏教に影響を与えた世親の『無量寿経優婆提舎願生偈』には「大乗善根界は等しく(平等である)譏嫌の名(嫌われ者と呼ばれること、すなわち差別)なく、女人および根缺(障害者)と二乗の種(声聞、縁覚)は生ぜず」(国土荘厳第一六大義門功徳成就の偈)と記しており、これをどう解するかが問題となった。曇鸞はこれを女性が成仏できないのではなく、浄土では一味平等であり女性という存在ではなくなるからであると説いている。大乗仏教の世界では女性蔑視の思想を否定しようとして変成男子の思想を示したとも考えられる。
釈迦はまさに合理的に物事を考えられる方だったかと思われますが修行に勤しまれてより以降は流石に女どころの話では御座いませんでした。
女どころかまさに食うや食わずで生きるか死ぬかの体で居られた訳ですので女に注ぐエネルギーなどもはや何処にも無いので御座ります。
女に縁するとは結局其処でもってして自己保存欲を成就させると云う事となる。
普通は其処で子をなし自己としての未来を手中に収めていくのであらう。
謂わば時間をさうして我がものとする訳です。
ただ、五十を過ぎてわたくしが考えたこととはまた其れとは違う女の領域のことでした。
其れがプラトニックな愛の世界のことである。
さうプラトニックな愛の世界は年寄りの領域でこそ実現しやうぞ。
即ちもはや子などは出来ぬ。
が、生きんが為の愛を築くことは可能だ。
所謂老人ホームでの自由恋愛のやうなものですが実はまた其れとも違う。
謂わば其処で結婚歴の無い高齢未婚者同士が寄り添い生きる術を模索してみたのだ。
其のやうな前提に立てばプラトニックな愛の形は成立し得る。
どだい今女性が男性化したりもして居る。
其の生に縛られる形での肉体としての女を忌避するに至る女性も次第に増えて居ることだらう。
即ちセックスレス人間が次第に増えて来ても居らう。
一見其れは不自然なことのやうにも見える。
だが実はさう悪ひことではない。
あくまで理性的にさう彼女が判断するのであればさう云う愛の形も認められやう。
然し左翼思想に傾いたりして何でも女が偉く周りが間違って居るのだと誤った人権思想を振りかざす女程タチの悪ひものはない。
さうではないがどうも子宮の力が弱く男性を受け容れられない。
其のやうなまともでない女こそが成仏への機縁を持つスーパーウーマンだ。
スーパーウーマンは子宮の呪縛を離れて居りさうしていつも物思いにうち沈んで居りつまりは根暗である。
然し其のやうな根暗女こそが実は最も新鮮である。
即ち其処に男の手が触れて居ない。
何せわたくしは潔癖なので実は其れをこそ望んで仕舞ふ。
つまりはいったん男の手が触ったものなど金輪際触れたり出来ぬ。
だから今は女の身でもってしても成仏出来る可能性に充ちた女が幾らでも居やう。
其処が昔とは違ふところなのだ。
昔の女はタダポコポコと子だけを沢山産んで居れば其れでヨシとされた。
でも今は違ふ。
第一左翼女は子を産む道具にだけは絶対になりたくなく人権、即ち此の至上の命題、至上の価値に於いてこそ命を懸けておいでだ。
ただし元より其れは間違って居らう。
だが成仏出来る可能性が其処に無いとも言えぬ。
そして男性、コチラの方もまた実にヤバい状況に陥りつつある。
即ち女にはもはや興味の無い方、などがわたくしの周りにも実は何人も居られる。
けれどわたくしに限れば女に興味がある。
さうしてまさに枯れ木のやうな女が何処かに居ないものか探し続けて来ても居る。
まさに絶対に身籠ることの無い女、コレこそが仏道修行上での最上等の女じゃ。
さらに絶対に男には触られて居ない女でなければならぬ。
其のやうなスーパーウーマンは必ずや何処かに居るものである。
たとへ宗教邁進女でも何でも良いから其のやうなまっさらな、まさにまさに無垢でもってして汚れの無い女でなくてはならぬ。
なので昔はプラトニックラヴは成立しなかったが今となっては其れが成立するのである。
だがバリバリの左翼女の生の目的とは一体何なのだらう?
左翼女の生の目的とは女の身でもってして其のままに男性と同等の権利を獲得することである。
うーむ、コレぞまさしく変成男子の類のことではないか。
いや、少し違うか。
いずれにせよ釈迦による理性的解釈は最終的には必ずしも女人成仏を認めない訳ではなかったことだらう。
ではあるが其れでは何故かうした説法が為されたりもして居るのであらうか。
増一阿含経「馬王品第四十五」
夫為女人有九悪法。云何為九。
一者女人臭穢不浄。二者女人悪口。三者女人無反復。
四者女人嫉妬。五者女人慳嫉。六者女人多喜遊行。
七者女人多瞋恚。八者女人多妄語。九者女人所言軽挙。
女は穢れて居て不浄でありしかも悪口を言い反省することなく嫉妬深くしてしかも遊び好きだ。
妄語を語り軽挙にものを言いおまけに瞋恚に充ちて居やう。
釈尊は長老格の比丘達に向かい、おそらくは修行の妨げになるであらう女の邪な心根の部分をさう批判されたのだ。
初期の仏教集団には出家者としての女性の弟子が居らずおそらくかうしたことも言い易かったのであらう。
ただ、コレは女性の持つ表面的で悪い心理的な性質につき述べられたまでのことだ。
なのに何故大乗仏教へと移り変わって後も女性はそのままでは成仏出来ず一旦男性となることでしか其れが成し得ないのだらうか。
だから其れが女の持つ性根の悪さなのである。
女は元々性根が悪ひので其の邪な心を何かかう加工しなければならなひのだ。
加工しなければ腐ったものは腐ったままであるほかはない。
腐ったものは元々腐って居りまあ肉体も腐って居らうが何より其の性根が腐って居ったと云う訳じゃ。
其のやうな腐ったものを見るとまず目が腐りしかも其れに触れることでやがては肉体も腐っていかう。
だが、釈迦は女に限らず御自分の肉体さへをも忌避して居られる。
逆に言うとコチラの方こそがより大きな問題だ。
女の心が小賢しく邪なのはあくまで其れは事実だ、事実、其はタダの事実であるに過ぎぬ。
だからもっと利口な女ならば認められると言って居るのだ、何度も何度もさう申して来て居りますのですが。
左様な小さなことにイチイチ目くじらを立てずともよろしいじゃ御座いませぬか。
左様にそんな左翼思想の如くにイチイチ潔癖に細かなことに反応して居るやうではまさに大局としての流れを見失ないますぞ。
さうではなく肉体、乃至は肉の愛、まずはコレこそがより大きな問題だ。
肉体が腐る、まずはコレが此の劣化がさうして老化がつまるところは死が根本の問題だ。
だからこそ聖人は肉体を忌避する。
仏教では肉体をしてもはや二度と生じせしめぬ方向へと心理的に死んで生きていく訳だ。
キリスト教ではまさに死んで生き霊の次元でもってして神と結ばれ永遠に生きることにしていく訳だ。
だから其の肉体の不浄と云うか不具性、不完全性に於いては男も女も無くそれどころか生命などは皆不浄で穢れて居てどうしようもないものばかり。
なのでそんな細かな事実位は認めよ。
もう全部認めて仕舞へ。
さすれば楽になるぞよ。
即ちワタシはこんなに心が汚れて居て悪ひ女でした。
これまでに何度も何度も男をバカにして生きて来ました。
心の底では男などもう皆居なくなって仕舞へとさう願ひ続けて居りました。
でも此のブログを読んでたった今考えが変わりました。
ソノ男尊女卑の世界観をたった今から全て受け容れませう。
さうか、さうか、其はまことに目出度ひ!
まさにまさにコレ以上目出度ひことなど滅多に御座らぬ。
さて元より其の肉体の穢れ乃至は罪につき考えていくことこそがより重要な問題であらう。
ではそも肉体とは何なのか?
肉体とは物質なのか其れとも物質のみには還元出来ぬ心的現象としての客体化であるのか。
無論かのショーペンハウアーは其の生きんとする意志の客体化であるとさう捉へた訳だ。
其はどうも正解であるやうな気がしてならぬ。
なので肉体を統御する為にはまず心のあり方を統御していくほかはない。
矢張り心が全てなのだろう、人間にとって大事なのはひとつ心のみだ.。